正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑬、袁盎えんおう袁毅えんき袁嗣えんし袁信えんしん袁沛えんはい袁龍えんりょう袁綝えんりん袁綝えんちん)・袁礼えんれい袁雄えんゆう袁淮えんわいです。

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凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。


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え⑬(袁⑥)

汝南じょなん袁氏えんし陳国ちんこく袁氏えんし広陵こうりょう袁氏えんし以外の袁氏えんし

その他の袁氏

袁盎えんおう

生没年不詳。兄は袁噲えんかいおい(兄の子)に袁种えんちゅう前漢ぜんかん文帝ぶんてい景帝けいていに仕え、皇帝に直言を発し続け、あつく信頼された。

顧譚こたんが、「孫権そんけん寵愛ちょうあいする孫覇そんは太子たいし孫和そんかひとしい待遇を受けさせていた」ことをいさめる際に、

前漢ぜんかん文帝ぶんてい慎夫人しんふじん皇后こうごうと同じ席に座らせた時、袁盎えんおう夫人ふじんの座を後ろに下げさせた。
これに文帝ぶんていは腹立ちで顔色を変えたが、袁盎えんおうは身分の上下の差異をき、『寵愛ちょうあいたのんだ戚夫人せきふじん*1が斬りきざまれて悲惨ひさんな最期をげた』といういましめをべたところ、文帝ぶんていは喜び、慎夫人しんふじんも納得した」

という例をげた他、杜摯とし毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)に送った詩の中にうたわれている。

脚注

*1高祖こうそ劉邦りゅうほう)の側室。皇太后こうたいごうとなった呂雉りょちは、彼女の両手両足を切断、目耳声をつぶし、かわや(トイレ)に投げ落として「人彘じんてい人豚ひとぶた)」と呼ばせたという。


袁毅えんき

生没年不詳。冀州きしゅう平原国へいげんこく鬲県かくけん県令けんれい

河南尹かなんいん侍中じちゅうを歴任する王恂おうじゅんに駿馬をおくったが、袁毅えんき貪欲どんよく振りを知っていた王恂おうじゅんは受け取らなかった。最後には汚職によって失脚した。


袁嗣えんし

生没年不詳。袁術えんじゅつによって任命された陳国相ちんこくそう豫州よしゅう予州よしゅう)・陳国ちんこく太守たいしゅ]。袁術えんじゅつとの続柄は不明。

建安けんあん元年(196年)春正月、陳国ちんこく武平県ぶへいけんに攻め寄せた曹操そうそうの軍に降伏した。


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袁信えんしん

生没年不詳。の第3代皇帝・曹芳そうほうに使えた役者。

曹芳そうほうは成人したにもかかわらず政治を行わず、学者をさげずみ遠ざけ学業をおろそかにし、毎日郭懐かくかい袁信えんしんといったつまらぬ役者どもを引き入れて女色におぼれていた。

その様子は、彼らに建始殿けんしでん芙蓉殿ふようでんの前で真っ裸になって女官たちとたわむれさせ、その様子を后妃こうひたちと見物して楽しみ、ある時は郭懐かくかい袁信えんしんに妖婦の格好をさせて度の過ぎた悪ふざけをさせ、広望観こうぼうかんの上から道行く人が目をおおう様子を楽しみ、またある時は、陵雲台りょううんだいすみとばりを張って親族の婦人をまねき入れ、郭懐かくかい袁信えんしんに酒をがせて酔いつぶし、乱交に及ぶような有り様だった。


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袁沛えんはい

生没年不詳。

孫策そんさく揚州ようしゅう会稽郡かいけいぐんに侵攻すると、許靖きょせい鄧子孝とうしこうらと海を渡って交州こうしゅうに避難した。

後に許靖きょせい徐元賢じょげんけんらと荊州けいしゅうに向かおうとするが、蛮族ばんぞくの反乱により交通が途絶したため断念した。この時、徐元賢じょげんけん蛮族ばんぞくに殺されている。

考察

沛国相はいこくしょう豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく太守たいしゅ]の袁忠えんちゅう曹操そうそううらみを買い、会稽郡かいけいぐん交州こうしゅうに渡っており、袁沛えんはい交州こうしゅうに渡った時期と一致する。

