董卓(とうたく)の死後、李傕(りかく)と共に朝廷を壟断(ろうだん)した郭汜(かくし)とは、一体どんな人物だったのでしょうか。

スポンサーリンク

出自

郭汜(かくし)

出身地 / 生没年

字(あざな)

不明。

郭汜(かくし)の名前は「郭氾(かくはん)」と書かれることもあり、別名を郭多(かくた)(郭阿多(かくあた))と言います。

出身地

涼州(りょうしゅう)・張掖郡(ちょうえきぐん)。


涼州・張掖郡

涼州(りょうしゅう)・張掖郡(ちょうえきぐん)

生没年

  • ?〜 建安(けんあん)2年(197年)。
  • 『後漢書(ごかんじょ)』董卓伝(とうたくでん)と『魏書(ぎしょ)』董卓伝(とうたくでん)にまとまった記述があります。

家族・親族

従弟(いとこ):(諱(いみな)不明)

張済(ちょうせい)の発案で李傕(りかく)との和睦(わぼく)が話し合われた時のこと。李傕(りかく)の妻の反対により交渉は難航していましたが、ちょうど李傕(りかく)に味方していた羌族(きょうぞく)や胡人(こじん)(匈奴(きょうど))が不満を抱(いだ)いて李傕(りかく)の元を去ったため、李傕(りかく)は「お互いに娘を人質に出す」ことで和睦(わぼく)に同意しました。

またこの時、張済(ちょうせい)の従子(おい)・張繡(ちょうしゅう)、李傕(りかく)の従弟(いとこ)・李桓(りかん)と共に、郭汜(かくし)の従弟(いとこ)も和睦(わぼく)の人質となりました。

『後漢紀(ごかんき)』孝(こう)献皇帝紀(けんこうていき)


スポンサーリンク


董卓配下として

朱儁を撃ち破る

朱儁(しゅしゅん)の挙兵

中平(ちゅうへい)6年(189年)9月、霊帝(れいてい)崩御の混乱に乗じて洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に入った董卓(とうたく)は、少帝(しょうてい)を廃位して献帝(けんてい)を擁立(ようりつ)しました。

翌年春正月、これに反発した袁紹(えんしょう)らは「反董卓(とうたく)連合」を結成。すると董卓(とうたく)は、洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))を破壊して長安(ちょうあん)に遷都(せんと)を強行します。


そして初平(しょへい)2年(191年)冬、荊州(けいしゅう)に逃亡していた朱儁(しゅしゅん)が洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に攻め上がり、董卓(とうたく)が任命した河南尹(かなんいん)の楊懿(ようい)を敗走させると、司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)・中牟県(ちゅうぼうけん)に駐屯して「董卓(とうたく)討伐」を呼びかけました。

朱儁(しゅしゅん)を撃ち破る

翌初平(しょへい)3年(192年)1月、董卓(とうたく)は娘婿(むすめむこ)の中郎将(ちゅうろうしょう)・牛輔(ぎゅうほ)らを司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に駐屯させると、校尉(こうい)の李傕(りかく)、郭汜(かくし)、張済(ちょうせい)らに歩騎数万を与えて朱儁(しゅしゅん)を攻撃し、これを撃ち破ります。

その後郭汜(かくし)らは、兗州(えんしゅう)・陳留郡(ちんりゅうぐん)、豫州(よしゅう)・潁川郡(えいせんぐん)の諸県に侵出して略奪暴行を行ったため、多くの民が犠牲になりました。


朱儁の挙兵関連地図

朱儁(しゅしゅん)の挙兵関連地図

関連記事

董卓の死

初平(しょへい)3年(192年)4月、董卓(とうたく)が長安(ちょうあん)で司徒(しと)・王允(おういん)、呂布(りょふ)らに誅殺(ちゅうさつ)されました。

これを受け、陳留郡(ちんりゅうぐん)、潁川郡(えいせんぐん)で略奪を行っていた郭汜(かくし)らは、軍中にいた王允(おういん)、呂布(りょふ)と同じ幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))出身の者を激しく怨(うら)んで男女数百人を殺害します。

そして彼らが陝県(せんけん)に帰還した頃には、牛輔(ぎゅうほ)はすでに部下の攴胡赤児(ほくこせきじ)に殺害されており、兵士たちは落ち着く場所を失って、各自離散して故郷に帰ることを考えました。

