朝廷で権力を握った董卓(とうたく)は、天子の廃立に始まり数々の略奪・暴行を働いたために、袁紹(えんしょう)を盟主とする反董卓(とうたく)連合が結成されました。では、なぜ董卓(とうたく)は諸侯の反感を買うようなことをしたの・・・
「正史」の記事一覧(27 / 29ページ目)
太っ腹!親分肌の董卓が洛陽に入るまで。董卓の評判と心境の変化
暴虐非道な暴君というイメージが強い董卓(とうたく)ですが、若い頃は太っ腹な親分肌であったことは有名です。ではなぜ朝廷での董卓(とうたく)の評判が悪かったのでしょうか? 董卓(とうたく)が洛陽(らくよう)に入るまでの動向か・・・
諸豪族の入洛。董卓はどのようにして権力を手中に収めたのか
袁紹(えんしょう)たちによる宦官一掃を受けて、少帝(しょうてい)と陳留王(ちんりゅうおう)は宦官たちに連れられて洛陽(らくよう)を脱出してしまいました。 そして、少帝(しょうてい)と陳留王(ちんりゅうおう)を保護して洛陽・・・
なぜ袁紹の宦官一掃は成功したのか?何進の死と袁紹による宦官の一掃
諸豪族を洛陽(らくよう)に召集して宦官たちを追いつめた何進(かしん)ですが、逆に宦官たちに暗殺されてしまいました。 その後、宦官一掃に成功した袁紹(えんしょう)ですが、袁紹(えんしょう)がこれまで誰も成し得なかった宦官一・・・
なぜ何進は董卓を洛陽に呼び寄せたのか?霊帝の崩御と朝廷の混乱
189年4月に霊帝(れいてい)が崩御がすると、大将軍(だいしょうぐん)・何進(かしん)は宦官を一掃するために、袁紹(えんしょう)と謀って諸豪族を召集しました。では、なぜ何進(かしん)は諸豪族を召集する必要があったのでしょ・・・
益州の反乱「馬相の乱」、入蜀した劉焉の野望と五斗米道
188年に鎮圧された益州の黄巾賊の反乱「馬相(ばしょう)の乱」と、自(みずか)ら提案した州牧(しゅうぼく)として益州(えきしゅう)に入った劉焉(りゅうえん)の野望、漢中(かんちゅう)に独立勢力を築いた五斗米道について考え・・・
幽州の反乱「張純の乱」とは。公孫瓚の台頭と劉虞との確執
公孫瓚(こうそんさん)を群雄の1人に押し上げるきっかけとなった幽州の反乱「張純(ちょうじゅん)の乱」と、これが原因となって生じた公孫瓚(こうそんさん)と劉虞(りゅうぐ)の確執について見てみましょう。