正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(91)南陽なんよう韓氏かんし②[韓術かんじゅつ韓純かんじゅん韓曁かんき韓肇かんちょう韓繇かんよう韓邦かんほう韓洪かんこう韓保かんほ韓寿かんじゅ韓預かんよ韓鑑かんかん韓蔚かんうつ韓謐かんひつ賈謐かひつ)]です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

南陽韓氏②系図

南陽韓氏②系図

南陽なんよう韓氏かんし②系図

韓謐かんひつ賈謐かひつ)は母方の祖父・賈充かじゅうに後継ぎがなかったので、特別に亡くなった賈充かじゅうの子・賈黎民かれいみんの養子となってその後を継いだ。

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この記事では南陽なんよう韓氏かんし②の人物、

についてまとめています。


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か(91)南陽韓氏②

第1世代(韓術)

韓術かんじゅつ

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。子は韓純かんじゅん。孫に韓曁かんき

韓王信かんおうしん後裔こうえい

河東太守かとうたいしゅとなった。


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第2世代(韓純)

韓純かんじゅん

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓術かんじゅつ。子は韓曁かんき

南郡太守なんぐんたいしゅとなったが、同県の豪右ごうゆう(豪族)・陳茂ちんぼう譖訴しんそ(中傷)され、大辟たいへき(死罪)となった。


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第3世代(韓曁)

韓曁かんき公至こうし

生年不詳〜景初けいしょ2年(238年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓純かんじゅん。子は韓肇かんちょう韓繇かんよう

父・兄の仇を討つ

韓曁かんきの父と兄は同県の豪右ごうゆう(豪族)・陳茂ちんぼう譖訴しんそ(中傷)され、大辟たいへき(死罪)となった。

韓曁かんきは表立って何も言わなかったが、日雇ひやといをしながら仇討かたきうちのための資金をたくわえ、秘かに「死を覚悟して協力してくれる者」と結んでつい陳茂ちんぼうを呼び出して捕らえ、その首を父の墓前にそなえた。

このことによって韓曁かんきは名を知られるようになった。

隠棲・劉表期

韓曁かんき孝廉こうれんに推挙され、司空しくう辟召されたが、いずれも応じず、姓名を変えて荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん魯陽県ろようけんの山中に隠れ住み、動乱を避けた。

ある時、山中の住民たちが徒党ととうを組んで、他所に攻め入って略奪しようとしていた。韓曁かんきは家財を投じて牛と酒を用意し、その頭目とうもくまねいて「安全と危険の道理」をいたところ、みな感化されて、結局、悪事を実行に移さなかった。

その後韓曁かんきは、袁術えんじゅつの召命を避けて荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん山都国さんとこくの山中に移住した。そこでまた荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうの礼を尽くした辟召まねきを受けたが、あくまで逃げ隠れ、南の荊州けいしゅう武陵郡ぶりょうぐん孱陵県せんりょうけんの辺りに移り住んだ。

韓曁かんきは行く先々で敬愛を受けたが、ただ劉表りゅうひょうだけは深くうらんでいたので、これをおそれた韓曁かんきは命令に応じて荊州けいしゅう南郡なんぐん宜城県ぎじょうけん県長けんちょうとなった。

曹操期

建安けんあん13年(208年)、曹操そうそう荊州けいしゅうを平定すると、曹操そうそう辟召まねかれて丞相じょうしょう士曹属しそうぞくとなり、のち楽陵太守らくりょうたいしゅに選抜され、監冶謁者かんやえっしゃ(金属の精製・農具・武器の製作をつかさどる)に転任した。

以前は金属を溶かす際に馬排ばはい[馬の力を利用したふいご(送風機)]を作ったが、鉱石を1回熱するたびに百頭の馬を必要とした。さらに人排じんはいが作られたものの、やはり大変な労力を必要とした。そこで韓曁かんきは大きな水流を利用した水排すいはいを考案し、その利益を計算すると以前の3倍となった。

韓曁かんきが在職した7年の間に器物は充実した。これより韓曁かんきは、制書せいしょ*1によってたたえられ、司金都尉しきんといの官号を加えられて、九卿きゅうけいに次ぐ待遇を与えられた。

脚注

*1天子てんしが下す文書の書式の1つ。恩赦おんしゃ贖罪しょくざいの命令を下す場合などにもちいられる。

文帝(曹丕)期

黄初こうしょ元年(220年)に文帝ぶんてい曹丕そうひ)が帝位にくと、宜城亭侯ぎじょうていこうに封ぜられ、黄初こうしょ7年(226年)には太常たいじょうに昇進して南郷亭侯なんきょうていこうに爵位を進め、封邑ほうゆう200戸を与えられた。

明帝(曹叡)期

太和たいわ3年(229年)11月、当時は新しく洛陽らくように都をうつしたばかりで制度が完成しておらず、宗廟そうびょうの位牌をおさめるせき(石室)は、すべて鄴都ぎょうとに置かれていた。そこで韓曁かんきは、上奏して鄴都ぎょうとにある4つのびょう*2の位牌を迎え入れ、洛陽らくようびょうを建立して、四季の祭りには親しく供物をそなえられるように請願した。

