正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「え」から始まる人物の一覧⑮、袁盎・袁毅・袁嗣・袁信・袁沛・袁龍・袁綝(袁綝)・袁礼・袁雄・袁淮です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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え⑮(袁⑦)
汝南袁氏、陳国袁氏、広陵袁氏以外の袁氏。
その他の袁氏
袁盎・絲
生没年不詳。兄は袁噲。甥(兄の子)に袁种。前漢の文帝・景帝に仕え、皇帝に直言を発し続け、篤く信頼された。
呉の顧譚が、「孫権が寵愛する孫覇に太子の孫和と等しい待遇を受けさせていた」ことを諫める際に、
「前漢の文帝が慎夫人を皇后と同じ席に座らせた時、袁盎は夫人の座を後ろに下げさせた。
これに文帝は腹立ちで顔色を変えたが、袁盎は身分の上下の差異を説き、『寵愛を恃んだ戚夫人*1が斬り刻まれて悲惨な最期を遂げた』という誡めを陳べたところ、文帝は喜び、慎夫人も納得した」
という例を挙げた他、魏の杜摯が毌丘倹(毋丘倹)に送った詩の中に詠われている。
脚注
*1高祖(劉邦)の側室。皇太后となった呂雉は、彼女の両手両足を切断、目耳声を潰し、厠(トイレ)に投げ落として「人彘(人豚)」と呼ばせたという。
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袁信
生没年不詳。魏の第3代皇帝・曹芳に使えた役者。
曹芳は成人したにも拘わらず政治を行わず、学者を蔑み遠ざけ学業を疎かにし、毎日郭懐・袁信といったつまらぬ役者どもを引き入れて女色に溺れていた。
その様子は、彼らに建始殿や芙蓉殿の前で真っ裸になって女官たちと戯れさせ、その様子を后妃たちと見物して楽しみ、ある時は郭懐や袁信に妖婦の格好をさせて度の過ぎた悪ふざけをさせ、広望観の上から道行く人が目を覆う様子を楽しみ、またある時は、陵雲台の隅に帳を張って親族の婦人を招き入れ、郭懐・袁信に酒を注がせて酔いつぶし、乱交に及ぶような有り様であった。
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袁沛
生没年不詳。
孫策が揚州・会稽郡に侵攻すると、許靖・鄧子孝らと海を渡って交州に避難した。
後に許靖・徐元賢らと荊州に向かおうとするが、蛮族の反乱により交通が途絶したため断念した。この時、徐元賢は蛮族に殺されている。
考察
沛国相[豫州(予州)・沛国の太守]の袁忠は曹操の怨みを買い、会稽郡を経て交州に渡っており、袁沛が交州に渡った時期と一致する。
「袁沛」とは「沛国相・袁忠」の意味であり、袁沛と袁忠は同一人物の可能性もある。
関連人物
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袁龍
生没年不詳。劉備配下の中郎将。
建安20年(215年)、孫権配下の呂岱が長沙郡、零陵郡、桂陽郡の3郡を奪取した。
この時袁龍は、関羽と連絡を取り合い、安成県長の呉碭と共に反乱を起こして長沙郡・醴陵県に立て籠もるが、呂岱の攻撃を受けて捕らえられ、斬られた。
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袁綝(袁綝)
生没年不詳。蜀の前将軍・都亭侯。李平(李厳)を解任する決議をした23人の中に名前がある。
蜀の建興9年(231年)、4度目の北伐において、李平(李厳)が食糧輸送に失敗したことにより、諸葛亮は祁山からの撤退を余儀なくされた。
成都に戻ってみると李平(李厳)は敗戦の責任をすべて諸葛亮に着せようとしたので、諸葛亮はこれまでの李平(李厳)の罪を挙げ、劉琰、魏延、袁綝ら22人と協議して即刻李平(李厳)を解任し、官禄・割符・印綬・符策(辞令)を召し上げ、その爵土(封土)を没収した。
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袁礼
生没年不詳。呉の中書郎。赤烏元年(238年)に、孫権が主立った臣下に陳謝の言葉を伝える使者となった。
当時孫権は校事(監察官)の呂壱を信任していたが、彼は生まれつき情け容赦ない性格で、法令を苛烈に適用した。
そこで太子の孫登は しばしば呂壱を用いることを諫めたが、孫権は聞き入れることはなかったので、誰もそのことを上言しようとはしなくなった。
後に呂壱の悪事が発覚して誅殺されると、孫権は自らの過ちを認め、袁礼を派遣して主立った臣下に陳謝し、現在の施策に改める点があるかを尋ねさせた。
袁礼が戻って言うには、諸葛瑾、歩騭、朱然、呂岱、陸遜、潘濬らはみな、孫権を恐れて質問に答えなかったとのこと。
孫権は改めて反省し、自分の及ばぬ点を正してくれるように願う詔を下した。
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袁雄
生没年不詳。孫策配下の校尉。
呂蒙がまだ年端もいかぬ頃、自分を侮辱した役人を斬り殺して逃亡した呂蒙と、役所の間を取り次いで自首させた。
この事件を伝え聞いた孫策は呂蒙を呼び出して引見し、その非凡さを見て取ると、召し寄せて自分の側近に使うこととした。
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袁淮
生没年不詳。魏の臣。
正始7年(246年)、呉の将軍・朱然が柤中に侵入すると、柤中の官民1万余家は沔水を渡って避難した。
この時司馬懿は「もし今すぐ民を元の所に帰すと必ず敵襲を招くことになる。仮にこのまま滞留させる方が良い」と言ったが、曹爽はこれを聞き入れず、結局また朱然の襲撃を受けた。
そこで袁淮は、再度曹爽に「淮南から引き揚げることの利益」を説いたが、それでも曹爽は淮南の諸郡を移さなかった。
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