172年【漢:建寧けんねい5年・熹平きへい元年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

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172年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉宏りゅうこう霊帝れいてい
皇太后 竇太后とうたいごう桓思竇皇后かんしとうこうごう
皇后 宋皇后そうこうごう

朝廷

官職 人物
太傅たいふ 胡広ここう(〜1月)
司徒しと 許栩きょく → 袁隗えんかい
司空しくう 宗倶そうく
太尉たいい 李咸りかん
執金吾しつきんご 宋酆そうほう
御史中丞ぎょしちゅうじょう 段熲だんけい(〜7月)
諫議大夫かんぎたいふ 劉猛りゅうもう(7月〜)
五官中郎将ごかんちゅうろうしょう 董重とうちょう
使匈奴中郎将しきょうどちゅうろうしょう 張奐ちょうかん
度遼将軍とりょうしょうぐん 皇甫規こうほき
破羌将軍はきょうしょうぐん 段熲だんけい

地方官

官職 人物
司隷校尉けいしゅうしし 劉猛りゅうもう段熲だんけい
楊州刺史ようしゅうしし 臧旻ぞうびん
玄菟太守げんとたいしゅ 公孫琙こうそんよく
丹陽太守たんようたいしゅ 陳夤ちんいん
鬱林太守うつりんたいしゅ 谷永こくえい

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172年の主な出来事

出来事
1月
  • 霊帝れいてい原陵げんりょう光武帝こうぶてい陵)を参拝する。
3月
  • 太傅たいふ胡広ここうが亡くなる。
5月
  • 天下に大赦たいしゃする。
  • 熹平きへい」と改元する。
  • 長楽太僕ちょうらくたいぼく侯覧こうらんが罪を問われて自害する。
6月
  • 洛陽らくように大雨が降る。
  • 竇太后とうたいごうが幽閉先で崩御する。
7月
  • 竇太后とうたいごう宣陵せんりょうに埋葬され、桓思皇后かんしこうごうおくりなされる。
  • 司隷校尉しれいこうい段熲だんけい太学生たいがくせい1,000人を捕らえる。
10月
  • 勃海王ぼっかいおう劉悝りゅうかいが謀反の罪を着せられ、劉悝りゅうかいとその妻子が自害する。
11月
  • 会稽郡かいけいぐん許生きょしょう越王えつおうを自称して郡県を攻め、楊州刺史ようしゅうしし臧旻ぞうびん丹陽太守たんようたいしゅ陳夤ちんいんがこれを討ち破る。
12月
  • 司徒しと許栩きょく罷免ひめんされ、大鴻臚だいこうろ袁隗えんかい司徒しとに任命される。
  • 鮮卑せんぴ幷州へいしゅうに侵攻する。
不明
  • 甘陵王かんりょうおう劉恢りゅうかいが亡くなる。

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172年の三国志群雄勢力図

172年の三国志群雄勢力図

凡例

熹平きへい元年(172年)の三国志群雄勢力図

172年の情勢

172年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。

特記事項

竇太后とうたいごうの崩御

6月、南宮の雲台に幽閉されていた竇太后とうたいごうが崩御しました。

竇太后とうたいごうに深い恨みを持っていた曹節そうせつ王甫おうほら宦官たちは、竇太后とうたいごうの遺体を荷車に乗せて洛陽らくよう南部の市に数日間さらすと、皇后こうごうではなく貴人きじんの礼をもってとむらおうとしました。

また、竇太后とうたいごうを徹底的におとしめたい宦官たちは、竇太后とうたいごう桓帝かんていと同じ陵墓に埋葬することを拒否し、同じ陵墓に埋葬するべきだとする陳球ちんきゅう李咸りかんらと激しい議論が交わされます。

その結果、竇太后とうたいごうと親しく接していた霊帝れいていは、竇太后とうたいごう皇后こうごうとしてとむらい、桓帝かんていと合葬することに決定しました。

太学生たいがくせいの逮捕

竇太后とうたいごうの崩御からほどなくして、宮門の柱に、

「天下大乱、曹節そうせつ王甫おうほ太后たいごうを監禁して殺し、常侍の侯覽こうらんは党人を数多く殺した。公卿こうけいは皆仕事をせず、忠言する者はいない」

という落書きが見つかります。

曹節そうせつたちは司隷校尉しれいこうい劉猛りゅうもうに捜査を命じますが、犯人に共感する劉猛りゅうもうは本気で捜査しようとしなかったため、諫議大夫かんぎたいふ左遷させんされてしまいます。