韓曁かんきは礼の正しいあり方を尊重して明らかにし、淫祀いんしを撤去させるなど、間違っているものを正しく直すことが多かった。

在官8年、病気のため官位を辞退したが、その後、復帰して太中大夫たいちゅうたいふとなった。


景初けいしょ2年(238年)、欠員となった司徒しとの候補者をたずねられた盧毓ろいくは、

「情が厚く誠実で品行がすぐれているのは太中大夫たいちゅうたいふ韓曁かんきです。清明で方正なのは司隷校尉しれいこうい崔林さいりんです。誠実で純粋なのは太常たいじょう常林じょうりんです」

と答えた。

そこで明帝めいてい曹叡そうえい)は韓曁かんきもちいることに決め、みことのりを下して韓曁かんき司徒しとに任命した。

太中大夫たいちゅうたいふ韓曁かんきは身を清く保ち、徳に厚く、節操を固く守り高潔である。年は80を越えながら道理を守ることいよいよ固く、純粋にして篤実、老いてますます立派な者であると言える。よって韓曁かんき司徒しとに任命する」

この年の夏4月に亡くなり、恭侯きょうこうおくりなされた。韓曁かんきの遺体は、彼の遺言通り時服じふく(朝廷から支給された衣服)に包まれて土藏の中にほうむられた。

脚注

*2高皇帝こうこうてい曹騰そうとう)、太皇帝たいこうてい曹嵩そうすう)、武帝ぶてい曹操そうそう)、文帝ぶんてい曹丕そうひ)の4つのびょう

韓曁の遺言と上奏文
遺言

「世俗が贅沢ぜいたくを好むならば、倹約を示すべきだ。倹約はすなわち礼によって節度がたもたれるのである。

わたしはこれまで、前代までの死者を送り出す方法が常軌じょうきいっして派手なことをの当たりにしてきた。

もしわたしの言葉に耳を傾けてくれるなら、時服じふく(朝廷から支給された衣服)に包んで土蔵にほうむり、穴が出来たらすぐに埋葬まいそうし、かわら明器めいき(死者と共に墓に納めた器物)を旅立ちの道具とするように。つつしんでそれ以上のことをしてはならぬ」

上奏文

「生きている時は民に利益をもたらし、死んだ後でも民に被害を与えないことが理想です。

ましてわたくし台司だいし三公さんこう)の位にいて在職の日も浅く、天下にご聖德を称揚して民衆に広く利益をもたらすこともできずにいるのに、病気はいよいよ長引き、たちまちの内に幽冥ゆうめいの世界におもむくのです。

現在、百姓は農業にはげんでいる時期ですので、労役ろうえきに使うべきではありません。どうか洛陽らくようの吏民を、喪具そうぐもうけるために使わないでください。

国典(国の儀式)には決まった例がありますので、わたくしの個人的な願望がかなえられないことを懸念けねんし、つつしんで無礼をかえりみず上聞に達しました。どうかあわれとおぼし、お聞き届けくださいますように」


明帝めいてい曹叡そうえい)は上奏文を手にして感嘆し、みことのりを下して、


「元司徒しと韓曁かんきは徳を積んで行動に表し、忠義をもって朝廷にのぞみ、白髪になっても誠実さを失わなかった。

韓曁かんきが)三公さんこうの位に登ったからには、(彼の)輔弼ほひつが得られることを期待したのだが、何としたことか、にわかに天から下された生命は長らえることなく終わってしまったっ!

曾参そうしん孔子こうしの弟子)は死を前にして(身分に相応ふさわしくない)すのこ(寝台の上にく竹のむしろ)を取り換えさせて、相応ふさわしい礼をもちいた。

晏嬰あんえい春秋しゅんじゅう時代のせい宰相さいしょう)は倹約を尊重し、(斉侯せいこうから送られた)車を送り返し、規則よりも低い待遇に甘んじた。

今、司徒しと韓曁かんき)は寿命をさとって遺言し、民をいたわり節倹を尊重することを強く望んでいる。初めを良くし終わりを良くする者と言って良いであろう。

その葬儀の施設はすべて慣例通りとして、不足することのないようにせよ」


と言い、特別に温明秘器(宮中御用のひつぎ)、衣服1そろい、五時朝服[5つの季節(四季と季夏)の朝服]、玉具剣佩けんぱい下賜かしした」

備考

魏書ぎしょ裴潜伝はいせんでんに、

荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん出身の韓暨かんきは賢明な人柄で、平素の徳行によって大鴻臚だいこうろとなっていたが、その後に大鴻臚だいこうろとなった韓宣かんせんもまた職に相応ふさわしい人物だと称され、鴻臚こうろたちの中で『大鴻臚だいこうろ小鴻臚しょうこうろ、前後の治績が何と似ていることよ』と語られた」

とあるが、韓暨かんき大鴻臚だいこうろであった時期は不詳。


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第4世代(韓肇・韓繇)

