正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(102)(簡位居かんいきょ簡雍かんよう簡将軍かんしょうぐん)です。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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か(102)

簡(かん)

簡位居かんいきょ

生没年不詳。夫余王ふよおう

夫余ふよはもともと幽州ゆうしゅう玄菟郡げんとぐんに属していたが、後漢ごかん末に公孫度こうそんたく海東かいとうの地域に勢力を伸ばして異民族たちを威服させると、夫余王ふよおう尉仇台いきゅうたいは改めて遼東郡りょうとうぐん公孫度こうそんたく)の支配下に入った。

公孫度こうそんたくは、夫余ふよが当時勢いが強かった2つの異民族・句麗くり高句麗こうくり)と鮮卑せんぴの間に位置することから、両国への牽制けんせいのため自分の一族の娘を妻として尉仇台いきゅうたいに与え、結びつきを強めた。


尉仇台いきゅうたいが死ぬと簡位居かんいきょおうに立った。

簡位居かんいきょには嫡子ちゃくしがなく、妾腹しょうふく麻余まよがいた。簡位居かんいきょが亡くなると、の位にある者たちが共議して麻余まよ夫余王ふよおうに立てた。


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簡雍かんよう憲和けんか

生没年不詳。幽州ゆうしゅう涿郡たくぐんの人。劉備りゅうび配下。

簡雍かんようの本姓はこうと言ったが、幽州ゆうしゅうの人はこうかんと発音したので、それに合わせて姓を変えたと言われている。

旗揚げ〜荊州時代

若い頃から劉備りゅうびと旧知の仲で、付き従って各地を転々とした。

建安けんあん6年(201年)に劉備りゅうび荊州けいしゅう劉表りゅうひょうもとに身を寄せると、簡雍かんよう麋竺びじく孫乾そんけんと共に従事中郎じゅうじちゅうろうとなって常に劉備りゅうびの話し相手となり、往来して使者の役目を果たした。

益州時代

建安けんあん16年(211年)に劉備りゅうび益州えきしゅうに入ると、劉璋りゅうしょう簡雍かんようと会って大変彼を愛した。

建安けんあん19年(214年)夏、劉備りゅうび成都せいとを包囲した際には劉璋りゅうしょうの説得にあたり、劉璋りゅうしょう簡雍かんようを同じ輿こしに乗せ、城を出て命令に服した。

劉備りゅうび簡雍かんよう昭徳将軍しょうとくしょうぐんに任命した。

さらに益州牧えきしゅうぼくを兼務することなった劉備りゅうびは、

  • 諸葛亮しょかつりょう股肱ここう(手足となる補佐役)
  • 法正ほうせい謀主ぼうしゅ策謀さくぼうあずかる相談役)
  • 関羽かんう張飛ちょうひ馬超ばちょう爪牙そうが(国家を守護する武将)
  • 許靖きょせい麋竺びじく簡雍かんよう賓友ひんゆう賓客ひんかくと友人)

とし、その才能を発揮させた。

エピソード
簡雍かんようの性格

簡雍かんよう風貌ふうぼうや所作はゆったりとしていたが、その性格は傲慢ごうまん放埓ほうらつで、劉備りゅうびと同席していても威儀を正さずなお足を投げ出して座り、(脇息きょうそくに)もたれかかって心のままに振る舞っていた。

また諸葛亮しょかつりょう以下に対しては自分1人で一榻いっとう長椅子ながいす)を独占し、うなじまくらに乗せ横になったまま語らうなど、自分を曲げることがなかった。

簡雍かんようの機知

ある天旱てんかんひでり)の時に禁酒令が出され、酒を醸造じょうぞうした者が刑罰に処されたことがあったが、役人がある家を捜査した際に醸造じょうぞうの道具を没収し、「酒を造った者と同罪である」という判決が下った。

劉備りゅうびと散策に出たり、簡雍かんようは一組の男女が道を行くのを見て、

「あの者たちはみだらな行為をするつもりです。どうして捕縛なさらないのですか?」

と言った。劉備りゅうびが、

きみはなぜそう思うのだ?」

たずねると簡雍かんようは、

「彼らはその道具を持っています。醸造じょうぞうしようとした者と同じです」

と言った。

これを聞くと劉備りゅうびは大笑いして「醸造じょうぞうしようとした者」を許した。

簡雍かんよう滑稽こっけい(機知・頓知とんち)は、みなこのようであった。


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簡将軍かんしょうぐん(名は不詳)

生没年不詳。劉備りゅうび配下の将軍しょうぐん

蜀書しょくしょ後主伝こうしゅでんが注に引く魏略ぎりゃくに登場する。裴松之はいしょうしも指摘しているように、以下は妄説もうせつ(根拠がない出鱈目でたらめな説)と思われ、簡将軍かんしょうぐんの存在自体も疑わしいが、参考までに取り上げた。