すると牛輔(ぎゅうほ)の軍中にいた賈詡(かく)が、


「聞けば長安(ちょうあん)では、涼州人(りょうしゅうじん)を皆殺しにしようと議論しているとのこと。

それなのにあなた方は、兵隊たちを棄(す)てて単独で行こうとなさるとは。それでは亭長(ていちょう)が1人いれば、あなた方を捕らえることができるでしょう。

このまま軍勢を引き連れて西へ向かい、行く先々で軍兵を集め、長安(ちょうあん)を攻撃して董公(とうこう)(董卓(とうたく))の復讐をするべきです。

うまく事が運んだ暁(あかつき)には、天子(てんし)を奉じて天下を征伐するも良し。もし事がうまく運ばなかったならば、その時改めて逃亡を考えても遅くはないでしょう」


と言ったので、郭汜(かくし)らはこの賈詡(かく)の言葉に従うことにし、長安(ちょうあん)に向かうことにしました。

長安の陥落

長安(ちょうあん)を包囲する

すると王允(おういん)は、董卓(とうたく)の配下であった胡軫(こしん)と徐栄(じょえい)を派遣して新豊県(しんほうけん)で郭汜(かくし)らを迎撃させますが、徐栄(じょえい)は戦死し、胡軫(こしん)は兵と共に郭汜(かくし)らに降伏します。


司隷・京兆尹・新豊県

司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)・新豊県(しんほうけん)


迎撃軍を撃破した郭汜(かくし)らの軍勢は10万以上にふくれ上がり、さらに董卓(とうたく)の配下であった樊稠(はんちゅう)、李蒙(りもう)、王方(おうほう)らと合流して長安(ちょうあん)を包囲しました。

呂布(りょふ)との一騎打ち

この時郭汜(かくし)は長安城(ちょうあんじょう)の北側に布陣していましたが、やおら城門が開いたかと思うと、呂布(りょふ)が軍勢を率(ひき)いて郭汜(かくし)に接近し、「しばらく軍勢を遠ざけよ。1対1で勝負をつけよう」と、郭汜(かくし)に一騎打ちを挑みます。

そこで郭汜(かくし)と呂布(りょふ)は単独で対決しましたが、呂布(りょふ)の繰り出した矛(ほこ)が郭汜(かくし)に突き立てられると、郭汜(かくし)の背後に控(ひか)えていた騎兵が進み出て郭汜(かくし)を助けたため、呂布(りょふ)もそれ以上深追いせず、その場は両軍共に引き揚(あ)げました。

長安(ちょうあん)の陥落

長安城(ちょうあんじょう)を包囲して10日(『後漢書(ごかんじょ)』董卓伝(とうたくでん)では8日)、呂布(りょふ)軍の中にいた蜀(しょく)兵が離反し、城内から李傕(りかく)軍を手引きしました。

郭汜(かくし)・李傕(りかく)らは城内に侵入して呂布(りょふ)を敗走させると、南宮(なんきゅう)の掖門(えきもん)に駐屯して、

  • 衛尉(えいい)の种拂(ちゅうふつ)
  • 太僕(たいぼく)の魯馗(ろき)
  • 大鴻臚(だいこうろ)の周奐(しゅうかん)
  • 城門校尉(じょうもんこうい)の崔烈(さいれつ)
  • 越騎校尉(えっきこうい)の王頎(おうき)

らを殺害し、殺された官吏・民衆は1万人にのぼり、そこら中に死体が散乱しました。


その後、長安(ちょうあん)に留(とど)まった王允(おういん)が幼い天子(てんし)(献帝(けんてい))を抱(だ)きかかえ、戦闘を避けて宣平門(せんぺいもん)の楼(ろう)上に登ると、郭汜(かくし)・李傕(りかく)らは門の下に額(ぬか)ずき、地面にひれ伏して叩頭(こうとう)します。

すると天子(てんし)(献帝(けんてい))は、郭汜(かくし)らに向かって問いました。


「君たち臣下は刑罰・恩賞の権力を振るってはいけないはずだ。それを兵を放って勝手な真似をするとは、どういうつもりだ?」


これに郭汜(かくし)らは、


「董卓(とうたく)は陛下に忠義を尽くしておりましたのに、理由もなく呂布(りょふ)に殺されました。私どもは董卓(とうたく)のために復讐しただけで、謀叛(むほん)を起こしたのではございません。事が終わりましたなら、廷尉(ていい)の元に出頭して処罰を受ける所存です」


