185年【漢:中平2年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。
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185年の主な人員配置
後宮
天子・皇后 | 人物 |
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天子(皇帝) | 劉宏(霊帝) |
皇太后 | 董太后(孝仁董皇后) |
皇后 | 何皇后(霊思何皇后) |
朝廷
官職 | 人物 |
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司徒 | 袁隗 → 崔烈 |
司空 | 張温 → 楊賜 → 許相 |
太尉 | 鄧盛 → 張延 |
太僕 | 張延(〜5月) |
廷尉 | 崔烈(〜3月) |
諫議大夫 | 劉陶(〜10月) |
侍御史 | 桓典 |
議郎 | 曹操 |
尚書 | 盧植 |
大将軍 | 何進 |
左車騎将軍 | 皇甫嵩(〜7月) |
右車騎将軍 | 朱儁 |
右中郎将 | 朱儁(〜2月) |
東中郎将 | 董卓 |
五官中郎将 | 董重 |
地方官
官職 | 人物 |
---|---|
交阯刺史 | 賈琮 |
玄菟太守 | 公孫琙 |
南陽太守 | 褚貢 → 秦頡 |
汝南太守 | 趙謙 |
丹陽太守 | 陳夤 |
巴郡太守 | 曹謙 |
益州太守 | 李顒 |
鬱林太守 | 谷永 |
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185年の主な出来事
月 | 出来事 |
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1月 |
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2月 |
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3月 |
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4月 |
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5月 |
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6月 |
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7月 |
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8月 |
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9月 |
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10月 |
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11月 |
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不明 |
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185年の三国志群雄勢力図
中平2年(185年)の三国志群雄勢力図
185年の情勢
185年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。
特記事項
霊帝の増税政策
陸康の諫言
2月、中常侍の張讓と趙忠が、宮殿の修復と銅像を鋳造する費用を捻出するため、全国の田1畝つにつき10銭を課税することを提案します。
これに、楽安太守の陸康が反対しました。
「昔、魯の宣公が増税した際には蝗害が発生し、孔子も哀公の増税を諫めました。民衆の財産を奪って銅人のような無用な物をつくり、聖人の戒めを無視するのは亡国の王の所業です」
宦官たちはこれを不敬であるとして訴え、陸康は廷尉に送られますが、侍御史の劉岱が弁護したため、釈放されて故郷に帰されました。
陸康は増税をすると蝗害が起こると諫言し、7月には三輔地方に螟が大量発生して、みごとに的中していました。
この陸康は後に廬江太守に任命され、180年から続いていた江夏蛮と黄穣の反乱を鎮圧しますが、その正確な時期は分かっていません。
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宦官の横領
洛陽に宮殿修復のためのに材木や文石(装飾が施された石)が届くと、黄門・常侍(宦官)たちはそれらが必要な品質を満たしていないとして、ひどい時には1/10の価格で買い叩き、自分で売り払って差額を着服しました。
