董卓とうたくの死後、李傕りかくと共に朝廷を壟断ろうだんした郭汜かくしとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

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出自

郭汜(かくし)

出身地 / 生没年

あざな

不明。

郭汜かくしの名前は「郭氾かくはん」と書かれることもあり、別名を郭多かくた郭阿多かくあた)と言います。

出身地

涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐん


涼州・張掖郡

涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐん

生没年

  • ?〜 建安けんあん2年(197年)。
  • 後漢書ごかんじょ董卓伝とうたくでん魏書ぎしょ董卓伝とうたくでんにまとまった記述があります。

家族・親族

従弟いとこ:(いみな不明)

張済ちょうせいの発案で李傕りかくとの和睦わぼくが話し合われた時のこと。李傕りかくの妻の反対により交渉は難航していましたが、ちょうど李傕りかくに味方していた羌族きょうぞく胡人こじん匈奴きょうど)が不満をいだいて李傕りかくの元を去ったため、李傕りかくは「お互いに娘を人質に出す」ことで和睦わぼくに同意しました。

またこの時、張済ちょうせい従子おい張繡ちょうしゅう李傕りかく従弟いとこ李桓りかんと共に、郭汜かくし従弟いとこ和睦わぼくの人質となりました。

後漢紀ごかんきこう献皇帝紀けんこうていき


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董卓配下として

朱儁を撃ち破る

朱儁しゅしゅんの挙兵

中平ちゅうへい6年(189年)9月、霊帝れいてい崩御の混乱に乗じて洛陽らくよう雒陽らくよう)に入った董卓とうたくは、少帝しょうていを廃位して献帝けんてい擁立ようりつしました。

翌年春正月、これに反発した袁紹えんしょうらは「反董卓とうたく連合」を結成。すると董卓とうたくは、洛陽らくよう雒陽らくよう)を破壊して長安ちょうあん遷都せんとを強行します。


そして初平しょへい2年(191年)冬、荊州けいしゅうに逃亡していた朱儁しゅしゅん洛陽らくよう雒陽らくよう)に攻め上がり、董卓とうたくが任命した河南尹かなんいん楊懿よういを敗走させると、司隷しれい河南尹かなんいん中牟県ちゅうぼうけんに駐屯して「董卓とうたく討伐」を呼びかけました。

朱儁しゅしゅんを撃ち破る

初平しょへい3年(192年)1月、董卓とうたく娘婿むすめむこ中郎将ちゅうろうしょう牛輔ぎゅうほらを司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに駐屯させると、校尉こうい李傕りかく郭汜かくし張済ちょうせいらに歩騎数万を与えて朱儁しゅしゅんを攻撃し、これを撃ち破ります。

その後郭汜かくしらは、兗州えんしゅう陳留郡ちんりゅうぐん豫州よしゅう潁川郡えいせんぐんの諸県に侵出して略奪暴行を行ったため、多くの民が犠牲になりました。


朱儁の挙兵関連地図

朱儁しゅしゅんの挙兵関連地図

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董卓の死

初平しょへい3年(192年)4月、董卓とうたく長安ちょうあん司徒しと王允おういん呂布りょふらに誅殺ちゅうさつされました。

これを受け、陳留郡ちんりゅうぐん潁川郡えいせんぐんで略奪を行っていた郭汜かくしらは、軍中にいた王允おういん呂布りょふと同じ幷州へいしゅう并州へいしゅう)出身の者を激しくうらんで男女数百人を殺害します。

そして彼らが陝県せんけんに帰還した頃には、牛輔ぎゅうほはすでに部下の攴胡赤児ほくこせきじに殺害されており、兵士たちは落ち着く場所を失って、各自離散して故郷に帰ることを考えました。

すると牛輔ぎゅうほの軍中にいた賈詡かくが、


「聞けば長安ちょうあんでは、涼州人りょうしゅうじんを皆殺しにしようと議論しているとのこと。

それなのにあなた方は、兵隊たちをてて単独で行こうとなさるとは。それでは亭長ていちょうが1人いれば、あなた方を捕らえることができるでしょう。

このまま軍勢を引き連れて西へ向かい、行く先々で軍兵を集め、長安ちょうあんを攻撃して董公とうこう董卓とうたく)の復讐をするべきです。

うまく事が運んだあかつきには、天子てんしを奉じて天下を征伐するも良し。もし事がうまく運ばなかったならば、その時改めて逃亡を考えても遅くはないでしょう」


と言ったので、郭汜かくしらはこの賈詡かくの言葉に従うことにし、長安ちょうあんに向かうことにしました。

長安の陥落

長安ちょうあんを包囲する

すると王允おういんは、董卓とうたくの配下であった胡軫こしん徐栄じょえいを派遣して新豊県しんほうけん郭汜かくしらを迎撃させますが、徐栄じょえいは戦死し、胡軫こしんは兵と共に郭汜かくしらに降伏します。