と答えます。

進退窮(きわ)まった王允(おういん)は楼(ろう)から下りて郭汜(かくし)らに降伏したので、郭汜(かくし)らはその妻子一族10人余りを処刑し、王允(おういん)の屍(しかばね)を市場に晒(さら)しました。

関連記事

スポンサーリンク


朝廷を支配する

大赦を受ける

王允(おういん)が処刑されると、天子(てんし)(献帝(けんてい))は大赦令(たいしゃれい)を発し、郭汜(かくし)らをみな将軍(しょうぐん)に任命しました。

李傕(りかく)

車騎将軍(しゃきしょうぐん)・池陽侯(ちようこう)に封ぜられ、司隷校尉(しれいこうい)の官を担当し、節(せつ)(部下を処刑する権限を示す旗)を与えられました。

郭汜(かくし)

後将軍(こうしょうぐん)・美陽侯(びようこう)に封ぜられました。

樊稠(はんちゅう)

右将軍(ゆうしょうぐん)・万年侯(まんねんこう)に封ぜられました。

張済(ちょうせい)

鎮東将軍(ちんとうしょうぐん)・平陽侯(へいようこう)に封ぜられました。


以降、郭汜(かくし)・李傕(りかく)・樊稠(はんちゅう)らは朝政を専断し、張済(ちょうせい)は司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に駐屯しました。

長平観の戦い

興平(こうへい)元年(194年)3月、馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)らが長安(ちょうあん)に攻め寄せると、李傕(りかく)は兄の子・李利(りり)を派遣して郭汜(かくし)、樊稠(はんちゅう)と共に長平観(ちょうへいかん)でこれを破り、1万人余りを斬首しました。

またこの年の8月、反乱を起こした司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)の羌族(きょうぞく)を撃ち破った郭汜(かくし)と樊稠(はんちゅう)は、開府の資格を加えられ、選挙(人事)に参与するようになります。

関連記事

李傕との対立

郭汜(かくし)と李傕(りかく)が対立する

興平(こうへい)2年(195年)2月、「樊稠(はんちゅう)が韓遂(かんすい)と秘かに和議を結び、異心を抱(いだ)いているのではないか」と疑っていた李傕(りかく)は、樊稠(はんちゅう)を会議に招(まね)き、その席で樊稠(はんちゅう)を殺害してしまいました。

このことがあってから、残った諸将はお互いに猜疑(さいぎ)し、郭汜(かくし)と李傕(りかく)はついに軍勢を整えて攻め合うようになります。

この事態に、献帝(けんてい)が侍中(じちゅう)や尚書(しょうしょ)を派遣して李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和解させようとしましたが、どちらも従いませんでした。

豆知識

『典略(てんりゃく)』には、郭汜(かくし)と李傕(りかく)の仲違いの原因として次のようなエピソードが記載されています。


李傕(りかく)はしばしば酒宴を設(もう)けて郭汜(かくし)を招(まね)き、時には郭汜(かくし)を引き留(と)めて家に泊(と)まらせることもありました。

郭汜(かくし)の妻は、李傕(りかく)が郭汜(かくし)に婢妾(ひしょう)(召使いの女性)をあてがって、自分への愛を奪うのではないかと恐れ、2人を仲違(なかたが)いさせようと考えるようになります。


そんな時、ちょうど李傕(りかく)から贈り物が届けられたので、郭汜(かくし)の妻は豉(し)(味噌)に毒薬を混ぜ、今まさに郭汜(かくし)が食べようとした時、


「外から来た食べ物には、何か仕掛けがあるかもしれません」


と言って毒薬をつまみ出してみせると、


「『一栖(せい)(1つの巣)に両雄あらず(両雄並び立たず)』と言います。私は以前から将軍(あなた)さまが李公(りこう)(李傕(りかく))を信頼していらっしゃることを疑問に思っておりました」


と言いました。


後日、何も知らない李傕(りかく)は、また郭汜(かくし)を酒宴に招(まね)いて存分に酒を振る舞いますが、李傕(りかく)が毒を盛ったのではないかと疑っている郭汜(かくし)は、解毒作用があるとされる「糞(くそ)を絞(しぼ)った汁」を飲んで見せたため、とうとう2人は不和となり、軍勢を整えて攻撃し合うようになりました。

天子(てんし)(献帝(けんてい))争奪戦

3月、董卓(とうたく)の部隊長であった安西将軍(あんせいしょうぐん)の楊定(ようてい)は李傕(りかく)に殺されることを恐れ、郭汜(かくし)と謀(はか)って天子(てんし)(献帝(けんてい))を自分たちの陣営に迎えようとしました。

