正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(91)南陽(なんよう)韓氏(かんし)②[韓術(かんじゅつ)・韓純(かんじゅん)・韓曁(かんき)・韓肇(かんちょう)・韓繇(かんよう)・韓邦(かんほう)・韓洪(かんこう)・韓保(かんほ)・韓寿(かんじゅ)・韓預(かんよ)・韓鑑(かんかん)・韓蔚(かんうつ)・韓謐(かんひつ)(賈謐(かひつ))]です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

南陽韓氏②系図

南陽韓氏②系図

南陽(なんよう)韓氏(かんし)②系図

※韓謐(かんひつ)(賈謐(かひつ))は母方の祖父・賈充(かじゅう)に後継ぎがなかったので、特別に亡くなった賈充(かじゅう)の子・賈黎民(かれいみん)の養子となってその後を継いだ。

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この記事では南陽(なんよう)韓氏(かんし)②の人物、

についてまとめています。


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か(91)南陽韓氏②

第1世代(韓術)

韓術(かんじゅつ)

生没年不詳。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。子は韓純(かんじゅん)。孫に韓曁(かんき)。

韓王信(かんおうしん)の後裔(こうえい)。

河東太守(かとうたいしゅ)となった。


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第2世代(韓純)

韓純(かんじゅん)

生没年不詳。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓術(かんじゅつ)。子は韓曁(かんき)。

南郡太守(なんぐんたいしゅ)となったが、同県の豪右(ごうゆう)(豪族)・陳茂(ちんぼう)に譖訴(しんそ)(中傷)され、大辟(たいへき)(死罪)となった。


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第3世代(韓曁)

韓曁(かんき)・公至(こうし)

生年不詳〜景初(けいしょ)2年(238年)没。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓純(かんじゅん)。子は韓肇(かんちょう)、韓繇(かんよう)。

父・兄の仇を討つ

韓曁(かんき)の父と兄は同県の豪右(ごうゆう)(豪族)・陳茂(ちんぼう)に譖訴(しんそ)(中傷)され、大辟(たいへき)(死罪)となった。

韓曁(かんき)は表立って何も言わなかったが、日雇(ひやと)いをしながら仇討(かたきう)ちのための資金を蓄(たくわ)え、秘かに「死を覚悟して協力してくれる者」と結んで遂(つい)に陳茂(ちんぼう)を呼び出して捕らえ、その首を父の墓前に供(そな)えた。

このことによって韓曁(かんき)は名を知られるようになった。

隠棲・劉表期

韓曁(かんき)は孝廉(こうれん)に推挙され、司空(しくう)に辟召(め)されたが、いずれも応じず、姓名を変えて荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・魯陽県(ろようけん)の山中に隠れ住み、動乱を避けた。

ある時、山中の住民たちが徒党(ととう)を組んで、他所に攻め入って略奪しようとしていた。韓曁(かんき)は家財を投じて牛と酒を用意し、その頭目(とうもく)を招(まね)いて「安全と危険の道理」を説(と)いたところ、みな感化されて、結局、悪事を実行に移さなかった。

その後韓曁(かんき)は、袁術(えんじゅつ)の召命を避けて荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・山都国(さんとこく)の山中に移住した。そこでまた荊州牧(けいしゅうぼく)・劉表(りゅうひょう)の礼を尽くした辟召(まね)きを受けたが、あくまで逃げ隠れ、南の荊州(けいしゅう)・武陵郡(ぶりょうぐん)・孱陵県(せんりょうけん)の辺りに移り住んだ。

韓曁(かんき)は行く先々で敬愛を受けたが、ただ劉表(りゅうひょう)だけは深く恨(うら)んでいたので、これを懼(おそ)れた韓曁(かんき)は命令に応じて荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・宜城県(ぎじょうけん)の県長(けんちょう)となった。

曹操期

建安(けんあん)13年(208年)、曹操(そうそう)が荊州(けいしゅう)を平定すると、曹操(そうそう)に辟召(まね)かれて丞相(じょうしょう)士曹属(しそうぞく)となり、後(のち)に楽陵太守(らくりょうたいしゅ)に選抜され、監冶謁者(かんやえっしゃ)(金属の精製・農具・武器の製作を司(つかさど)る)に転任した。

