建安けんあん7年(202年)の曹操そうそう凱旋がいせん袁紹えんしょうの死、その後の袁紹えんしょうの後継者争いの始まりについてまとめています。

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曹操の凱旋

曹操の布告

建安けんあん7年(202年)春正月、曹操そうそう豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんに駐留して、


「私は義兵を起こし、天下のために暴乱を除去したが、旧地(曹操そうそうの故郷の譙県しょうけん)の住民はほとんどが死滅してしまい、町中を1日歩きまわっても顔見知りに出会わない。私は愴然そうぜん(悲しみに心を痛めるさま)たる思いに胸を痛ませられる。

さて、義兵をげて以来、死んで後継ぎのない将兵の場合には、その親戚を探し出して後継ぎとし、田地をさずけ、官より耕牛を支給し、教師を置いてその者に教育を与えよ。後継ぎがいる者のためにはびょうを立ててやり、その先人を祭らしめよ。霊魂というものが存在するならば、私の死んだ後に何の思い残すことがあろうか」


という布告を出し、また兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん浚儀県しゅんぎけんおもむいて睢陽渠すいようきょ(運河の名前)を修理し、使者をやって太牢たいろう*1犠牲ぎせいささげて橋玄きょうげんを祭り、その後で官渡かんとに軍を進めました。

曹操の祭文・全文
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太尉たいい橋公きょうこう橋玄きょうげん)は、立派な徳と高い道を持ち、広い愛情と大きな包容力を持って受け入れた。国家はその立派な教えを思い、士人はその良き計策をしたっているが、(今や橋玄きょうげんの)霊魂はひそみ隠れ、はるか遠くにある。

曹操わたしは若年の頃、室内にまねき入れられ、頑迷がんめいな資質ながら大君子だいくんし橋玄きょうげん)に受け入れられた。

曹操わたしが栄達して注目をびたのは、すべて(橋玄きょうげんが)すすはげましてくれたからである。それはあたかも仲尼ちゅうじ孔子こうし)が顔淵がんえん顔回がんかい)には及ばないと称賛し、李生りせい賈復かふくを深くたたえてくれたようなものである。

士はおのれを理解してくれる者のために死に、この思いを忘れることはない。また、かつてくつろぎの時に約束の言葉をわし、


橋玄わたしが没した後、君が私の墓を通り過ぎることがあったのに、1斗の酒と2羽のにわとりを持って墓をおとずれ、地に酒をそそいでくれないならば、車が通過して3歩の距離も行かぬうちに腹痛を起こしてもうらまないように」


と誓ったことがある。

その場限りの冗談の言葉ではあったが、この上ない親しさのこもった好意がなければ、どうしてこのような言葉を発っするだろうか。

霊魂がいきどおり自分に病気をもたらすと考えているのではない。今でも曹操わたしは昔をなつかしみ、橋玄あなた愛顧あいこを思い出しては悲しみにいたましく感じているのである。

(今、曹操わたし天子てんしの)ご命令をかしこみ東征し、その途中で郷里に駐留している。北方の貴公の土地を望み、(橋玄あなたの)陵墓りょうぼしのんでいる。

わずかばかりの粗末な供物くもつささげよう。こう橋玄きょうげん)よ、願わくば享受きょうじゅされんことを。

脚注

*1牛・羊・ぶたの3種類がそろった祭祀さいしの時のおそなえ物。中牢ちゅうろう少牢しょうろうはそれより1種類ずつ少なくなる。

曹操と橋玄

曹操そうそうがまだ無名の頃、人々の中にまだ彼を高く評価する者はいませんでした。

ある日、曹操そうそう橋玄きょうげんたずねた時のこと。橋玄きょうげん曹操そうそうを非凡であると見て、


「今、天下は乱れようとしている。民草たみくさを安泰に導く者は、君であろうか」


と言いました。曹操そうそうは、橋玄きょうげんが自分のことを理解してくれたことに感激しました。


官渡かんとの戦い」で最大の宿敵であった袁紹えんしょうを破り退しりぞけた曹操そうそうは、これを1つの区切りとして故郷の豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんに帰り、先人と恩人である橋玄きょうげんを祭ったものと思われます。


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袁紹の死

袁紹の死

袁紹えんしょうは「官渡かんとの戦い」で敗れてからのちやまいを発して血をき、この年の夏5月に死去しました。

袁紹えんしょうの後妻・劉氏りゅうしは非常に嫉妬しっと深く、袁紹えんしょうが死ぬとまだかりもがり(貴人の遺体をひつぎに納め仮に安置してまつること)しないうちに、その寵妾ちょうしょう5人を皆殺しにしてしまいます。

