正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(91)南陽韓氏②[韓術・韓純・韓曁・韓肇・韓繇・韓邦・韓洪・韓保・韓寿・韓預・韓鑑・韓蔚・韓謐(賈謐)]です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
南陽韓氏②系図
南陽韓氏②系図
※韓謐(賈謐)は母方の祖父・賈充に後継ぎがなかったので、特別に亡くなった賈充の子・賈黎民の養子となってその後を継いだ。
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この記事では南陽韓氏②の人物、
についてまとめています。
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か(91)南陽韓氏②
第1世代(韓術)
第2世代(韓純)
第3世代(韓曁)
韓曁・公至
生年不詳〜景初2年(238年)没。荊州・南陽郡・堵陽県の人。父は韓純。子は韓肇、韓繇。
父・兄の仇を討つ
韓曁の父と兄は同県の豪右(豪族)・陳茂に譖訴(中傷)され、大辟(死罪)となった。
韓曁は表立って何も言わなかったが、日雇いをしながら仇討ちのための資金を蓄え、秘かに「死を覚悟して協力してくれる者」と結んで遂に陳茂を呼び出して捕らえ、その首を父の墓前に供えた。
このことによって韓曁は名を知られるようになった。
隠棲・劉表期
韓曁は孝廉に推挙され、司空に辟召されたが、いずれも応じず、姓名を変えて荊州・南陽郡・魯陽県の山中に隠れ住み、動乱を避けた。
ある時、山中の住民たちが徒党を組んで、他所に攻め入って略奪しようとしていた。韓曁は家財を投じて牛と酒を用意し、その頭目を招いて「安全と危険の道理」を説いたところ、みな感化されて、結局、悪事を実行に移さなかった。
その後韓曁は、袁術の召命を避けて荊州・南陽郡・山都国の山中に移住した。そこでまた荊州牧・劉表の礼を尽くした辟召きを受けたが、あくまで逃げ隠れ、南の荊州・武陵郡・孱陵県の辺りに移り住んだ。
韓曁は行く先々で敬愛を受けたが、ただ劉表だけは深く恨んでいたので、これを懼れた韓曁は命令に応じて荊州・南郡・宜城県の県長となった。
曹操期
建安13年(208年)、曹操が荊州を平定すると、曹操に辟召かれて丞相士曹属となり、後に楽陵太守に選抜され、監冶謁者(金属の精製・農具・武器の製作を司る)に転任した。
以前は金属を溶かす際に馬排[馬の力を利用した韛(送風機)]を作ったが、鉱石を1回熱する度に百頭の馬を必要とした。さらに人排が作られたものの、やはり大変な労力を必要とした。そこで韓曁は大きな水流を利用した水排を考案し、その利益を計算すると以前の3倍となった。
韓曁が在職した7年の間に器物は充実した。これより韓曁は、制書*1によって褒め称えられ、司金都尉の官号を加えられて、九卿に次ぐ待遇を与えられた。
脚注
*1天子が下す文書の書式の1つ。恩赦や贖罪の命令を下す場合などに用いられる。
文帝(曹丕)期
黄初元年(220年)に文帝(曹丕)が帝位に即くと、宜城亭侯に封ぜられ、黄初7年(226年)には太常に昇進して南郷亭侯に爵位を進め、封邑200戸を与えられた。
明帝(曹叡)期
太和3年(229年)11月、当時は新しく洛陽に都を遷したばかりで制度が完成しておらず、宗廟の位牌を収める祏(石室)は、すべて鄴都に置かれていた。そこで韓曁は、上奏して鄴都にある4つの廟*2の位牌を迎え入れ、洛陽に廟を建立して、四季の祭りには親しく供物を供えられるように請願した。
韓曁は礼の正しいあり方を尊重して明らかにし、淫祀を撤去させるなど、間違っているものを正しく直すことが多かった。
在官8年、病気のため官位を辞退したが、その後、復帰して太中大夫となった。
景初2年(238年)、欠員となった司徒の候補者を尋ねられた盧毓は、
「情が厚く誠実で品行が優れているのは太中大夫の韓曁です。清明で方正なのは司隷校尉の崔林です。誠実で純粋なのは太常の常林です」
と答えた。
そこで明帝(曹叡)は韓曁を用いることに決め、詔を下して韓曁を司徒に任命した。
「太中大夫の韓曁は身を清く保ち、徳に厚く、節操を固く守り高潔である。年は80を越えながら道理を守ることいよいよ固く、純粋にして篤実、老いてますます立派な者であると言える。よって韓曁を司徒に任命する」