以前は金属を溶かす際に馬排(ばはい)[馬の力を利用した韛(ふいご)(送風機)]を作ったが、鉱石を1回熱する度(たび)に百頭の馬を必要とした。さらに人排(じんはい)が作られたものの、やはり大変な労力を必要とした。そこで韓曁(かんき)は大きな水流を利用した水排(すいはい)を考案し、その利益を計算すると以前の3倍となった。

韓曁(かんき)が在職した7年の間に器物は充実した。これより韓曁(かんき)は、制書(せいしょ)*1によって褒(ほ)め称(たた)えられ、司金都尉(しきんとい)の官号を加えられて、九卿(きゅうけい)に次ぐ待遇を与えられた。

脚注

*1天子(てんし)が下す文書の書式の1つ。恩赦(おんしゃ)や贖罪(しょくざい)の命令を下す場合などに用(もち)いられる。

文帝(曹丕)期

黄初(こうしょ)元年(220年)に文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))が帝位に即(つ)くと、宜城亭侯(ぎじょうていこう)に封ぜられ、黄初(こうしょ)7年(226年)には太常(たいじょう)に昇進して南郷亭侯(なんきょうていこう)に爵位を進め、封邑(ほうゆう)200戸を与えられた。

明帝(曹叡)期

太和(たいわ)3年(229年)11月、当時は新しく洛陽(らくよう)に都を遷(うつ)したばかりで制度が完成しておらず、宗廟(そうびょう)の位牌を収(おさ)める祏(せき)(石室)は、すべて鄴都(ぎょうと)に置かれていた。そこで韓曁(かんき)は、上奏して鄴都(ぎょうと)にある4つの廟(びょう)*2の位牌を迎え入れ、洛陽(らくよう)に廟(びょう)を建立して、四季の祭りには親しく供物を供(そな)えられるように請願した。

韓曁(かんき)は礼の正しいあり方を尊重して明らかにし、淫祀(いんし)を撤去させるなど、間違っているものを正しく直すことが多かった。

在官8年、病気のため官位を辞退したが、その後、復帰して太中大夫(たいちゅうたいふ)となった。


景初(けいしょ)2年(238年)、欠員となった司徒(しと)の候補者を尋(たず)ねられた盧毓(ろいく)は、

「情が厚く誠実で品行が優(すぐ)れているのは太中大夫(たいちゅうたいふ)の韓曁(かんき)です。清明で方正なのは司隷校尉(しれいこうい)の崔林(さいりん)です。誠実で純粋なのは太常(たいじょう)の常林(じょうりん)です」

と答えた。

そこで明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は韓曁(かんき)を用(もち)いることに決め、詔(みことのり)を下して韓曁(かんき)を司徒(しと)に任命した。

「太中大夫(たいちゅうたいふ)の韓曁(かんき)は身を清く保ち、徳に厚く、節操を固く守り高潔である。年は80を越えながら道理を守ることいよいよ固く、純粋にして篤実、老いてますます立派な者であると言える。よって韓曁(かんき)を司徒(しと)に任命する」

この年の夏4月に亡くなり、恭侯(きょうこう)と謚(おくりな)された。韓曁(かんき)の遺体は、彼の遺言通り時服(じふく)(朝廷から支給された衣服)に包まれて土藏の中に葬(ほうむ)られた。

脚注

*2高皇帝(こうこうてい)(曹騰(そうとう))、太皇帝(たいこうてい)(曹嵩(そうすう))、武帝(ぶてい)(曹操(そうそう))、文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))の4つの廟(びょう)。

韓曁の遺言と上奏文
遺言

「世俗が贅沢(ぜいたく)を好むならば、倹約を示すべきだ。倹約はすなわち礼によって節度が保(たも)たれるのである。

吾(わたし)はこれまで、前代までの死者を送り出す方法が常軌(じょうき)を逸(いっ)して派手なことを目(ま)の当たりにしてきた。

もし吾(わたし)の言葉に耳を傾けてくれるなら、時服(じふく)(朝廷から支給された衣服)に包んで土蔵に葬(ほうむ)り、穴が出来たらすぐに埋葬(まいそう)し、瓦(かわら)の明器(めいき)(死者と共に墓に納めた器物)を旅立ちの道具とするように。慎(つつし)んでそれ以上のことをしてはならぬ」

上奏文

「生きている時は民に利益をもたらし、死んだ後でも民に被害を与えないことが理想です。

まして臣(わたくし)は台司(だいし)(三公(さんこう))の位に就(つ)いて在職の日も浅く、天下にご聖德を称揚して民衆に広く利益をもたらすこともできずにいるのに、病気はいよいよ長引き、たちまちの内に幽冥(ゆうめい)の世界に赴(おもむ)くのです。

