正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(100)[韓卓・韓忠(公孫康の使者)・韓忠(黄巾賊)・韓徳]です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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か(100)
韓(かん)
韓卓・子助
生没年不詳。兗州・陳留郡の人。大将軍の掾(属官)。
符融によって范冉、孔伷と共に陳留太守・馮岱に推薦され、主簿となった。またこの時、范冉は功曹、孔伷は上計吏となっている。
ある年の臘日*1、奴隷が食物を盗んでまで母を祭っていることを知った韓卓は、その心を「義」とし、即日その奴隷を解放した。
また、邴原が学業の旅に出て陳留郡に立ち寄った際、邴原は韓卓を師と仰いだ。
中平2年(185年)の辺章・韓遂の乱に際し、車騎将軍・皇甫嵩は「烏桓(烏丸)兵3千人を徴発する」ことを願い、北軍中候の鄒靖は「烏丸(烏桓)の軍勢は弱いので、鮮卑から広く募兵する」ようにと上言した。
この事案は四府(大将軍府と三公府)に下され、大将軍の掾となっていた韓卓が「鄒靖に鮮卑兵5千を募兵させるように」と上言すると、応劭は韓卓の意見に反対して「涼州・隴西郡の羌・胡から募兵する方が良い」と言った。
韓卓と応劭は互いに譲らず、百官に詔を下して朝堂に集めたところ、みな応劭の意見に賛同した。
脚注
*1冬至から3番目の戌の日。その日に行われる祖先・百神の祭祀を臘祭という。
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韓忠(公孫康の使者)
生没年不詳。遼東太守・公孫康の使者。
建安9年(204年)12月、曹操は袁譚を討伐するつもりであったが、柳城(幽州・遼西郡)の烏丸族が騎兵を繰り出して袁譚を援助しようとしていた。そこで曹操は、かつて袁紹が冀州牧であった時、督軍従事と烏丸突騎を兼任していた牽招を柳城に派遣した。
牽招が柳城に到着した時、峭王(烏丸族の有力者・蘇僕)は、ちょうど警戒態勢を布いて5千騎を袁譚の元に派遣しようとしているところであった。
また、遼東太守の公孫康が平州牧を自称し、使者の韓忠を派遣して峭王(蘇僕)に単于の印綬を与えようとしており、牽招の来訪を受けて集めたられた多数の部族長の中に、公孫康の使者である韓忠の姿もあった。
峭王(蘇僕)が、
「昔、袁公(袁紹)は天子の命令を受けたと申して、儂を単于に取り立ててくれた。今、曹公(曹操)がまた、改めて天子に言上して儂を真の単于に取り立てるつもりだと言い、遼東郡(公孫康)も印綬を持ってきている。一体、誰を正当としたら良いのだ?」
と言うと、牽招は答えて言った。
「昔、袁公(袁紹)は、詔勅をお受けして任命する権限を持っておりましたが、その後天子の命令に違反し、曹公(曹操)がそれに代わりました。曹公(曹操)が天子に言上し、改めて真の単于に取り立てると申しているのが正当です。遼東郡(公孫康)は天子の管轄下の郡でありますから、どうして勝手に任命することなどできましょうか」
これに韓忠が、
「我が遼東郡(公孫康)は滄海の東に位置して百万の兵を擁し、その上また扶余・濊貊(東北の民族)の働きがあります。現在の情勢から申して最右翼の強者です。どうして曹操だけが正当だと言えるのでしょうか?」
と反論すると、牽招は韓忠を怒鳴りつけ、
「曹公(曹操)は慎み深く道理に明るく、天子を補佐・推戴され、反逆者を討ち、服従者を懐け、四海を静めておられる。お前たちは今も、堅固さと遠隔の地であることを恃んで王命に違反し、勝手に任命しようとしている。神器を蔑ろにして弄ぶのは、まさしく殺戮に値する。なぜ敢えて大人(曹操)を軽んじ悪口を言うのだっ!」