この年の夏4月に亡くなり、恭侯と謚された。韓曁の遺体は、彼の遺言通り時服(朝廷から支給された衣服)に包まれて土藏の中に葬られた。
脚注
*2高皇帝(曹騰)、太皇帝(曹嵩)、武帝(曹操)、文帝(曹丕)の4つの廟。
韓曁の遺言と上奏文
遺言
「世俗が贅沢を好むならば、倹約を示すべきだ。倹約はすなわち礼によって節度が保たれるのである。
吾はこれまで、前代までの死者を送り出す方法が常軌を逸して派手なことを目の当たりにしてきた。
もし吾の言葉に耳を傾けてくれるなら、時服(朝廷から支給された衣服)に包んで土蔵に葬り、穴が出来たらすぐに埋葬し、瓦の明器(死者と共に墓に納めた器物)を旅立ちの道具とするように。慎んでそれ以上のことをしてはならぬ」
上奏文
「生きている時は民に利益をもたらし、死んだ後でも民に被害を与えないことが理想です。
まして臣は台司(三公)の位に就いて在職の日も浅く、天下にご聖德を称揚して民衆に広く利益をもたらすこともできずにいるのに、病気はいよいよ長引き、たちまちの内に幽冥の世界に赴くのです。
現在、百姓は農業に励んでいる時期ですので、労役に使うべきではありません。どうか洛陽の吏民を、喪具を設けるために使わないでください。
国典(国の儀式)には決まった例がありますので、臣の個人的な願望が叶えられないことを懸念し、謹んで無礼を顧みず上聞に達しました。どうか哀れと思し召し、お聞き届けくださいますように」
明帝(曹叡)は上奏文を手にして感嘆し、詔を下して、
「元司徒の韓曁は徳を積んで行動に表し、忠義をもって朝廷に臨み、白髪になっても誠実さを失わなかった。
(韓曁が)三公の位に登ったからには、(彼の)輔弼が得られることを期待したのだが、何としたことか、俄に天から下された生命は長らえることなく終わってしまったっ!
曾参(孔子の弟子)は死を前にして(身分に相応しくない)簀(寝台の上に敷く竹の筵)を取り換えさせて、相応しい礼を用いた。
晏嬰(春秋時代の斉の宰相)は倹約を尊重し、(斉侯から送られた)車を送り返し、規則よりも低い待遇に甘んじた。
今、司徒(韓曁)は寿命を悟って遺言し、民を労り節倹を尊重することを強く望んでいる。初めを良くし終わりを良くする者と言って良いであろう。
その葬儀の施設はすべて慣例通りとして、不足することのないようにせよ」
と言い、特別に温明秘器(宮中御用の棺)、衣服1揃い、五時朝服[5つの季節(四季と季夏)の朝服]、玉具剣佩を下賜した」
備考
『魏書』裴潜伝に、
「荊州・南陽郡出身の韓暨は賢明な人柄で、平素の徳行によって大鴻臚となっていたが、その後に大鴻臚となった韓宣もまた職に相応しい人物だと称され、鴻臚たちの中で『大鴻臚と小鴻臚、前後の治績が何と似ていることよ』と語られた」
とあるが、韓暨が大鴻臚であった時期は不詳。
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第4世代(韓肇・韓繇)
第5世代(韓邦・韓洪)
韓邦・長林
生没年不詳。荊州・南陽郡・堵陽県の人。父は韓肇。
若い頃から才能と学問に優れており、父・韓肇が亡くなるとその後を継いだ。
晋の武帝(司馬炎)の時代に司州・河内郡・野王県の県令となり、評判と業績を上げた。
後に荊州・新城郡の太守となったが、野王県令時代の官吏を新城郡の計吏に取り立てたことで法律に触れ、これに激怒した武帝(司馬炎)に処刑された。
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第6世代(韓保・韓寿・韓預・韓鑑・韓蔚)
韓保
生年不詳〜永康元年(300年)没。荊州・南陽郡・堵陽県の人。父は韓洪。弟に韓寿、韓預、韓鑑、韓蔚。
司州・河南郡・鞏県の県令となった。
永康元年(300年)に趙王倫(司馬倫)が賈后(賈南風)を廃位すると、甥の賈謐(韓謐)、弟の韓預、韓鑑、韓蔚、弟・韓寿の妻・賈午と共に誅殺され、韓氏は滅亡した。
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韓寿・徳貞*3
生年不詳〜元康元年(291年)没。荊州・南陽郡・堵陽県の人。父は韓洪。妻は賈充の末娘・賈午。兄は韓保。弟に韓預、韓鑑、韓蔚。子は韓謐(賈謐)。
曾祖父の韓曁以下、代々平素の行動を慎んだが、韓寿は家風を心から尊重し、その性格はとりわけ忠厚(誠実)であった。