司隷・京兆尹・新豊県

司隷しれい京兆尹けいちょういん新豊県しんほうけん


迎撃軍を撃破した郭汜かくしらの軍勢は10万以上にふくれ上がり、さらに董卓とうたくの配下であった樊稠はんちゅう李蒙りもう王方おうほうらと合流して長安ちょうあんを包囲しました。

呂布りょふとの一騎打ち

この時郭汜かくし長安城ちょうあんじょうの北側に布陣していましたが、やおら城門が開いたかと思うと、呂布りょふが軍勢をひきいて郭汜かくしに接近し、「しばらく軍勢を遠ざけよ。1対1で勝負をつけよう」と、郭汜かくしに一騎打ちを挑みます。

そこで郭汜かくし呂布りょふは単独で対決しましたが、呂布りょふの繰り出したほこ郭汜かくしに突き立てられると、郭汜かくしの背後にひかえていた騎兵が進み出て郭汜かくしを助けたため、呂布りょふもそれ以上深追いせず、その場は両軍共に引きげました。

長安ちょうあんの陥落

長安城ちょうあんじょうを包囲して10日(後漢書ごかんじょ董卓伝とうたくでんでは8日)、呂布りょふ軍の中にいたしょく兵が離反し、城内から李傕りかく軍を手引きしました。

郭汜かくし李傕りかくらは城内に侵入して呂布りょふを敗走させると、南宮なんきゅう掖門えきもんに駐屯して、

  • 衛尉えいい种拂ちゅうふつ
  • 太僕たいぼく魯馗ろき
  • 大鴻臚だいこうろ周奐しゅうかん
  • 城門校尉じょうもんこうい崔烈さいれつ
  • 越騎校尉えっきこうい王頎おうき

らを殺害し、殺された官吏・民衆は1万人にのぼり、そこら中に死体が散乱しました。


その後、長安ちょうあんとどまった王允おういんが幼い天子てんし献帝けんてい)をきかかえ、戦闘を避けて宣平門せんぺいもんろう上に登ると、郭汜かくし李傕りかくらは門の下にぬかずき、地面にひれ伏して叩頭こうとうします。

すると天子てんし献帝けんてい)は、郭汜かくしらに向かって問いました。


「君たち臣下は刑罰・恩賞の権力を振るってはいけないはずだ。それを兵を放って勝手な真似をするとは、どういうつもりだ?」


これに郭汜かくしらは、


董卓とうたくは陛下に忠義を尽くしておりましたのに、理由もなく呂布りょふに殺されました。私どもは董卓とうたくのために復讐しただけで、謀叛むほんを起こしたのではございません。事が終わりましたなら、廷尉ていいの元に出頭して処罰を受ける所存です」


と答えます。

進退きわまった王允おういんろうから下りて郭汜かくしらに降伏したので、郭汜かくしらはその妻子一族10人余りを処刑し、王允おういんしかばねを市場にさらしました。

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朝廷を支配する

大赦を受ける

王允おういんが処刑されると、天子てんし献帝けんてい)は大赦令たいしゃれいを発し、郭汜かくしらをみな将軍しょうぐんに任命しました。

李傕りかく

車騎将軍しゃきしょうぐん池陽侯ちようこうに封ぜられ、司隷校尉しれいこういの官を担当し、せつ(部下を処刑する権限を示す旗)を与えられました。

郭汜かくし

後将軍こうしょうぐん美陽侯びようこうに封ぜられました。

樊稠はんちゅう

右将軍ゆうしょうぐん万年侯まんねんこうに封ぜられました。

張済ちょうせい

鎮東将軍ちんとうしょうぐん平陽侯へいようこうに封ぜられました。


以降、郭汜かくし李傕りかく樊稠はんちゅうらは朝政を専断し、張済ちょうせい司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに駐屯しました。