ですがこの計画は、夜間に逃亡して密告する者がいて李傕(りかく)の知るところとなり、李傕(りかく)は兄の子・李暹(りせん)に数千の兵を率(ひき)いさせて宮殿を包囲します。

李暹(りせん)は天子(てんし)(献帝(けんてい))と金帛(きんぱく)や天子(てんし)の器物・衣裳を李傕(りかく)陣営の北塢(ほくう)に移すと、宮殿に押し入って宮人の日用品を略奪し、火を放って宮殿・宮府を焼きました。


すると天子(てんし)(献帝(けんてい))は、大尉(たいい)・楊彪(ようひょう)、司空(しくう)・張喜(ちょうき)ら十余人を郭汜(かくし)の元に派遣して李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦(わぼく)させようとしましたが、郭汜(かくし)はこれに従わず、楊彪(ようひょう)ら公卿(こうけい)たちを人質として拘留(こうりゅう)しました。

豆知識

ある時、郭汜(かくし)が公卿(こうけい)たちをもてなして、李傕(りかく)を攻撃するつもりで意見を求めました。

すると、太尉(たいい)の楊彪(ようひょう)が口を開きます。


「臣下たちが互いに闘(たたか)い合い、1人は天子(てんし)(献帝(けんてい))を脅迫し、1人は公卿(こうけい)を人質にする。このような事をしても良いとお思いか?」


そして、これを聞いて大いに怒った郭汜(かくし)が自(みずか)らの剣の柄(つか)に手をかけると、楊彪(ようひょう)は重ねて郭汜(かくし)を一喝(いっかつ)します。


「卿(けい)(あなた)は国家(天子(てんし))すら奉じていない!どうして私が生を求めようかっ!」


ですが、今にも楊彪(ようひょう)を斬らんとするところへ、中郎将(ちゅうろうしょう)・楊密(ようみつ)をはじめ左右の多くの者が固く諫(いさ)めたので、郭汜(かくし)は剣を収(おさ)めました。

郭汜(かくし)が李傕(りかく)を破る

李傕(りかく)が羌族(きょうぞく)や胡人(こじん)(匈奴(きょうど))数千人を招(まね)いて御物(ぎょぶつ)(皇室の所有品)の繒綵(そうさい)(綾絹(あやぎぬ))を与え、更に宮人(宮女)や婦女を与える約束をして、郭汜(かくし)を攻撃させようとしました。

また一方の郭汜(かくし)は、秘かに李傕(りかく)に与(くみ)していた中郎将(ちゅうろうしょう)・張苞(ちょうほう)と通じて李傕(りかく)攻撃を謀(はか)ります。


郭汜(かくし)が兵を率(ひき)いて李傕(りかく)の営門(陣営の門)に夜襲をかけると、矢が雨のように降り注(そそ)ぎ、献帝(けんてい)が泊まっている高楼殿前の簾帷(れんい)[簾(すだれ)と引き幕]の中にまで及び、李傕(りかく)の左耳を貫(つらぬ)きました。

一方、郭汜(かくし)と内通した張苞(ちょうほう)らが陣営内の建物を焼こうとしましたがうまく燃え上がらず、陣営の外で楊奉(ようほう)の抵抗を受けた郭汜(かくし)が兵を退いたので、張苞(ちょうほう)らは率(ひき)いていた兵と共に郭汜(かくし)に帰順します。


この日、李傕(りかく)は献帝(けんてい)を北塢(ほくう)に移しました。

皇甫酈(こうほれき)の和睦交渉

閏(うるう)5月、献帝(けんてい)は、涼州(りょうしゅう)の名門であり、使者としても有能な謁者僕射(えっしゃぼくや)の皇甫酈(こうほれき)を派遣して、李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦させようとします。

皇甫酈(こうほれき)はまず郭汜(かくし)の元を訪(おとず)れると、郭汜(かくし)は勅命を受け入れました。

次に皇甫酈(こうほれき)は李傕(りかく)を訪(たず)ねますが、李傕(りかく)は勅命を受け入れようとせず、


「儂(わし)には呂布(りょふ)討伐の功績があり、政治を補佐して以来4年、三輔(さんぽ)(右扶風(ゆうふふう)・左馮翊(さひょうよく)・京兆尹(けいちょういん)の3郡)は平穏になった。これは天下に周知の事実である。