と言い、韓忠の頭を引っ掴んで地面に打ちつけると、刀を抜いて彼を斬ろうとした。
これを見た左右の者たちは顔色を失い、峭王は驚き怖れ、裸足で飛び出して牽招を抱きすくめ、韓忠の命乞いをした。
牽招はやっとのことで席に戻り、峭王らに成敗の結果や禍福(禍と福)の行き着くところを説明して聞かせると、みな席を下りて拝伏し、敬んで命令教示を受け、すぐさま韓忠に暇を告げて、警戒態勢をとっていた騎兵を解除した。
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韓忠(黄巾賊)
生没年不詳。荊州・南陽郡の黄巾賊。
荊州・南陽郡の黄巾賊
光和7年(184年)に各地で黄巾賊が蜂起すると、荊州・南陽郡では黄巾賊の張曼成が「神上使」と称して数万人を集めて挙兵し、南陽太守の褚貢を殺害して宛県の城下に駐屯した。
そして、後任の南陽太守・秦頡がこれを攻撃して張曼成を殺害すると、黄巾賊は改めて趙弘を将帥に立て、その軍勢は10余万人に膨れあがって宛城(宛県)に立て籠もった。
6月、この討伐を命じられた右中郎将の朱儁は、荊州刺史の徐璆、秦頡と共に1万8千の兵を率い、2ヶ月の包囲の末、最後は急襲をかけて趙弘を斬った。
韓忠が将帥となる
黄巾賊の残党は韓忠を将帥に立て、またも宛城(宛県)に立て籠って朱儁の攻撃を防いだ。
これを攻め倦ねた朱儁は、柵を設けて塁を作り、土山を築いて城内を見下ろしながら、宛城(宛県)の西南側から攻めかけたところ、賊軍が全兵力で迎撃に向かう様子が手に取るように見えた。
そこへ朱儁が自ら精兵5千の兵を率いて反対の東北側から攻撃し、城壁を登って突入すると、韓忠は宛城(宛県)を棄てて小城に籠もり、恐れおののいて降伏を願い出た。
司馬の張超、徐璆らは韓忠を許そうとしたが、朱儁は、
「賊とは、有利な時は進んで戦い、不利になれば降伏を申し出るものである。敵を許して賊を増長させることは良計ではない」
と言い、厳しく攻め立てたが、何度戦っても勝つことができなかった。
そこで朱儁はまた土山に登って小城の様子を見下ろしたところ、賊軍は厳重に包囲され逃げ場を失って、死に物狂いで戦っている様子であった。
これを見た朱儁は一計を案じ、包囲を解いて賊軍に逃げ道を与え、韓忠らが城から出てきたところを攻撃して大いに撃ち破り、逃げる賊軍を数10里追撃して1万余級を斬首した。
韓忠はついに投降したが、韓忠に怒りを募らせていた南陽太守の秦頡によって処刑された。
その後、黄巾賊はまた孫夏を将帥に立て、再び宛城(宛県)に引き返して立て籠もったが、朱儁の急襲を受けて逃走し、1万余級が斬首され、とうとう賊軍は解散した。
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韓徳
生年不詳〜建興5年(227年)没。子に韓瑛、韓瑤、韓瓊、韓琪。
『三国志演義』にのみ登場する架空の人物。第92回に登場する。
魏の曹叡時代の西涼の大将。開山大斧を使う万夫不当の勇者。孔明(諸葛亮)の第1次北伐において、夏侯楙の援軍として4人の息子と共に鳳鳴山で趙雲を迎え撃ったが、4人の息子は次々に討たれ、韓徳も趙雲に突き殺された。
以下詳細
孔明の第1次北伐
建興5年(227年)夏4月、孔明(諸葛亮)が兵を率いて沔陽に至った時、「魏主・曹叡が駙馬の夏侯楙に関中各地の軍勢を率いさせて向かって来た」との急報があった。
すると魏延は、
「魏延自ら5千の精兵を率いて秦嶺の嶺伝いに東に進み、子午谷に出て長安に至る道を取り、魏延は東から、丞相(孔明)は大軍をもって斜谷から進めば、咸陽以西は一挙に平定することができます」
