建安7年(202年)9月〜翌年3月にかけて曹操と袁尚・袁譚が戦った「黎陽の戦い」と、同時期に鍾繇・馬超と郭援・袁尚・呼廚泉が戦った「河東郡の攻防」についてまとめています。
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袁紹の死
袁紹の死
建安7年(202年)夏5月、袁紹は「官渡の戦い」で敗れてから後、病を発して血を吐き、亡くなってしまいます。
袁紹の死後、袁紹陣営ではその後継者を巡って、長男・袁譚派と3男・袁尚派に分かれて対立するようになりました。
曹操の出陣
一方曹操は、故郷の豫州(予州)・沛国・譙県に駐留して、先人と恩人である橋玄を祭り、その後で官渡に軍を進めます。
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黎陽の戦い
袁譚と袁尚の不和
曹操が北伐の姿勢を見せると、袁譚は冀州・魏郡・黎陽県に陣を置きましたが、袁尚は監視役として逢紀をつき従わせました。
また、袁尚は袁譚に少数の軍勢しか与えなかったので、袁譚は増兵を要求しますが、袁尚は審配らと相談して応じませんでした。これに立腹した袁譚は、逢紀を殺害してしまいます。
黎陽の戦い
秋9月、曹操は黄河を渡って袁譚への攻撃を開始。袁譚は袁尚に危急を告げました。
この時袁尚は「軍勢を分けて袁譚に増兵しよう」と思いましたが、袁譚がその軍勢を奪い取ってしまうことを恐れ、審配に冀州・魏郡・鄴県を守らせて、自ら兵を率いて袁譚の救援に向かいます。
黎陽の戦い
曹操軍と袁尚・袁譚軍は、黎陽県の城下で対峙して9月から翌年3月に至るまで戦を重ねますが、敗北した袁尚・袁譚は黎陽県に籠城し、曹操軍に包囲される前に、夜陰に紛れて逃亡しました。
曹操はこれを鄴県まで追撃してその麦を奪取。さらに冀州・魏郡・陰安邑を陥落させると、軍を引いて豫州(予州)・潁川郡・許県に帰還しました。
李典と程昱
曹操が黎陽県に袁尚・袁譚を攻撃した時、裨将軍・李典に命じて程昱らと共に船で兵糧を輸送させましたが、この時袁尚は、魏郡太守の高蕃に兵を引き連れて黄河の畔に駐屯することを命じ、水路を断ち切らせます。
そこで曹操は李典と程昱に、
「もし船が通れないのならば、船から降りて陸路を通れ」
と命じましたが、李典は諸将と相談して言いました。
「高蕃の軍は鎧武者が少ない上に、水をたのんで気持ちがだらけている。奴らを攻撃すれば間違いなく勝つ。
軍隊は内部(朝廷)から統御されない。いやしくも国家に利益があるならば、専断することも許される。速やかに奴らを攻撃すべきだ」
程昱もこれに賛成し、かくして黄河を北に渡って高蕃を攻撃。これを撃ち破ったので、水路を確保することができました。
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河東郡の攻防
郭援の河東郡攻撃
絳邑県の降伏
曹操軍と袁尚・袁譚軍が対峙している頃、袁尚が(勝手に)任命した河東太守・郭援が司隷・河東郡に侵攻し、郭援軍の通り道に当たる城や邑はすべて降伏しましたが、絳邑県の県長代行の賈逵は降伏せずに城を固守していました。
河東郡の場所
河東郡の関連地図
赤線:汾水
郭援はこれを陥落させることができず、匈奴の南単于(部族長)・呼廚泉を呼び、両軍を合わせて激しく攻撃します。
城が陥落寸前となると、絳邑県の長老たちは郭援に「賈逵を殺害しない」という約束を取りつけて降伏。賈逵の名声を聞いた郭援は彼を将軍にしたいと思い、武器を突きつけて脅迫しますが、賈逵は一切動じません。
そこで郭援の側近の者が賈逵を引っ張って叩頭させると、賈逵は、
「国家の長吏で賊に叩頭する者がどこにあるかっ!