袁沛えんはい」とは「沛国相はいこくしょう袁忠えんちゅう」の意味であり、袁沛えんはい袁忠えんちゅうは同一人物の可能性もある。

関連人物

袁龍えんりょう

生没年不詳。劉備りゅうび配下の中郎将ちゅうろうしょう

建安けんあん20年(215年)、孫権そんけん配下の呂岱りょたい長沙郡ちょうさぐん零陵郡れいりょうぐん桂陽郡けいようぐんの3郡を奪取した。

この時袁龍えんりょうは、関羽かんうと連絡を取り合い、安成県長あんせいけんちょう呉碭ごとうと共に反乱を起こして長沙郡ちょうさぐん醴陵県れいりょうけんに立てもるが、呂岱りょたいの攻撃を受けて捕らえられ、斬られた。


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袁綝えんりん袁綝えんちん

生没年不詳。しょく前将軍ぜんしょうぐん都亭侯とていこう李平りへい李厳りげん)を解任する決議をした23人の中に名前がある。

しょく建興けんこう9年(231年)、4度目の北伐ほくばつにおいて、李平りへい李厳りげん)が食糧輸送に失敗したことにより、諸葛亮しょかつりょう祁山きざんからの撤退を余儀なくされた。

成都せいとに戻ってみると李平りへい李厳りげん)は敗戦の責任をすべて諸葛亮しょかつりょうに着せようとしたので、諸葛亮しょかつりょうはこれまでの李平りへい李厳りげん)の罪をげ、劉琰りゅうえん魏延ぎえん袁綝えんりんら22人と協議して即刻李平りへい李厳りげん)を解任し、かんろくわりいんじゅさく(辞令)を召し上げ、そのしゃくほう)を没収した。


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袁礼えんれい

生没年不詳。中書郎ちゅうしょろう赤烏せきう元年(238年)に、孫権そんけんおもった臣下に陳謝の言葉を伝える使者となった。

当時孫権そんけん校事こうじ(監察官)の呂壱りょいつを信任していたが、彼は生まれつき情け容赦ない性格で、法令をれつに適用した。

そこで太子たいし孫登そんとうは しばしば呂壱りょいつもちいることをいさめたが、孫権そんけんは聞き入れることはなかったので、誰もそのことを上言しようとはしなくなった。

後に呂壱りょいつの悪事が発覚して誅殺ちゅうさつされると、孫権そんけんみずからのあやまちを認め、袁礼えんれいを派遣しておもった臣下に陳謝し、現在の施策に改める点があるかをたずねさせた。

袁礼えんれいが戻って言うには、諸葛瑾しょかつきん歩騭ほしつ朱然しゅぜん呂岱りょたい陸遜りくそん潘濬はんしゅんらはみな、孫権そんけんを恐れて質問に答えなかったとのこと。

孫権そんけんは改めて反省し、自分の及ばぬ点を正してくれるように願うみことのりを下した。


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袁雄えんゆう

生没年不詳。孫策そんさく配下の校尉こうい

呂蒙りょもうがまだ年端もいかぬ頃、自分を侮辱した役人を斬り殺して逃亡した呂蒙りょもうと、役所の間を取り次いで自首させた。

この事件を伝え聞いた孫策そんさく呂蒙りょもうを呼び出して引見し、その非凡さを見て取ると、し寄せて自分の側近に使うこととした。


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袁淮えんわい

生没年不詳。の臣。

正始せいし7年(246年)、将軍しょうぐん朱然しゅぜん柤中そちゅうに侵入すると、柤中そちゅうの官民1万余家は沔水べんすいを渡って避難した。

この時司馬懿しばいは「もし今すぐ民を元の所に帰すと必ず敵襲をまねくことになる。仮にこのままたいりゅうさせる方が良い」と言ったが、曹爽そうそうはこれを聞き入れず、結局また朱然しゅぜんの襲撃を受けた。

そこで袁淮えんわいは、再度曹爽そうそうに「淮南わいなんから引きげることの利益」をいたが、それでも曹爽そうそう淮南わいなんの諸郡を移さなかった。


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