董卓の死後、李傕と共に朝廷を壟断した郭汜とは、一体どんな人物だったのでしょうか。
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目次
出自
出身地 / 生没年
字
不明。
郭汜の名前は「郭氾」と書かれることもあり、別名を郭多(郭阿多)と言います。
出身地
涼州・張掖郡。
涼州・張掖郡
生没年
- ?〜 建安2年(197年)。
- 『後漢書』董卓伝と『魏書』董卓伝にまとまった記述があります。
家族・親族
従弟:(諱不明)
張済の発案で李傕との和睦が話し合われた時のこと。李傕の妻の反対により交渉は難航していましたが、ちょうど李傕に味方していた羌族や胡人(匈奴)が不満を抱いて李傕の元を去ったため、李傕は「お互いに娘を人質に出す」ことで和睦に同意しました。
またこの時、張済の従子・張繡、李傕の従弟・李桓と共に、郭汜の従弟も和睦の人質となりました。
『後漢紀』孝献皇帝紀
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董卓配下として
朱儁を撃ち破る
朱儁の挙兵
中平6年(189年)9月、霊帝崩御の混乱に乗じて洛陽(雒陽)に入った董卓は、少帝を廃位して献帝を擁立しました。
翌年春正月、これに反発した袁紹らは「反董卓連合」を結成。すると董卓は、洛陽(雒陽)を破壊して長安に遷都を強行します。
そして初平2年(191年)冬、荊州に逃亡していた朱儁が洛陽(雒陽)に攻め上がり、董卓が任命した河南尹の楊懿を敗走させると、司隷・河南尹・中牟県に駐屯して「董卓討伐」を呼びかけました。
朱儁を撃ち破る
翌初平3年(192年)1月、董卓は娘婿の中郎将・牛輔らを司隷・弘農郡・陝県に駐屯させると、校尉の李傕、郭汜、張済らに歩騎数万を与えて朱儁を攻撃し、これを撃ち破ります。
その後郭汜らは、兗州・陳留郡、豫州・潁川郡の諸県に侵出して略奪暴行を行ったため、多くの民が犠牲になりました。
朱儁の挙兵関連地図
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董卓の死
初平3年(192年)4月、董卓が長安で司徒・王允、呂布らに誅殺されました。
これを受け、陳留郡、潁川郡で略奪を行っていた郭汜らは、軍中にいた王允、呂布と同じ幷州(并州)出身の者を激しく怨んで男女数百人を殺害します。
そして彼らが陝県に帰還した頃には、牛輔はすでに部下の攴胡赤児に殺害されており、兵士たちは落ち着く場所を失って、各自離散して故郷に帰ることを考えました。
すると牛輔の軍中にいた賈詡が、
「聞けば長安では、涼州人を皆殺しにしようと議論しているとのこと。
それなのにあなた方は、兵隊たちを棄てて単独で行こうとなさるとは。それでは亭長が1人いれば、あなた方を捕らえることができるでしょう。
このまま軍勢を引き連れて西へ向かい、行く先々で軍兵を集め、長安を攻撃して董公(董卓)の復讐をするべきです。
うまく事が運んだ暁には、天子を奉じて天下を征伐するも良し。もし事がうまく運ばなかったならば、その時改めて逃亡を考えても遅くはないでしょう」
と言ったので、郭汜らはこの賈詡の言葉に従うことにし、長安に向かうことにしました。
長安の陥落
長安を包囲する
すると王允は、董卓の配下であった胡軫と徐栄を派遣して新豊県で郭汜らを迎撃させますが、徐栄は戦死し、胡軫は兵と共に郭汜らに降伏します。
司隷・京兆尹・新豊県
迎撃軍を撃破した郭汜らの軍勢は10万以上にふくれ上がり、さらに董卓の配下であった樊稠、李蒙、王方らと合流して長安を包囲しました。
呂布との一騎打ち
この時郭汜は長安城の北側に布陣していましたが、やおら城門が開いたかと思うと、呂布が軍勢を率いて郭汜に接近し、「しばらく軍勢を遠ざけよ。1対1で勝負をつけよう」と、郭汜に一騎打ちを挑みます。
そこで郭汜と呂布は単独で対決しましたが、呂布の繰り出した矛が郭汜に突き立てられると、郭汜の背後に控えていた騎兵が進み出て郭汜を助けたため、呂布もそれ以上深追いせず、その場は両軍共に引き揚げました。