また、もし死者に知覚があるならば「地下で袁紹えんしょうと再会するはずだ」と考え、頭を坊主にして顔に入れずみして死体をめちゃくちゃにし、袁紹えんしょうの3男の袁尚えんしょうも死者の家族を皆殺しにしました。


袁紹の子

袁紹えんしょうには袁譚えんたん袁煕えんき袁尚えんしょうの3人の子がいました。

3男・袁尚えんしょう

劉氏りゅうしは3男の袁尚えんしょうを愛してたびたび彼の才能を称揚しょうようし、袁紹えんしょうもまた袁尚えんしょう容貌ようぼうで、後継者にしたいと思っていましたが、まだ公表しないうちに亡くなりました。

長男・袁譚えんたん

袁紹えんしょうは生前、長男の袁譚えんたんに「(袁紹えんしょうの)兄」の後を継がせることにし、外に出して青州せいしゅうを治めさせていました。


資治通鑑しじつがん胡三省こさんせい注に、

袁紹えんしょうは、元は司空しくう袁逢えんほう孽子げっし庶子しょしめかけの子)であり、家を出て伯父おじ袁成えんせいの後を継いだ。袁成えんせいには先に子がいたが、早くに亡くなったため袁紹えんしょうがその後を継いだのである。

袁紹えんしょうは、長男・袁譚えんたんを廃して3男・袁尚えんしょうを後継者にするため、袁譚えんたんを兄の後継者とした」

とあります。

ですが袁紹えんしょうには、董卓とうたくに殺害された実の兄・袁基えんきもおり、袁譚えんたんが後を継いだのは袁基えんきの家系の可能性も残っています。


汝南袁氏系図

汝南じょなん袁氏えんし系図

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次男・袁煕えんき

袁紹えんしょうは生前、次男の袁煕えんき幽州ゆうしゅうを治めさせていました。


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後継者争いの始まり

沮授の懸念

沮授そじゅは以前、袁紹えんしょうのこのような措置そちについて、


「世間では『1匹のうさぎ街路みち疾駆しっくすると万人がこれを追いかけるが、1人がこれを捕獲すれば貪欲どんよくなる者もみな追うのをやめる』と言っております。持ち主が決定したからです。

その上(後継者を決める場合)、年齢が同じ場合には賢明な者を選び、人徳が拮抗きっこうする場合には占卜せんぼくによって選ぶというのがいにしえの制度です。

どうか、上は前代の成功と失敗のいましめをご考慮くださり、下はうさぎを追いかけ持ち主が決まる(その後はめ事が起こらない)という道理に思いをいたされますように」


と、長男の袁譚えんたんを後継者にするようにいさめましたが、袁紹えんしょうは、


わしは4人の息子にそれぞれ1州を支配させ、それによって能力を観察したいと思う」


と言って聞き入れませんでした。

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袁紹配下の分裂

袁紹えんしょうが亡くなると、袁紹えんしょう配下の審配しんぱい逢紀ほうき辛評しんぴょう郭図かくとは権力争いを起こし、審配しんぱい逢紀ほうきは3男の袁尚えんしょうに肩入れし、辛評しんぴょう郭図かくとは長男の袁譚えんたんに肩入れをします。


袁尚派 袁譚派
  • 審配しんぱい
  • 逢紀ほうき
  • 辛評しんぴょう
  • 郭図かくと

人々は袁譚えんたんが年長であることから、彼を後継者に立てたいと願っていましたので、審配しんぱいらは「袁譚えんたんが後を継いだ場合、辛評しんぴょうらが自分たちを迫害すること」を恐れ、袁紹えんしょうのかねてからの意志に沿って、袁尚えんしょうほうじて袁紹えんしょうの位を継がせました。

袁紹えんしょうの死を聞いた袁譚えんたん青州せいしゅうから到着した時には、すでに袁尚えんしょうが後を継いでおり、袁譚えんたんは後を継ぐことができず、代わりにみずか車騎将軍しゃきしょうぐんを名乗ります。

この結果、袁譚えんたん袁尚えんしょうの間に仲違いが生じました。


建安けんあん7年(202年)春正月、前年に徐州じょしゅうの独立勢力・昌豨しょうきを帰順させた曹操そうそうは、故郷の豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんに駐留して先人と恩人の橋玄きょうげんを祭り、その後で官渡かんとに軍を進めます。

夏5月、袁紹えんしょうやまいを発して亡くなると、袁紹えんしょう陣営ではその後継者をめぐって、長男・袁譚えんたん派と3男・袁尚えんしょう派に分かれて対立するようになりました。