現在、百姓は農業に励(はげ)んでいる時期ですので、労役(ろうえき)に使うべきではありません。どうか洛陽(らくよう)の吏民を、喪具(そうぐ)を設(もう)けるために使わないでください。

国典(国の儀式)には決まった例がありますので、臣(わたくし)の個人的な願望が叶(かな)えられないことを懸念(けねん)し、謹(つつし)んで無礼を顧(かえり)みず上聞に達しました。どうか哀(あわ)れと思(おぼ)し召(め)し、お聞き届けくださいますように」


明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は上奏文を手にして感嘆し、詔(みことのり)を下して、


「元司徒(しと)の韓曁(かんき)は徳を積んで行動に表し、忠義をもって朝廷に臨(のぞ)み、白髪になっても誠実さを失わなかった。

(韓曁(かんき)が)三公(さんこう)の位に登ったからには、(彼の)輔弼(ほひつ)が得られることを期待したのだが、何としたことか、俄(にわか)に天から下された生命は長らえることなく終わってしまったっ!

曾参(そうしん)(孔子(こうし)の弟子)は死を前にして(身分に相応(ふさわ)しくない)簀(すのこ)(寝台の上に敷(し)く竹の筵(むしろ))を取り換えさせて、相応(ふさわ)しい礼を用(もち)いた。

晏嬰(あんえい)(春秋(しゅんじゅう)時代の斉(せい)の宰相(さいしょう))は倹約を尊重し、(斉侯(せいこう)から送られた)車を送り返し、規則よりも低い待遇に甘んじた。

今、司徒(しと)(韓曁(かんき))は寿命を悟(さと)って遺言し、民を労(いたわ)り節倹を尊重することを強く望んでいる。初めを良くし終わりを良くする者と言って良いであろう。

その葬儀の施設はすべて慣例通りとして、不足することのないようにせよ」


と言い、特別に温明秘器(宮中御用の棺(ひつぎ))、衣服1揃(そろ)い、五時朝服[5つの季節(四季と季夏)の朝服]、玉具剣佩(けんぱい)を下賜(かし)した」

備考

『魏書(ぎしょ)』裴潜伝(はいせんでん)に、

「荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)出身の韓暨(かんき)は賢明な人柄で、平素の徳行によって大鴻臚(だいこうろ)となっていたが、その後に大鴻臚(だいこうろ)となった韓宣(かんせん)もまた職に相応(ふさわ)しい人物だと称され、鴻臚(こうろ)たちの中で『大鴻臚(だいこうろ)と小鴻臚(しょうこうろ)、前後の治績が何と似ていることよ』と語られた」

とあるが、韓暨(かんき)が大鴻臚(だいこうろ)であった時期は不詳。


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第4世代(韓肇・韓繇)

韓肇(かんちょう)

生没年不詳。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓曁(かんき)。弟は韓繇(かんよう)。子に韓邦(かんほう)。

父・韓曁(かんき)の後を継いだ。


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韓繇(かんよう)

生没年不詳。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓曁(かんき)。兄は韓肇(かんちょう)。子に韓洪(かんこう)。

冀州(きしゅう)・高陽郡(こうようぐん)の太守(たいしゅ)となった。


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第5世代(韓邦・韓洪)

韓邦(かんほう)・長林(ちょうりん)

生没年不詳。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓肇(かんちょう)。

若い頃から才能と学問に優(すぐ)れており、父・韓肇(かんちょう)が亡くなるとその後を継いだ。

晋(しん)の武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))の時代に司州(ししゅう・河内郡(かだいぐん)・野王県(やおうけん)の県令(けんれい)となり、評判と業績を上げた。

後(のち)に荊州(けいしゅう・新城郡(しんじょうぐん)の太守(たいしゅ)となったが、野王県令(やおうけんれい)時代の官吏を新城郡(しんじょうぐん)の計吏(けいり)に取り立てたことで法律に触れ、これに激怒した武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))に処刑された。


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韓洪(かんこう)

生没年不詳。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓繇(かんよう)。子に韓保(かんほ)、韓寿(かんじゅ)、韓預(かんよ)、韓鑑(かんかん)、韓蔚(かんうつ)。

侍御史(じぎょし)となった。


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第6世代(韓保・韓寿・韓預・韓鑑・韓蔚)