宦官たちがいつまでも発注し続けたため、州郡から集められた材木は山積みとなり、腐ってしまいました。
地方官から徴収
霊帝は、刺史や二千石(太守)、茂才や孝廉に推挙された者から「助軍銭」や「修宮銭」という名目で、強制的に銭の徴収を始めます。
その額は大きな郡の太守の場合で2〜3千万銭にものぼり、その財源は民衆への増税でまかなわれました。
清廉なことで知られる司馬直は、鉅鹿太守への任官に際して300万銭を要求されます。
司馬直は、「太守とは領民の父母となるべき存在である。民衆から搾取するわけにはいかない」として、病を理由に辞退したのですが、朝廷は辞退を認めません。
そのため、司馬直は孟津まで来ると霊帝を諫める上書をしたため、毒を飲んで自殺してしまいました。
司馬直の上書を読んだ霊帝は心を痛め、しばらく「修宮銭」の徴集を中止しました。
黒山賊の蜂起
河北では昨年の「黄巾賊の乱」に呼応して、牛角、黒山、白波、黄龍、左校、五鹿、羝根、苦蝤、劉石、平漢、大洪、司隷、縁城、羅市、雷公、浮雲、飛燕、白爵、楊鳳、干毒と名乗る賊が蜂起し、多いもので2〜3万、少ないものでも6〜7千人を擁し、郡県を侵していました。
2月、張牛角が10余りの賊を糾合して各地で蜂起します。
そして、冀州・鉅鹿郡・癭陶県を攻撃中、頭目の張牛角が流れ矢に当たって死亡すると、張牛角の遺言に従って常山の褚燕が率いることになりました。
褚燕は張牛角の姓を継いで張燕と名乗ると、周辺の賊徒を従え、その数は100万に達して黒山賊と称するようになります。
朝廷は黒山賊を討伐することができずにいましたが、張燕が帰順の意思を伝えてきたことから、張燕に平難中郎将の官位を与えて諸山賊をまとめさせ、孝廉と計吏を推薦する権利を与えて懐柔することにしました。
張燕は動きが素早かったので、張飛燕と呼ばれていました。
彼らは各々、白馬に乗っているので張白騎、声が大きいので張雷公、鬚が豊かなので干羝根、目が大きいので李大目、頭が良いので郭大賢、髭が長いので左髭丈八などと名乗っていました。
崔烈が名声を落とす
当時、三公に就任する者の多くは、中常侍や霊帝の乳母を通じて西園に金銭を納めることで、三公の地位を得ていました。
3月、太尉・崔烈も、霊帝の乳母・程夫人に500万銭を納めたことで司徒に任命されます。そして、百官が一堂に会したその拝命の日、霊帝はこっそりとつぶやきました。
「失敗した…。崔烈なら1千万銭は払ったかもしれない」
すると側にいた程夫人は、
「崔烈は冀州の名士です。どうして買官などするものでしょうか!私を頼って参ったのですよ」
と答えました。
百官はこれを聞いていたため、崔烈は名声に傷をつけることになりました。
北宮伯玉らが三輔地方に侵攻
涼州の放棄を論じる
3月、昨年の先零羌の反乱に加わった辺章と韓遂が、北宮伯玉を大将に推戴し、三輔地方(右扶風・左馮翊・京兆尹の3郡)に侵攻しました。これに、朝廷は左車騎将軍・皇甫嵩を討伐に派遣します。
当時、涼州は異民族の侵入や反乱がうち続いていたため、それらの鎮圧のために莫大な戦費が費やされてきました。
そのため、司徒の崔烈が涼州の放棄を提案します。
この時、議郎の傅燮は「司徒を斬れば天下は安んじられるっ!」と猛烈に反対しました。
「大臣を侮辱した!」といきり立つ尚書を制して、霊帝は傅燮に話を続けさせます。
傅燮はまず、前漢の高祖の時代からいかにして涼州を支配してきたか、涼州が賊の手に渡った場合、どれだけ脅威となるかを説きました。
そして、昨今の反乱は刺史や太守の失政が原因であるとし、司徒の重職にありながら反乱の鎮圧に尽力せず、涼州を手放すことを進言した崔烈を痛烈に批判します。
霊帝は傅燮の意見に納得し、涼州を放棄する崔烈の案を却下しました。
皇甫嵩の罷免
皇甫嵩が張角の討伐のために鄴県を通った時、皇甫嵩は中常侍・趙忠の邸宅が規定を超えて豪華なことに気づいたため、趙忠の邸宅を没収するよう上奏していました。
また、皇甫嵩は中常侍・張譲の5千万銭の賄賂の要求も断っていたため、趙忠と張譲は「皇甫嵩は連戦して戦果なく、軍費を浪費している」と、皇甫嵩を讒言します。
7月、皇甫嵩は左車騎将軍を罷免され、6,000戸の封邑を没収されました。
これにより司空の張温が車騎将軍に任命され、北宮伯玉の討伐を引き継ぐことになります。
12人の宦官が列侯に封じられる
6月、黄巾の乱平定の功績によって、張譲、趙忠をはじめとする12人の宦官たちが列侯に封じられました。
宦官たちは黄巾の乱平定に何の功績もなかったばかりか、張角に内通する者までいたにも関わらず、列侯に封じられたのです。
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黄巾の乱の影に隠れて目立たない涼州の反乱「辺章・韓遂の乱」とは
涼州の刺史や太守は、昨年蜂起した先零羌の反乱を鎮圧することはできず、北宮伯玉が三輔地方に侵攻。河北では張牛角が諸山賊を糾合して蜂起するなど、次々に反乱が起こります。
また、黄巾の乱という大規模な反乱の後でも、霊帝の行いには変化が見られませんでした。