官渡の戦いの後、建安6年(201年)の袁紹、曹操、劉備の情勢についてまとめています。
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目次
官渡の戦い後の情勢
官渡の戦いの終結
建安5年(200年)10月、官渡の砦で袁紹軍に包囲されていた曹操は、許攸の投降により「袁紹軍の食糧が烏巣に集められている」ことを聞きました。許攸の言葉を信じた曹操は、自ら兵を率いて烏巣を強襲します。
「官渡の戦い」周辺地図
この時、官渡の砦を攻撃していた張郃と高覧は、「烏巣が陥落したこと」を知ると曹操軍に降伏し、袁紹軍は総崩れとなって、袁紹と袁譚は軍を棄て黄河を渡って逃走しました。
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袁紹が冀州を回復する
建安6年(201年)4月、曹操は黄河の畔に兵を上陸させ、倉亭津において袁紹の駐屯軍を攻撃して撃ち破ります。
一方、黄河を渡って逃走した袁紹は、帰還すると再び離散した兵卒を収容し、背いた諸郡県を攻撃して平定しました。
荀彧の進言
その後曹操は、兗州・東平郡(東平国)・安民県に行って食糧にありつこうとしましたが、食糧は少なく、河北(袁紹)と対戦するには不充分でした。
そこで曹操は、袁紹が敗れたばかりでまだ再起していない隙に、荊州の劉表を討伐したいと考えます。
ですがこれに荀彧は、
「ただ今、袁紹は敗北を喫し、兵士の心は彼から離れておりますから、この困窮につけ込んでこのまま平定してしまうべきです。
それを、兗州と豫州(予州)に背を向けて遙々長江・漢水の流域(劉表の支配地域)まで遠征されるとなると、もし袁紹が残兵を集め、留守の間を狙って背後の地に出撃して来たならば、公(曹操)の成功の機会は失われるでしょう」
と行ったので、曹操は再び黄河の畔に陣を取り、この年の9月に許都[豫州(予州)・潁川郡・許県]に帰還しました。
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髀肉の嘆
劉備が劉表を頼る
これより以前、袁紹が官渡で曹操に敗れる前のこと。
袁紹は劉備に豫州(予州)・汝南郡を攻略させ、これに汝南郡の賊・龔都(共都)らが呼応して、曹操が派遣した蔡陽(蔡楊・蔡揚)を撃退していました。
豫州(予州)・汝南郡
許都[豫州(予州)・潁川郡・許県]に帰還した曹操は、劉備の征討に南方(汝南郡)に向かいます。
「曹操が自らやって来る」と聞いた劉備は荊州の劉表の下に逃走し、龔都(共都)らは散り散りに離散してしまいました。
この時劉備は、先に糜竺と孫乾を派遣して荊州牧の劉表に挨拶させていましたので、劉表は、自ら郊外まで劉備を出迎えると、上客に対する礼をもって待遇し、その軍兵を増やして荊州・南陽郡・新野県に駐屯させます。
当時の劉備はすでに「秘かに袁紹の下から離れたい」と思っており、袁紹に「南方の荊州牧・劉表と連合するように」と進言し、本来の部下たちを連れて汝南郡の攻略に向かっていました。
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劉備・荊州時代の逸話
ここで、劉備の荊州時代の時期不明の逸話をご紹介しておきます。
髀肉の嘆(『九州春秋』)
劉備が荊州に来て数年が経った頃のこと。
ある時、劉表が催した酒宴の途中で厠(トイレ)に立った劉備は、そこで髀に贅肉がついているのを見つけると、悲嘆に暮れて涙を流しました。
席に戻った劉備の眼が赤いのを見て訝しんだ劉表が尋ねると、劉備は、
「私はこれまで、常に馬の鞍から離れませんでしたので、髀の贅肉はみな落ちておりました。今はもう馬に乗ることもありませんので、髀に贅肉がついてきました。月日はあっという間に過ぎ去り、老年も近くなりましたのに、何の功業も立ててはおりません。それゆえ悲しんでいるのです」
