正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(92)潁川えいせん韓氏かんし韓尋かんじん韓稜かんりょう韓棱かんりょう)・韓輔かんほ韓縯かんえん韓演かんえん)]です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

潁川韓氏系図

潁川韓氏系図

潁川えいせん韓氏かんし系図


この記事では潁川えいせん韓氏かんしの人物、

についてまとめています。

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か(92)潁川韓氏

第1世代(韓尋)

韓尋かんじん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん舞陽県ぶようけんの人。弓高侯きゅうこうこう韓頹当かんたいとう韓王信かんおうしんの子)の後裔こうえい。子に韓稜かんりょう韓棱かんりょう)。

建武けんぶ年間(25年〜56年)に隴西太守ろうせいたいしゅとなった。


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第2世代[韓稜(韓棱)]

韓稜かんりょう伯師はくし韓棱かんりょう

生年不詳〜永元えいげん9年(97年)没。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん舞陽県ぶようけんの人。弓高侯きゅうこうこう韓頹当かんたいとう韓王信かんおうしんの子)の後裔こうえい。父は韓尋かんじん。子に韓輔かんほ。孫に韓縯かんえん韓演かんえん)。

出自

代々郷里の著姓(名族)であった。

韓稜かんりょう韓棱かんりょう)は4歳で父を失い、母と弟を養い親孝行で兄弟の仲が良いことで称賛され、また、壮年に及んで亡父・韓尋かんじんの遺産数百万を従昆弟いとこ従兄弟いとこ)にゆずったため、郷里の人々はますますこれを敬った。

明帝期

初め潁川郡えいせんぐん功曹こうそうとなったが、潁川太守えいせんたいしゅ葛興かつきょう中風ちゅうふう*1わずらっていて政治を行うことができなかったので、韓稜かんりょうかげながら葛興かつきょうに代わって政務を行い、それから2年、韓稜かんりょうの命令をたがえる者はいなかった。

ある時、葛興かつきょうの子が教令を発して署吏しょり(属吏)を任命しようとしたが、韓稜かんりょうが拒絶して従わなかったので、(韓稜かんりょうを)うらむ者に上章*2によって(韓稜かんりょうが郡の統治を代行していることを)告げさせた。

この事案は審理され、「韓稜かんりょう葛興かつきょうの病気を隠蔽いんぺいして郡の統治を統括した」として、ついに韓稜かんりょう禁錮きんこ(仕官禁止)に処された。

のち顯宗けんそう明帝めいてい)は韓稜かんりょうの忠義を知り、みことのりを下して特別にこれをゆるした。これによって韓稜かんりょう征辟せいへき*3され、5度昇進して尚書令しょうしょれいとなり、尚書僕射しょうしょぼくや郅寿しつじゅ尚書しょうしょ陳寵ちんちょうと共にその才能によって称賛された。

脚注

*1脳血管障害(脳卒中)の後遺症である半身不随、片麻痺、言語障害、手足のしびれやなどを指す。

*2上奏文の書式の1つ。

*3臣下が推薦した人材を、天子てんし(皇帝)が直接招聘しょうへいして任用する制度のこと。徵召ちょうしょう

章帝期

肅宗しゅくそう章帝しょうてい)はかつてもろもろ尚書しょうしょに剣を下賜かししたが、この3人(韓稜かんりょう郅寿しつじゅ陳寵ちんちょう)だけには特別に宝剣を下賜かしし、肅宗しゅくそう章帝しょうていみずから「韓稜かんりょうには龍淵りゅうえん郅寿しつじゅにはしょく漢文かんぶん陳寵ちんちょうには済南せいなん椎成ついせい」としるした。

これを当時の論者は「韓稜かんりょうは奥深いはかりごとを有していたために龍淵りゅうえん郅寿しつじゅは聡明で物事の道理によく通じていたために漢文かんぶん陳寵ちんちょうは素朴でその良さが外に表れないので椎成ついせいた」と言った。

和帝期

和帝わていの即位後、侍中じちゅう竇憲とうけんせい殤王しょうおうの子・都郷侯ときょうこう劉暢りゅうちょう上東門じょうとうもんで刺殺させたが、有司(役人)は竇憲とうけんおそれ、みな劉暢りゅうちょうの兄弟に嫌疑をかけた。

そこでみことのりを下して侍御史じぎょしを派遣して(捜査のために)せいおもむきこの事件を取り調べさせたが、韓稜かんりょう上疏じょうそして「ぞくは(外戚がいせき竇憲とうけんですから)京師けいし(都)におり、近くをおろそかにして遠くを探してはなりません。奸臣かんしんに笑われることを恐れます」と申し上げた。

これに竇太后とうたいこうは怒って韓稜かんりょうを厳しく責めたが、韓稜かんりょうは自分の意見をあくまでも主張し続け、真相が明らかになるに及んで、果たして韓稜かんりょうの言った通りであった。