郭多(かくた)(郭汜(かくし))は馬泥棒に過ぎない。どうして厚(あつ)かましくも儂(わし)と同等になろうとするのだ。儂(わし)はあくまで奴(郭汜(かくし))を殺すつもりだ。

君(皇甫酈(こうほれき))は涼州(りょうしゅう)の人間だが、儂(わし)の策略と軍勢が郭多(かくた)(郭汜(かくし))を始末できるかどうか見ていてくれ。

その上、郭多(かくた)(郭汜(かくし))は公卿(こうけい)を脅して人質にした。奴(郭汜(かくし))のやることがこんな風なのに、仮にも君(皇甫酈(こうほれき))が郭多(かくた)(郭汜(かくし))に利益を与えるつもりなら、この李傕(りかく)にも肝っ玉があることを自(みずか)ら知ることになるだろう」


と言いました。

すると皇甫酈(こうほれき)は、


「昔、有窮(ゆうきゅう)の君・后羿(こうげい)は、弓術に優れていることを頼みにして、災難が降りかかるなど考えもせず、その挙げ句に滅亡いたしました。

最近では、董太師(とうたいし)(董卓(とうたく))の強大ぶりを、将軍(しょうぐん)(李傕(りかく))さまもその目でご覧になられたでしょう。

朝廷の内には王公(おうこう)たちがいて、太師(たいし)(董卓(とうたく))のために朝廷内を取り仕切り、外には董旻(とうびん)・董承(とうしょう)・董璜(とうこう)ら親族がいて軍隊を統率しておりました。

ところが、呂布(りょふ)が恩を受けながら反逆して太師(たいし)(董卓(とうたく))殺害を企(くわだ)てますと、わずかの間に首が竿(さお)の先につり下げられました。

このような結果になりましたのは、武勇を持ちながら智謀がなかったからです。

今、将軍(しょうぐん)(李傕(りかく))ご自身は上将(じょうしょう)の位にあられ、(軍権を示す)鉞(まさかり)を手に(部下の裁判権を示す)節(せつ)を杖つき、ご子孫方は権力を掌握され、ご一族は天子(てんし)のご恩寵を受け、国家(天子(てんし))の下される高い爵位をすべて占有されています。

今、郭多(かくた)(郭汜(かくし))は公卿(こうけい)を脅して人質にし、将軍(しょうぐん)(李傕(りかく))は至尊(献帝(けんてい))を圧迫しておられる。どちらの罪が重いとお考えですか?

また、西方の実力者・張済(ちょうせい)は郭多(かくた)(郭汜(かくし))・楊定(ようてい)と共謀し、また高官の中にも支持者がおりますので、簡単には郭多(かくた)(郭汜(かくし))を討ち取れませんぞ。

楊奉(ようほう)は白波賊(はくはぞく)の指揮官に過ぎませんが、それでも将軍(しょうぐん)(李傕(りかく))の行為が正しくないことをわきまえております。将軍(しょうぐん)(李傕(りかく))が彼(楊奉(ようほう))に官位や恩寵を与えたとしましても、将軍(しょうぐん)(李傕(りかく))のために力の限り働くことは承知しないでしょう」


と答えます。

これを聞いた李傕(りかく)は皇甫酈(こうほれき)の意見を受け入れず、怒鳴りつけて退出させました。

関連記事

李傕と郭汜の争い。李傕が献帝を、郭汜が公卿を人質に取る

李傕と郭汜の和睦

郭汜(かくし)と李傕(りかく)が攻撃し合うようになって数ヶ月、死者は1万人を数えるようになっていました。

興平(こうへい)2年(195年)6月、李傕(りかく)の将軍(しょうぐん)・楊奉(ようほう)と軍官(ぐんかん)・宋果(そうからが李傕(りかく)の暗殺を企(くわだ)てますが、事前に計画が洩(も)れたため軍勢を率(ひき)いて謀反(むほん)を起こします。これにより、李傕(りかく)の勢力は次第に衰(おとろ)えました。


そしてこの頃、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に駐屯していた張済(ちょうせい)が長安(ちょうあん)に到着。李傕(りかく)と郭汜(かくし)を和睦(わぼく)させ、天子(てんし)(献帝(けんてい))をしばらく弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)に行幸(ぎょうこう)(外出)させることを提案します。