と言いました。
この故事から、「機会に恵まれず空しく日々を過ごしていること」を意味する「髀肉の嘆」という言葉ができました。
的盧、檀溪を跳ぶ(『世語』)
劉表は劉備rを手厚く待遇していましたが、荊州の豪傑の中に劉備に心を寄せる者が日ごとに増してきたために彼の心に疑念を持ち始め、あまり信用していませんでした。
劉備が樊城に駐屯していた頃のこと。
劉表が劉備を招いて酒宴を催した時、劉表配下の蒯越と蔡瑁は宴会を利用して劉備を亡き者にしようと計画していました。これに気づいた劉備は「厠(トイレ)に行く」と偽ってこっそりと逃亡します。
劉備は自身の乗馬の「的盧」に乗って疾走していましたが、襄陽城の西にある渓流・檀溪の水中に落ち込んでしまい、溺れて脱出できなくなってしまいました。
驚き焦った劉備が、
「的盧よ、今日は厄日だ。努力せよっ!」
と叫ぶと、的盧はなんと一跳びに3丈(約7m)も躍り上がったので、檀溪を通過することができました。
そして、劉備が筏に乗って河の中程まで来た時、ようやく追っ手が追いつくと、劉表の意向により彼に陳謝して、
「なんとお帰りの早いことか…」
と言いました。
『蜀書』先主伝の裴松之注に、このことについて、
「孫盛は言う。これはあり得ない話である。劉備はこの時、他国に身を寄せている人間であるから、主人側と客側では勢いが違うはずである。もしこのような変事があれば、どうして劉表が死没するまで2人の間に何事もなくヒビが入らなかったのか。これはみな、世俗のいい加減な話で事実ではない」
とあります。
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東海郡の昌豨の帰順
張遼の説得
袁紹が敗れた時、曹操は別軍として張遼を豫州(予州)・魯国に派遣して諸県を平定させました。
また曹操は張遼に、夏侯淵と共に徐州・東海郡の独立勢力・昌豨(別名:昌狶・昌務・昌覇)を包囲させましたが、数ヶ月経って兵糧が尽きたため、軍を引き揚げて帰還することが論議されました。
魯国と東海郡
この時張遼は、
「ここ数日、包囲陣を巡行するたびに、昌豨はいつも私をじっと見つめている上、矢を射ってくることも少なくなってきました。これはきっと昌豨の心に迷いがあり、そのために力の限り戦わないのです。
私はうまく気を惹いて彼と話をしてみたいと思います。うまくいけば、味方に引き入れることができるかもしれません」
と言い、使者を派遣して「公(曹操)からのご命令を伝える」と昌豨に伝させます。
これを受けて昌豨が城壁を下りてくると、張遼は、
「公(曹操)は神のごとき武勇を持たれ、徳義によって四方を懐けておられます。いち早く帰順した者には褒美が与えられますぞ」
と昌豨を説得し、降伏を認めさせました。
昌豨が曹操に帰順する
その後、張遼が単身三公山に登り、昌豨の家を訪ねて彼の妻子に挨拶すると、昌豨は大変喜んで、張遼に従い曹操の元に出頭します。
ですが曹操は昌豨を帰らせた後で、
「これは大将のやり方ではないぞ」
と張遼を咎めたので、張遼は謝罪して、
「明公(曹操)の威信は四海にあらわれております。私が聖旨(天子の考え)をかしこみ昌豨を帰服させましたのは、彼に禍をなす勇気はないはずと判断したからです」
と答えました。
建安6年(201年)4月、曹操は黄河の畔に兵を上陸させ、倉亭津において袁紹の駐屯軍を攻撃して撃ち破りましたが、袁紹の方でも官渡の敗戦後に背いた冀州の諸郡県を攻撃して平定しました。
そして9月、許都[豫州(予州)・潁川郡・許県]に帰還した曹操が汝南郡の劉備の征討に向かうと、劉備は汝南郡を棄てて荊州牧・劉表を頼り、劉表は劉備を荊州・南陽郡・新野県に駐屯させます。
またその後曹操は、夏侯淵と張遼に徐州・東海郡の独立勢力・昌豨を攻撃させ、張遼の説得によって昌豨は曹操に帰順しました。