179年【漢:光和こうわ2年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

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179年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉宏りゅうこう霊帝れいてい
皇太后 董太后とうたいごう孝仁董皇后こうじんとうこうごう
皇后

朝廷

官職 人物
司徒しと 袁滂えんほう劉郃りゅうこう楊賜ようし
司空しくう 袁逢えんほう張済ちょうせい
太尉たいい 橋玄きょうげん段熲だんけい劉寬りゅうかん
太常たいじょう 張済ちょうせい(〜3月)
光禄勲こうろくくん 楊賜ようし(〜12月)
太中大夫たいちゅうたいふ 段熲だんけい(〜3月)
大鴻臚だいこうろ 劉郃りゅうこう(〜3月)
衛尉えいい 劉寬りゅうかん(〜5月)
諫議大夫かんぎたいふ 劉猛りゅうもう
郎中ろうちゅう 審忠しんちゅう
五官中郎将ごかんちゅうろうしょう 董重とうちょう
使匈奴中郎将しきょうどちゅうろうしょう 張脩ちょうしゅう
破羌将軍はきょうしょうぐん 段熲だんけい
歩兵校尉ほへいこうい 劉納りゅうのう
衛尉えいい 陽球ようきゅう

地方官

官職 人物
司隷校尉しれいこうい 陽球ようきゅう
玄菟太守げんとたいしゅ 公孫琙こうそんよく
丹陽太守たんようたいしゅ 陳夤ちんいん
益州太守えきしゅうたいしゅ 李顒りぎょう
鬱林太守うつりんたいしゅ 谷永こくえい

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179年の主な出来事

出来事
  • 疫病が流行ったため、薬を配布する。
3月
  • 司徒しと袁滂えんほう罷免ひめんされ、大鴻臚だいこうろ劉郃りゅうこう司徒しとに任命される。
  • 太尉たいい橋玄きょうげん罷免ひめんされ、太中大夫たいちゅうたいふ段熲だんけい太尉たいいに任命される。
  • 洛陽らくように地震があった。
  • 司空しくう袁逢えんほう罷免ひめんされ、太常たいじょう張済ちょうせい司空しくうに任命される。
4月
  • 日食があった。
  • 中常侍ちゅうじょうじ王甫おうほ太尉たいい段熲だんけいが捕らえられ、獄中で死亡する。
  • 天下に大赦たいしゃし、党錮とうこの禁の基準を緩和する。
  • 東平王とうへいおう劉端りゅうたんが亡くなる。
5月
  • 衛尉えいい劉寬りゅうかん太尉たいいに任命される。
7月
  • 使匈奴中郎将しきょうどちゅうろうしょう張脩ちょうしゅうが罪あって獄中で死亡する。
10月
  • 司徒しと劉郃りゅうこうらの宦官誅殺ちゅうさつ計画が漏洩ろうえいし、逆に捕らえられ、獄中で死亡する。
  • 巴郡はぐん板楯蛮ばんじゅんばんが反乱を起こすが平定できず。
12月
  • 光禄勲こうろくくん楊賜ようし司徒しとに任命される。
  • 鮮卑せんぴ幽州ゆうしゅう幷州へいしゅうに侵攻する。
不明
  • 河間王かかんおう劉利りゅうりが亡くなる。
  • 洛陽らくようの女性が両頭四臂りょうとうしひの子を生む。

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179年の三国志群雄勢力図

179年の三国志群雄勢力図

凡例

光和こうわ2年(179年)の三国志群雄勢力図

179年の情勢

179年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。

特記事項

橋玄きょうげん逸話いつわ

3月に太尉たいい罷免ひめんされた橋玄きょうげんに関するエピソードをご紹介します。

ある時、橋玄きょうげんのまだ幼い子供が誘拐され、犯人は屋敷のろうに登って身代金を要求しました。

やがて司隷校尉しれいこうい河南尹かなんいんが到着して橋玄きょうげんの屋敷を包囲しましたが、人質を取られているため手を出すことができません。

これを見た橋玄きょうげんは、「我が子1人のために、法を犯す国賊の勝手を許すわけにはいかない!」と叱責しっせきし、司隷校尉しれいこうい河南尹かなんいんを屋敷に突入させます。この結果、犯人を殺すことができましたが、橋玄きょうげんの幼い子供も殺されてしまいました。

その後、橋玄きょうげんが「人質を取って金銭を要求する者は、人質もろとも殺すべきである。賊に金銭を与えてはならない」と上奏したため、この事件以降、同様の事件は減少したと言われています。

王甫おうほ段熲だんけいが獄死する

当時、中常侍ちゅうじょうじ王甫おうほ曹節そうせつらは朝廷で権力を握り、彼らの父兄子弟はみなけい校尉こうい刺史しし太守たいしゅ県令けんれい県長けんちょうなどの重職に就き、各地で暴虐な行いを繰り返していました。中でも王甫おうほの養子・王吉おうきつは、沛国相はいこくしょうとなってから5年の間に1万人以上も残酷な処刑をしています。

