正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(94)遼西りょうせい韓氏かんし韓当かんとう韓綜かんそう)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

遼西韓氏系図

遼西韓氏系図

遼西りょうせい韓氏かんし系図


この記事では遼西りょうせい韓氏かんしの人物、

についてまとめています。


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か(94)遼西韓氏

第1世代(韓当)

韓当かんとう義公ぎこう

生年不詳〜黄武こうぶ5年(226年)没。幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん令支県れいきけんの人。子は韓綜かんそう

孫堅期

弓術と馬術にたくみで、膂力りょりょく(筋力)もあることから孫堅そんけんに目をかけられ、征伐に従って各地を転戦し、しばしば危険をおかして敵を破り捕虜にして、別部司馬べつぶしばに任命された。

韓当かんとうつとはげんで功績を立てたが、軍隊内で下働きの任にあたり、英雄・豪傑たちの配下に分属させられていたため爵位を加えられることがなく、孫堅そんけんの時代を通じてやっと別部司馬べつぶしばとなれただけであった。

孫策期

興平こうへい2年(195年)、孫策そんさく江東こうとうに渡ると、揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐん呉郡ごぐん丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)の3つの郡の討伐に従軍し、先登校尉せんとうこういに昇進して、兵士2千と騎馬50頭をさずけられた。


建安けんあん4年(199年)、孫策そんさく劉勲りゅうくん黄祖こうそ征伐に従軍し、これを大いに撃ち破った。

孫権期
楽安県長らくあんけんちょうとなる

建安けんあん8年(203年)、孫権そんけんは西に軍を動かして黄祖こうそを討伐したが、まだ城を陥落させる前に、山越さんえつの不服従民たちがまた不穏ふおんな動きを示した。

そこで孫権そんけんは軍をかえして、呂範りょはん揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)・鄱陽県はようけん程普ていふ楽安県らくあんけんを討伐させると、太史慈たいしじ海昬県かいこんけんを治めさせ、韓当かんとう周泰しゅうたい呂蒙りょもうらを政情が不安定な諸県の県令けんれい県長けんちょうに任命した。

この時韓当かんとう楽安県らくあんけん県長けんちょうに任命され、山越さんえつの不服従民を畏服いふくさせた。

赤壁せきへきの戦い

建安けんあん13年(208年)、中郎将ちゅうろうしょうとなって周瑜しゅうゆらと共に曹操そうそう赤壁せきへきで迎撃して撃ち破り、さらに呂蒙りょもうと共に荊州けいしゅう南郡なんぐんを襲撃して奪取した。これらの功績により偏将軍へんしょうぐんに昇進し、永昌太守えいしょうたいしゅ*1に任命された。


赤壁せきへきの戦いにおいて、黄蓋こうがいは流れ矢に当たって寒中に長江ちょうこうに落ち、軍の者に救い上げられたが、それが黄蓋こうがいだとは分からず便所の中に放置されていた。

黄蓋こうがいは力を振りしぼって一声、韓当かんとうの名を呼ぶと、これを聞いた韓当かんとうは「これは公覆こうふくどのの声だっ!」と言い、彼を見つけるとその姿を見て涙を流し、黄蓋こうがいの衣服を取り替えてやった。

脚注

*1永昌太守えいしょうたいしゅ益州えきしゅう永昌郡えいしょうぐん太守たいしゅ。おそらく名目だけの遙任ようにんであろう。

陳蘭ちんらん梅成ばいせいの反乱

建安けんあん14年(209年)、廬江郡ろこうぐん陳蘭ちんらん梅成ばいせい曹操そうそうそむくと、孫権そんけん揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん居巣国きょそうこくに入って陳蘭ちんらん梅成ばいせいを援助しようとした。

この時、曹操そうそう配下の臧覇ぞうは揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん晥県かんけんを守る韓当かんとうを攻撃し、韓当かんとう逢龍ほうりゅう夾石きょうせきで迎え撃ったが、臧覇ぞうはに撃ち破られた。

夷陵いりょうの戦い

黄武こうぶ元年(222年)、宜都ぎとえき夷陵いりょうの戦い)では、陸遜りくそん朱然しゅぜんらと共に涿郷たくきょうにおいて蜀軍しょくぐんに攻撃をかけ、これを大いに撃ち破った。この功績により威烈将軍いれつしょうぐんうつり、都亭侯とていこうに封ぜられた。