王府君(河東太守・王邑)が郡を治められて何年も経っているのだ。お前は一体何をしようというのかっ!」
と彼らを怒鳴りつけたので、郭援は腹を立てて彼を斬ろうとしました。ですが、絳邑県の官吏・住民がみな壁の上に登って、
「約束に背いて我が賢君を殺すならば、いっそ一緒に死ぬだけだっ!」
と叫ぶのを見た側近の者たちが彼の助命嘆願をしたので、郭援も思い止まりました。
豆知識
以前、賈逵が皮氏県を通り過ぎた時、
「領地を争う場合、先にこの地を占拠した者が勝つ」
と言いました。
絳邑県の包囲が厳しくなってきた時、逃げられないと悟った賈逵は、人を遣って間道伝いに郡まで官印と綬を送らせて、
「急いで皮氏県を占拠せよ」
と伝えさせました。
その後、絳邑県を降伏させた郭援が、絳邑県の軍勢を合わせてさらに兵を進めようとすると、賈逵は「郭援が皮氏県を占拠すること」を恐れて一計を案じ、郭援の謀士・祝奥を迷わせて郭援の軍勢を7日間引き止めます。
その甲斐あって、郡は皮氏県を確保することができ、敗北せずに済みました。
郭逵を救った祝公道
郭援は賈逵を幷州(并州)・上党郡・壺関県に護送して穴蔵の中に閉じ込め、上に車輪をかぶせて人にじっと見張らせます。
賈逵は穴蔵の中から見張りの者に、
「この辺りには健児(勇気のある立派な男子)はいないのか。義士(高い節義をもった男子)をこの中で死なせてしまって良いのか?」
と言いました。
この言葉を聞いた祝公道という男は、賈逵が正義を守って危険に晒されていることを気の毒に思い、賈逵とは知り合いではありませんでしたが、夜に出掛けて穴蔵から引き上げてやり、枷を叩き壊して賈逵を逃がしてあげましたが、自分の名前を名乗りませんでした。
豆知識
郭援が敗れた後、賈逵はやっと「以前、自分を救ってくれた人物が河南尹出身の祝公道であった」ことを知りました。
後にその祝公道が、別の事件に連座して法の裁きに服さなければならなくなった時、賈逵は彼を救おうとしましたが、賈逵の力では解決できず、祝公道の死後、彼のために喪服に着替えました。
呼廚泉の平陽国攻撃
馬騰への援軍要請
その後、呼廚泉が司隷・河東郡・平陽国を攻撃しました。
司隷校尉として関中(函谷関の西側の地域)の総指揮を任されていた鍾繇は、諸軍を率いてこれを包囲しますが、まだ陥落しないうちに、郭援と袁紹の甥で幷州刺史の高幹の軍勢が到着し、西方に使者を派遣して関中の将軍たちと手を握ろうとします。
高幹・郭援の軍勢の勢いが盛んであったため、関中の将軍たちは評議して「包囲を解いて引き揚げたい」と願いましたが、鍾繇は、
「袁氏は強力で、今また郭援が来たからには、関中では彼らと秘かに通じる者が出ているかもしれない。それでもまだ全部が背かないでいるのは、我が方の威名を恐れているからだ。
もしここで引き揚げて彼らに弱味を見せたならば、民衆はみな仇敵に一変し、国にたどり着くことはできないだろう。正に戦わずして自ら敗れることになる。
郭援は剛情で人を打ち負かすことが好きなので、きっと我が軍を軽く見るに違いない。もし汾水を渡ったところに陣営を築いたならば、敵が渡りきらないうちに攻撃して大勝利を得ることができるだろう」
と言い、新豊令(司隷・京兆尹・新豊県の県令)の張既を涼州の将軍・馬騰のところに派遣して利害関係を説明させました。
傅幹の進言
この時、涼州の将軍・馬騰・韓遂らは秘かに郭援らと通じていましたが、配下の傅幹が馬騰に利害を説いて、曹操(鍾繇)に味方するように説得しました。
傅幹の進言・全文
傅幹の進言を受けた馬騰は、
「謹んであなたの教えに従いましょう」
と言い、子の馬超に1万人余りの精鋭と韓遂らの兵を指揮させて、鍾繇の元に派遣して高幹・郭援の軍を迎え撃たせます。
龐悳(龐徳)が郭援を斬る
鍾繇が陣営を築くと、案の定、郭援は多くの人が止めるのも聞かず、軽率に汾水を渡りました。
するとこれを待っていた鍾繇は、郭援の軍が半分も渡りきらないうちに、馬超軍と共に攻撃をしかけて大いに撃ち破り、匈奴の南単于(部族長)・呼廚泉を降伏させます。
河東郡の関連地図
赤線:汾水
この時、馬超軍の先鋒・龐悳(龐徳)は自ら郭援の首を斬りましたが、それが郭援だとは知りませんでした。
その後、皆が「郭援は死んでいるはずなのに、その首が手に入らない」と騒いでいたので、龐悳(龐徳)が遅れて櫜(弓袋)の中から1つの首を取り出すと、鍾繇はそれを見て声を上げて泣きました。郭援は鍾繇の甥だったのです。
龐悳(龐徳)が鍾繇に謝罪すると鍾繇は、
「郭援は儂の甥ではあるが、国賊である。卿はどうしてそれを謝るのだ」
と言いました。
建安7年(202年)夏5月に袁紹が亡くなると、その年の秋9月、曹操は黄河を渡って袁紹の長男・袁譚への攻撃を開始。袁紹の後を継いだ3男・袁尚は自ら兵を率いて袁譚の救援に向かいますが、敗北して夜陰に紛れて逃亡しました。
またちょうどこの時、袁尚が(勝手に)任命した河東太守・郭援、袁紹の甥で幷州刺史の高幹、匈奴の南単于・呼廚泉らが司隷・河東郡の諸県に侵攻しますが、司隷校尉として関中(函谷関の西側の地域)の総指揮を任されていた鍾繇は、涼州の将軍・馬騰(が派遣した馬超)と共にこれを撃ち破りました。