正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑯、偃王〔徐〕・縁城・燕茘陽です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
偃
縁
燕
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え⑯(偃・縁・燕)
偃(えん)
偃王〔徐〕
生年不詳〜穆王14年(紀元前963年)没。西周時代の徐国(徐夷)の君主。
西周・穆王の西征中に徐夷が九夷を率いて宗周(東都・洛邑)を攻撃し、更に西進して黄河に至ったため、穆王は徐夷の勢いを恐れて徐子(偃王)を東方諸侯の長に任命した。
徐子(偃王)は仁義による政治を行ったため、徐に朝貢する諸侯は36国にのぼったが、偃王を称したことで穆王の怒りを買い、穆王は楚に徐を攻撃させる。
すると偃王は、領民を戦いに巻き込むことに忍びず、従って来た万を数える民衆と共に、北方の彭城武原の東の山麓に逃亡した。そのため偃王が逃亡した山は徐山と名づけられた。
『後漢紀』の撰者・張璠は、劉璋を評して「劉璋は愚かで脆弱な男であったが善言を守った。これもまた、宋の襄公、徐の偃王と同じ類の人物で、無道の君主という程ではない」と言っている。
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縁(えん)
燕(えん)
燕茘陽
生没年不詳。鮮卑の大人。安帝の時代に
後漢・殤帝の延平元年(106年)、鮮卑が東に移動を始め、長城の中に侵入して漁陽太守の張顕を殺害した。
次の安帝の時代、鮮卑の大人・燕茘陽が入朝*1して来たため、漢の朝廷は彼に鮮卑王の印綬と赤い馬車、馬車を引かせる3頭の馬を授け、烏丸校尉の役所のある甯の町に居留させた。
また、胡市*2を設け、南と北との2つに分けて人質を置くための宮殿を建て、鮮卑の各邑落から差し出される人質120部族分をそこに受け入れた。
脚注
*1外国の使節などが朝廷に参内すること。
*2異民族との交易のための市場。
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