203年【漢:建安けんあん8年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

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203年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉協りゅうきょう献帝けんてい
皇太后
皇后 伏皇后ふくこうごう伏寿ふくじゅ

朝廷

官職 人物
大司馬だいしば
太尉たいい
司徒しと 趙温ちょうおん
司空しくう 曹操そうそう
執金吾しつきんご 伏完ふくかん
将作大匠しょうさくたいしょう 孔融こうゆう
大将軍だいしょうぐん 袁紹えんしょう
前将軍ぜんしょうぐん 馬騰ばとう
左将軍さしょうぐん 劉備りゅうび
輔国将軍ほこくしょうぐん 伏完ふくかん
安降将軍あんこうしょうぐん 韓遂かんすい
建徳将軍けんとくしょうぐん 曹操そうそう
伏波将軍ふくはしょうぐん 陳登ちんとう

地方官

官職 人物
司隸校尉しれいこうい 鍾繇しょうよう
冀州牧きしゅうぼく 袁紹えんしょう
豫州牧よしゅうぼく 劉備りゅうび
兗州牧えんしゅうぼく 曹操そうそう
荊州牧けいしゅうぼく 劉表りゅうひょう
益州牧えきしゅうぼく 劉璋りゅうしょう
青州刺史せいしゅうしし 袁譚えんたん
揚州刺史ようしゅうしし 劉馥りゅうふく
遼東太守りょうとうたいしゅ 公孫度こうそんたく
河内太守かだいたいしゅ 魏种ぎちゅう
河東太守かとうたいしゅ 王邑おうゆう
広陵太守こうりょうたいしゅ 陳登ちんとう
丹楊太守たんようたいしゅ 呉景ごけい
会稽太守かいけいたいしゅ 孫権そんけん

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203年の主な出来事

出来事
3月
  • 冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけん曹操そうそうに敗れた袁尚えんしょう袁譚えんたんが、冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに逃亡する。
4月
  • 冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんを攻撃した曹操そうそうが、袁尚えんしょうの反撃にって敗れる。
5月
  • 曹操そうそう豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに帰還する。
  • 曹操そうそうが布令を出す。
6月
  • 曹操そうそうが布令を出す。
5月

6月
  • 袁譚えんたん袁尚えんしょうを攻める。
  • 袁尚えんしょうに敗れた袁譚えんたん冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけんに入る。
  • 袁譚えんたんの将・劉詢りゅうじゅん青州せいしゅう平原国へいげんこく漯陰県とういんけん湿陰県しゅういんけん)で兵をげる。
  • 東萊太守とうらいたいしゅの管統かんとうが、袁譚えんたんの救援に駆けつける。
  • 王脩おうしゅう王修おうしゅう)が再び袁尚えんしょうと手を組むように勧めるが、袁譚えんたんは聞き入れず。
7月
  • 曹操そうそうが布令を出す。
8月
  • 曹操そうそう荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうを征討するため、豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん西平県せいへいけんに駐屯する。
  • 袁尚えんしょう冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけん袁譚えんたんを攻める。
  • 袁譚えんたん青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけんに逃亡する。
  • 袁尚えんしょう青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけんを包囲する。
  • 袁譚えんたん曹操そうそうに降伏を申し出、救援を求める。
  • 劉表りゅうひょう袁譚えんたん袁尚えんしょうに書簡を送って和睦わぼくを勧めるが、2人とも従わず。
  • 曹操そうそう袁譚えんたんの降伏を認める。
10月
  • 曹操そうそう袁尚えんしょう攻撃のため冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに駐屯する。
  • 曹操そうそうの子・曹整そうせい袁譚えんたんの娘が縁組みする。
  • 袁尚えんしょう青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけんの包囲をいて冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還する。
  • 呂曠りょこう呂翔りょしょう高翔こうしょう)が曹操そうそうに帰順する。
  • 公卿こうけいが長らく廃止されていた「冬を北郊ほくこうに迎える迎気げいきの礼」を行い、楽官がくかんに「八佾はちいつ*1の舞い」をもちいた。
  • 司直しちょく*2の官を設置し、都の諸官府である中都ちゅうとの官を監察させた。
不明

揚州ようしゅう方面

  • 孫権そんけん荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん黄祖こうそを攻め、水軍を撃ち破る。
  • 豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)と会稽郡かいけいぐん山越さんえつが反乱を起こす。
  • 孫権そんけん山越さんえつの反乱を鎮圧する。
脚注

*1舞いの名。8人の舞者まいこが8列に並ぶ64人からなる方形の群舞。天子てんしにのみ許される。

*2丞相司直じょうしょうしちょく。諸官府の監察に強い力を発揮し、光武帝こうぶてい劉秀りゅうしゅう)がこれを廃止したことが、三公さんこうの地方行政に対する力を失わせた理由の1つであるとも言う。


