建安10年(205年)に起こった高幹の反乱と、河東郡の反乱を鎮圧に導いた河東太守・杜畿の活躍、その後の杜畿の河東郡統治についてまとめています。
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目次
高幹の背反
幽州の騒乱
建安10年(205年)春正月、袁煕の将軍・焦触・張南らが背いて袁煕と袁尚を攻撃し、曹操に帰順。敗れた袁煕と袁尚は3郡の烏丸族(蹋頓・蘇僕延・烏延)の元に逃走しました。
その後、幽州では趙犢・霍奴らが反乱を起こし、蹋頓・蘇僕延・烏延ら3郡の烏丸族が鮮于輔を攻撃します。曹操はこれを征討すると、冀州・魏郡・鄴県に還りました。
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高幹の背反
かつて袁紹は、甥の高幹に幷州牧を受け持たせていましたが、曹操が冀州・魏郡・鄴県を陥落させると曹操に降伏し、そのまま幷州刺史に任命されていました。
曹操が烏丸族を征討したことを聞いた高幹は、荊州の劉表と結んで幷州(并州)をあげて反乱を起こします。
高幹は、こっそりと軍兵を派遣して鄴県を襲撃しようとしますが、鄴県を守備していた荀彧の兄・監軍校尉の荀衍は、それを先に察知してことごとく誅殺し、その功績によって列侯に封ぜられました。
その後高幹は、上党太守を捕らえて壺関の入り口を守ります。
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河東郡の反乱と河東太守の交代
河東郡の反乱
高幹が反乱を起こすと、司隷・河内郡出身の張晟の軍勢1万余人は誰にも従属することなく、司隷・弘農郡の二崤山*1と澠池県(黽池県)の辺りの地域を荒らし回り、また、司隷・河東郡出身の張琰が旗揚げして張晟に呼応します。
河東郡の反乱
朝廷(曹操)は、河東太守の王邑を詔勅をもって召し寄せましたが、天下がまだ安定していないことから、王邑はお召しに応じることを願っておらず、また、司隷・河東郡の官吏や住民たちも王邑を慕っていました。
この時、裏で高幹と繋がっている郡の掾(属官)・衛固と中郎将の范先らは、司隷校尉の鍾繇の元に赴いて王邑の留任を要請します。
脚注
*1二崤山は澠池県(黽池県)の南に位置する。
荀彧の推薦
張晟らの反乱を受け、河東太守の人事について曹操が荀彧に問うと、荀彧は雍州の西平太守で京兆尹出身の杜畿を推薦します。
曹操と荀彧の会話・全文
河東太守の交代
郡の掾(属官)・衛固と中郎将の范先らが王邑の留任を要請した時、すでに詔勅によって河東太守に任命された杜畿が郡境に入っていたので、司隷校尉の鍾繇は范先らの希望を聞き入れず、王邑に「太守の割符を渡せ」と催促しました。
すると王邑は、太守の印綬を帯びたまま真っ直ぐ司隷・河東郡・河北県を通って許都(許県)に行き、自分で直接印綬を返還します。
洛陽にあって司隷の統治に当たっていた鍾繇は、命令が守られない以上「自分は統治者としての資格を失っている」と判断し、自らを弾劾する上奏をして辞職を願い出ましたが、認められませんでした。
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衛固・范先らの反乱
杜畿の河東郡入り
こうして河東太守に任命された杜畿ですが、衛固らが数千人の兵に陝津の渡しを絶ち切らせたため、到着しても黄河を渡ることができませんでした。
そこで曹操はその討伐に夏侯惇を派遣しますが、杜畿はその到着を待たずに黄河を渡ろうとします。
ある人が杜畿に向かって、
「大軍(夏侯惇)の到着を待つべきです」
と進言すると、杜畿は、
「大軍をもって衛固らを討伐することは、1郡の住民を破壊させることになる。儂は1台の車ですぐに出掛けて、奴らの不意を突こう」
と言って、援軍を待たずに単身で抜け道を通り、郖津から黄河を渡って河東郡に入りました。
陝津と郖津
杜畿の言葉・全文
反乱の平定
杜畿の着任
杜畿が到着すると、范先は彼を殺して人々を威嚇しようと思いましたが、しばらく杜畿の態度を観察することにしました。
そこで范先は、主簿以下の役人30余人を斬り殺してみますが、杜畿は平然としています。
その様子を見た衛固は、
「彼を殺しても損害を与えることにならず、いたずらに悪い評判を立てられるだけだ。それに彼は我々の手中にある」
と言い、杜畿を河東太守と認めて仕えることにしました。
杜畿の智略
河東太守として受け容れられた杜畿は、衛固と范先に向かって言いました。
「衛君(衛固)と范君(范先)は河東郡の人々の期待の的だ。儂は成されたことを仰ぎ見ているだけのこと。
しかしながら、君臣の間には定まった道があり、成功も失敗も共にするのが建前だから、当然重大な事は一緒に公正に議論しよう」
そう言うと杜畿は、衛固を都督に取り立てて、丞(河東太守の次官)の事務を兼務させ、功曹の役を受け持たせ、范先には将校・軍吏・兵士3千余人の指揮をさせます。
衛固らは喜び、上辺は杜畿に仕えていましたが、実際には気にも留めていませんでした。
