202年【漢:建安けんあん7年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

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202年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉協りゅうきょう献帝けんてい
皇太后
皇后 伏皇后ふくこうごう伏寿ふくじゅ

朝廷

官職 人物
大司馬だいしば
太尉たいい
司徒しと 趙温ちょうおん
司空しくう 曹操そうそう
執金吾しつきんご 伏完ふくかん
将作大匠しょうさくたいしょう 孔融こうゆう
大将軍だいしょうぐん 袁紹えんしょう
前将軍ぜんしょうぐん 馬騰ばとう
左将軍さしょうぐん 劉備りゅうび
輔国将軍ほこくしょうぐん 伏完ふくかん
安降将軍あんこうしょうぐん 韓遂かんすい
建徳将軍けんとくしょうぐん 曹操そうそう
伏波将軍ふくはしょうぐん 陳登ちんとう

地方官

官職 人物
司隸校尉しれいこうい 鍾繇しょうよう
冀州牧きしゅうぼく 袁紹えんしょう
豫州牧よしゅうぼく 劉備りゅうび
兗州牧えんしゅうぼく 曹操そうそう
荊州牧けいしゅうぼく 劉表りゅうひょう
益州牧えきしゅうぼく 劉璋りゅうしょう
青州刺史せいしゅうしし 袁譚えんたん
揚州刺史ようしゅうしし 劉馥りゅうふく
遼東太守りょうとうたいしゅ 公孫度こうそんたく
河内太守かだいたいしゅ 魏种ぎちゅう
河東太守かとうたいしゅ 王邑おうゆう
広陵太守こうりょうたいしゅ 陳登ちんとう
丹楊太守たんようたいしゅ 呉景ごけい
会稽太守かいけいたいしゅ 孫権そんけん

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202年の主な出来事

出来事
1月
  • 曹操そうそう豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんに駐留し、先人を祭る。
  • 曹操そうそう兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん浚儀県しゅんぎけんおもむいて睢陽渠すいようきょ(運河の名前)を修理する。
  • 曹操そうそうが使者をやって太牢たいろう*1犠牲ぎせいささげ、橋玄きょうげんを祭る。
  • 曹操そうそう官渡かんとに軍を進める。
5月
  • 袁紹えんしょうやまいを発し、血をいて亡くなる。
  • 袁紹えんしょうの後妻・劉氏りゅうしが、袁紹えんしょう寵妾ちょうしょう5人を皆殺しにする。
  • 審配しんぱい逢紀ほうきらが、3男の袁尚えんしょうに後を継がせる。
  • 長男の袁譚えんたん車騎将軍しゃきしょうぐんを名乗る。
不明
  • 曹操そうそうが北伐の姿勢を見せる。
  • 袁譚えんたん冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに陣を置く。
  • 袁尚えんしょう袁譚えんたんの増兵要求を断る。
  • 袁譚えんたんが監視役の逢紀ほうきを殺害する。
9月
  • 曹操そうそう黄河こうがを渡って袁譚えんたんへの攻撃を開始する。
  • 袁尚えんしょう審配しんぱい冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんを守らせて袁譚えんたんの救援に向かう。
不明

司隷しれい河東郡かとうぐん方面

  • 袁尚えんしょう配下の郭援かくえん高幹こうかん匈奴きょうど南単于みなみぜんう呼廚泉こちゅうせん司隷しれい河東郡かとうぐんに侵攻する。
  • 司隷校尉しれいこうい鍾繇しょうよう涼州りょうしゅう将軍しょうぐん馬騰ばとうに使者を送る。
  • 鍾繇しょうよう馬超ばちょう汾水ふんすい郭援かくえんを撃ち破る。
  • 龐悳ほうとく龐徳ほうとく)が郭援かくえんを斬る。
  • 呼廚泉こちゅうせん鍾繇しょうよう曹操そうそう)に降伏する。

荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん方面

  • 劉備りゅうび曹操そうそう領の荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん葉県しょうけんに侵攻する。
  • 曹操そうそう夏侯惇かこうとん李典りてん劉備りゅうびを防がせる。
  • 劉備りゅうびみずから屯営を焼き払って逃走する。
  • 夏侯惇かこうとん于禁うきん劉備りゅうびを追撃し、伏兵にって大敗する。

揚州ようしゅう方面

  • 曹操そうそう孫権そんけんに「息子を人質として差し出す」ように要求する。
  • 孫権そんけん曹操そうそうの人質要求を無視する。
  • 孫権そんけんの母(呉后ごこう呉夫人ごふじん)が亡くなる*2

