建安9年(204年)秋7月、袁尚の冀州・魏郡・鄴県救援から、鄴県が陥落するまでをまとめています。
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目次
曹操の鄴県(鄴城)攻撃
審配の防衛
袁譚の降伏を受け入れた曹操が、袁尚攻撃のため冀州・魏郡・黎陽県に進軍すると、袁尚は平原県の包囲を解いて冀州・魏郡・鄴県に帰還しました。
ですが、建安9年(204年)2月*1、まだ曹操が鄴県に攻め寄せて来る前に、袁尚は鄴県の守備に審配と蘇由を残して、再び青州・平原国・平原県の袁譚を攻撃します。
鄴県の防衛
鄴県を守る審配は、蘇由や審配の大将・馮礼の内応がありながらも城を固守。曹操は力攻めを諦めて周辺の諸城を攻略すると、鄴県の周囲に塹壕を掘って漳水の水を注ぎ込み、鄴県を孤立させました。
脚注
*1『後漢書』袁譚伝では3月。
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袁尚の救援
秋7月、袁尚が冀州・魏郡・鄴県の救援に引き返して来ました。
これに曹操軍の諸将はみな、
「これは本拠(鄴県)に帰る軍なので、各自が自発的に戦います。避けた方がよろしいでしょう」
と主張しましたが、曹操は、
「袁尚が大道から来れば避けなければならないが、もし西山を通ってくれば、それは負けに来ることだ」*2
と言いました。
果たして袁尚は、西山伝いに進んで鄴県から東に17里(約7.31km)の地点、陽平亭に到着し、滏水に臨んで狼煙を上げて城中に援軍の到着を知らせました。
赤:滏水
ちょうどその頃、曹操が派遣した物見の者がみな、
「袁尚は間違いなく西道(西山)を進み、すでに邯鄲(冀州・趙国・邯鄲県)にいます」
と報告すると、曹操は大いに喜び、諸将を集めて言いました。
「儂はすでに冀州を手に入れたぞ。諸君はそれを知っているか?」
皆が「知りません」と答えると曹操は、
「諸君は間もなく、それを目の当たりに見るだろう」
と言いました。
脚注
*2『資治通鑑』胡三省注に「大道から来るならば、人は勝敗を顧みず必死の志をもって本拠を救おうとする。もし山を通って来るならば、戦いの際に進むことも退くこともできるので、人は身の安全を優先し、命を懸けて戦おうとしない。曹操は袁尚が後者を選ぶと予測した」とある。
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鄴県(鄴城)の陥落
袁尚の敗北
袁尚が滏水に臨んで狼煙を上げて城中に援軍の到着を知らせると、城中からもまた狼煙を上げて答え、審配は城(鄴県)の北門から出撃して、袁尚と呼応して包囲を破ろうとしましたが、曹操に迎撃されて敗北し、城中に逃げ戻りました。
袁尚の方でもまた敗れて逃走し、漳水の曲がり角に沿って陣を構えると、曹操はこれを追って包囲しようとします。
これに怖じ気づいた袁尚は、まだ包囲の輪が完成する前に陰夔と陳琳を遣わして降伏を乞いましたが、曹操はそれを許しませんでした。
しかたなく袁尚は、夜陰に紛れて濫口*3に逃走しますが、曹操は前進して再びこれを厳しく包囲します。
すると、袁尚の将・馬延、張顗らが戦闘を前にして降伏。軍勢は総崩れとなり、袁尚は冀州・中山国に逃走しました。
冀州・中山国
この時曹操は、袁尚軍の輜重(輸送物資)をことごとく捕獲し、袁尚の印綬や節鉞、衣服、器物を手に入れました。
脚注
*3『魏書』袁紹伝、『後漢書』袁譚伝では濫口。『魏書』武帝紀、『資治通鑑』では祁山。
曹操の危機
曹操が袁尚軍の降兵を城中の家族たちに見せると、城中では戦意を喪失しました。
ですが審配は士卒に命令を下して、
「城を堅く守り、命を惜しまずに戦えっ!曹操軍は疲弊している上、まもなく幽州(袁熙)の援軍が到着する。主(袁尚)がおらぬことを憂うことはないっ!」
と叱咤し、弩兵を伏せて、包囲陣を巡察中の曹操に射かけ、もう少しで命中するところでしたが、外してしまいました。
鄴県(鄴城)の陥落
8月、審配が守る冀州・魏郡・鄴県の城中では、半分以上の者が餓死していました。
この時、審配の兄の子・審栄が、夜中に守備していた東門を開け、曹操の兵を城内に引き入れました。審配は城中で迎え撃って戦いますが、敗れて曹操の兵に生け捕りにされてしまいました。
辛評と審配
審栄が城門を開いて曹操の兵を引き入れた時、審配は城の東南の隅の望楼の上からそれを見て、「辛毗と郭図が冀州を破滅に追い込んだのだっ!」と激怒します。
以前、袁尚と袁譚が袂を分かった時、袁譚に従った辛毗と郭図の家族はみな呼び寄せて脱出することができましたが、辛毗の兄・辛評の家族だけは袁譚に捕らえられてしまいました。
曹操の軍中にいた辛毗は、城門が開いたと聞くとすぐさま監獄に駆けつけますが、すでに辛評の家族は審配の命令により殺害された後でした。
この日、審配が生け捕りにされ、幕下に引き出されようとする途中で、辛毗らが迎え出て鞭で彼の頭を打ちながら、
「この野郎、貴様は今日こそ生命がないぞっ!」
と罵ると、審配は振り返って、
