正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(101)(韓範・韓斌・韓馥・韓福・韓扁・韓融・韓龍)です。
スポンサーリンク
凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
スポンサーリンク
か(101)
韓(かん)
韓範
生没年不詳。袁尚配下の冀州・趙国・易陽県の県令。
建安9年(204年)春正月、曹操は袁尚攻撃のため黄河を渡って淇水の流れを堰き止め、白溝(運河)に水を入れて糧道を通じた。
2月*2、袁尚は冀州・魏郡・鄴県の守備に審配と蘇由を残して、再び青州・平原国・平原県の袁譚を攻撃。曹操が軍を進めて鄴県から50里(約21.5km)の洹水まで来た時、鄴県の守将の1人・蘇由は内応しようとたが、計画が露見して審配と市街戦となり、敗北して曹操の下に逃げ込んだ。
その後曹操は、地下道を掘って鄴県を攻撃したが、審配の反撃により攻撃部隊は全滅した。
夏4月、そこで曹操は支城への攻撃に切り替え、鄴県への糧道を確保している毛城の尹楷と、冀州・趙国・邯鄲県を守る沮鵠を攻撃して陥落させた。
すると冀州・趙国・易陽県の県令・韓範は「県を挙げて降伏する」と偽り、実際は城を守って抵抗していたので、曹操は徐晃を派遣してこれを攻撃させた。徐晃は到着すると城中に矢を射込み、韓範に「事の結果」について説明したところ、韓範は「降伏しなかったこと」を後悔して徐晃に降伏した。
その後徐晃は、
「二袁(袁尚・袁煕)はまだ撃破されず、まだ降伏しない諸城は耳を傾けて情報を聞いております。今日、易陽県を滅ぼしたならば、明日にはすべての諸城が必死になって守るようになるでしょう。おそらく河北の地域は安定する時がなくなります。どうか公(曹操)には易陽県を降伏させ、それを諸城にお示しください。そうすれば、噂を聞いて従わない者はいないでしょう」
と進言し、曹操はこれを聞き入れた。
易陽県が降伏すると、冀州・魏郡・渉県の県長・梁岐も県を挙げて降り、曹操は韓範と梁岐に関内侯の爵位を与えた。
脚注
*2『後漢書』袁譚伝では3月。
「韓範」の関連記事
韓斌
生没年不詳。後漢(献帝期)の尚書郎。
興平2年(195年)、李傕・郭汜らが天子(献帝)を軽んじ脅すようになると、廷尉正・黄門侍郎の鍾繇は尚書郎の韓斌と協力して策謀を巡らせ、天子(献帝)を長安から脱出させた。
「韓斌」の関連記事
韓馥・文節
生没年 | ?〜?(191年7月以降) |
---|---|
出身地 | 豫州・潁川郡 |
所属勢力 | 霊帝→少帝 |
朝廷の実権を握った董卓により冀州牧に任命されるが、その後反董卓連合に参加する。
董卓が即位させた献帝を認めず、袁紹と共に幽州牧・劉虞を天子に擁立しようとしたが、劉虞本人の反対により失敗した。
公孫瓚が冀州にに侵攻すると、保身のために袁紹に冀州を譲るが、すべての権力を剥奪されてしまう。その後、陳留太守・張邈の元に身を寄せるが、袁紹に命を狙われていると思い込み、自害してしまった。
韓福
生年不詳〜建安5年(200年)没。曹操配下の洛陽太守*3。『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。第27回に登場する。
美髯公千里走単騎
建安5年(200年)、曹操に大敗した劉備は袁紹の下に逃亡し、後方の徐州・下邳国・下邳県の守備を任されていた関羽は、
- 曹操に降るのではなく漢王朝に降ること
- 劉備の妻子を丁重に扱うこと
- 劉備の消息がつかめたら劉備のもとへ帰ること
の3つの約束をして曹操に降伏し、関羽を配下に加えたい曹操から手厚い待遇を受けた。