衛固が兵士を大動員しようとした時、これを心配に思った杜畿は、
「そもそも人並み外れた事を行おうと思えば、民衆の心を動揺させてはいけない。今、兵士を大動員すれば、民衆は騒ぐに違いない。ゆっくりと資金を使って兵を募集する方が良いぞ」
と説得し、衛固は納得してこれに従います。
こうして資金をかけ、数十日をかけて兵を募集しましたが、将校たちは貪欲で、多数の応募者を申告して金を取っておきながら、兵は少ししか出しませんでした。
また、杜畿は衛固らを説得して言いました。
「人情から言って、家のことが気に掛かるものだ。何度かに分けて将校や属官たちに休暇を与え、家に帰らせるが良い。状況に応じて彼らを召し寄せることは難しくはない」
すると、衛固らは人々の心に逆らうことを嫌い、またこれに従ったので、善人は外にあって秘かに杜畿の味方をし、悪人は分散してそれぞれの家に帰り、次第に人々はまとまりを失っていきました。
豆知識
『魏書』杜畿伝が注に引く『魏略』に、
「その昔の若い頃、杜畿と衛固は互いに馴れ合い馬鹿にし合っており、衛固はいつも杜畿を軽蔑していた。杜畿はかつて衛固と博奕をして争い合ったが、杜畿は衛固に向かってこう言ったことがあった。
『仲堅(衛固の字)、儂は今に河東郡の太守になるぞ』
衛固は衣の裾をからげて彼を馬鹿呼ばわりした。杜畿が着任すると、衛固は郡の功曹になった」
とあります。
衛固らの蜂起
この頃、たまたま張白騎(張晟)が河東郡の東垣(垣県)に、高幹が同じく河東郡の濩沢国に侵攻し、高幹が支配する幷州(并州)・上党郡の諸県では高官たちが殺害され、弘農郡では太守が捕らえられてしまいました。これに対し、衛固らは秘かに兵を動員しますが、なかなか集まりません。
衛固らの蜂起
この時、諸県が自分に味方していることを知っていた杜畿は、ただ数十騎を引き連れただけで出陣し、張辟*2に赴いて防ぎました。官吏や住民には城をあげて杜畿を助ける者が多く、数十日経った頃には4千余人の兵を得ることができました。
衛固らは高幹・張晟と共に杜畿を攻撃しましたが陥落させることはできず、諸県を荒しましたが、得る物はありませんでした。
脚注
*2『資治通鑑』では「堅壁(堅固な壁塁)」。ちなみに「張辟」の意味を調べてみると、「鳥や動物を捕まえるための道具」とある。
反乱の平定
この時曹操は、張既を議郎に任命して鍾繇の軍事行動に参画させ、西方に行って馬騰らの将軍たちを呼び寄せさせました。彼らはみな兵を引き連れて集まって張晟らを攻撃し、これを撃ち破ります。
その結果、張琰と衛固は首を斬られ、彼らの残党はみな赦免され、平時の仕事に戻りました。
一方、高幹は幷州(并州)*3に逃走し、その後、曹操が楽進と李典に彼を攻撃させると、高幹は引き返して壺関城[幷州(并州)・上党郡・壺関県]を守ります。
幷州(并州)・上党郡・壺関県
脚注
*3『魏書』張既伝では、ここで荊州に逃走したことになっているが、『魏書』武帝紀では翌年正月に曹操の征伐を受け、敗北して荊州に逃走したとある。当サイトでは『魏書』武帝紀の記述を採用する。
杜畿の河東郡統治
この当時、天下の郡県は全部破壊されましたが、司隷・河東郡が一番先に安定し、損傷も少なく済んでいました。
河東郡の住民の中に訴訟を起こして告発し合う者があると、杜畿は直接会って根本的な道理を説明してやり、帰してそのことを反省させ、もし充分納得できない点があれば改めて役所に出て来いと言いました。
このように、杜畿は寛大と恩恵を尊んで住民に対して干渉しなかったので、村里の長老たちは、
「こういう殿様もおられるのだ。どうしてその教えに従わないのだっ!」
と、問題を起こす者たちを咎めて怒鳴りつけたので、訴訟を起こす者は少なくなりました。
また、杜畿は管轄の県に布告して、孝子、貞節な婦人、よく祖父母に仕える孫を推挙させ、彼らの労役を免除し、時節ごとに彼らを労り激励します。
さらに、牝牛・牝馬を住民に割り当てて飼育させましたが、小は鶏・豚・犬に及ぶまで、すべてに規則が存在していたので、住民はよく農業に励み、家々は豊になり充実していきました。
そこに至って杜畿は、
「住民は富んだ。次は教育をしなければならぬ」
と言い、冬の時期には軍事訓練をし、また学校を開いて自分で経典を手に教えたので、これにより郡中は教化されました。
豆知識
『魏書』杜畿伝が注に引く『魏略』に、
「博士の楽詳は杜畿のお陰で取り立てられた。現在、河東郡に特別儒者が多いのは、杜畿のお陰である」
とあります。
建安10年(205年)、幷州刺史の高幹が曹操に背いて反乱を起こすと、張晟、張琰らが司隷・河東郡の周辺を荒らし回り、曹操は王邑に代えて杜畿を河東太守に任命しました。
単身河東郡に入った杜畿は、裏で高幹と繋がっている衛固と范先を手玉にとってその軍勢を分散させ、秘かに河東郡の住人を味方につけます。
その後、張晟、高幹らが河東郡に侵攻すると、杜畿は堅壁(堅固な壁塁)に頼って大軍の到着までこれを防いだので、張琰と衛固は首を斬られ、高幹は幷州(并州)に逃走しました。