長平観の戦い

興平こうへい元年(194年)3月、馬騰ばとう韓遂かんすいらが長安ちょうあんに攻め寄せると、李傕りかくは兄の子・李利りりを派遣して郭汜かくし樊稠はんちゅうと共に長平観ちょうへいかんでこれを破り、1万人余りを斬首しました。

またこの年の8月、反乱を起こした司隷しれい左馮翊さひょうよく羌族きょうぞくを撃ち破った郭汜かくし樊稠はんちゅうは、開府の資格を加えられ、選挙(人事)に参与するようになります。

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李傕との対立

郭汜かくし李傕りかくが対立する

興平こうへい2年(195年)2月、「樊稠はんちゅう韓遂かんすいと秘かに和議を結び、異心をいだいているのではないか」と疑っていた李傕りかくは、樊稠はんちゅうを会議にまねき、その席で樊稠はんちゅうを殺害してしまいました。

このことがあってから、残った諸将はお互いに猜疑さいぎし、郭汜かくし李傕りかくはついに軍勢を整えて攻め合うようになります。

この事態に、献帝けんてい侍中じちゅう尚書しょうしょを派遣して李傕りかく郭汜かくしを和解させようとしましたが、どちらも従いませんでした。

豆知識

典略てんりゃくには、郭汜かくし李傕りかくの仲違いの原因として次のようなエピソードが記載されています。


李傕りかくはしばしば酒宴をもうけて郭汜かくしまねき、時には郭汜かくしを引きめて家にまらせることもありました。

郭汜かくしの妻は、李傕りかく郭汜かくし婢妾ひしょう(召使いの女性)をあてがって、自分への愛を奪うのではないかと恐れ、2人を仲違なかたがいさせようと考えるようになります。


そんな時、ちょうど李傕りかくから贈り物が届けられたので、郭汜かくしの妻は(味噌)に毒薬を混ぜ、今まさに郭汜かくしが食べようとした時、


「外から来た食べ物には、何か仕掛けがあるかもしれません」


と言って毒薬をつまみ出してみせると、


「『一せい(1つの巣)に両雄あらず(両雄並び立たず)』と言います。私は以前から将軍あなたさまが李公りこう李傕りかく)を信頼していらっしゃることを疑問に思っておりました」


と言いました。


後日、何も知らない李傕りかくは、また郭汜かくしを酒宴にまねいて存分に酒を振る舞いますが、李傕りかくが毒を盛ったのではないかと疑っている郭汜かくしは、解毒作用があるとされる「くそしぼった汁」を飲んで見せたため、とうとう2人は不和となり、軍勢を整えて攻撃し合うようになりました。

天子てんし献帝けんてい)争奪戦

3月、董卓とうたくの部隊長であった安西将軍あんせいしょうぐん楊定ようてい李傕りかくに殺されることを恐れ、郭汜かくしはかって天子てんし献帝けんてい)を自分たちの陣営に迎えようとしました。

ですがこの計画は、夜間に逃亡して密告する者がいて李傕りかくの知るところとなり、李傕りかくは兄の子・李暹りせんに数千の兵をひきいさせて宮殿を包囲します。

李暹りせん天子てんし献帝けんてい)と金帛きんぱく天子てんしの器物・衣裳を李傕りかく陣営の北塢ほくうに移すと、宮殿に押し入って宮人の日用品を略奪し、火を放って宮殿・宮府を焼きました。


すると天子てんし献帝けんてい)は、大尉たいい楊彪ようひょう司空しくう張喜ちょうきら十余人を郭汜かくしの元に派遣して李傕りかく郭汜かくし和睦わぼくさせようとしましたが、郭汜かくしはこれに従わず、楊彪ようひょう公卿こうけいたちを人質として拘留こうりゅうしました。

豆知識

ある時、郭汜かくし公卿こうけいたちをもてなして、李傕りかくを攻撃するつもりで意見を求めました。

すると、太尉たいい楊彪ようひょうが口を開きます。


「臣下たちが互いにたたかい合い、1人は天子てんし献帝けんてい)を脅迫し、1人は公卿こうけいを人質にする。このような事をしても良いとお思いか?」


そして、これを聞いて大いに怒った郭汜かくしみずからの剣のつかに手をかけると、楊彪ようひょうは重ねて郭汜かくし一喝いっかつします。


けい(あなた)は国家(天子てんし)すら奉じていない!どうして私が生を求めようかっ!」


ですが、今にも楊彪ようひょうを斬らんとするところへ、中郎将ちゅうろうしょう楊密ようみつをはじめ左右の多くの者が固くいさめたので、郭汜かくしは剣をおさめました。

郭汜かくし李傕りかくを破る

李傕りかく羌族きょうぞく胡人こじん匈奴きょうど)数千人をまねいて御物ぎょぶつ(皇室の所有品)の繒綵そうさい綾絹あやぎぬ)を与え、更に宮人(宮女)や婦女を与える約束をして、郭汜かくしを攻撃させようとしました。