韓保(かんほ)

生年不詳〜永康(えいこう)元年(300年)没。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓洪(かんこう)。弟に韓寿(かんじゅ)、韓預(かんよ)、韓鑑(かんかん)、韓蔚(かんうつ)。

司州(ししゅう)・河南郡(かなんぐん)・鞏県(きょうけん)の県令(けんれい)となった。

永康(えいこう)元年(300年)に趙王倫(ちょうおうりん)(司馬倫(しばりん))が賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))を廃位すると、甥(おい)の賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))、弟の韓預(かんよ)、韓鑑(かんかん)、韓蔚(かんうつ)、弟・韓寿(かんじゅ)の妻・賈午(かご)と共に誅殺(ちゅうさつ)され、韓氏(かんし)は滅亡した。


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韓寿(かんじゅ)・徳貞(とくてい)*3

生年不詳〜元康(げんこう)元年(291年)没。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓洪(かんこう)。妻は賈充(かじゅう)の末娘・賈午(かご)。兄は韓保(かんほ)。弟に韓預(かんよ)、韓鑑(かんかん)、韓蔚(かんうつ)。子は韓謐(かんひつ)(賈謐(かひつ))。

曾祖父の韓曁(かんき)以下、代々平素の行動を慎(つつし)んだが、韓寿(かんじゅ)は家風を心から尊重し、その性格はとりわけ忠厚(誠実)であった。

また、眉目秀麗(びもくしゅうれい)で立ち居振る舞い(または「身のこなし」)が優(すぐ)れていたことから、賈充(かじゅう)に辟召(まね)かれて司空(しくう)の掾(えん)(属官)となった。


賈充(かじゅう)が賓客(ひんかく)や属僚と宴(うたげ)を催(もよお)していた時のこと。賈充(かじゅう)の末娘・賈午(かご)は青鏁(せいさ)(?)の中から覗(のぞ)き見て韓寿(かんじゅ)に一目惚れし、左右の者に尋(たず)ねると、1人の下女(婢(ひ))が「私の前の主人です」と言った。賈午(かご)は感激のあまり寝ても覚めても忘れられなかった。

そこで下女(婢(ひ))は韓寿(かんじゅ)の家に行って賈午(かご)の想いを伝え、華やかで美しい女性だとつけ加えたので、韓寿(かんじゅ)は心を動かされ、丁寧な返事を返した。下女(婢(ひ))がこれを報告すると、賈午(かご)は秘かに連絡を取って互いに愛を育(はぐく)み、夜、韓寿(かんじゅ)を部屋に招(まね)き入れた。韓寿(かんじゅ)は素早く垣根を飛びこえて忍び込んだので、家中の者は誰も気づいていなかったが、ただ父の賈充(かじゅう)だけは、女(むすめ)の普段の素振りの変化に気づいていた。

当時、西域から「珍しいお香」が贈られ、それは一度焚(た)くと数ヶ月の間、香りが消えなかった。武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))はこれをとても貴重な物だと考え、ただ賈充(かじゅう)と大司馬(だいしば)の陳騫(ちんけん)だけに下賜(かし)していたが、賈午(かご)は秘かにこれを盗んで韓寿(かんじゅ)に贈った。

賈充(かじゅう)の属僚たちが韓寿(かんじゅ)とくつろいでいた時、あの「珍しいお香」の香りに気づいて賈充(かじゅう)に告げた。これにより賈充(かじゅう)は、賈午(かご)と韓寿(かんじゅ)が通じていることに気づいたが、邸(やしき)の門の警備は厳重なので、どこから入ったのか分からなかった。

そこで夜中に驚いた振りをして「盗賊が出た」と騒ぎ、それに託(かこつ)けて垣根に変わったところがないか観察させたが、左右の者はただ「異常はありません。ただ、東北の角に狐狸の通った跡(あと)がありました」と言うだけだった。

賈充(かじゅう)は賈午(かご)の周辺を取り調べて詳しく白状させると、そのことを秘密にしたまま、ついに韓寿(かんじゅ)と結婚させた。


韓寿(かんじゅ)は早くから清職を歴任し、恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))が皇位を継承すると散騎常侍(さんきじょうじ)となった。昇進して河南尹(かなんいん)代行となったが、元康(げんこう)元年(291年)に病気で亡くなり、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)を追贈された。


