正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(93)河内韓氏(韓浩・韓栄)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河内韓氏系図
河内韓氏系図
この記事では河内韓氏の人物、
についてまとめています。
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か(93)河内韓氏
第1世代(韓浩)
韓浩・元嗣
生没年不詳。司隷・河内郡の人。養子に韓栄。
豫州(予州)・沛国出身の史渙と共に忠義と武勇が際立っており、韓浩は中護軍、史渙は中領軍として禁兵(近衛兵)を率い、列侯に封ぜられた。
河陽津の戦い
韓浩の県は山林地帯に近く、後漢末期の戦乱により賊が横行していたため、韓浩は人を集めて県の護衛にあたっていた。
初平元年(190年)冬、河内太守の王匡は韓浩を従事に任命し、将兵を率いて盟津*1で董卓を防いだ。
この時董卓は、幷州(并州)・五原郡・河陰県の県令であった韓浩の舅・杜陽を捕らえて韓浩を配下に招こうとしたが、韓浩は脅しに屈さなかった。
この事を聞いた袁術はこれを立派だと評価し、韓浩を騎都尉に任命した。
その後、夏侯惇に請われて会見し、彼に高く評価された韓浩は、兵を統率して征伐に従軍するようになった。
脚注
*1孟津。河陽津とも。
兗州の反乱
興平元年(194年)、曹操が徐州の陶謙征伐を行った際、夏侯惇は兗州に残って東郡・濮陽県を守備した。
その後張邈が謀叛して呂布を兗州に迎え入れると、夏侯惇は曹操の家族を救うため鄄城県に急行するが、その途上、呂布の軍勢と遭遇して交戦する羽目になった。
すると呂布は撤退してそのまま濮陽県に入城し、夏侯惇軍の輜重を襲撃した。その後呂布は、将を派遣して「降伏する」と見せかけ夏侯惇を捕らえると、彼を人質にして「宝貨を出せ」と脅迫したので、夏侯惇の軍中は震え恐れた。
この時韓浩は、夏侯惇の軍営の門に兵を揃えて駐屯すると、軍吏や諸将を召集し、「みな武装を解いて部署につき、動いてはならぬ」と命じたので、諸軍営はやっと落ち着きを取り戻した。
その後、韓浩は捕らえられている夏侯惇の所に赴くと、夏侯惇を人質に取った者たちを怒鳴りつけた。
「お前たち極悪人めが、大胆にも大将軍(夏侯惇)を捕らえ脅迫しておきながら、生き延びられると思っているのかっ!
まして吾は賊を討伐する命令を受けているのだ。どうして1人の将軍のために、お前たちの勝手を許すと思うのか?」
また、夏侯惇に向かって涙ながらに「国法はどうにもできません!」と言うと、すぐさま兵を呼び寄せて、夏侯惇を人質に取った者たちに撃ちかからせた。
すると夏侯惇を人質に取った者たちは慌てて叩頭し、「我どもはただ軍需物資を頂戴して去ろうとしただけです」と言ったが、韓浩はこの者たちを何度も叱責した上、ことごとく斬り捨てた。
夏侯惇が助かった後でこの話を聞いた曹操は、韓浩に「卿の行いは『万世の法』とする価値がある」と言い、そこで法令に著して「今後、人質を取る者がいれば、(人質を取った者も人質となった者も)共に攻撃し、人質を顧みてはならぬ」と命じた。
これ以降、人質を取って脅迫する者は跡を絶った。
屯田制(典農部屯田)を進言
建安元年(196年)、本拠地の豫州(予州)・潁川郡・許県に献帝を迎えた曹操が、今後の政策について大いに議論させたところ、棗祗と韓浩が「急いで屯田を実施すべきです」と進言した。
曹操はこの意見を喜び、韓浩を護軍に昇進させた。
この年、曹操は民を募集して許県で屯田させ、百万斛の穀物を収穫した。
烏丸征伐
建安12年(207年)、曹操は北方の国境の外に赴いて、3郡の烏丸(蹋頓・蘇僕延・烏延)を征討しようとした。
領軍の史渙は「遠征して敵地に深入りすることは万全の計ではない」と考え、韓浩と協力して諫めようと彼に相談した。
すると韓浩は、
「今、我が軍の勢いは盛んで、その武威は四海(天下)に轟いている。戦えば必ず勝ち、攻めれば必ず取り、思い通りにならないことはない。この機会に天下の患いを除かなければ後の憂いとなるだろう。
それに公(曹操)は神の如き武勇と智略をお持ちだ。吾も君も中軍の指揮を任されているのだから、ここで兵の気勢を挫くべきではない」
と言った。
こうして烏丸征伐に従軍して(幽州・遼西郡の)柳城を撃破した。この功績により(護軍の)官号を中護軍に改められ、配下に長史と司馬を設置された。
曹操に魏公就任を勧める
建安18年(213年)5月、献帝は御史大夫の郗慮に節(天子の使者の標)を持たせ、曹操を魏公とする策命(辞令書)を下した。
曹操は前後3度にわたってこれを辞退したが、中軍師の王淩、謝亭侯の荀攸、前軍師・東武亭侯の鍾繇ら31名が受諾することを勧めると、やっと命令を受けた。
この31名の中に中領軍・万歳亭侯・韓浩*2の名前がある。
脚注
*2韓浩の官職について。韓浩は建安12年(207年)に官号を中護軍に改められ、建安20年(215年)に曹操は韓浩のことを中護軍と呼んでいるが、ここで中領軍とあるのは原文通り。中護軍の誤りか。
張魯討伐
建安20年(215年)、益州・漢中郡の張魯討伐に従軍し、張魯は降伏した。
人々は「韓浩の智略は辺境地帯を安んずるに足ります。漢中郡に留めて都督として諸軍を監督させてください」と言ったが、曹操は「吾が中護軍(韓浩)なしでいられる訳がなかろう?」と言い、韓浩を連れて帰還した。それほど曹操に親任されていたのである。
韓浩が亡くなると、曹操はその死を惜しみ悲しんだ。
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