関連地図

関連地図


そこで、つねづね洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に帰りたいと願っていた天子(てんし)(献帝(けんてい))は両者に使者を送って説得を試みますが、李傕(りかく)の妻が反対したため交渉は難航。ですが、ちょうど李傕(りかく)に味方していた羌族(きょうぞく)や胡人(こじん)(匈奴(きょうど))が不満を抱(いだ)いて李傕(りかく)の元を去ったため、「お互いに娘を人質に出す」こと1同意しました。


スポンサーリンク

献帝の東遷

献帝と東に向かう

献帝(けんてい)の出発

秋7月、天子(てんし)(献帝(けんてい))が東に向かうため宣平門(せんぺいもん)(長安城(ちょうあんじょう)東面の北側第一門)を出て橋を渡ろうとした時、郭汜(かくし)の兵数百人がやって来て橋を遮(さえぎ)って、


「ここにおわすのは天子(てんし)(献帝(けんてい))であるか?」


と問いました。

車が進めなくなると、車を護衛していた李傕(りかく)の数百の兵は周囲を固めて大戟(だいげき)を構えます。

これを見た侍中(じちゅう)の劉艾(りゅうがい)は、大声で「天子(てんし)(献帝(けんてい))さまだっ!」と答え、侍中(じちゅう)の楊琦(ようき)に命じて車の御簾(みす)を高く上げさせました。


「お前たちは後ろへ下がりもせず、どうして至尊(天子(てんし))の側近くまで迫って来るのかっ!」


天子(てんし)(献帝(けんてい))の言葉を聞いた郭汜(かくし)の兵たちはようやく道を空(あ)け、車が橋を渡りきると、将兵たちはみな「万歳(ばんざい)」を唱(とな)えました。


上記の内容と矛盾するようですが、この時、李傕(りかく)は長安(ちょうあん)を出て封地の司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)・池陽県(ちようけん)に駐屯し、郭汜(かくし)は天子(てんし)(献帝(けんてい))に従って東に向かっています。

車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任命される

その夜、天子(てんし)(献帝(けんてい))の車は覇陵県(はりょうけん)に到着。この時、従者たちはみな腹を空かせていたので、張済(ちょうせい)は官位に応じて差をつけて食糧を分け与えました。


献帝の東遷経路1

献帝(けんてい)の東遷(とうせん)経路1


また、天子(てんし)(献帝(けんてい))は張済(ちょうせい)を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に任命して、三公(さんこう)と同様に独自の役所を開くことを許し、

  • 郭汜(かくし)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)
  • 楊定(ようてい)を後将軍(こうしょうぐん)
  • 楊奉(ようほう)を興義将軍(こうぎしょうぐん)

に任命してみな列侯(れっこう)に封じ、元牛輔(ぎゅうほ)の配下であった董承(とうしょうを安集将軍(あんしゅうしょうぐん)として天子(てんし)(献帝(けんてい))の側(そば)に侍(はべ)らせました。

郭汜(かくし)の失脚

8月、天子(てんし)(献帝(けんてい))が司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)・新豊県(しんほうけん)に到着します。

この時郭汜(かくし)はまたもや陰謀をめぐらせ、「天子(てんし)(献帝(けんてい))を脅(おど)して連れ戻し、司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・郿県(びけん)に都を置かせよう」としました。


これを知った侍中(じちゅう)の种輯(ちゅうしゅう)は、秘かに楊定(ようてい)・董承(とうしょう)・楊奉(ようほう)らに伝えて新豊県(しんほうけん)に集結させたので、郭汜(かくし)は自分の陰謀が漏(も)れたと知って、軍を棄(す)てて南山(なんざん)(長安(ちょうあん)にある終南山(しゅうなんざん))に逃亡しました。


献帝の東遷経路3

献帝(けんてい)の東遷(とうせん)経路2

関連記事

献帝の東遷。献帝が長安を出て司隷・弘農郡・華陰県に至る

再び李傕と手を結ぶ

天子(てんし)(献帝(けんてい))が司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・華陰県(かいんけん)に到着すると、華陰県(かいんけん)に駐屯していた寧輯将軍(ねいしゅうしょうぐん)・段煨(だんわい)と、天子(てんし)(献帝(けんてい))に従って来た楊定(ようてい)、种輯(ちゅうしゅう)、左霊(されい)らの間で争いが起こります。