賈充(かじゅう)には後継ぎがいなかったので、韓寿(かんじゅ)の子・韓謐(かんひつ)(賈謐(かひつ))を後継ぎとした。

脚注

*3『魏書(ぎしょ)』韓曁伝(かきでん)より。『晋書(しんじょ)』賈充伝(かじゅうでん)では、字(あざな)は徳真(とくしん)。


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韓預(かんよ)

生年不詳〜永康(えいこう)元年(300年)没。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓洪(かんこう)。兄は韓保(かんほ)、韓寿(かんじゅ)。弟に韓鑑(かんかん)、韓蔚(かんうつ)。

散騎侍郎(さんきじろう)となった。

永康(えいこう)元年(300年)に趙王倫(ちょうおうりん)(司馬倫(しばりん))が賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))を廃位すると、甥(おい)の賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))、兄の韓保(かんほ)、弟の韓鑑(かんかん)、韓蔚(かんうつ)、兄・韓寿(かんじゅ)の妻・賈午(かご)と共に誅殺(ちゅうさつ)され、韓氏(かんし)は滅亡した。


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韓鑑(かんかん)

生年不詳〜永康(えいこう)元年(300年)没。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓洪(かんこう)。兄は韓保(かんほ)、韓寿(かんじゅ)、韓預(かんよ)。弟に韓蔚(かんうつ)。

呉王(ごおう)・司馬晏(しばあん)の友であった。

永康(えいこう)元年(300年)に趙王倫(ちょうおうりん)(司馬倫(しばりん))が賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))を廃位すると、甥(おい)の賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))、兄の韓保(かんほ)、韓預(かんよ)、弟の韓蔚(かんうつ)、兄・韓寿(かんじゅ)の妻・賈午(かご)と共に誅殺(ちゅうさつ)され、韓氏(かんし)は滅亡した。


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韓蔚(かんうつ)

生年不詳〜永康(えいこう)元年(300年)没。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓洪(かんこう)。兄は韓保(かんほ)、韓寿(かんじゅ)、韓預(かんよ)、韓鑑(かんかん)。

器量と声望があった。

永康(えいこう)元年(300年)に趙王倫(ちょうおうりん)(司馬倫(しばりん))が賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))を廃位すると、甥(おい)の賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))、兄の韓保(かんほ)、韓預(かんよ)、韓鑑(かんかん)。兄・韓寿(かんじゅ)の妻・賈午(かご)と共に誅殺(ちゅうさつ)され、韓氏(かんし)は滅亡した。


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第7世代(韓謐)

韓謐(かんひつ)・長深(ちょうしん)(賈謐(かひつ))

生年不詳〜永康(えいこう)元年(300年)没。荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)・堵陽県(しゃようけん)の人。父は韓寿(かんじゅ)。母は賈充(かじゅう)の末娘・賈午(かご)。

賈充の後を継ぐ

母方の祖父・賈充(かじゅう)が亡くなると、彼には後継ぎがいなかったので、賈充(かじゅう)の妻の郭槐(かくかい)は外孫の韓謐(かんひつ)を、亡くなった賈充(かじゅう)の子・賈黎民(かれいみん)の子として後継ぎにしようとした。

郎中(ろうちゅう)の韓咸(かんかん)と中尉(ちゅうい)の曹軫(そうしん)は「礼には『大宗(宗家)に後継ぎがいなければ、小宗(分家)の子を後継ぎとする』とありますが『異姓を後継ぎとする』という文はありません」と諫(いさ)めたが、郭槐(かくかい)はは従わなかった。

韓咸(かんかん)らは上書して後継ぎを改めることを求めたが、結局、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は「韓謐(かんひつ)を賈充(かじゅう)の後継ぎとすることを認め、太宰(たいさい)(賈充(かじゅう))ほどの功績がない限り異姓の後継ぎを許さず、これを前例としてはならない」とした。

賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))は弱冠(じゃっかん)(20歳)で秘書監(ひしょかん)侍中(じちゅう)となった。

権勢を振るう

賈謐(かひつ)は学門を好み、才知の優(すぐ)れた考えがあった。

賈謐(かひつ)は「佐命の臣(天子(てんし)を補佐する臣下:賈充(かじゅう))」の後継者であり、また伯母(おば)の賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))が政治を欲しいままにしていたので、賈謐(かひつ)の権勢は人主[恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))]を上回り、その威福は黄門侍郎(こうもんじろう)を鎖で繋(つな)ぐほどであった。