また一方の郭汜かくしは、秘かに李傕りかくくみしていた中郎将ちゅうろうしょう張苞ちょうほうと通じて李傕りかく攻撃をはかります。


郭汜かくしが兵をひきいて李傕りかくの営門(陣営の門)に夜襲をかけると、矢が雨のように降りそそぎ、献帝けんていが泊まっている高楼殿前の簾帷れんいすだれと引き幕]の中にまで及び、李傕りかくの左耳をつらぬきました。

一方、郭汜かくしと内通した張苞ちょうほうらが陣営内の建物を焼こうとしましたがうまく燃え上がらず、陣営の外で楊奉ようほうの抵抗を受けた郭汜かくしが兵を退いたので、張苞ちょうほうらはひきいていた兵と共に郭汜かくしに帰順します。


この日、李傕りかく献帝けんてい北塢ほくうに移しました。

皇甫酈こうほれきの和睦交渉

うるう5月、献帝けんていは、涼州りょうしゅうの名門であり、使者としても有能な謁者僕射えっしゃぼくや皇甫酈こうほれきを派遣して、李傕りかく郭汜かくしを和睦させようとします。

皇甫酈こうほれきはまず郭汜かくしの元をおとずれると、郭汜かくしは勅命を受け入れました。

次に皇甫酈こうほれき李傕りかくたずねますが、李傕りかくは勅命を受け入れようとせず、


わしには呂布りょふ討伐の功績があり、政治を補佐して以来4年、三輔さんぽ右扶風ゆうふふう左馮翊さひょうよく京兆尹けいちょういんの3郡)は平穏になった。これは天下に周知の事実である。

郭多かくた郭汜かくし)は馬泥棒に過ぎない。どうしてあつかましくもわしと同等になろうとするのだ。わしはあくまで奴(郭汜かくし)を殺すつもりだ。

君(皇甫酈こうほれき)は涼州りょうしゅうの人間だが、わしの策略と軍勢が郭多かくた郭汜かくし)を始末できるかどうか見ていてくれ。

その上、郭多かくた郭汜かくし)は公卿こうけいを脅して人質にした。奴(郭汜かくし)のやることがこんな風なのに、仮にも君(皇甫酈こうほれき)が郭多かくた郭汜かくし)に利益を与えるつもりなら、この李傕りかくにも肝っ玉があることをみずから知ることになるだろう」


と言いました。

すると皇甫酈こうほれきは、


「昔、有窮ゆうきゅうの君・后羿こうげいは、弓術に優れていることを頼みにして、災難が降りかかるなど考えもせず、その挙げ句に滅亡いたしました。

最近では、董太師とうたいし董卓とうたく)の強大ぶりを、将軍しょうぐん李傕りかく)さまもその目でご覧になられたでしょう。

朝廷の内には王公おうこうたちがいて、太師たいし董卓とうたく)のために朝廷内を取り仕切り、外には董旻とうびん董承とうしょう董璜とうこうら親族がいて軍隊を統率しておりました。

ところが、呂布りょふが恩を受けながら反逆して太師たいし董卓とうたく)殺害をくわだてますと、わずかの間に首が竿さおの先につり下げられました。

このような結果になりましたのは、武勇を持ちながら智謀がなかったからです。

今、将軍しょうぐん李傕りかく)ご自身は上将じょうしょうの位にあられ、(軍権を示す)まさかりを手に(部下の裁判権を示す)せつを杖つき、ご子孫方は権力を掌握され、ご一族は天子てんしのご恩寵を受け、国家(天子てんし)の下される高い爵位をすべて占有されています。

今、郭多かくた郭汜かくし)は公卿こうけいを脅して人質にし、将軍しょうぐん李傕りかく)は至尊(献帝けんてい)を圧迫しておられる。どちらの罪が重いとお考えですか?