長安の陥落
長安城を包囲して10日(『後漢書』董卓伝では8日)、呂布軍の中にいた蜀兵が離反し、城内から李傕軍を手引きしました。
郭汜・李傕らは城内に侵入して呂布を敗走させると、南宮の掖門に駐屯して、
- 衛尉の种拂
- 太僕の魯馗
- 大鴻臚の周奐
- 城門校尉の崔烈
- 越騎校尉の王頎
らを殺害し、殺された官吏・民衆は1万人にのぼり、そこら中に死体が散乱しました。
その後、長安に留まった王允が幼い天子(献帝)を抱きかかえ、戦闘を避けて宣平門の楼上に登ると、郭汜・李傕らは門の下に額ずき、地面にひれ伏して叩頭します。
すると天子(献帝)は、郭汜らに向かって問いました。
「君たち臣下は刑罰・恩賞の権力を振るってはいけないはずだ。それを兵を放って勝手な真似をするとは、どういうつもりだ?」
これに郭汜らは、
「董卓は陛下に忠義を尽くしておりましたのに、理由もなく呂布に殺されました。私どもは董卓のために復讐しただけで、謀叛を起こしたのではございません。事が終わりましたなら、廷尉の元に出頭して処罰を受ける所存です」
と答えます。
進退窮まった王允は楼から下りて郭汜らに降伏したので、郭汜らはその妻子一族10人余りを処刑し、王允の屍を市場に晒しました。
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朝廷を支配する
大赦を受ける
王允が処刑されると、天子(献帝)は大赦令を発し、郭汜らをみな将軍に任命しました。
李傕
車騎将軍・池陽侯に封ぜられ、司隷校尉の官を担当し、節(部下を処刑する権限を示す旗)を与えられました。
郭汜
後将軍・美陽侯に封ぜられました。
樊稠
右将軍・万年侯に封ぜられました。
張済
鎮東将軍・平陽侯に封ぜられました。
以降、郭汜・李傕・樊稠らは朝政を専断し、張済は司隷・弘農郡・陝県に駐屯しました。
長平観の戦い
興平元年(194年)3月、馬騰・韓遂らが長安に攻め寄せると、李傕は兄の子・李利を派遣して郭汜、樊稠と共に長平観でこれを破り、1万人余りを斬首しました。
またこの年の8月、反乱を起こした司隷・左馮翊の羌族を撃ち破った郭汜と樊稠は、開府の資格を加えられ、選挙(人事)に参与するようになります。
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李傕との対立
郭汜と李傕が対立する
興平2年(195年)2月、「樊稠が韓遂と秘かに和議を結び、異心を抱いているのではないか」と疑っていた李傕は、樊稠を会議に招き、その席で樊稠を殺害してしまいました。
このことがあってから、残った諸将はお互いに猜疑し、郭汜と李傕はついに軍勢を整えて攻め合うようになります。
この事態に、献帝が侍中や尚書を派遣して李傕と郭汜を和解させようとしましたが、どちらも従いませんでした。
豆知識
『典略』には、郭汜と李傕の仲違いの原因として次のようなエピソードが記載されています。
李傕はしばしば酒宴を設けて郭汜を招き、時には郭汜を引き留めて家に泊まらせることもありました。
郭汜の妻は、李傕が郭汜に婢妾(召使いの女性)をあてがって、自分への愛を奪うのではないかと恐れ、2人を仲違いさせようと考えるようになります。
そんな時、ちょうど李傕から贈り物が届けられたので、郭汜の妻は豉(味噌)に毒薬を混ぜ、今まさに郭汜が食べようとした時、
「外から来た食べ物には、何か仕掛けがあるかもしれません」
と言って毒薬をつまみ出してみせると、
「『一栖(1つの巣)に両雄あらず(両雄並び立たず)』と言います。私は以前から将軍さまが李公(李傕)を信頼していらっしゃることを疑問に思っておりました」
と言いました。
後日、何も知らない李傕は、また郭汜を酒宴に招いて存分に酒を振る舞いますが、李傕が毒を盛ったのではないかと疑っている郭汜は、解毒作用があるとされる「糞を絞った汁」を飲んで見せたため、とうとう2人は不和となり、軍勢を整えて攻撃し合うようになりました。
天子(献帝)争奪戦