その驕慢(ごうまん)さと寵愛(ちょうあい)を背景に賈謐(かひつ)の贅沢(ぜいたく)は限度を超え、屋敷は分不相応に豪勢で、器物や衣服は珍(めずら)しく美麗なものを用(もち)い、歌僮の舞女は最高の者を厳選した。

賈謐(かひつ)が屋敷を開いて賓客(ひんかく)を招(まね)くと、国内の方々から集まった貴遊(高貴な家柄)や豪戚(豪族)、浮競の徒らはみな礼を尽くして賈謐(かひつ)に仕え、ある者は文章を著(あらわ)して賈謐(かひつ)を賛美し、前漢(ぜんかん)の賈誼(かぎ)に準(なぞら)えた。

賈謐(かひつ)に追従する者たちは数えきれず、主(おも)立(だ)った者たちは「二十四友」と呼ばれた。

二十四友
タップ(クリック)すると開きます。
  • 冀州(きしゅう)・渤海郡(ぼっかいぐん)の石崇(せきすう)、歐陽建(おうようけん)
  • 司州(ししゅう)・滎陽郡(けいようぐん)の潘岳(はんがく)
  • 揚州(ようしゅう)・呉国(ごこく)の陸機(りくき)、陸雲(りくうん)
  • 徐州(じょしゅう)・蘭陵郡(らんりょうぐん)の繆征(ぼくせい)
  • 雍州(ようしゅう)・京兆郡(けいちょうぐん)の杜斌(とひん)、摯虞(しぐ)
  • 徐州(じょしゅう)・琅邪国(ろうやこく)の諸葛詮(しょかつせん)
  • 司州(ししゅう)・弘農郡(こうのうぐん)の王粋(おうすい)
  • 豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・襄城郡(じょうじょうぐん)の杜育(といく)
  • 荊州(けいしゅう)・南陽郡(なんようぐん)の鄒捷(すうしょう)
  • 青州(せいしゅう)・斉国(せいこく)の左思(さし)
  • 冀州(きしゅう)・清河国(せいがこく)の崔基(さいき)
  • 豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)の劉瑰(りゅうかい)
  • 豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・汝南郡(じょなんぐん)の和郁(かいく)、周恢(しゅうかい)
  • 冀州(きしゅう)・安平国(あんぺいこく)の牽秀(けんしゅう)
  • 豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・潁川郡(えいせんぐん)の陳眕(ちんしん)
  • 幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・太原国(たいげんこく)の郭彰(かくしょう)
  • 冀州(きしゅう)・高陽国(こうようこく)の許猛(きょもう)
  • 徐州(じょしゅう)・彭城国(ほうじょうこく)の劉訥(りゅうとつ)
  • 冀州(きしゅう)・中山国(ちゅうざんこく)の劉輿(りゅうよ)、劉琨(りゅうこん)
『晋書』の限断*4

賈謐(かひつ)は散騎常侍(さんきじょうじ)や後軍将軍(こうぐんしょうぐん)を歴任し、広城君(こうじょうくん)(賈充(かじゅう)の妻・郭槐(かくかい))が亡くなると職を去ったが、まだ喪(も)が明ける前に復帰して秘書監(ひしょかん)となり、国史の編纂(へんさん)を取り仕切った。

これより先、朝廷では『晋書(しんじょ)』の限断(げんだん)*4をしていたが、中書監(ちゅうしょかん)の荀勖(じゅんきょく)は「魏(ぎ)の正始(せいし)(240年)*5を起年とすべき」と言い、また著作郎(ちょさくろう)の王瓚(おうさん)は「魏(ぎ)の嘉平(かへい)(249年)*6以降の朝臣を晋史(しんし)に入れるべき」と言って結論が出なかった。

恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))が即位すると議論が再開され、賈謐(かひつ)は「晋(しん)の泰始(たいし)(265年)*7を区切りとする」ように申し上げた。この事が三府(さんぷ)(三公府(さんこうふ))に下されると、

  • 司徒(しと)の王戎(おうじゅう)
  • 司空(しくう)の張華(ちょうか)
  • 領軍将軍(りょうぐんしょうぐん)の王衍(おうえん)
  • 侍中(じちゅう)の楽広(がくこう)
  • 黄門侍郎(こうもんじう)の嵇紹(けいしょう)
  • 国子博士(こくしはくし)の謝衡(しゃこう)