また、眉目秀麗で立ち居振る舞い(または「身のこなし」)が優れていたことから、賈充に辟召かれて司空の掾(属官)となった。
賈充が賓客や属僚と宴を催していた時のこと。賈充の末娘・賈午は青鏁(?)の中から覗き見て韓寿に一目惚れし、左右の者に尋ねると、1人の下女(婢)が「私の前の主人です」と言った。賈午は感激のあまり寝ても覚めても忘れられなかった。
そこで下女(婢)は韓寿の家に行って賈午の想いを伝え、華やかで美しい女性だとつけ加えたので、韓寿は心を動かされ、丁寧な返事を返した。下女(婢)がこれを報告すると、賈午は秘かに連絡を取って互いに愛を育み、夜、韓寿を部屋に招き入れた。韓寿は素早く垣根を飛びこえて忍び込んだので、家中の者は誰も気づいていなかったが、ただ父の賈充だけは、女の普段の素振りの変化に気づいていた。
当時、西域から「珍しいお香」が贈られ、それは一度焚くと数ヶ月の間、香りが消えなかった。武帝(司馬炎)はこれをとても貴重な物だと考え、ただ賈充と大司馬の陳騫だけに下賜していたが、賈午は秘かにこれを盗んで韓寿に贈った。
賈充の属僚たちが韓寿とくつろいでいた時、あの「珍しいお香」の香りに気づいて賈充に告げた。これにより賈充は、賈午と韓寿が通じていることに気づいたが、邸の門の警備は厳重なので、どこから入ったのか分からなかった。
そこで夜中に驚いた振りをして「盗賊が出た」と騒ぎ、それに託けて垣根に変わったところがないか観察させたが、左右の者はただ「異常はありません。ただ、東北の角に狐狸の通った跡がありました」と言うだけだった。
賈充は賈午の周辺を取り調べて詳しく白状させると、そのことを秘密にしたまま、ついに韓寿と結婚させた。
韓寿は早くから清職を歴任し、恵帝(司馬衷)が皇位を継承すると散騎常侍となった。昇進して河南尹代行となったが、元康元年(291年)に病気で亡くなり、驃騎将軍を追贈された。
賈充には後継ぎがいなかったので、韓寿の子・韓謐(賈謐)を後継ぎとした。
脚注
*3『魏書』韓曁伝より。『晋書』賈充伝では、字は徳真。
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韓預
生年不詳〜永康元年(300年)没。荊州・南陽郡・堵陽県の人。父は韓洪。兄は韓保、韓寿。弟に韓鑑、韓蔚。
散騎侍郎となった。
永康元年(300年)に趙王倫(司馬倫)が賈后(賈南風)を廃位すると、甥の賈謐(韓謐)、兄の韓保、弟の韓鑑、韓蔚、兄・韓寿の妻・賈午と共に誅殺され、韓氏は滅亡した。
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韓鑑
生年不詳〜永康元年(300年)没。荊州・南陽郡・堵陽県の人。父は韓洪。兄は韓保、韓寿、韓預。弟に韓蔚。
呉王・司馬晏の友であった。
永康元年(300年)に趙王倫(司馬倫)が賈后(賈南風)を廃位すると、甥の賈謐(韓謐)、兄の韓保、韓預、弟の韓蔚、兄・韓寿の妻・賈午と共に誅殺され、韓氏は滅亡した。
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韓蔚
生年不詳〜永康元年(300年)没。荊州・南陽郡・堵陽県の人。父は韓洪。兄は韓保、韓寿、韓預、韓鑑。
器量と声望があった。
永康元年(300年)に趙王倫(司馬倫)が賈后(賈南風)を廃位すると、甥の賈謐(韓謐)、兄の韓保、韓預、韓鑑。兄・韓寿の妻・賈午と共に誅殺され、韓氏は滅亡した。
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第7世代(韓謐)
韓謐・長深(賈謐)
生年不詳〜永康元年(300年)没。荊州・南陽郡・堵陽県の人。父は韓寿。母は賈充の末娘・賈午。
賈充の後を継ぐ
母方の祖父・賈充が亡くなると、彼には後継ぎがいなかったので、賈充の妻の郭槐は外孫の韓謐を、亡くなった賈充の子・賈黎民の子として後継ぎにしようとした。
郎中の韓咸と中尉の曹軫は「礼には『大宗(宗家)に後継ぎがいなければ、小宗(分家)の子を後継ぎとする』とありますが『異姓を後継ぎとする』という文はありません」と諫めたが、郭槐はは従わなかった。
韓咸らは上書して後継ぎを改めることを求めたが、結局、武帝(司馬炎)は「韓謐を賈充の後継ぎとすることを認め、太宰(賈充)ほどの功績がない限り異姓の後継ぎを許さず、これを前例としてはならない」とした。