「犬めっ!まったく貴様らのために我が冀州は負けたのだ。貴様をぶち殺せないのが残念だ。大体貴様に今、儂を殺したり生かしたりできるのかっ!」
と言い返しました。
曹操と審配
しばらくして引見した曹操が、審配に向かって問いかけました。
「誰が君の城門を開けたのか知っておるか?」
審配は「知らぬ」と答えます。曹操が、
「君の兄の子の審栄だぞ」
と言うと審配は、
「小僧め、役立たずのくせにそんなことをしおって…」
と悔しがりました。そして曹操がさらに、
「先日、儂が包囲した時、なぜ弩をたくさん射かけたのか」
と問うと審配は、
「その少なかったのが残念だ」
と答えました。
曹操は審配を生かしておきたいと思い、
「お前は袁氏父子に忠義であった故、当然そうするしか仕方がなかったのであろう」
と言いましたが、審配がまったく弱音を吐かない上に、辛毗らが号泣してやまないので、結局審配を殺害することにしました。
審配の忠義
これより先に曹操に降伏していた冀州出身の張子謙は、かねてから審配と不仲であったため、嘲笑して審配に言いました。
「正南(審配の字)よ、あなたは結局、儂とどう違いますかな?」
すると審配は声を荒げて、
「貴様は降人。審配は忠臣だ。死んだとしても、お前の生きているのとは訳が違うのだ」
と言いました。
そして刑の執行にあたり審配は、刀を持っている者を怒鳴りつけ、自分の身体を北に向かせて言いました。
「我が君は北にいらっしゃるのだっ!」
審配の声音と気迫は壮烈であり、最後まで弱音を吐くことがなかったので、この有り様を見た者で感嘆の吐息を洩らさない者はいませんでした。
こうして審配は斬刑に処され、鄴県は曹操によって平定されました。
豆知識
鄴県が平定されると、張遼は別軍を連れて冀州の趙国と常山国を攻め落とし、山沿いの賊たちと黒山賊の孫軽らを誘って降伏させました。
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袁紹の墓を祭る
曹操が袁紹を祭る
鄴県を平定した曹操は、袁紹の墓に赴いて祭り、哭して涙を流しました。
また、袁紹の妻を労り、その下僕と宝物を返してやり、繒(絹)・絮(綿)の類を授け、官から扶持米を与えました。
豆知識
裴松之は、ここで孫盛の言葉を注に引いています。
昔、先王が刑罰と恩賞を行ったのは、悪を懲らしめ善を奨励し、後々までも鑑戒(戒めとすること)を明らかにしようとしたためである。
袁紹は世の中の危難を利用してついに反逆の企みを抱き、上は伝国の宝物について取り沙汰し、下は国家の紀綱(政治を行なう上で根本となる重要な制度や規則)を犯した。天子の宗廟に首を捧げ、袁紹の邸宅を辱めるのが古代の制度である。
それをなんと、逆臣の墓で哀悼を尽くし、悪人の家に恩恵を加えている。政治を行う道は、この結果頓挫した。そもそも怨みの念を友人に隠して平然としているのは、過去の賢人が恥としたことである。
旧邸に車を止めても、道理としてそら涙を流しはしないものだ。仮にも生き方が異なり友好関係が絶ち切れた以上、どうして哭する必要があろう。
昔、漢の高祖(劉邦)は項羽に対して間違った態度を取り、魏の武帝(曹操)はその誤りを真似てこの行為を行った。どうして「百慮の一失」*4でないと言えよう。
脚注
*4一般には「千慮の一失」。色々考えを巡らせたのに防げなかった、たった一つの間違いのこと。
趙の広武君(李左車)を生け捕りにした漢の将軍・韓信が、彼の縛めを解いて教えを請うた時、広武君(李左車)は「智者にも千慮に必ず一失あり、愚者にも千慮に必ず一得あり(頭の良い人だってたまには間違った判断をすることがあるし、愚か者だってたまには良い判断をすることがあるものです)」と言ったことから生まれた故事成語。
袁紹の野心
『魏書』武帝紀ではここで、曹操と袁紹の過去のやり取りを載せています。
その昔、袁紹が曹操と共に兵を挙げた時、袁紹が曹操に、
「もし事が成就しなかったなら、拠るべき所はどの方面だろうな?」
と尋ねると、曹操は「貴殿の意見はどうですかな?」と聞き返しました。
これに袁紹は、
「儂は南方は黄河に頼り、北方は燕・代をたのみとし、戎狄(北方の蛮族)の軍勢を合わせ、南に向かって天下の覇権を争う。そうすれば、おそらく成功できるだろう」
と答えます。すると曹操は、
「私は天下の智者・勇者に任せ、道義をもって彼らを制御します。うまくいかないことはないでしょう」
と言い、また続けて、
「(殷の)湯王・(西周の)武王といった天子は、天下を支配する前に、根拠地を1ヶ所に固定していた訳ではありません。もし険固さを拠り所とするならば、機に応じて変化する事は不可能ですぞ」
と言いました。
建安9年(204年)2月、審配が守る冀州・魏郡・鄴県の力攻めに失敗した曹操は、城の周囲に塹壕を掘って漳水の水を注ぎ込み、鄴県を孤立させて包囲しました。
秋7月、袁尚は青州・平原国・平原県から引き返し、鄴県の救援に向かいますが、曹操に敗北。曹操に降伏を申し入れますが、受け入れられなかったため冀州・中山国に逃走します。
8月、審配の兄の子・審栄が城門を開いて曹操軍を引き入れたため鄴県は陥落。守将であった審配は、袁尚への忠義を貫いて処刑されました。