父と生き別れた劉禅

劉備りゅうび小沛しょうはい豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく沛県はいけん]にいた頃のこと。不意に曹操そうそうが攻めて来たので、劉備りゅうびは妻子を見棄みすあわてて逃亡し、のち荊州けいしゅうに至った。

劉禅りゅうぜんは当時まだ数歳で、秘かにのがれ人にいて西の漢中かんちゅうに入ったが、人に売り飛ばされた。


建安けんあん16年(211年)、関中かんちゅうが敗れ混乱におちいったので、右扶風ゆうふふう出身の劉括りゅうかつは乱をけて漢中かんちゅうに入り、劉禅りゅうぜんを買い取った。そこで劉禅りゅうぜんただしてみると良家の子であることを知り、そのまま養子として妻をめとらせ、1子が生まれた。

劉禅りゅうぜん劉備りゅうびとはぐれた時、父のあざなが「玄徳げんとく」だと覚えていた。

簡将軍

この頃、舍人しゃじんかんという姓の者がおり、劉備りゅうび益州えきしゅうを手に入れると将軍しょうぐんとなった。

劉備りゅうび簡将軍かんしょうぐん漢中かんちゅうに派遣した際、(簡将軍かんしょうぐんは)都邸とていに宿泊していたが、この機会に劉禅りゅうぜん簡将軍かんしょうぐんの元に出向いた。この時簡将軍かんしょうぐんは、劉禅りゅうぜんの言葉を事実と照らし合わせたが、事柄はすべて符合していた。

簡将軍かんしょうぐんは喜んで張魯ちょうろにそのことを話すと、張魯ちょうろ劉禅りゅうぜん沐浴もくよくをさせて益州えきしゅうに送り、劉備りゅうび劉禅りゅうぜん太子たいしに立て、諸葛亮しょかつりょう太子太傅たいしたいふとした。

劉備りゅうびの死後、劉禅りゅうぜんは即位するにあたって諸葛亮しょかつりょう丞相じょうしょうに任命して諸事を委任し、「政治は葛氏かつし諸葛亮しょかつりょう)に任せ、祭祀さいしは私が行う」と言った。

諸葛亮しょかつりょうもまた劉禅りゅうぜんがまだ政治に習熟していなかったため、内外の国政を取り仕切った。

裴松之の指摘

二主妃子伝にしゅひしでんには「後主こうしゅ劉禅りゅうぜん)は荊州けいしゅうで生まれた」とあり、後主伝こうしゅでんには「帝位にいた時には17歳であった」とある。すなわち(劉禅りゅうぜんは)建安けんあん12年(207年)生まれということになる。

建安けんあん13年(208年)、長阪ちょうはんにおいて敗れた劉備りゅうびは妻子をてて逃走した。趙雲伝ちょううんでんには「趙雲ちょううんは身に幼子おさなごを抱いて救い出した」とあり、幼子おさなごとは劉禅りゅうぜんのことである。

上記の通りであれば、劉備りゅうび劉禅りゅうぜんとは、いまだかつて生き別れたことなどないことになる。

また諸葛亮しょかつりょう劉禅りゅうぜん即位の翌年[建興けんこう2年(224年)]に益州牧えきしゅうぼくを兼務し、その年に主簿しゅぼ杜微とびに送った書簡の中に「朝廷(劉禅りゅうぜん)は今年18歳」とある。これは本伝と符合していて、理屈として虚偽ではない。

魚豢ぎょかん魏略ぎりゃくでは「劉備りゅうび小沛しょうはいで敗北した年に劉禅りゅうぜんが生まれた」とされ、また劉備りゅうび荊州けいしゅうに身を寄せる頃には「父のあざなが『玄徳げんとく』だと覚えていた」と言う。計算すれば5〜6歳になっていたはずである。

劉備りゅうび小沛しょうはいで敗北した年は建安けんあん5年(200年)であり、劉禅りゅうぜんが即位するまでには24年前後が経過していて、劉禅りゅうぜんは30歳を過ぎていることになるはずである。事実と照らし合わせてみると、理屈としてそうはなりえない。

これはすなわち魏略ぎりゃく妄説もうせつ(根拠がない出鱈目でたらめな説)であって、なんと200余字にもわたって(妄説もうせつを)述べているとは奇妙なことではないかっ!

また、諸書記および諸葛亮集しょかつりょうしゅうを調べてみると、諸葛亮しょかつりょうもまた太子太傅たいしたいふとはなっていない。


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【三国志人物伝】総索引