正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(92)潁川韓氏[韓尋・韓稜(韓棱)・韓輔・韓縯(韓演)]です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
潁川韓氏系図
潁川韓氏系図
この記事では潁川韓氏の人物、
についてまとめています。
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か(92)潁川韓氏
第1世代(韓尋)
第2世代[韓稜(韓棱)]
韓稜・伯師(韓棱)
生年不詳〜永元9年(97年)没。豫州(予州)・潁川郡・舞陽県の人。弓高侯・韓頹当(韓王信の子)の後裔。父は韓尋。子に韓輔。孫に韓縯(韓演)。
出自
代々郷里の著姓(名族)であった。
韓稜(韓棱)は4歳で父を失い、母と弟を養い親孝行で兄弟の仲が良いことで称賛され、また、壮年に及んで亡父・韓尋の遺産数百万を従昆弟(従兄弟)に譲ったため、郷里の人々は益々これを敬った。
明帝期
初め潁川郡の功曹となったが、潁川太守の葛興は中風*1を患っていて政治を行うことができなかったので、韓稜は陰ながら葛興に代わって政務を行い、それから2年、韓稜の命令を違える者はいなかった。
ある時、葛興の子が教令を発して署吏(属吏)を任命しようとしたが、韓稜が拒絶して従わなかったので、(韓稜を)怨む者に上章*2によって(韓稜が郡の統治を代行していることを)告げさせた。
この事案は審理され、「韓稜が葛興の病気を隠蔽して郡の統治を統括した」として、ついに韓稜に禁錮(仕官禁止)に処された。
後に顯宗(明帝)は韓稜の忠義を知り、詔を下して特別にこれを赦した。これによって韓稜は征辟*3され、5度昇進して尚書令となり、尚書僕射の郅寿、尚書の陳寵と共にその才能によって称賛された。
脚注
*1脳血管障害(脳卒中)の後遺症である半身不随、片麻痺、言語障害、手足の痺れや麻痺などを指す。
*2上奏文の書式の1つ。
*3臣下が推薦した人材を、天子(皇帝)が直接招聘して任用する制度のこと。徵召。
章帝期
肅宗(章帝)はかつて諸々の尚書に剣を下賜したが、この3人(韓稜・郅寿・陳寵)だけには特別に宝剣を下賜し、肅宗(章帝)自ら「韓稜には楚の龍淵、郅寿には蜀の漢文、陳寵には済南の椎成」と記した。
これを当時の論者は「韓稜は奥深い謀を有していたために龍淵を得、郅寿は聡明で物事の道理によく通じていたために漢文を得、陳寵は素朴でその良さが外に表れないので椎成を得た」と言った。
和帝期
和帝の即位後、侍中の竇憲が斉の殤王の子・都郷侯の劉暢を上東門で刺殺させたが、有司(役人)は竇憲を畏れ、みな劉暢の兄弟に嫌疑をかけた。
そこで詔を下して侍御史を派遣して(捜査のために)斉に赴きこの事件を取り調べさせたが、韓稜は上疏して「賊は(外戚の竇憲ですから)京師(都)におり、近くを疎かにして遠くを探してはなりません。奸臣に笑われることを恐れます」と申し上げた。
これに竇太后は怒って韓稜を厳しく責めたが、韓稜は自分の意見をあくまでも主張し続け、真相が明らかになるに及んで、果たして韓稜の言った通りであった。
竇憲は恐れ慄き、竇太后に「北の匈奴に出撃することで罪を贖う」ことを求め、韓稜は再び上疏して諫めたが、竇太后は従わなかった。
匈奴征伐で功績を立てた竇憲が帰還して大将軍となると、竇憲の威勢は天下を震わせ、再び出征して涼州・武威郡に駐屯した。
和帝は西方の園陵で祭祀を行う際、竇憲に詔を下して長安で会うことにした。
尚書以下は「竇憲が到着したら拝礼し、万歳を唱えよう」と話し合ったが、韓稜が改まった顔をして、
「そもそも『上に交わりて諂わず 、下に交わりて驕らず』という。礼にも『人臣に対して万歳を唱える制度』はありません。」
と言うと、みな恥じて止めることにした。
また、尚書左丞の王龍が秘かに牛と酒を竇憲に献上しようとしていたので、韓稜は上奏してその罪を論じ、王龍を城旦*4とした。
韓稜は朝廷にあって応順、呂章、周紆といった良吏を多数推挙したが、みな当時から名を馳せた。
竇氏が敗れると、韓稜は数ヶ月間休みを取らずにその事件を取り調べ、竇氏の党与(仲間)を厳しく追及した。これに和帝は、韓稜を「国を憂えて家を顧みない者である」とし、布3百匹を下賜した。
南陽太守に昇進し、(任地に赴く途上)特別に家に立ち寄って墓参りをすることを許され、郷里ではそれを栄誉とした。
韓稜は着任早々盗賊を摘発したので、郡中(の悪人たち)は恐れ慄き、「韓稜の統治は厳格で公平である」と称された。
数年してまた征辟*3され、太僕となった。
永元9年(97年)冬、張奮に代わって司空となったが、翌年に亡くなった。
脚注
*3臣下が推薦した人材を、天子(皇帝)が直接招聘して任用する制度のこと。徵召。
*4昼は異民族を見張り、夜は長城を築く労役につく刑罰。
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第3世代(韓輔)
韓輔
生没年不詳。豫州(予州)・潁川郡・舞陽県の人。弓高侯・韓頹当(韓王信の子)の後裔。父は韓稜(韓棱)。子に韓縯(韓演)。
安帝の時代[延平元年(106年)〜延光4年(125年)]に趙相(冀州・趙国の太守)となった。
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第4世代[韓縯(韓演)]
韓縯・伯南(韓演)
生没年不詳。豫州(予州)・潁川郡・舞陽県の人。弓高侯・韓頹当(韓王信の子)の後裔。父は韓輔。祖父に韓稜(韓棱)。
韓縯(韓演)は順帝の時代[延光4年(125年)〜建康元年(144年)]に丹陽太守となり、その統治能力が優れていることで名を知られた。
桓帝の時代[本初元年(146年)〜永康元年(168年)]に司徒となったが、大将軍・梁冀が誅殺されると、韓縯(韓演)は「梁冀に阿り結託した罪」に連座した。
死罪から減刑されて本郡に帰らされ、後にまた征辟*3されて司隸校尉を拝命した。
『呉書』周瑜伝・注・張璠の『漢紀』
司徒の韓縯(韓演)が河内太守であった時、公務にまったく私情を挟むことなく、人を推挙する場合でも一言述べるだけで、その後はその家族に対する心遣いもまったくなかった。
そのことについて尋ねると、韓縯(韓演)は「我は推挙をすればそれで良いのであって、1つの家ばかりに特別に目をかけてやろうとは思わない」と言った。
韓縯(韓演)が河内太守であった時期は不詳。
脚注
*3臣下が推薦した人材を、天子(皇帝)が直接招聘して任用する制度のこと。徵召。
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