賈謐(韓謐)は弱冠(20歳)で秘書監侍中となった。
権勢を振るう
賈謐は学門を好み、才知の優れた考えがあった。
賈謐は「佐命の臣(天子を補佐する臣下:賈充)」の後継者であり、また伯母の賈后(賈南風)が政治を欲しいままにしていたので、賈謐の権勢は人主[恵帝(司馬衷)]を上回り、その威福は黄門侍郎を鎖で繋ぐほどであった。
その驕慢さと寵愛を背景に賈謐の贅沢は限度を超え、屋敷は分不相応に豪勢で、器物や衣服は珍しく美麗なものを用い、歌僮の舞女は最高の者を厳選した。
賈謐が屋敷を開いて賓客を招くと、国内の方々から集まった貴遊(高貴な家柄)や豪戚(豪族)、浮競の徒らはみな礼を尽くして賈謐に仕え、ある者は文章を著して賈謐を賛美し、前漢の賈誼に準えた。
賈謐に追従する者たちは数えきれず、主立った者たちは「二十四友」と呼ばれた。
二十四友
『晋書』の限断*4
賈謐は散騎常侍や後軍将軍を歴任し、広城君(賈充の妻・郭槐)が亡くなると職を去ったが、まだ喪が明ける前に復帰して秘書監となり、国史の編纂を取り仕切った。
これより先、朝廷では『晋書』の限断*4をしていたが、中書監の荀勖は「魏の正始(240年)*5を起年とすべき」と言い、また著作郎の王瓚は「魏の嘉平(249年)*6以降の朝臣を晋史に入れるべき」と言って結論が出なかった。
恵帝(司馬衷)が即位すると議論が再開され、賈謐は「晋の泰始(265年)*7を区切りとする」ように申し上げた。この事が三府(三公府)に下されると、
- 司徒の王戎
- 司空の張華
- 領軍将軍の王衍
- 侍中の楽広
- 黄門侍郎の嵇紹
- 国子博士の謝衡
らはみな賈謐(韓謐)の意見に従ったが、
- 騎都尉・済北侯の荀畯
- 侍中の荀藩
- 黄門侍郎の華混
らは「魏の正始(240年)*5を晋の開元(国の始まり)として用いるべき」と言い、博士の荀熙、刁協らは「魏の嘉平(249年)*6を起年とすべき」と言ってまたも意見が割れた。
すると賈謐は何度も王戎と張華の意見を上奏し、ついに賈謐の意見が採用された。
脚注
*4歴史書(断代史)を編纂するに当た って、その王朝の紀元(断代史の起筆時期)をどこに定めるのかを議論すること。
*5魏の斉王・曹芳の治世における最初の元号。
*6魏の斉王・曹芳の治世における2番目の元号。
*7晋を建国した武帝(司馬炎)の治世における最初の元号。
成都王・司馬穎を降格させる
その後、賈謐は侍中に転任し、これまで通り秘書監を領した。
賈謐が「恵帝(司馬衷)が宣武観で行う校猟(巻き狩り)」に随行した時のこと。[恵帝(司馬衷)は]、尚書を通じて賈謐を召して「取り巻きの連中を用いるのはやめよ」と戒めた。この一件で多くの人は「賈謐に謀反の心があること」を疑うようになった。
外戚(親貴)である賈謐はしばしば二宮に入って愍懐太子(司馬遹)と共に遊んだが、まったく遠慮がなかった。
賈謐はいつも太子(司馬遹)と弈棋(囲碁)の打ち方で言い争っていたが、同席していた成都王(司馬穎)が改まった顔をして「皇太子(司馬遹)は国の儲君(天子の位を継ぐべき皇子)である。賈謐はなぜ無礼を働くのかっ!」と言った。
賈謐は懼れ、このことを賈后(賈南風)に告げたところ、賈后(賈南風)はとうとう司馬穎を転出させて平北将軍とし、司州・魏郡・鄴県を鎮守させた。
妖異に怯える
賈謐は常侍となって東宮で太子(司馬遹)に学問を講義するようになったが、太子(司馬遹)が不満げであったので、賈謐は苦々しく思っていた。
この頃、賈謐の屋敷ではしばしば妖異が起こり、突然巻き起こった風が朝服を数百丈も吹き飛ばして中丞台に落ちたり、賈謐の朝服の中から蛇が出てきたりした。
また、夜に突然、賈謐の屋敷に雷が落ち、柱が地面に陥没して寝台や帳を押し潰したので、賈謐はますます恐れた。
賈謐の最期
賈謐は侍中に遷ると、専ら禁中の内部に籠もって政務を執っていたが、ついに賈后(賈南風)と謀って、太子(司馬遹)を誣告して陥れた。
永康元年(300年)、趙王倫(司馬倫)は賈后(賈南風)を廃位すると、詔を下して賈謐を殿前に召し出し、彼を殺害しようとした。
賈謐は西鐘の下に逃げ込んで「阿后(賈后)よ、我を救ってくれっ!」と叫んだが、結局捕まって斬られた。
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