また、西方の実力者・張済ちょうせい郭多かくた郭汜かくし)・楊定ようていと共謀し、また高官の中にも支持者がおりますので、簡単には郭多かくた郭汜かくし)を討ち取れませんぞ。

楊奉ようほう白波賊はくはぞくの指揮官に過ぎませんが、それでも将軍しょうぐん李傕りかく)の行為が正しくないことをわきまえております。将軍しょうぐん李傕りかく)が彼(楊奉ようほう)に官位や恩寵を与えたとしましても、将軍しょうぐん李傕りかく)のために力の限り働くことは承知しないでしょう」


と答えます。

これを聞いた李傕りかく皇甫酈こうほれきの意見を受け入れず、怒鳴りつけて退出させました。

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李傕と郭汜の和睦

郭汜かくし李傕りかくが攻撃し合うようになって数ヶ月、死者は1万人を数えるようになっていました。

興平こうへい2年(195年)6月、李傕りかく将軍しょうぐん楊奉ようほう軍官ぐんかん宋果そうからが李傕りかくの暗殺をくわだてますが、事前に計画がれたため軍勢をひきいて謀反むほんを起こします。これにより、李傕りかくの勢力は次第におとろえました。


そしてこの頃、司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに駐屯していた張済ちょうせい長安ちょうあんに到着。李傕りかく郭汜かくし和睦わぼくさせ、天子てんし献帝けんてい)をしばらく弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん行幸ぎょうこう(外出)させることを提案します。


関連地図

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そこで、つねづね洛陽らくよう雒陽らくよう)に帰りたいと願っていた天子てんし献帝けんてい)は両者に使者を送って説得を試みますが、李傕りかくの妻が反対したため交渉は難航。ですが、ちょうど李傕りかくに味方していた羌族きょうぞく胡人こじん匈奴きょうど)が不満をいだいて李傕りかくの元を去ったため、「お互いに娘を人質に出す」こと1同意しました。


献帝の東遷

献帝と東に向かう

献帝けんていの出発

秋7月、天子てんし献帝けんてい)が東に向かうため宣平門せんぺいもん長安城ちょうあんじょう東面の北側第一門)を出て橋を渡ろうとした時、郭汜かくしの兵数百人がやって来て橋をさえぎって、


「ここにおわすのは天子てんし献帝けんてい)であるか?」


と問いました。

車が進めなくなると、車を護衛していた李傕りかくの数百の兵は周囲を固めて大戟だいげきを構えます。

これを見た侍中じちゅう劉艾りゅうがいは、大声で「天子てんし献帝けんてい)さまだっ!」と答え、侍中じちゅう楊琦ようきに命じて車の御簾みすを高く上げさせました。


「お前たちは後ろへ下がりもせず、どうして至尊(天子てんし)の側近くまで迫って来るのかっ!」


天子てんし献帝けんてい)の言葉を聞いた郭汜かくしの兵たちはようやく道をけ、車が橋を渡りきると、将兵たちはみな「万歳ばんざい」をとなえました。


上記の内容と矛盾するようですが、この時、李傕りかく長安ちょうあんを出て封地の司隷しれい左馮翊さひょうよく池陽県ちようけんに駐屯し、郭汜かくし天子てんし献帝けんてい)に従って東に向かっています。

車騎将軍しゃきしょうぐんに任命される

その夜、天子てんし献帝けんてい)の車は覇陵県はりょうけんに到着。この時、従者たちはみな腹を空かせていたので、張済ちょうせいは官位に応じて差をつけて食糧を分け与えました。


献帝の東遷経路1

献帝けんてい東遷とうせん経路1


また、天子てんし献帝けんてい)は張済ちょうせい驃騎将軍ひょうきしょうぐんに任命して、三公さんこうと同様に独自の役所を開くことを許し、

  • 郭汜かくし車騎将軍しゃきしょうぐん
  • 楊定ようてい後将軍こうしょうぐん
  • 楊奉ようほう興義将軍こうぎしょうぐん

に任命してみな列侯れっこうに封じ、元牛輔ぎゅうほの配下であった董承とうしょう安集将軍あんしゅうしょうぐんとして天子てんし献帝けんてい)のそばはべらせました。

郭汜かくしの失脚

8月、天子てんし献帝けんてい)が司隷しれい京兆尹けいちょういん新豊県しんほうけんに到着します。

この時郭汜かくしはまたもや陰謀をめぐらせ、「天子てんし献帝けんてい)をおどして連れ戻し、司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけんに都を置かせよう」としました。