そのため尚書令しょうしょれい陽球ようきゅうは、常日頃から「もし自分が司隷校尉しれいこういとなったなら、彼らを絶対に許さない」と公言していました。


4月、果たして陽球ようきゅう司隷校尉しれいこういに任命されると、京兆尹けいちょういん楊彪ようひょう王甫おうほの不正を弾劾だんがいします。

陽球ようきゅう司隷校尉しれいこうい着任の挨拶あいさつを名目として参内すると、王甫おうほ段熲だんけい中常侍ちゅうじょうじ淳于登じゅんうとう袁赦えんしゃらの罪状を霊帝れいていに上奏したため、王甫おうほ段熲だんけいをはじめ、王甫おうほの養子・永楽少府えいらくしょうふ王萌おうほう沛国相はいこくしょう王吉おうきつらは捕らえられ、洛陽獄らくようごくに送られました。


陽球ようきゅうみずから取り調べを行い、あらゆる拷問を駆使して王甫おうほ父子を死に追いやると、段熲だんけいは自害してしまいました。

陽球ようきゅう司隷校尉しれいこうい罷免ひめんされる

王甫おうほを粛清した陽球ようきゅうが、次にターゲットにするのは曹節そうせつです。ですが、もちろん曹節そうせつも黙って捕まるのを待ってはいません。

曹節そうせつ霊帝れいていに直接耳打ちします。

陽球ようきゅうは元々残酷ざんこくな人間で、三公さんこう弾劾だんがいされて官職を失うはずが、過去にわずかな功績があったために許されました。彼のような者に司隷校尉しれいこういの職を任せていてはいけません」

これを聞いた霊帝れいていは、陽球ようきゅう司隷校尉しれいこういの職を解き、改めて衛尉えいいに任命するみことのりを出しました。

「あと1ヶ月の猶予ゆうよをいただければ、一番罪深き者を罰してみせます!」

陽球ようきゅうひたいから血を流すほど叩頭こうとうして懇願しましたが、霊帝れいていに「みことのりに逆らうのかっ!」と叱責しっせきされ、泣く泣く衛尉えいいの職を拝命しました。

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党錮とうこの禁の基準を緩和する

当時、党錮とうこの禁による禁錮きんこ刑が及ぶ範囲は「五族」に及びました。

4月、涼州りょうしゅう武都郡ぶとぐん上禄県じょうろくけん県長けんちょう和海かかいは、祖父の兄弟から先は家も財産も分けることから、党錮とうこの罪に連座するほど近い親族には当たらないとして、彼らの禁錮きんこ刑を解くように上奏し、霊帝れいていはこれを承知します。

また、この「五族」の関係性については諸説あり、はっきりとした範囲は分かっていません。

使匈奴中郎将しきょうどちゅうろうしょう張脩ちょうしゅうが処刑される

張脩ちょうしゅう南匈奴みなみきょうど単于ぜんう呼徴こちょうと対立していたため、独断で呼徴こちょうを斬って、右賢王ゆうけんおう羌渠きょうきょ単于ぜんうに立てました。ですが、事前に朝廷の承認を得ていなかったことを罪に問われ、張脩ちょうしゅうは捕らえられて処刑されてしまいました。

宦官誅殺ちゅうさつ計画の漏洩ろうえい

陽球ようきゅう司隷校尉しれいこういの任を解かれると、曹節そうせつ朱瑀しゅうらはまた権勢を取り戻します。

郎中ろうちゅう審忠しんちゅう中常侍ちゅうじょうじ呂強りょきょうは、曹節そうせつ朱瑀しゅうらの罪を挙げ、処罰するべきと上奏しますが、霊帝れいていは取り合いませんでした。


永楽少府えいらくしょうふ陳球ちんきゅう歩兵校尉ほへいこうい劉納りゅうのうは、司徒しと劉郃りゅうこうに密かに打ち明けます。

「あなたは宗室の出身で三公さんこうの位にあります。天下の人々は、あなたが曹節そうせつらを誅殺ちゅうさつすることを望んでいます」

劉郃りゅうこうは「どこに宦官の耳目があるか分からない。めったな事を言うものではない」と、あくまでも慎重でしたが、ついに決意して衛尉えいい陽球ようきゅうと宦官誅殺ちゅうさつの相談を始めました。 

ところが、陽球ようきゅうの妻は中常侍ちゅうじょうじ程璜ていこうの娘だったため、計画が程璜ていこうから曹節そうせつに漏れてしまいます。

10月、司徒しと劉郃りゅうこう永楽少府えいらくしょうふ陳球ちんきゅう衛尉えいい陽球ようきゅう歩兵校尉ほへいこうい劉納りゅうのうらは「謀反の罪」を着せられて、処刑されてしまいました。

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板楯蛮ばんじゅんばんの反乱

10月、巴郡はぐん板楯蛮ばんじゅんばんが反乱を起こしました。

板楯蛮ばんじゅんばんは古くから漢に協力し、176年に益州郡えきしゅうぐんで起こったの反乱の鎮圧にも従っており、精鋭なことで知られています。

朝廷は、御史中丞ぎょしちゅうじょう蕭瑗しょうえん益州刺史えきしゅうししを指揮させて討伐に望みましたが、鎮圧には至りませんでした。

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2度に渡る「党錮とうこの禁」の後も、濁流派と清流派の争いは続いていました。

この年の10月、曹節そうせつの謀略によって処刑された陽球ようきゅうは、かつて「政治が厳しすぎる」として三公さんこう弾劾だんがいされたことがあります。

細かい描写は描写は省略しましたが、陽球ようきゅう王甫おうほ父子への拷問は相当ひどいものでした。

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