らはみな賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))の意見に従ったが、

  • 騎都尉(きとい)・済北侯(せいほくこう)の荀畯(じゅんしゅん)
  • 侍中(じちゅう)の荀藩(じゅんはん)
  • 黄門侍郎(こうもんじう)の華混(かこん)

らは「魏(ぎ)の正始(せいし)(240年)*5を晋(しん)の開元(国の始まり)として用(もち)いるべき」と言い、博士(はくし)の荀熙(じゅんき)、刁協(ちょうきょう)らは「魏(ぎ)の嘉平(かへい)(249年)*6を起年とすべき」と言ってまたも意見が割れた。

すると賈謐(かひつ)は何度も王戎(おうじゅう)と張華(ちょうか)の意見を上奏し、ついに賈謐(かひつ)の意見が採用された。

脚注

*4歴史書(断代史)を編纂(へんさん)するに当た って、その王朝の紀元(断代史の起筆時期)をどこに定めるのかを議論すること。

*5魏(ぎ)の斉王(せいおう)・曹芳(そうほう)の治世における最初の元号。

*6魏(ぎ)の斉王(せいおう)・曹芳(そうほう)の治世における2番目の元号。

*7晋(しん)を建国した武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))の治世における最初の元号。

成都王・司馬穎を降格させる

その後、賈謐(かひつ)は侍中(じちゅう)に転任し、これまで通り秘書監(ひしょかん)を領した。

賈謐(かひつ)が「恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))が宣武観(せんぶかん)で行う校猟(こうりょう)(巻き狩り)」に随行(ずいこう)した時のこと。[恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))は]、尚書(しょうしょ)を通じて賈謐(かひつ)を召(め)して「取り巻きの連中を用(もち)いるのはやめよ」と戒(いまし)めた。この一件で多くの人は「賈謐(かひつ)に謀反(むほん)の心があること」を疑うようになった。

外戚(がいせき)(親貴)である賈謐(かひつ)はしばしば二宮に入って愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))と共に遊んだが、まったく遠慮がなかった。

賈謐(かひつ)はいつも太子(たいし)(司馬遹(しばいつ))と弈棋(えきき)(囲碁)の打ち方で言い争っていたが、同席していた成都王(せいとおう)(司馬穎(しばえい))が改まった顔をして「皇太子(こうたいし)(司馬遹(しばいつ))は国の儲君(ちょくん)(天子(てんし)の位を継ぐべき皇子(おうじ))である。賈謐(かひつ)はなぜ無礼を働くのかっ!」と言った。

賈謐(かひつ)は懼(おそ)れ、このことを賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))に告げたところ、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))はとうとう司馬穎(しばえい)を転出させて平北将軍(へいほくしょうぐん)とし、司州(ししゅう)・魏郡(ぎぐん)・鄴県(ぎょうけん)を鎮守(ちんじゅ)させた。

妖異に怯える

賈謐(かひつ)は常侍(じょうじ)となって東宮(とうぐう)で太子(たいし)(司馬遹(しばいつ))に学問を講義するようになったが、太子(たいし)(司馬遹(しばいつ))が不満げであったので、賈謐(かひつ)は苦(にが)々(にが)しく思っていた。

この頃、賈謐(かひつ)の屋敷ではしばしば妖異が起こり、突然巻き起こった風が朝服を数百丈も吹き飛ばして中丞台(ちゅうじょうだい)に落ちたり、賈謐(かひつ)の朝服の中から蛇が出てきたりした。

また、夜に突然、賈謐(かひつ)の屋敷に雷が落ち、柱が地面に陥没して寝台や帳(とばり)を押し潰(つぶ)したので、賈謐(かひつ)はますます恐れた。

賈謐の最期

賈謐(かひつ)は侍中(じちゅう)に遷(うつ)ると、専(もっぱ)ら禁中の内部に籠(こ)もって政務を執(と)っていたが、ついに賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))と謀(はか)って、太子(たいし)(司馬遹(しばいつ))を誣告(ぶこく)して陥(おとしい)れた。

永康(えいこう)元年(300年)、趙王倫(ちょうおうりん)(司馬倫(しばりん))は賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))を廃位すると、詔(みことのり)を下して賈謐(かひつ)を殿前に召(め)し出し、彼を殺害しようとした。

賈謐(かひつ)は西鐘(せいしょう)の下に逃げ込んで「阿后(あこう)(賈后(かこう))よ、我(わたし)を救ってくれっ!」と叫んだが、結局捕まって斬られた。


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