正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑭、偃王えんおうじょ〕・縁城えんじょう燕茘陽えんれいようです。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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え①(永・栄・盈)

偃(えん)

偃王えんおうじょ

生年不詳〜穆王ぼくおう14年(紀元前963年)没。西周せいしゅう時代の徐国じょこく徐夷じょい)の君主。

西周せいしゅう穆王ぼくおう西征せいせい中に徐夷じょい九夷きゅういひきいて宗周そうしゅう(東都・洛邑らくゆう)を攻撃し、更に西進して黄河こうがに至ったため、穆王ぼくおう徐夷じょいの勢いを恐れて徐子じょし偃王えんおう)を東方諸侯の長に任命した。

徐子じょし偃王えんおう)は仁義による政治を行ったため、じょに朝貢する諸侯は36国にのぼったが、偃王えんおうを称したことで穆王ぼくおうの怒りを買い、穆王ぼくおうじょを攻撃させる。

すると偃王えんおうは、領民を戦いに巻き込むことに忍びず、従って来た万を数える民衆と共に、北方の彭城ほうじょう武原ぶげんの東の山麓さんろくに逃亡した。そのため偃王えんおうが逃亡した山は徐山じょさんと名づけられた。


後漢紀ごかんき撰者せんじゃ張璠ちょうはんは、劉璋りゅうしょうを評して「劉璋りゅうしょうおろかで脆弱ぜいじゃくな男であったがぜんげんを守った。これもまた、そう襄公じょうこうじょ偃王えんおうと同じたぐいの人物で、無道の君主というほどではない」と言っている。


縁(えん)

縁城えんじょう

生没年不詳。

張角ちょうかくの反乱(黄巾こうきんの乱)に呼応して蜂起した、常山じょうざん趙郡ちょうぐん中山ちゅうざん上党じょうとう河内かだいの諸山谷の賊徒(黒山賊こくざんぞく)の1人。


燕(えん)

燕茘陽えんれいよう

生没年不詳。鮮卑せんぴ大人たいじん安帝あんていの時代に

後漢ごかん殤帝しょうてい延平えんぺい元年(106年)、鮮卑せんぴが東に移動を始め、長城の中に侵入して漁陽太守ぎょようたいしゅ張顕ちょうけんを殺害した。

次の安帝あんていの時代、鮮卑せんぴ大人たいじん燕茘陽えんれいようが入朝*1して来たため、かんの朝廷は彼に鮮卑王せんぴおう印綬いんじゅと赤い馬車、馬車を引かせる3頭の馬をさずけ、烏丸校尉うがんこういの役所のあるねいの町に居留させた。

また、胡市こし*2もうけ、南と北との2つに分けて人質を置くための宮殿を建て、鮮卑せんぴの各邑落ゆうらくから差し出される人質120部族分をそこに受け入れた。

脚注

*1外国の使節などが朝廷に参内すること。

*2異民族との交易のための市場。



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【三国志人物伝】総索引