袁術(えんじゅつ)が天子(てんし)(皇帝)の位を望むようになった経緯と、孫策(そんさく)が袁術(えんじゅつ)と関係を絶つまでの経緯についてまとめています。
「正史」の記事一覧(20 / 29ページ目)
袁術の徐州侵攻と呂布の裏切り。劉備が徐州を失い呂布に投降する
建安(けんあん)元年(196年)6月、徐州(じょしゅう)に侵攻した袁術(えんじゅつ)と劉備(りゅうび)の戦いと呂布(りょふ)の裏切り(張飛(ちょうひ)と曹豹(そうほう)の諍(いさか)いによる下邳県(かひけん)の失陥)、呂・・・
献帝の洛陽入りと曹操の豫州(予州)侵攻
献帝(けんてい)が司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)から洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))に入るまでと、曹操(そうそう)の豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))侵攻についてまとめています。
【鮑丘の戦い】鮮于輔らに敗れた公孫瓚が易京に立て籠もる
劉虞(りゅうぐ)を処刑して幽州(ゆうしゅう)の実権を握った公孫瓚(こうそんさん)を、鮮于輔(せんうほ)・麴義(きくぎ)(袁紹(えんしょう))らが破った「鮑丘(ほうきゅう)の戦い」についてまとめています。
曹操の雍丘県包囲と臧洪の反乱。張超と臧洪の絆
兗州(えんしゅう)をほぼ手中に収(おさ)めた曹操(そうそう)が最後に残った雍丘県(ようきゅうけん)を包囲すると、これを救援しようとする臧洪(ぞうこう)と、それを許さない袁紹(えんしょう)の間に亀裂が生じました。 雍丘県(・・・
孫策の江東進出。袁術の下を離れた孫策が劉繇を破って呉郡に入る
孫策(そんさく)の江東(こうとう)平定の前半戦。袁術(えんじゅつ)の下を離れた孫策(そんさく)が劉繇(りゅうよう)を破り、呉郡太守(ごぐんたいしゅ)・許貢(きょこう)を逃亡させるまでについてまとめています。
袁紹はなぜ献帝を鄴に迎えなかったのか
興平(こうへい)2年(195年)7月、献帝(けんてい)が長安(ちょうあん)を出て東に向かい、司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・安邑県(あんゆうけん)を都に定めたことを受け、袁紹(えんしょう)は使者として郭図(かくと)・・・