同年、曹真そうしん荊州けいしゅう南郡なんぐんに攻撃をかけてきたが、韓当かんとうは城の東南部を固めて守り抜いた。


地方に出て軍の指揮にあたる時は、部将や士卒たちをはげまし心を1つにして守りを固め、また、中央から派遣された督司とくし目付役めつけやく)の意見につつしんで従い、法令を遵守じゅんしゅしたので、孫権そんけんはこうした韓当かんとうの働きりに満足していた。


黄武こうぶ2年(223年)、石城侯せきじょうこうに封ぜられ、昭武将軍しょうぶしょうぐんに昇進して荊州けいしゅう冠軍太守かんぐんたいしゅとなり、のちにまた都督ととくの号を加えられた。

のち敢死軍かんしぐん解煩軍かいはんぐん*2の兵士1万人をひきいて揚州ようしゅう丹楊郡たんようぐん丹陽郡たんようぐん)のぞくを討伐し、これを撃ち破ったが、黄武こうぶ5年(226年)に病気で亡くなった。

脚注

*2敢死軍かんしぐん解煩軍かいはんぐんはいずれも特殊部隊の名前。


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第2世代(韓綜)

韓綜かんそう

生年不詳〜建興けんこう元年(252年)没。幽州ゆうしゅう遼西郡りょうせいぐん令支県れいきけんの人。父は韓当かんとう

黄武こうぶ5年(226年)に父・韓当かんとうが亡くなると、石城侯せきじょうこうの爵位と兵士を継いだ。

この年、孫権そんけん荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん石陽県せきようけんに軍を進めるにあたって、韓綜かんそうが父のに服していることから荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん武昌県ぶしょうけんの守りにあたらせたが、韓綜かんそうは淫乱にふけり無法を働いていた。

孫権そんけんは父・韓当かんとうに免じてこれをとがめなかったが、韓綜かんそうは内心おそれをいだき、黄武こうぶ6年(227年)うるう12月、父のひつぎを車にせ、母や家族、部曲(私兵)男女数千人を引き連れてに逃げ込んだ。


では韓綜かんそう将軍しょうぐんに任命して広陽侯こうようこうに封じた。

将軍しょうぐんとなった韓綜かんそうは、しばしばの国境を侵犯して住民を殺害したので、孫権そんけんはいつも歯がみしてくやしがっていた。


建興けんこう元年(252年)、東興とうこうえきにおいて、韓綜かんそう前軍督ぜんぐんとくとしての先鋒となったが、戦いに敗れて命を落とした。諸葛恪しょかつかくが彼の首を斬って都に送り、孫権そんけんびょうに報告した。

韓綜の出奔について
呉書ごしょ韓当伝かんとうでん・注・『呉書ごしょ

韓綜かんそうそむこうと考えたが「左右の者たちがついて来ないのではないか」と恐れた。そこで韓綜かんそうは、部曲(私兵)に「お前たちを豊かにしてやりたいのだ」とそそのかして追いぎを働かせた。

そして、次第にその真似をする者が多くなると、旅人たちの大きな悩みとなっていった。

そこで韓綜かんそうは「(韓綜かんそうの)部曲(私兵)が強盗を働いている」と詰問きつもんするみことのりが下されたとうそをつき、「部将・軍吏以下、みな捕らえられるだろう」と言い、また「自分(韓綜かんそう)にも罪が及ぶだろう」と言った。すると左右の者たちは「を去るより他はございません」と言い、共にその計画をった。

そこで韓綜かんそうは「父を埋葬まいそうする」と言って親戚や姑姉こし乳母うば)たちを呼び集め、彼女らをみな部将や軍吏にとつがせ、自分が寵愛ちょうあいしていた婢妾ひしょうたちさえもみな親しい者に与えると、牛を殺して酒を飲み、血をすすり合って共に盟約を結んだ。

魏書ぎしょ曹休伝そうきゅうでん

の将・審悳しんとく審徳しんとく)が揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん晥県かんけんに駐屯すると、曹休そうきゅうがこれを撃破して首を斬ったので、の将・韓綜かんそう翟丹てきたんらは先を争って曹休そうきゅうの元に降伏した。


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