建安7年(202年)、劉備が伏兵をもって夏侯惇・于禁らを破った「博望坡の戦い」と、曹操の孫権への人質要求についてまとめています。
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博望坡の戦い
「博望坡の戦い」について、『魏書』李典伝と『蜀書』先主伝では内容が少し違っています。
『魏書』李典伝
建安7年(202年)、劉表が荊州・南陽郡・新野県に駐屯させた劉備を北方に侵入させ、葉県に至りました。曹操は、夏侯惇に李典をつき従わせてこれを防がせます。
ある朝劉備は、自軍の屯営を焼いて撤退しました。これを見た夏侯惇は諸軍を率いてこれを追撃しようとしました。
この時李典は、
「賊(劉備)が理由もなく退いたからには、伏兵が疑われます。南道は狭くて草木が生い茂っており、伏兵に適しています。追ってはいけません」
と諫めますが、夏侯惇は聞き入れず于禁と共に劉備を追撃することとし、李典は留まって守備することになりました。
そして案の定、夏侯惇らは劉備の伏兵に遭って危機に陥ってしまいます。そこへ李典が救援に駆けつけると、劉備の軍は散り散りになって退却しました。
『蜀書』先主伝
荊州の豪傑のうち、先主(劉備)に心を寄せる者が日ごとに増してきたため、劉表は彼の心に疑念を持ち、秘かに防備を設ける一方、夏侯惇・于禁らを博望の地で阻ませます。
しばらくして、先主(劉備)は伏兵を設け、ある日自ら自軍の屯営を焼き払って逃走したように見せかけると、夏侯惇らは追い討ちをかけますが、伏兵によって撃破されました。
「博望坡の戦い」関連地図
豆知識
趙雲と夏侯蘭
『蜀書』趙雲伝が注に引く『趙雲別伝』に、次のような記述があります。
(趙雲は)夏侯惇と博望で交戦して夏侯蘭を生け捕りにした。夏侯蘭は趙雲と同郷(冀州・常山郡(常山国)・真定県)で、幼少の頃からの知り合いであった。
趙雲は先主(劉備)に申し上げて夏侯蘭の命を助けてやり、夏侯蘭を「法律に詳しい者」と推薦して軍正にした。
以後、趙雲は自分から彼に接近しようとしなかった。その慎重な配慮はこのようなものであった。
この「博望坡の戦い」について、『魏書』李典伝では劉備が攻撃側、『蜀書』先主伝では曹操が攻撃側という違いがあります。
また、『蜀書』先主伝ではこの「博望坡の戦い」の時期を特定することはできませんが、『魏書』李典伝では「黎陽の戦い」*1の後、曹操が冀州・魏郡・鄴県を平定する前に記述されており、『資治通鑑』では建安7年(202年)のこととされています。
これらのことから「博望坡の戦い」は、黎陽で曹操と袁尚・袁譚が戦っている隙を突いて、劉表が劉備を曹操領に侵攻させ、曹操が夏侯惇・李典・于禁らを派遣して防がせた戦いであったと思われます。
脚注
*1「黎陽の戦い」は建安7年(202年)9月〜翌年2月にかけて行われていますので「博望坡の戦い」が起こったのは、建安8年(203年)の可能性もあります。
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曹操が孫権に人質を求める
孫権の決断
建安7年(202年)、曹操は孫権に書簡を下し、息子を人質として差し出すように要求します。
孫権は群臣たちを一堂に会して議論させましたが、張昭や秦松たちは逡巡して態度をはっきりさせず、孫権自身は心中、人質を送りたくないと考えていました。
そこで孫権は、周瑜1人を連れて母親(呉夫人)の元に行き、母親のいる席で結論を出そうと考えます。
そこで周瑜は、「一度人質を送ってしまえば、曹操の配下になってしまう」と言い、「人質を送らずに成り行きを見守る」ことを勧めました。
周瑜の進言・全文
タップ(クリック)すると開きます。