その後、捜査を引き継いだ御史中丞ぎょしちゅうじょう段熲だんけい司隷校尉しれいこういに任命され、1,000人余りの太学生を逮捕しました。

また、この時左遷させんされた劉猛りゅうもうは、169年に張奐ちょうかんと共に党人とうじん擁護ようごした人物です。

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勃海王ぼっかいおう劉悝りゅうかいの自害

165年、桓帝かんていの実弟である勃海王ぼっかいおう劉悝りゅうかい癭陶王えいとうおうに降格されます。

劉悝りゅうかい中常侍ちゅうじょうじ王甫おうほに、勃海王ぼっかいおうへの復帰を働きかけてくれるように依頼し、「勃海王ぼっかいおうに復帰することができたなら五千万銭を譲る」約束をしました。

ですが、167年に桓帝かんていが崩御すると、その遺詔ゆいしょうによって劉悝りゅうかいの罪は許され、はからずも勃海王ぼっかいおうに復帰することができたのです。

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劉悝りゅうかい勃海王ぼっかいおうに復帰すると、王甫おうほは約束の謝礼が欲しいと思います。ですが、劉悝りゅうかいは「王甫おうほの働きかけによって復帰できたのではない」として、五千万銭を渡しませんでした。

このことによって、王甫おうほ劉悝りゅうかいに恨みを持つようになりました。

10月、王甫おうほ段熲だんけいに命じて劉悝りゅうかいと親しい中常侍ちゅうじょうじ鄭颯ていりつ中黄門ちゅうこうもん董騰とうとうを捕らえさせると、監獄に送って拷問します。

尚書令しょうしょれい廉忠れんちゅうから「鄭颯ていりつらは劉悝りゅうかい擁立ようりつしようとしています」との上奏を受けた霊帝れいていは、冀州刺史きしゅうしし劉悝りゅうかいを取り調べさせた上で、謀反の罪が明らかになったとして劉悝りゅうかいに自害を命じ、劉悝りゅうかい妃妾ひしょう11人、子女70人、伎女ぎじょ24人も獄死、勃海国ぼっかいこくしょうも処刑されました。

また、王甫おうほら12人は劉悝りゅうかいの謀反を未然に防いだ功績で列侯れっこうに封じられました。

会稽郡かいけいぐんの反乱

11月、会稽郡かいけいぐん句章県こうしょうけん妖賊ようぞくの反乱が起こります。

若き日の孫堅そんけんが討伐に参加したことで有名な反乱ですが、資料によって記述が異なります。

『後漢書』孝霊帝紀

会稽郡かいけいぐんの人・許生きょしょう越王えつおうを自称して郡県を攻撃した。朝廷は楊州刺史ようしゅうしし臧旻ぞうびん丹陽太守たんようたいしゅ陳夤ちんいんを派遣してこれを討ち破った。

『資治通鑑』

会稽郡かいけいぐん妖賊ようぞく許生きょしょう句章県こうしょうけんで挙兵し、陽明皇帝ようめいこうていを自称した。その人数は1万人を超え、朝廷は楊州刺史ようしゅうしし臧旻ぞうびん丹陽太守たんようたいしゅ陳夤ちんいんを派遣してこれを討ち破った。

『呉書』孫堅伝

会稽郡かいけいぐん妖賊ようぞく許昌きょしょう句章県こうしょうけんで反乱を起こし、陽明皇帝ようめいこうていを自称した。許昌きょしょうは息子の許韶きょしょう許昭きょしょう)と共に周囲の県を扇動せんどうし、その数は数万にのぼった。
孫堅そんけん郡司馬ぐんしばとして1,000人あまりの兵を集めると、州・郡の官兵と協力して賊徒を討ち破った。

また、後漢書ごかんじょ孝霊帝紀こうれいていぎを注に引き、「許昌きょしょうは自分の父親を越王えつおうの位につけた」とあり、このことから、許生きょしょう許昌きょしょう許韶きょしょう許昭きょしょう)の3代が中心となって起こした反乱であると推測することができます。

この反乱は、174年まで続きました。

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勃海王ぼっかいおう劉悝りゅうかいの自害は、のちにもう一波乱起こすきっかけになります。

また、妖賊ようぞくというのは宗教組織による反乱のことを言い、この会稽郡かいけいぐんの反乱以降、妖賊ようぞくの反乱が増えていくことになりました。

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