3月、董卓の部隊長であった安西将軍の楊定は李傕に殺されることを恐れ、郭汜と謀って天子(献帝)を自分たちの陣営に迎えようとしました。
ですがこの計画は、夜間に逃亡して密告する者がいて李傕の知るところとなり、李傕は兄の子・李暹に数千の兵を率いさせて宮殿を包囲します。
李暹は天子(献帝)と金帛や天子の器物・衣裳を李傕陣営の北塢に移すと、宮殿に押し入って宮人の日用品を略奪し、火を放って宮殿・宮府を焼きました。
すると天子(献帝)は、大尉・楊彪、司空・張喜ら十余人を郭汜の元に派遣して李傕と郭汜を和睦させようとしましたが、郭汜はこれに従わず、楊彪ら公卿たちを人質として拘留しました。
豆知識
ある時、郭汜が公卿たちをもてなして、李傕を攻撃するつもりで意見を求めました。
すると、太尉の楊彪が口を開きます。
「臣下たちが互いに闘い合い、1人は天子(献帝)を脅迫し、1人は公卿を人質にする。このような事をしても良いとお思いか?」
そして、これを聞いて大いに怒った郭汜が自らの剣の柄に手をかけると、楊彪は重ねて郭汜を一喝します。
「卿(あなた)は国家(天子)すら奉じていない!どうして私が生を求めようかっ!」
ですが、今にも楊彪を斬らんとするところへ、中郎将・楊密をはじめ左右の多くの者が固く諫めたので、郭汜は剣を収めました。
郭汜が李傕を破る
李傕が羌族や胡人(匈奴)数千人を招いて御物(皇室の所有品)の繒綵(綾絹)を与え、更に宮人(宮女)や婦女を与える約束をして、郭汜を攻撃させようとしました。
また一方の郭汜は、秘かに李傕に与していた中郎将・張苞と通じて李傕攻撃を謀ります。
郭汜が兵を率いて李傕の営門(陣営の門)に夜襲をかけると、矢が雨のように降り注ぎ、献帝が泊まっている高楼殿前の簾帷[簾と引き幕]の中にまで及び、李傕の左耳を貫きました。
一方、郭汜と内通した張苞らが陣営内の建物を焼こうとしましたがうまく燃え上がらず、陣営の外で楊奉の抵抗を受けた郭汜が兵を退いたので、張苞らは率いていた兵と共に郭汜に帰順します。
この日、李傕は献帝を北塢に移しました。
皇甫酈の和睦交渉
閏5月、献帝は、涼州の名門であり、使者としても有能な謁者僕射の皇甫酈を派遣して、李傕と郭汜を和睦させようとします。
皇甫酈はまず郭汜の元を訪れると、郭汜は勅命を受け入れました。
次に皇甫酈は李傕を訪ねますが、李傕は勅命を受け入れようとせず、
「儂には呂布討伐の功績があり、政治を補佐して以来4年、三輔(右扶風・左馮翊・京兆尹の3郡)は平穏になった。これは天下に周知の事実である。
郭多(郭汜)は馬泥棒に過ぎない。どうして厚かましくも儂と同等になろうとするのだ。儂はあくまで奴(郭汜)を殺すつもりだ。
君(皇甫酈)は涼州の人間だが、儂の策略と軍勢が郭多(郭汜)を始末できるかどうか見ていてくれ。
その上、郭多(郭汜)は公卿を脅して人質にした。奴(郭汜)のやることがこんな風なのに、仮にも君(皇甫酈)が郭多(郭汜)に利益を与えるつもりなら、この李傕にも肝っ玉があることを自ら知ることになるだろう」
と言いました。
すると皇甫酈は、
「昔、有窮の君・后羿は、弓術に優れていることを頼みにして、災難が降りかかるなど考えもせず、その挙げ句に滅亡いたしました。
最近では、董太師(董卓)の強大ぶりを、将軍(李傕)さまもその目でご覧になられたでしょう。
朝廷の内には王公たちがいて、太師(董卓)のために朝廷内を取り仕切り、外には董旻・董承・董璜ら親族がいて軍隊を統率しておりました。
ところが、呂布が恩を受けながら反逆して太師(董卓)殺害を企てますと、わずかの間に首が竿の先につり下げられました。
このような結果になりましたのは、武勇を持ちながら智謀がなかったからです。
今、将軍(李傕)ご自身は上将の位にあられ、(軍権を示す)鉞を手に(部下の裁判権を示す)節を杖つき、ご子孫方は権力を掌握され、ご一族は天子のご恩寵を受け、国家(天子)の下される高い爵位をすべて占有されています。
今、郭多(郭汜)は公卿を脅して人質にし、将軍(李傕)は至尊(献帝)を圧迫しておられる。どちらの罪が重いとお考えですか?