■その他

  • 于寘国うてんこく*3がよく調教された象を献上した。
  • 益州えきしゅう越巂郡えっすいぐんの男子が変化して女子となった。
脚注

*1牛・羊・ぶたの3種類がそろった祭祀さいしの時のおそなえ物。中牢ちゅうろう少牢しょうろうはそれより1種類ずつ少なくなる。

*2呉后ごこう呉夫人ごふじん)の死期については、建安けんあん12年(207年)の説もありますが、暫定的にここにしるしています。

*3ホータン王国。西域せいいき南道沿いにあった仏教王国。


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202年の三国志群雄勢力図

1月

建安7年(202年)1月の三国志群雄勢力図

建安7年(202年)1月の凡例

建安けんあん7年(202年)1月の三国志群雄勢力図

曹操そうそう凱旋がいせん

官渡かんとの戦い」で袁紹えんしょうに勝利し、徐州じょしゅうの独立勢力・昌豨しょうきを帰順させた曹操そうそうは、春正月、故郷の豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんに駐留して先人と恩人の橋玄きょうげんを祭り、その後、官渡かんとに軍を進めます。

袁紹えんしょうの死

夏5月、袁紹えんしょうやまいを発して亡くなると、袁紹えんしょう陣営ではその後継者をめぐって、長男・袁譚えんたん派と3男・袁尚えんしょう派に分かれて対立するようになりました。

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黎陽れいようの戦い

秋9月、曹操そうそう黄河こうがを渡って冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに陣を置く袁譚えんたんへの攻撃を開始します。

この時袁尚えんしょうは「軍勢を分けて袁譚えんたんに増兵しよう」と思いましたが、袁譚えんたんがその軍勢を奪い取ってしまうことを恐れ、審配しんぱい冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんを守らせて、みずから兵をひきいて袁譚えんたんの救援に向かいました。


黎陽の戦い

黎陽れいようの戦い


曹操そうそう軍と袁尚えんしょう袁譚えんたん軍は、黎陽県れいようけんの城下で対峙して9月から翌年2月に至るまでいくさを重ねます。

司隷しれい河東郡かとうぐんの攻防

一方その頃、司隷しれい河東郡かとうぐんでは、

  • 袁尚えんしょうが勝手に任命した河東太守かとうたいしゅ郭援かくえん
  • 袁紹えんしょうおい幷州刺史へいしゅうしし高幹こうかん
  • 匈奴きょうど南単于みなみぜんう呼廚泉こちゅうせん

らが司隷しれい河東郡かとうぐんの諸県に侵攻しますが、司隷校尉しれいこういとして関中かんちゅう函谷関かんこくかんの西側の地域)の総指揮を任されていた鍾繇しょうようは、涼州りょうしゅう将軍しょうぐん馬騰ばとうが派遣した馬超ばちょうと共にこれを撃ち破りました。

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12月

建安7年(202年)12月の三国志群雄勢力図

建安7年(202年)12月の凡例

建安けんあん7年(202年)12月の三国志群雄勢力図

博望坡はくほうはの戦い

この年、劉表りゅうひょう荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん新野県しんやけんに駐屯させた劉備りゅうびを北方に侵入させ、葉県しょうけんに至りました。

これに曹操そうそうは、夏侯惇かこうとん李典りてんをつき従わせてこれを防がせますが、劉備りゅうびみずから自軍の屯営を焼き払って逃走したように見せかけ、伏兵をもって夏侯惇かこうとん于禁うきんらを撃ち破りました。

曹操そうそうの人質要求

またこの年、曹操そうそう孫権そんけんに書簡をくだし、息子を人質として差し出すように要求しましたが、孫権そんけんは応じませんでした。

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この年、袁紹えんしょうやまいを発して亡くなり、曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに侵攻して袁尚えんしょう袁譚えんたんと対峙しました。翌年2月まで続く「黎陽れいようの戦い」の始まりです。

またこの年、司隷しれい河東郡かとうぐんでは郭援かくえん高幹こうかん匈奴きょうど南単于みなみぜんう呼廚泉こちゅうせんらが、荊州けいしゅう南陽郡なんようぐんでは劉備りゅうび曹操そうそう領をおかすなど、曹操そうそうは三正面作戦を余儀なくされましたが、司隷校尉しれいこうい鍾繇しょうよう裨将軍ひしょうぐん李典りてんの働きによって守りきることができました。

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