と進言したが、孔明は笑って、
「それは万全の計にあらず。汝は『中原(魏)に人なし』と高を括っているが、もし山間で行く手を塞ぐよう進言する物がいれば、5千の兵が討ち死にするだけでなく、味方の鋭気を大いに損なうこととなる。その計は用いられぬ」
と言い、「隴右から平坦な大路を取り、定石に従って兵を進める」こととし、直ちに人を遣って趙雲に兵を進めるように命じた。
韓徳と4人の息子
夏侯楙が長安で諸路の軍馬を集めていると、西涼の大将・韓徳が西羌の諸兵8万を率いてやって来た。開山大斧の使い手で、万夫不当の勇者である。夏侯楙は韓徳に厚く恩賞を取らせ、先鋒とした。
韓徳には4人の子があり、みな武芸に精通し、弓馬の腕前は人並み優れていた。長男は韓瑛、次男は韓瑤、3男は韓瓊、4男は韓琪といった。
4人の息子が敗れる
韓徳が4人の子と西羌兵8万を従えて鳳鳴山まで来たところで蜀の軍勢と出遭った。
両軍の陣立てが終わると、韓徳が馬を乗り出し4人の息子を左右に並べて「逆賊め、よくも我が国境を侵したなっ!」と声高に悪態をついた。
趙雲は大いに怒り、鎗を構え馬の勢い激しく韓徳に挑みかかると、長男の韓瑛が馬を躍らせて迎え撃ったが、3合も渡り合わないうちに趙雲に突き殺されて落馬した。これを見た次男の韓瑤が馬を飛ばし刀を振るって斬りかかると、(70歳を過ぎた)趙雲は昔の威風さながらに応戦し、韓瑤は持ち堪えられなくなった。すると3男の韓瓊が急いで方天戟を手に馬を馳せて挟み撃ちに来たが、趙雲は恐れる色もなく鎗を繰り出す手に乱れを見せない。4男の韓琪は2人の兄でも勝てないのを見て取ると、二振りの日月刀を振り回しつつ馬を駆け寄せて趙雲を取り囲んだので、趙雲は1人中央にあって3将を相手に戦うこととなった。
まずは4男の韓琪が鎗を受けて落馬し、魏の陣中から偏将(副将)が急いで救いに出た。その隙に趙雲が鎗を引きずって走るのを見た3男の韓瓊は戟を収め、急いで弓を取って続けざまに3本の矢を放ったが、みな趙雲の鎗に払い落とされた。韓瓊は大いに怒り、またも方天戟を手に馬を飛ばして追ったところ、趙雲の矢が顔面に命中し、落馬して死んだ。すると次男の韓瑤は急いで馬を飛ばして追いかけ、宝刀を振り上げて趙雲に斬りかかったが、趙雲は鎗を捨てて宝刀の一閃を躱すと、韓瑤を生け捕りにして帰陣した。
趙雲が再び鎗を手に馬を飛ばして斬り込んでくると、韓徳は4人の息子がみな喪れたのを見て肝を冷やし、陣中に走り込んだ。一方、趙雲が大勝したのを見た鄧芝が蜀軍を率いて攻めかかると、西涼軍は大敗し、韓徳は危うく趙雲に捕らえられそうになったが、甲を棄て歩行で逃走した。
趙雲は鄧芝と共に帰陣し、人を遣って孔明の元に韓瑤を護送させ、戦勝を報告した。
趙雲に討たれる
韓徳は敗軍を引き連れ夏侯楙に涙ながらに敗戦の報告をすると、夏侯楙は自ら兵を率いて趙雲の迎撃に出た。斥候からこの報告を受けた趙雲は、馬に跨がり鎗を手に1千余りの軍勢を率いて鳳鳴山の前に陣を構えた。
夏侯楙が自ら撃って出ようとすると、後ろに控えていた韓徳が「4人の息子を殺された讐に報いんで何とするかっ!」と言うや、馬を飛ばして開山大斧を振り回し、趙雲に斬りかかった。すると趙雲は奮怒してこれを迎え撃ち、3合と渡り合わないうちに韓徳を馬下に突き殺した。
趙雲がすぐさま馬首を返して夏侯楙に突きかかると、夏侯楙は慌てて本陣に逃げ込んだ。そこへ鄧芝の軍が殺到したので、魏の軍勢はまたもや敗れ、10余里(約4.3km)も退いて陣を構えた。
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