また、西方の実力者・張済は郭多(郭汜)・楊定と共謀し、また高官の中にも支持者がおりますので、簡単には郭多(郭汜)を討ち取れませんぞ。
楊奉は白波賊の指揮官に過ぎませんが、それでも将軍(李傕)の行為が正しくないことをわきまえております。将軍(李傕)が彼(楊奉)に官位や恩寵を与えたとしましても、将軍(李傕)のために力の限り働くことは承知しないでしょう」
と答えます。
これを聞いた李傕は皇甫酈の意見を受け入れず、怒鳴りつけて退出させました。
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李傕と郭汜の和睦
郭汜と李傕が攻撃し合うようになって数ヶ月、死者は1万人を数えるようになっていました。
興平2年(195年)6月、李傕の将軍・楊奉と軍官・宋果らが李傕の暗殺を企てますが、事前に計画が洩れたため軍勢を率いて謀反を起こします。これにより、李傕の勢力は次第に衰えました。
そしてこの頃、司隷・弘農郡・陝県に駐屯していた張済が長安に到着。李傕と郭汜を和睦させ、天子(献帝)をしばらく弘農郡・弘農県に行幸(外出)させることを提案します。
関連地図
そこで、つねづね洛陽(雒陽)に帰りたいと願っていた天子(献帝)は両者に使者を送って説得を試みますが、李傕の妻が反対したため交渉は難航。ですが、ちょうど李傕に味方していた羌族や胡人(匈奴)が不満を抱いて李傕の元を去ったため、「お互いに娘を人質に出す」こと1同意しました。
献帝の東遷
献帝と東に向かう
献帝の出発
秋7月、天子(献帝)が東に向かうため宣平門(長安城東面の北側第一門)を出て橋を渡ろうとした時、郭汜の兵数百人がやって来て橋を遮って、
「ここにおわすのは天子(献帝)であるか?」
と問いました。
車が進めなくなると、車を護衛していた李傕の数百の兵は周囲を固めて大戟を構えます。
これを見た侍中の劉艾は、大声で「天子(献帝)さまだっ!」と答え、侍中の楊琦に命じて車の御簾を高く上げさせました。
「お前たちは後ろへ下がりもせず、どうして至尊(天子)の側近くまで迫って来るのかっ!」
天子(献帝)の言葉を聞いた郭汜の兵たちはようやく道を空け、車が橋を渡りきると、将兵たちはみな「万歳」を唱えました。
上記の内容と矛盾するようですが、この時、李傕は長安を出て封地の司隷・左馮翊・池陽県に駐屯し、郭汜は天子(献帝)に従って東に向かっています。
車騎将軍に任命される
その夜、天子(献帝)の車は覇陵県に到着。この時、従者たちはみな腹を空かせていたので、張済は官位に応じて差をつけて食糧を分け与えました。
献帝の東遷経路1
また、天子(献帝)は張済を驃騎将軍に任命して、三公と同様に独自の役所を開くことを許し、
- 郭汜を車騎将軍
- 楊定を後将軍
- 楊奉を興義将軍
に任命してみな列侯に封じ、元牛輔の配下であった董承を安集将軍として天子(献帝)の側に侍らせました。
郭汜の失脚
8月、天子(献帝)が司隷・京兆尹・新豊県に到着します。
この時郭汜はまたもや陰謀をめぐらせ、「天子(献帝)を脅して連れ戻し、司隷・右扶風・郿県に都を置かせよう」としました。
これを知った侍中の种輯は、秘かに楊定・董承・楊奉らに伝えて新豊県に集結させたので、郭汜は自分の陰謀が漏れたと知って、軍を棄てて南山(長安にある終南山)に逃亡しました。
献帝の東遷経路2
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再び李傕と手を結ぶ
天子(献帝)が司隷・弘農郡・華陰県に到着すると、華陰県に駐屯していた寧輯将軍・段煨と、天子(献帝)に従って来た楊定、种輯、左霊らの間で争いが起こります。