献帝の東遷経路4

献帝(けんてい)の東遷(とうせん)経路4


この頃、郭汜(かくし)と李傕(りかく)は、天子(てんし)(献帝(けんてい))を東に向かわせたことを後悔していました。

そんな時、楊定(ようてい)が段煨(だんわい)を攻撃したと聞いた2人は、お互いに誘い合い、「段煨(だんわい)を救援する」という名目で華陰県(かいんけん)に行き、天子(てんし)(献帝(けんてい))を脅迫して西(長安(ちょうあん))に連れ帰ろうと計画します。


郭汜(かくし)と李傕(りかく)がやって来たことを知った楊定(ようてい)は、南の司隷(しれい)・京兆尹(けいちょういん)・藍田県(らんでんけん)に還(かえ)ろうとしましたが、郭汜(かくし)に遮(さえぎ)られたため、単騎荊州(けいしゅう)に逃亡してしまいました。

またこの時、楊奉(ようほう)・董承(とうしょう)らと折り合いが悪かった張済(ちょうせい)は、再び郭汜(かくし)・李傕(りかく)と合流します。

献帝を追う

東澗(とうかん)の戦い

11月、天子(てんし)(献帝(けんてい))が司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)に到着しました。


司隷・弘農郡・弘農県

司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)


郭汜(かくし)・李傕(りかく)・張済(ちょうせい)は天子(てんし)(献帝(けんてい))を追撃し、弘農県(こうのうけん)の東澗(とうかん)(渓谷(けいこく))で董承(とうしょう)・楊奉(ようほう)らと激しい戦闘になります。

天子(てんし)の軍は敗北し、百官や士卒の死者は数え切れず、ほぼすべての御物(ぎょぶつ)(服飾や器物)や符策(ふさく)(符節(ふせつ)や命令書)、典籍(てんせき)は棄(す)てられました。

曹陽澗(そうようかん)の戦い

郭汜(かくし)らに敗れた天子(てんし)(献帝(けんてい))は、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)の曹陽澗(そうようかん)(渓谷(けいこく))で野宿しました。

この時董承(とうしょう)と楊奉(ようほう)は、偽(いつわ)って李傕(りかく)らと手を組んだ振りをして秘(ひそ)かに司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)に密使を送り、

  • 元白波賊(はくはぞく)の帥(すい)・李楽(りがく)
  • 韓暹(かんせん)
  • 胡才(こさい)
  • 南匈奴(なんきょうど)の右賢王(ゆうけんおう)・去卑(きょひ)(『後漢書(ごかんじょ)』孝献帝紀(こうけんていぎ)では左賢王(さけんおう))

らを招(まね)きます。

そして12月、李楽(りがく)らを迎えた天子(てんし)(献帝(けんてい))が曹陽澗(そうようかん)から出発すると、郭汜(かくし)らは再度天子(てんし)(献帝(けんてい))一行を襲撃し、天子(てんし)(献帝(けんてい))一行は40里(17km)も追撃を受け、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・陝県(せんけん)に着いて陣営を構えた時には、虎賁兵(こほんへい)・羽林兵(うりんへい)合わせて100人にも満ちませんでした。

もはや支えきれないと悟(さと)った天子(てんし)(献帝(けんてい))一行は、李楽(りがく)に命じて夜の間に秘(ひそ)かに船を調達させ、黄河(こうが)を渡って北の司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・大陽県(たいようけん)に向かうことにします。


司隷・河東郡・大陽県

司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・大陽県(たいようけん)


黄河(こうが)の北岸に火が灯(とも)っているのを見た李傕(りかく)が急いでこれを追い、対岸から矢を射かけましたが、董承(とうしょう)が船に幔幕を張って進んだので、天子(てんし)(献帝(けんてい))は無事 対岸の司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・大陽県(たいようけん)に着くことができました。

献帝(けんてい)との和睦(わぼく)

大陽県(たいようけん)からさらに北上して司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)に入った天子(てんし)(献帝(けんてい))は、太僕(たいぼく)の韓融(かんゆう)を派遣して郭汜(かくし)らに和睦(わぼく)を求めます。

郭汜(かくし)・李傕(りかく)はこの申し出を受け入れ、捕らえていた公卿(こうけい)百官を釈放し、これまで奪った宮女や御物(ぎょぶつ)(服飾や器物)の多くを天子(てんし)(献帝(けんてい))に返還しました。

関連記事

李傕と郭汜に追われた献帝が、黄河を渡り安邑県を都に定める

郭汜の死

その後郭汜(かくし)・李傕(りかく)は権勢を失い、建安(けんあん)2年(197年)、郭汜(かくし)は配下の将・伍習(ごしゅう)に襲撃され、司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・郿県(びけん)で殺害されました。