その後、関羽が曹操の下で顔良・文醜を斬ってその恩を返し、劉備が敵である袁紹の下にいることを知ると、曹操は義理堅い関羽が「別れの挨拶」をしに来るのを避けて門を閉ざした。
仕方なく関羽は、貰った贈り物に封をして曹操の下を去り、劉備の元に向かったが、「関羽を引き留めることができない」と悟った曹操は彼を追いかけて餞別を渡し、別れの挨拶をした。
漢寿侯五関斬六将
その後、洛陽を目指す関羽が東嶺関に差し掛かると、関将の孔秀は「関羽が通行手形を持っていないこと」を理由に行く手を阻んだため、関羽はこれを一刀のもとに斬り棄てて東嶺関を通過した。
「孔秀が関羽に斬られた」との報告を受けた洛陽太守*3・韓福が急ぎ大将たちを集めて協議したところ、牙将の孟坦は、
「吾に一計があります。まず、鹿角(バリケード)で関所の入り口を塞いでおきます。関羽がやって来ましたら小将が兵を率いて交戦し、わざと負けておびき寄せますので、遠矢に射かけて落馬させてください。関羽を許都に護送すれば、きっと大変な褒美をいただけるでしょう」
と進言した。
関羽の一行が到着したとの知らせがあると、韓福は弓矢の用意をし、1千人の人馬を従え関所の入り口に隊列を整えて「そこへ来るのは何物だ?」と問うたところ、関羽は馬上で身を屈め、「吾は漢寿亭侯・関羽である。ここを通していただきたい」と言った。
そして韓福がまた「丞相(曹操)の手形をお持ちか?」と問うと、関羽は「事に紛れて貰わずに来てしまった」と答えた。
これを聞いた韓福が「吾は丞相(曹操)の命令によりこの地を鎮守し、専ら奸細(スパイ)の往来を厳重に取り調べている。手形がないのならば、逃亡に違いない」と言うと、関羽は怒って「東嶺関の孔秀はすでに斬った。汝も死にたいのか?」と言った。
そこで韓福が「誰かこやつを生け捕りにする者はおらぬか?」と呼びかけると、孟坦が馬を乗り出し、双刀(2本の刀)を振り回して関羽に斬りかかった。
関羽は(劉備の奥方たちが乗っている)車を後ろに下がらせると、馬を蹴立ててこれを迎え撃ったが、孟坦は3合も打ち合わないうちに馬を返して逃げ始めた。関羽をおびき寄せようとしていたのだが、関羽はたちまち追いついて、孟坦は一刀のもとに両断された。
そして関羽が馬首を巡らせて向かって来るところ、韓福は門の陰から力の限りに矢を放ち、その矢は関羽の左臂に命中した。関羽は口でくわえて矢を抜き取ると、流れ出る血もそのままに馬を飛ばして雑兵を蹴散らし、韓福に打ちかかった。
韓福は逃げる暇もなく、打ち下ろされた青龍偃月刀は頭から肩へ、袈裟懸けに韓福を馬の足元に斬り落とした。
関羽は雑兵を蹴散らして(劉備の奥方たちが乗っている)車を保護し、帛を引き裂いて矢傷を縛ると、闇討ちを恐れて長くは留まらず、夜通しで沂水関(成皋県)まで進んだ。
その後関羽は、沂水関(成皋県)で卞喜、滎陽県で王植、黄河の渡し場で秦琪を斬り、5つの関所で6人の将を斬って劉備と合流した。
脚注
*3洛陽太守という官職はない。郡の太守であれば河南尹、洛陽の県令であれば洛陽令となる。
「韓福」の関連記事
韓扁
生没年不詳。呉の臣下・陸遜の部将。
嘉禾5年(236年)、孫権は自ら北方の揚州・淮南郡・合肥県に軍を進め、同時に陸遜と諸葛瑾に荊州・襄陽郡・襄陽県への攻撃を命じた。陸遜は特別に信任している韓扁を派遣して孫権に戦況報告をさせたが、その帰途、沔中(漢水)において敵と遭遇し、韓扁は捕らえられてしまった。
諸葛瑾はこれを聞くと大いに懼れ、陸遜に書簡を送って言った。
「大駕(孫権)は退却された。韓扁は捕らえられ、賊(曹叡軍)は我が軍の内情を知ってしまった。漢水も干上がりつつあり、ここは急いで引き揚げるべきでろう」
