191年4月、長安(ちょうあん)に遷都(せんと)した後も洛陽(らくよう)郊外の畢圭苑(ひつけいえん)に駐屯していた董卓(とうたく)は、ついに長安(ちょうあん)に入りました。
「正史」の記事一覧(25 / 29ページ目)
董卓軍の敗因は呂布の裏切りだった!?陽人の戦いと孫堅の洛陽入り
191年2月、ついに孫堅(そんけん)が洛陽(らくよう)に向けて進軍を開始しました。反董卓(とうたく)連合の初勝利となった「陽人(ようじん)の戦い」から、孫堅(そんけん)が洛陽(らくよう)に入るまでをまとめています。
反董卓連合が劉虞を天子に推戴する。袁紹と袁術の間に生まれた亀裂
191年1月、袁紹(えんしょう)と韓馥(かんふく)は、幽州牧(ゆうしゅうぼく)・劉虞(りゅうぐ)に使者を送って天子に即位するように願いました。袁紹(えんしょう)による天子推戴(すいたい)の経緯とその影響について考えてみま・・・
董卓による五銖銭改鋳の真意とは?後漢の通貨と粗悪な董卓五銖の影響
長安(ちょうあん)に遷都(せんと)を強行した董卓(とうたく)は、従来の五銖銭(ごしゅせん)をつぶして新たに粗悪な小銭を鋳造(ちゅうぞう)しました。 董卓(とうたく)が五銖銭(ごしゅせん)を改鋳(かいちゅう)した理由と、粗・・・
失敗した反董卓連合との和睦。董卓はなぜ袁隗・袁基を殺害したのか?
董卓(とうたく)による袁隗(えんかい)・袁基(えんき)の殺害と反董卓(とうたく)連合との和睦(わぼく)交渉の時期は、史料によって異なっています。それぞれの時期に応じて、董卓(とうたく)が袁隗(えんかい)・袁基(えんき)を・・・