「昔、楚の国が初めて荊山の側に封ぜられた時には、その領地は百里にも及びませんでした。しかし、その後を嗣いだ主君たちは聡明で手腕があり、その土地を広げ領域を拡大し、郢の地に都を定めて国家の基礎を固め、ついには荊州と揚州を占拠し、その勢力は南海にまで及んで、国家と王位を子孫に伝えること、900年余りに及んだのでございます。
ただ今将軍(孫権)は、父上様(孫堅)、兄上様(孫策)が残された成果を承け継ぎ、6つの郡[呉郡・会稽郡・丹楊郡(丹陽郡)・豫章郡(予章郡)・廬陵郡・廬江郡]の民衆を一手に握られて、兵器は精鋭で兵糧も豊かに、部将も士卒もよく命令に従い、山を掘って銅を精錬し、海水を煮て塩を精製し、領内は富裕で民衆も安定しておりますから、一旦ご命令があれば、人々は船を浮かべ帆を揚げて、その日のうちに馳せ参じて参ります。
兵士たちの気風は猛く勇敢で、向かうところ敵はございません。どうして強談判を受けたからといって、人質を送ろうなどと考えられる必要がございましょう。
一度人質を送ってしまったならば、曹氏(曹操)と行動を共にせねばならず、行動を共にすることになれば、召集をかけられれば出て行かねばならず、結局は他人の指図のままになってしまうのです。
そうした時、最上のところ侯の印を1つ、従僕が十余人、車を数台、馬を数頭与えられるばかりであって、南面して1国の主として振る舞われている現在のお立場と、どうして同じでいられるでしょうか。人質は送らず、ゆっくりと情勢の変化を見定められるのがよろしいでしょう。
もし曹氏(曹操)が本当に義に従って天下を正してゆけるようであれば、将軍(孫権)はそれから彼に仕えられても遅くはございません。もし曹氏(曹操)が暴虐と混乱だけを意図しているのであれば、兵はあたかも火のようなものですから、それを暴発させれば彼自身を焚き滅ぼしてしまいます。
将軍(孫権)には、勇敢さと武威を包み隠して天命の成り行きをお待ちになるのがよろしく、どうして人質を送られる必要がございましょう」
すると孫権の母(呉夫人)は、
「公瑾(周瑜の字)どのの言ったことは道理に適っています。
公瑾どのは伯符(孫策の字)さまと同い年で、1ヶ月だけ遅く生まれただけなので、私は我が子同様に思っています。お前も公瑾どのを兄上としてお仕えしなさい」
と言い、孫権は結局曹操に人質を送りませんでした。
呉夫人の死
この年、孫権の母(呉夫人)が、張昭らを招いて孫権の後事を託して亡くなり、死後、高陵[孫堅の陵(墓)]に合葬されました。
呉夫人の死期について
孫権の母(呉夫人)の死期について、『呉書』呉主伝・『呉書』孫堅呉夫人伝では、建安7年(202年)とされています。
ですが、『呉書』孫堅呉夫人伝が注に引く『志林』に、
「揚州・会稽郡の貢挙簿(有能な人物を朝廷に推挙した名簿)を見てみるに、建安12年(207年)〜建安13年(208年)までは空白で推挙された者がなく、府君(太守)が喪に服したと書かれている。このことから、呉后(呉夫人)は建安12年(207年)に逝去したのである。
建安8年(203年)と建安9年(204年)には、共に貢挙があるのだから、この年に呉后(呉夫人)が逝去していないことは明白である」
とあり、『資治通鑑』も、彼女の死期を建安12年(207年)としています。
建安7年(202年)、曹操が冀州・魏郡・黎陽県で袁尚・袁譚と対峙していた頃、荊州牧・劉表は劉備を北方の曹操領に侵入させました。
これに曹操が夏侯惇・李典らを派遣してこれを防がせると、劉備は自ら自軍の屯営を焼き払って逃走したように見せかけ、伏兵をもって夏侯惇・于禁らを撃ち破ります。
また、曹操は孫権に息子を人質として差し出すように要求しましたが、孫権は応じませんでした。