ところが陸遜はこれには答えず、その後の行いもいつもと変わることがなかったので、諸葛瑾は「伯言(陸遜)は智略の士であるから、きっと理由があるのだろう」と思い、自ら陸遜を尋ねた。
すると陸遜は、
「大駕(孫権)が退却されたことを知れば、(襄陽県の)賊(曹叡軍)は全軍をもって我らを攻撃するでしょう。ここは一先ず落ち着いて兵たちを安心させ、巧妙な策略を用意した上で退却すべきです。今、慌てて退却すれば、必ずや一敗地に塗れてしまうでしょう」
と言った。
こうして陸遜は諸葛瑾と秘かに計を立て、損害を出さずに退却することができた。
捕らえられた後の韓扁の消息は不詳。
「韓扁」の関連記事
韓融
生没年不詳。豫州(予州)・潁川郡の人。
同郡出身の荀慈明(荀爽)、賈偉節(賈彪)、李元礼(李膺)、青州・平原国出身の王彦方(王烈)らと共に陳太丘(陳寔)*4のもとで学んだ。
陳寔が亡くなると、太僕令となっていた韓融と司空の荀爽は共に緦麻(最も軽い3ヶ月の喪)に服し、子孫のとるべき儀礼に従った。
中平6年(189年)4月に霊帝が崩御すると、朝廷の実権を握った董卓は周毖を吏部尚書に任命し、尚書郎の許靖と協議して天下の士の人事を行わせた。周毖と許靖は汚職官吏を追放し、人に知られていない人物を見出し、昇進が遅れている者を抜擢したが、この時、荀爽、韓融、陳紀らは公・卿・郡守に昇進・起用された。
興平2年(195年)7月、天子(献帝)は、長安を脱出して洛陽(雒陽)を目指したが、再び手を結んだ李傕・郭汜らの追撃を受け、輜重(物資)を失い、つき従う公卿百官は殺害され、宮女たちは略奪されて、やっとのことで司隷・河東郡・安邑県に到達した。
天子(献帝)は、韓融を司隷・弘農郡に派遣して和睦させたところ、李傕・郭汜らは略奪した宮女、公卿百官、乗輿(天子の御車)、車馬数台を返還した。
脚注
*4豫州(予州)・沛国・太丘県の県長であったことから陳太丘とある。陳寔の字は仲弓。
「韓融」の関連記事
韓龍
生没年不詳。幽州刺史・王雄配下の勇士(勇猛の士)。
太和2年(228年)、持節護烏丸校尉の田豫は通訳の夏舎を派遣して、鮮卑の大人・軻比能の娘婿・鬱築鞬の部落を訪問させたが、夏舎は鬱築鞬に殺害されてしまった。
その秋、田豫は西部鮮卑の蒲頭と泄帰泥を率いて塞(長城)を出ると、鬱築鞬を討伐して大いに撃ち破った。その帰還の途上、田豫の軍が馬城まで来た時、軻比能は自ら3万騎を率いてこれを包囲し、その包囲は7日に及んだ。
上谷太守の閻志は閻柔の弟で、普段から鮮卑たちの信頼を受けており、その閻志が軻比能の元に赴いて諭すと、軻比能はすぐさま包囲を解いて引き揚げた。
その後、幽州刺史・王雄の一党が王雄に烏丸校尉を宰領させようとして「田豫は国境地帯を混乱させており、国にとって事件が起こることになるだろう」と非難し、田豫は汝南太守に転任され、殄夷将軍の官を加えられた。
こうして幽州刺史・王雄が烏丸校尉の任を兼ねるようになり、恩賞と信義をもって鮮卑たちを慰撫すると、軻比能もしばしば幽州の役所にやって来て貢ぎ物を献じるようになった。
青龍元年(233年)、軻比能は長年敵対関係にあった鮮卑の大人・歩度根に誘いをかけ、「幷州(并州)の支配から抜け出させ、互いに和親を結ぶ」約束をすると、自ら1万騎を率いてその一族郎党を陘北(雁門関の北)まで迎えに出た。
幷州刺史の畢軌は将軍の蘇尚・董弼らを派遣してこれを攻撃させたが、軻比能は自分の息子に騎兵を与えて楼煩において戦い、蘇尚と董弼を討ち取った。
青龍3年(235年)、幽州刺史・王雄は勇士・韓龍を派遣して軻比能を視察させ、代わってその弟を大人に立てた。
「韓龍」の関連記事
スポンサーリンク