これを知った侍中じちゅう种輯ちゅうしゅうは、秘かに楊定ようてい董承とうしょう楊奉ようほうらに伝えて新豊県しんほうけんに集結させたので、郭汜かくしは自分の陰謀がれたと知って、軍をてて南山なんざん長安ちょうあんにある終南山しゅうなんざん)に逃亡しました。


献帝の東遷経路3

献帝けんてい東遷とうせん経路2

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再び李傕と手を結ぶ

天子てんし献帝けんてい)が司隷しれい弘農郡こうのうぐん華陰県かいんけんに到着すると、華陰県かいんけんに駐屯していた寧輯将軍ねいしゅうしょうぐん段煨だんわいと、天子てんし献帝けんてい)に従って来た楊定ようてい种輯ちゅうしゅう左霊されいらの間で争いが起こります。


献帝の東遷経路4

献帝けんてい東遷とうせん経路4


この頃、郭汜かくし李傕りかくは、天子てんし献帝けんてい)を東に向かわせたことを後悔していました。

そんな時、楊定ようてい段煨だんわいを攻撃したと聞いた2人は、お互いに誘い合い、「段煨だんわいを救援する」という名目で華陰県かいんけんに行き、天子てんし献帝けんてい)を脅迫して西(長安ちょうあん)に連れ帰ろうと計画します。


郭汜かくし李傕りかくがやって来たことを知った楊定ようていは、南の司隷しれい京兆尹けいちょういん藍田県らんでんけんかえろうとしましたが、郭汜かくしさえぎられたため、単騎荊州けいしゅうに逃亡してしまいました。

またこの時、楊奉ようほう董承とうしょうらと折り合いが悪かった張済ちょうせいは、再び郭汜かくし李傕りかくと合流します。

献帝を追う

東澗とうかんの戦い

11月、天子てんし献帝けんてい)が司隷しれい弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけんに到着しました。


司隷・弘農郡・弘農県

司隷しれい弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん


郭汜かくし李傕りかく張済ちょうせい天子てんし献帝けんてい)を追撃し、弘農県こうのうけん東澗とうかん渓谷けいこく)で董承とうしょう楊奉ようほうらと激しい戦闘になります。

天子てんしの軍は敗北し、百官や士卒の死者は数え切れず、ほぼすべての御物ぎょぶつ(服飾や器物)や符策ふさく符節ふせつや命令書)、典籍てんせきてられました。

曹陽澗そうようかんの戦い

郭汜かくしらに敗れた天子てんし献帝けんてい)は、司隷しれい弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん曹陽澗そうようかん渓谷けいこく)で野宿しました。

この時董承とうしょう楊奉ようほうは、いつわって李傕りかくらと手を組んだ振りをしてひそかに司隷しれい河東郡かとうぐんに密使を送り、

  • 白波賊はくはぞくすい李楽りがく
  • 韓暹かんせん
  • 胡才こさい
  • 南匈奴なんきょうど右賢王ゆうけんおう去卑きょひ後漢書ごかんじょ孝献帝紀こうけんていぎでは左賢王さけんおう

らをまねきます。

そして12月、李楽りがくらを迎えた天子てんし献帝けんてい)が曹陽澗そうようかんから出発すると、郭汜かくしらは再度天子てんし献帝けんてい)一行を襲撃し、天子てんし献帝けんてい)一行は40里(17km)も追撃を受け、司隷しれい弘農郡こうのうぐん陝県せんけんに着いて陣営を構えた時には、虎賁兵こほんへい羽林兵うりんへい合わせて100人にも満ちませんでした。

もはや支えきれないとさとった天子てんし献帝けんてい)一行は、李楽りがくに命じて夜の間にひそかに船を調達させ、黄河こうがを渡って北の司隷しれい河東郡かとうぐん大陽県たいようけんに向かうことにします。


司隷・河東郡・大陽県

司隷しれい河東郡かとうぐん大陽県たいようけん


黄河こうがの北岸に火がともっているのを見た李傕りかくが急いでこれを追い、対岸から矢を射かけましたが、董承とうしょうが船に幔幕を張って進んだので、天子てんし献帝けんてい)は無事 対岸の司隷しれい河東郡かとうぐん大陽県たいようけんに着くことができました。