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203年の三国志群雄勢力図

1月

建安8年(203年)12月の三国志群雄勢力図

建安8年(203年)1月の凡例

建安けんあん8年(203年)1月の三国志群雄勢力図

黎陽れいようの戦い」の終結

3月、前年の秋9月から続いていた冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんめぐ曹操そうそうとの戦いに敗北した袁尚えんしょう袁譚えんたんは、冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに逃亡します。

曹操そうそうはこれを追撃しますが、袁尚えんしょうの反撃にって敗れ、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに帰還しました。

袁尚えんしょう袁譚えんたんの争い

5月、曹操そうそうが撤退すると、袁譚えんたんはこれを追撃することを主張し、袁尚えんしょうに増兵と装備の追加を求めましたが、袁尚えんしょうは応じませんでした。

激怒した袁譚えんたんはついに袁尚えんしょうを攻撃しますが、勝利を得ることはできず、兵を退いて冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけんに帰還しました。


袁尚と袁譚の争い

袁尚えんしょう袁譚えんたんの争い

関連記事

黎陽れいようの戦い

8月、曹操そうそう荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうを征討するため、豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん西平県せいへいけんに駐屯します。

すると袁尚えんしょうは、再びみずから兵をひきいて冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけん袁譚えんたんを攻撃。迎撃に出た袁譚えんたんは大敗し、青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけんに逃亡しました。


関連地図

関連地図

袁譚えんたん曹操そうそうに降伏する

袁尚えんしょう青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけんを包囲すると、袁譚えんたん曹操そうそうに使者を派遣して、「降伏」と引き替えに救援を求めました。

荀攸じゅんゆう袁譚えんたんの使者・辛毗しんぴの説得を受けた曹操そうそうは、袁譚えんたんの申し出を受け、袁尚えんしょうを攻撃するため、再び冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに駐屯します。

ですが、曹操そうそうを迎え撃つため袁尚えんしょう平原県へいげんけんの包囲をくと、早速袁譚えんたんは、曹操そうそうに帰順した呂曠りょこう呂翔りょしょうを取り込もうとしますが、この行為は呂曠りょこうによって曹操そうそうに筒抜けになっていたのでした。

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12月

建安8年(203年)12月の三国志群雄勢力図

203年12月の凡例

建安けんあん8年(203年)12月の三国志群雄勢力図

孫権そんけん黄祖こうそ討伐

建安けんあん8年(203年)、孫権そんけんが西に軍を進めて黄祖こうそを攻撃し、迎撃に出た黄祖こうその水軍を撃ち破りますが、まだ城を落とすことができずにいるうちに、山岳地帯の不服住民(山越さんえつ)たちが背後の豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)と会稽郡かいけいぐんで反乱を起こしました。

反乱の鎮圧

豫章郡(予章郡)

孫権そんけんは軍をかえして揚州ようしゅう豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)まで来ると、

  • 征虜中郎将せいりょちゅうろうしょう呂範りょはん鄱陽県はようけんを平定させ、
  • 盪寇中郎将とうこうちゅうろうしょう程普ていふ楽安らくあん*1を討たせ、
  • 建昌都尉けんしょうとい太史慈たいしじ海昬国かいこんこくを治めさせ、

別部司馬べつぶしば黄蓋こうがい*3韓当かんとう周泰しゅうたい呂蒙りょもうらを劇県げきけん(政情が不安定な諸県)の県令けんれい県長けんちょうに任命して山越さんえつを討伐させ、ことごとく平定させました。


豫章郡(予章郡)の反乱

豫章郡よしょうぐん予章郡よしょうぐん)の反乱

会稽郡

一方、揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんでは、建安県けんあんけん漢興県かんこうけん呉興県ごこうけん)、南平県なんぺけんで不服住民(山越さんえつ)の洪明こうめい洪進こうしん苑御えんぎょ呉免ごめん華当かとう呉五ごご鄒臨すうりんらが反乱を起こし、余汗県よかんけんまで兵を進めてきました。

孫権そんけんに討伐を命じられた南部都尉なんぶとい賀斉がせいは、会稽郡かいけいぐんの各県に指令を出してそれぞれ5千人の兵を徴発ちょうはつ。続けざまに勝利をおさめてて洪明こうめいを斬ると、呉免ごめん華当かとう洪進こうしん苑御えんぎょらは降伏し、名のある頭目ことごとくを捕虜にしました。


会稽郡の反乱

会稽郡かいけいぐんの反乱

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この年、冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけん袁尚えんしょう袁譚えんたんを破った曹操そうそう豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに帰還すると、ついに袁尚えんしょう袁譚えんたんの不和が表面化。2度にわたる戦いの末に追いめられた袁譚えんたんは、曹操そうそうに降伏して救援をいました。

一方孫権そんけんは、西に軍を進めて黄祖こうその水軍を撃ち破りますが、後方の不服住民(山越さんえつ)が反乱を起こしたため城攻めを断念。配下の諸将を派遣して反乱を鎮圧しました。

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