183年【漢:光和6年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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183年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 | 人物 |
---|---|
天子(皇帝) | 劉宏(霊帝) |
皇太后 | 董太后(孝仁董皇后) |
皇后 | 何皇后(霊思何皇后) |
朝廷
官職 | 人物 |
---|---|
司徒 | 袁隗 |
司空 | 張済 |
太尉 | 楊賜 |
諫議大夫 | 劉猛 |
侍御史 | 桓典 |
議郎 | 曹操 |
五官中郎将 | 董重 |
地方官
官職 | 人物 |
---|---|
玄菟太守 | 公孫琙 |
丹陽太守 | 陳夤 |
巴郡太守 | 曹謙 |
益州太守 | 李顒 |
鬱林太守 | 谷永 |
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183年の主な出来事
月 | 出来事 |
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1月 |
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3月 |
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夏 |
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秋 |
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冬 |
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183年の三国志群雄勢力図
光和6年(183年)の三国志群雄勢力図
183年の情勢
183年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
妖賊の乱立
熹平年間(172〜178年)から光和年間(178〜184年)にかけて妖賊が盛んに興り、東方では張角が興した「太平道」が、漢中では張脩が興した「五斗米道」が勢力を拡大していました。
太平道の教祖・張角は冀州・鉅鹿郡の人で、建寧年間(168~171年)に黄老道を起源とする「太平道」を興します。
太平道の教えは、物事の吉凶禍福は日々の行いに起因するとし、善行を積み重ねることで災いを回避することができるというもので、自分の罪を告白させ、符水を飲ませることで病人を治療して回りました。
郡県の官吏たちの中には「張角が民衆を教化している」と称賛する者もいたため、太平道は急激に信者を増やしていきます。
太平道の動向
張角は各地に弟子を派遣して太平道の教えを広め、その信者は数十万に膨れ上がり、青州・幽州・徐州・冀州・荊州・揚州・兗州・豫州の8州にまで広がりました。
この頃になると、張角に従うために家財を投げ売って流民となる者や、道中で死ぬ者が続出したため、朝廷にも太平道を危険視するものが現れます。
朝廷の反応
司徒・楊賜
176年、司徒を務めていた楊賜は、
「張角は民衆を惑わし、日々勢いを増しています。ですが、もし今すぐ州郡に討伐を命じたならば、騒乱が大きくなるのは必定です。
まずは、刺史や二千石(太守)に命じて流民を本籍に帰らせるべきです。そうやって張角の勢力を弱めたならば、反乱を未然に防ぐことができるでしょう」
と、拡大しつつある太平道の危険性を指摘していましたが、翌177年末に楊賜が司徒を罷免されたため、この上奏が取り上げられることはありませんでした。
司徒掾・劉陶
また、司徒掾・劉陶も、
「張角らがここ洛陽に密偵を放ち、朝政を観察していることは明らかです。また、州郡はこれを知りながら見て見ぬ振りをしています。
張角らを捕えた者に爵位を与えることを約束し、張角を庇う者は同罪とする詔を下しましょう」
と上奏しましたが、霊帝は取り合いませんでした。
反乱の準備
この頃になると、張角は信者たちを大方、小方、合わせて36の方に分け、それぞれを渠帥と呼ばれる将軍にまとめさせて、口々に「蒼天已死 黄天当立 歲在甲子 天下大吉」という合い言葉を唱えながら、官府の門に「甲子」と書いて回りました。
また、張角は大方・馬元義に命じて荊州・揚州で新たに数万人を集め、鄴城で蜂起する準備を進めます。
また、何度も洛陽に行き来させて中常侍の封諝、徐奉らの内応を取り付けると、蜂起の日を翌年3月5日とし、洛陽の内外で一斉に蜂起することが決められました。
関連記事
183年【漢:光和6年】は、表立っては大きな出来事が少ない1年でした。
ですが、水面下では太平道の教祖・張角による反乱の計画が着々と進められていました。
>郡県の官吏たちの中には「張角が民衆を教化している」と称賛する者もいたため、太平道は急激に信者を増やしていきます。
というのはどの資料にあったのでしょうか?
コメントありがとうございます。
かなり前に書いた記事ですのではっきりと覚えているわけではありませんが、
『歴史群像シリーズ⑰【三国志】上巻 曹操・劉備・孫権、天下への大計』/ 学研の宮川尚志氏の記事だったと思います。
最近は歴史書のみを典拠として記事を書いていますが、当時は一般書籍も参照していました。
矛盾するような史料がございましたら修正したいと思いますので、教えていただけると幸いです。