董卓(とうたく)の娘婿(むすめむこ)・牛輔(ぎゅうほ)配下の校尉(こうい)であった郭汜(かくし)は、董卓(とうたく)の死後、李傕(りかく)・張済(ちょうせい)・樊稠(はんちゅう)らと共に長安(ちょうあん)を包囲・陥落(かんらく)させ、朝廷の実権を握りました。

ですが、しばらくして李傕(りかく)が樊稠(はんちゅう)を殺害すると、残った諸将はお互いに猜疑(さいぎ)し合い、郭汜(かくし)と李傕(りかく)はついに軍勢を整えて攻め合うようになります。

その後、張済(ちょうせい)の仲裁により李傕(りかく)と和睦(わぼく)した郭汜(かくし)は献帝(けんてい)と共に東に向かいますが、献帝(けんてい)を脅(おど)して連れ戻そうとして失敗。郭汜(かくし)は再び李傕(りかく)と結んで献帝(けんてい)一行を追いました。

そこで郭汜(かくし)らは、献帝(けんてい)一行に大きな被害を与えましたが献帝(けんてい)を捕らえることはできず、献帝(けんてい)が黄河(こうが)北岸の安邑県(あんゆうけん)に入ってしまいます。

その後、献帝(けんてい)との和睦(わぼく)を受け入れた郭汜(かくし)と李傕(りかく)ですが、その後急速に求心力を失い、最期は配下の伍習(ごしゅう)に襲撃され、殺害されてしまいました。


スポンサーリンク


郭汜データベース

郭汜関連年表

西暦 出来事
不明
  • 涼州(りょうしゅう)・張掖郡(ちょうえきぐん)に生まれる。
192年

■ 初平(しょへい)3年

  • 司隷(しれい)・河南尹(かなんいん)・中牟県(ちゅうぼうけん)に朱儁(しゅしゅん)を撃ち破る。
  • 董卓(とうたく)が誅殺(ちゅうさつ)される。
  • 軍中の幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))出身の者・男女数百人を殺害する。
  • 赦免(しゃめん)を求めるが王允(おういん)は許さなかった。
  • 長安(ちょうあん)を包囲し、陥落させる。
  • 後将軍(こうしょうぐん)・美陽侯(びようこう)に封ぜられ、李傕(りかく)・樊稠(はんちゅう)と共に朝政を専断する。
194年 ■興平(こうへい)元年

  • 李利(りり)、樊稠(はんちゅう)と長平観(ちょうへいかん)で馬騰(ばとう)・韓遂(かんすい)らを破る。
  • 反乱を起こした司隷(しれい)・左馮翊(さひょうよく)の羌族(きょうぞく)を撃ち破る。
  • 開府の資格を加えられ、選挙(人事)に参与する。
195年 ■興平(こうへい)2年

  • 李傕(りかくと仲(なか)違(たが)いし、お互いに攻め合うようになる。
  • 李傕(りかく)が天子(てんし)(献帝(けんてい))を陣営に迎える。
  • 公卿(こうけい)たちを人質として拘留(こうりゅう)する。
  • 李傕(りかく)を撃ち破る。
  • 張済(ちょうせい)が長安(ちょうあん)に到着し、天子(てんし)(献帝(けんてい))を弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)に行幸(ぎょうこう)(外出)させることを提案する。
  • 李傕(りかく)と和睦(わぼく)する。
  • 天子(てんし)(献帝(けんてい))に従い東に向かう。
  • 天子(てんし)(献帝(けんてい))を司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・郿県(びけん)に移そうと画策する。
  • 事が漏(も)れ、軍を棄(す)てて南山(なんざん)(長安(ちょうあん)にある終南山(しゅうなんざん))に逃亡する。
  • 再び李傕(りかく)と手を結ぶ。
  • 李傕(りかく)らと天子(てんし)(献帝(けんてい))を追い、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)・弘農県(こうのうけん)の曹陽澗(そうようかん)で大いに撃ち破る。
  • 天子(てんし)(献帝(けんてい))と和睦(わぼく)する。
197年
  • 配下の将・伍習(ごしゅう)に襲撃され、司隷(しれい)・右扶風(ゆうふふう)・郿県(びけん)で殺害される。

配下

夏育(かいく)、高碩(こうせき)、伍習(ごしゅう)