献帝の東遷経路4
この頃、郭汜と李傕は、天子(献帝)を東に向かわせたことを後悔していました。
そんな時、楊定が段煨を攻撃したと聞いた2人は、お互いに誘い合い、「段煨を救援する」という名目で華陰県に行き、天子(献帝)を脅迫して西(長安)に連れ帰ろうと計画します。
郭汜と李傕がやって来たことを知った楊定は、南の司隷・京兆尹・藍田県に還ろうとしましたが、郭汜に遮られたため、単騎荊州に逃亡してしまいました。
またこの時、楊奉・董承らと折り合いが悪かった張済は、再び郭汜・李傕と合流します。
献帝を追う
東澗の戦い
11月、天子(献帝)が司隷・弘農郡・弘農県に到着しました。
司隷・弘農郡・弘農県
郭汜・李傕・張済は天子(献帝)を追撃し、弘農県の東澗(渓谷)で董承・楊奉らと激しい戦闘になります。
天子の軍は敗北し、百官や士卒の死者は数え切れず、ほぼすべての御物(服飾や器物)や符策(符節や命令書)、典籍は棄てられました。
曹陽澗の戦い
郭汜らに敗れた天子(献帝)は、司隷・弘農郡・弘農県の曹陽澗(渓谷)で野宿しました。
この時董承と楊奉は、偽って李傕らと手を組んだ振りをして秘かに司隷・河東郡に密使を送り、
- 元白波賊の帥・李楽
- 韓暹
- 胡才
- 南匈奴の右賢王・去卑(『後漢書』孝献帝紀では左賢王)
らを招きます。
そして12月、李楽らを迎えた天子(献帝)が曹陽澗から出発すると、郭汜らは再度天子(献帝)一行を襲撃し、天子(献帝)一行は40里(17km)も追撃を受け、司隷・弘農郡・陝県に着いて陣営を構えた時には、虎賁兵・羽林兵合わせて100人にも満ちませんでした。
もはや支えきれないと悟った天子(献帝)一行は、李楽に命じて夜の間に秘かに船を調達させ、黄河を渡って北の司隷・河東郡・大陽県に向かうことにします。
司隷・河東郡・大陽県
黄河の北岸に火が灯っているのを見た李傕が急いでこれを追い、対岸から矢を射かけましたが、董承が船に幔幕を張って進んだので、天子(献帝)は無事 対岸の司隷・河東郡・大陽県に着くことができました。
献帝との和睦
大陽県からさらに北上して司隷・河東郡・安邑県に入った天子(献帝)は、太僕の韓融を派遣して郭汜らに和睦を求めます。
郭汜・李傕はこの申し出を受け入れ、捕らえていた公卿百官を釈放し、これまで奪った宮女や御物(服飾や器物)の多くを天子(献帝)に返還しました。
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郭汜の死
その後郭汜・李傕は権勢を失い、建安2年(197年)、郭汜は配下の将・伍習に襲撃され、司隷・右扶風・郿県で殺害されました。
董卓の娘婿・牛輔配下の校尉であった郭汜は、董卓の死後、李傕・張済・樊稠らと共に長安を包囲・陥落させ、朝廷の実権を握りました。
ですが、しばらくして李傕が樊稠を殺害すると、残った諸将はお互いに猜疑し合い、郭汜と李傕はついに軍勢を整えて攻め合うようになります。
その後、張済の仲裁により李傕と和睦した郭汜は献帝と共に東に向かいますが、献帝を脅して連れ戻そうとして失敗。郭汜は再び李傕と結んで献帝一行を追いました。
そこで郭汜らは、献帝一行に大きな被害を与えましたが献帝を捕らえることはできず、献帝が黄河北岸の安邑県に入ってしまいます。
その後、献帝との和睦を受け入れた郭汜と李傕ですが、その後急速に求心力を失い、最期は配下の伍習に襲撃され、殺害されてしまいました。
郭汜データベース
郭汜関連年表
西暦 | 出来事 |
---|---|
不明 |
|
192年 |
■ 初平3年
|
194年 | ■興平元年
|
195年 | ■興平2年
|
197年 |
|
配下
夏育、高碩、伍習