竇憲とうけんは恐れおののき、竇太后とうたいこうに「北の匈奴きょうどに出撃することで罪をあがなう」ことを求め、韓稜かんりょうは再び上疏じょうそしていさめたが、竇太后とうたいこうは従わなかった。

匈奴きょうど征伐で功績を立てた竇憲とうけんが帰還して大将軍だいしょうぐんとなると、竇憲とうけんの威勢は天下をふるわせ、再び出征して涼州りょうしゅう武威郡ぶいぐんに駐屯した。


和帝わていは西方の園陵で祭祀さいしを行う際、竇憲とうけんみことのりを下して長安ちょうあんで会うことにした。

尚書しょうしょ以下は「竇憲とうけんが到着したら拝礼し、万歳をとなえよう」と話し合ったが、韓稜かんりょうあらたまった顔をして、

「そもそも『上にまじわりてへつらわず 、下にまじわりておごらず』という。礼にも『人臣に対して万歳をとなえる制度』はありません。」

と言うと、みな恥じてめることにした。

また、尚書しょうしょ左丞さじょう王龍おうりょうが秘かに牛と酒を竇憲とうけんに献上しようとしていたので、韓稜かんりょうは上奏してその罪を論じ、王龍おうりょう城旦じょうたん*4とした。


韓稜かんりょうは朝廷にあって応順おうじゅん呂章りょしょう周紆しゅううといった良吏を多数推挙したが、みな当時から名をせた。

竇氏とうしが敗れると、韓稜かんりょうは数ヶ月間休みを取らずにその事件を取り調べ、竇氏とうし党与とうよ(仲間)を厳しく追及した。これに和帝わていは、韓稜かんりょうを「国をうれえて家をかえりみない者である」とし、布3百ひき下賜かしした。


南陽太守なんようたいしゅに昇進し、(任地におもむく途上)特別に家に立ち寄って墓参りをすることを許され、郷里ではそれを栄誉とした。

韓稜かんりょうは着任早々盗賊を摘発したので、郡中(の悪人たち)は恐れおののき、「韓稜かんりょうの統治は厳格で公平である」と称された。

数年してまた征辟せいへき*3され、太僕たいぼくとなった。

永元えいげん9年(97年)冬、張奮ちょうふんに代わって司空しくうとなったが、翌年に亡くなった。

脚注

*3臣下が推薦した人材を、天子てんし(皇帝)が直接招聘しょうへいして任用する制度のこと。徵召ちょうしょう

*4昼は異民族を見張り、夜は長城をきず労役ろうえきにつく刑罰。


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第3世代(韓輔)

韓輔かんほ

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん舞陽県ぶようけんの人。弓高侯きゅうこうこう韓頹当かんたいとう韓王信かんおうしんの子)の後裔こうえい。父は韓稜かんりょう韓棱かんりょう)。子に韓縯かんえん韓演かんえん)。

安帝あんていの時代[延平えんへい元年(106年)〜延光えんこう4年(125年)]に趙相ちょうしょう冀州きしゅう趙国ちょうこく太守たいしゅ)となった。


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第4世代[韓縯(韓演)]

韓縯かんえん伯南はくなん韓演かんえん

生没年不詳。豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん舞陽県ぶようけんの人。弓高侯きゅうこうこう韓頹当かんたいとう韓王信かんおうしんの子)の後裔こうえい。父は韓輔かんほ。祖父に韓稜かんりょう韓棱かんりょう)。

韓縯かんえん韓演かんえん)は順帝じゅんていの時代[延光えんこう4年(125年)〜建康けんこう元年(144年)]に丹陽太守たんようたいしゅとなり、その統治能力がすぐれていることで名を知られた。

桓帝かんていの時代[本初ほんしょ元年(146年)〜永康えいこう元年(168年)]に司徒しととなったが、大将軍だいしょうぐん梁冀りょうき誅殺ちゅうさつされると、韓縯かんえん韓演かんえん)は「梁冀りょうきおもねり結託した罪」に連座した。

死罪から減刑されて本郡に帰らされ、のちにまた征辟せいへき*3されて司隸校尉しれいこういを拝命した。

『呉書』周瑜伝・注・張璠の『漢紀』

司徒しと韓縯かんえん韓演かんえん)が河内太守かだいたいしゅであった時、公務にまったく私情をはさむことなく、人を推挙する場合でもひとことべるだけで、その後はその家族に対する心づかいもまったくなかった。

そのことについてたずねると、韓縯かんえん韓演かんえん)は「わたしは推挙をすればそれで良いのであって、1つの家ばかりに特別に目をかけてやろうとは思わない」と言った。

韓縯かんえん韓演かんえん)が河内太守かだいたいしゅであった時期は不詳。

脚注

*3臣下が推薦した人材を、天子てんし(皇帝)が直接招聘しょうへいして任用する制度のこと。徵召ちょうしょう


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