献帝けんていとの和睦わぼく

大陽県たいようけんからさらに北上して司隷しれい河東郡かとうぐん安邑県あんゆうけんに入った天子てんし献帝けんてい)は、太僕たいぼく韓融かんゆうを派遣して郭汜かくしらに和睦わぼくを求めます。

郭汜かくし李傕りかくはこの申し出を受け入れ、捕らえていた公卿こうけい百官を釈放し、これまで奪った宮女や御物ぎょぶつ(服飾や器物)の多くを天子てんし献帝けんてい)に返還しました。

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郭汜の死

その後郭汜かくし李傕りかくは権勢を失い、建安けんあん2年(197年)、郭汜かくしは配下の将・伍習ごしゅうに襲撃され、司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけんで殺害されました。


董卓とうたく娘婿むすめむこ牛輔ぎゅうほ配下の校尉こういであった郭汜かくしは、董卓とうたくの死後、李傕りかく張済ちょうせい樊稠はんちゅうらと共に長安ちょうあんを包囲・陥落かんらくさせ、朝廷の実権を握りました。

ですが、しばらくして李傕りかく樊稠はんちゅうを殺害すると、残った諸将はお互いに猜疑さいぎし合い、郭汜かくし李傕りかくはついに軍勢を整えて攻め合うようになります。

その後、張済ちょうせいの仲裁により李傕りかく和睦わぼくした郭汜かくし献帝けんていと共に東に向かいますが、献帝けんていおどして連れ戻そうとして失敗。郭汜かくしは再び李傕りかくと結んで献帝けんてい一行を追いました。

そこで郭汜かくしらは、献帝けんてい一行に大きな被害を与えましたが献帝けんていを捕らえることはできず、献帝けんてい黄河こうが北岸の安邑県あんゆうけんに入ってしまいます。

その後、献帝けんていとの和睦わぼくを受け入れた郭汜かくし李傕りかくですが、その後急速に求心力を失い、最期は配下の伍習ごしゅうに襲撃され、殺害されてしまいました。


郭汜データベース

郭汜関連年表

西暦 出来事
不明
  • 涼州りょうしゅう張掖郡ちょうえきぐんに生まれる。
192年

初平しょへい3年

  • 司隷しれい河南尹かなんいん中牟県ちゅうぼうけん朱儁しゅしゅんを撃ち破る。
  • 董卓とうたく誅殺ちゅうさつされる。
  • 軍中の幷州へいしゅう并州へいしゅう)出身の者・男女数百人を殺害する。
  • 赦免しゃめんを求めるが王允おういんは許さなかった。
  • 長安ちょうあんを包囲し、陥落させる。
  • 後将軍こうしょうぐん美陽侯びようこうに封ぜられ、李傕りかく樊稠はんちゅうと共に朝政を専断する。
194年 興平こうへい元年

  • 李利りり樊稠はんちゅう長平観ちょうへいかん馬騰ばとう韓遂かんすいらを破る。
  • 反乱を起こした司隷しれい左馮翊さひょうよく羌族きょうぞくを撃ち破る。
  • 開府の資格を加えられ、選挙(人事)に参与する。
195年 興平こうへい2年

  • 李傕りかくなかたがいし、お互いに攻め合うようになる。
  • 李傕りかく天子てんし献帝けんてい)を陣営に迎える。
  • 公卿こうけいたちを人質として拘留こうりゅうする。
  • 李傕りかくを撃ち破る。
  • 張済ちょうせい長安ちょうあんに到着し、天子てんし献帝けんてい)を弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん行幸ぎょうこう(外出)させることを提案する。
  • 李傕りかく和睦わぼくする。
  • 天子てんし献帝けんてい)に従い東に向かう。
  • 天子てんし献帝けんてい)を司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけんに移そうと画策する。
  • 事がれ、軍をてて南山なんざん長安ちょうあんにある終南山しゅうなんざん)に逃亡する。
  • 再び李傕りかくと手を結ぶ。
  • 李傕りかくらと天子てんし献帝けんてい)を追い、司隷しれい弘農郡こうのうぐん弘農県こうのうけん曹陽澗そうようかんで大いに撃ち破る。
  • 天子てんし献帝けんてい)と和睦わぼくする。
197年
  • 配下の将・伍習ごしゅうに襲撃され、司隷しれい右扶風ゆうふふう郿県びけんで殺害される。

配下

夏育かいく高碩こうせき伍習ごしゅう