韓肇かんちょう

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓曁かんき。弟は韓繇かんよう。子に韓邦かんほう

父・韓曁かんきの後を継いだ。


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韓繇かんよう

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓曁かんき。兄は韓肇かんちょう。子に韓洪かんこう

冀州きしゅう高陽郡こうようぐん太守たいしゅとなった。


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第5世代(韓邦・韓洪)

韓邦かんほう長林ちょうりん

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓肇かんちょう

若い頃から才能と学問にすぐれており、父・韓肇かんちょうが亡くなるとその後を継いだ。

しん武帝ぶてい司馬炎しばえん)の時代に司州ししゅう河内郡かだいぐん野王県やおうけん県令けんれいとなり、評判と業績を上げた。

のち荊州けいしゅう新城郡しんじょうぐん太守たいしゅとなったが、野王県令やおうけんれい時代の官吏を新城郡しんじょうぐん計吏けいりに取り立てたことで法律に触れ、これに激怒した武帝ぶてい司馬炎しばえん)に処刑された。


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韓洪かんこう

生没年不詳。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓繇かんよう。子に韓保かんほ韓寿かんじゅ韓預かんよ韓鑑かんかん韓蔚かんうつ

侍御史じぎょしとなった。


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第6世代(韓保・韓寿・韓預・韓鑑・韓蔚)

韓保かんほ

生年不詳〜永康えいこう元年(300年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓洪かんこう。弟に韓寿かんじゅ韓預かんよ韓鑑かんかん韓蔚かんうつ

司州ししゅう河南郡かなんぐん鞏県きょうけん県令けんれいとなった。

永康えいこう元年(300年)に趙王倫ちょうおうりん司馬倫しばりん)が賈后かこう賈南風かなんぷう)を廃位すると、おい賈謐かひつ韓謐かんひつ)、弟の韓預かんよ韓鑑かんかん韓蔚かんうつ、弟・韓寿かんじゅの妻・賈午かごと共に誅殺ちゅうさつされ、韓氏かんしは滅亡した。


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韓寿かんじゅ徳貞とくてい*3

生年不詳〜元康げんこう元年(291年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓洪かんこう。妻は賈充かじゅうの末娘・賈午かご。兄は韓保かんほ。弟に韓預かんよ韓鑑かんかん韓蔚かんうつ。子は韓謐かんひつ賈謐かひつ)。

曾祖父の韓曁かんき以下、代々平素の行動をつつしんだが、韓寿かんじゅは家風を心から尊重し、その性格はとりわけ忠厚(誠実)であった。

また、眉目秀麗びもくしゅうれいで立ち居振る舞い(または「身のこなし」)がすぐれていたことから、賈充かじゅう辟召まねかれて司空しくうえん(属官)となった。


賈充かじゅう賓客ひんかくや属僚とうたげもよおしていた時のこと。賈充かじゅうの末娘・賈午かご青鏁せいさ(?)の中からのぞき見て韓寿かんじゅに一目惚れし、左右の者にたずねると、1人の下女()が「私の前の主人です」と言った。賈午かごは感激のあまり寝ても覚めても忘れられなかった。

そこで下女()は韓寿かんじゅの家に行って賈午かごの想いを伝え、華やかで美しい女性だとつけ加えたので、韓寿かんじゅは心を動かされ、丁寧な返事を返した。下女()がこれを報告すると、賈午かごは秘かに連絡を取って互いに愛をはぐくみ、夜、韓寿かんじゅを部屋にまねき入れた。韓寿かんじゅは素早く垣根を飛びこえて忍び込んだので、家中の者は誰も気づいていなかったが、ただ父の賈充かじゅうだけは、むすめの普段の素振りの変化に気づいていた。

当時、西域から「珍しいお香」が贈られ、それは一度くと数ヶ月の間、香りが消えなかった。武帝ぶてい司馬炎しばえん)はこれをとても貴重な物だと考え、ただ賈充かじゅう大司馬だいしば陳騫ちんけんだけに下賜かししていたが、賈午かごは秘かにこれを盗んで韓寿かんじゅに贈った。

賈充かじゅうの属僚たちが韓寿かんじゅとくつろいでいた時、あの「珍しいお香」の香りに気づいて賈充かじゅうに告げた。これにより賈充かじゅうは、賈午かご韓寿かんじゅが通じていることに気づいたが、やしきの門の警備は厳重なので、どこから入ったのか分からなかった。

そこで夜中に驚いた振りをして「盗賊が出た」と騒ぎ、それにかこつけて垣根に変わったところがないか観察させたが、左右の者はただ「異常はありません。ただ、東北の角に狐狸の通ったあとがありました」と言うだけだった。

賈充かじゅう賈午かごの周辺を取り調べて詳しく白状させると、そのことを秘密にしたまま、ついに韓寿かんじゅと結婚させた。


韓寿かんじゅは早くから清職を歴任し、恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)が皇位を継承すると散騎常侍さんきじょうじとなった。昇進して河南尹かなんいん代行となったが、元康げんこう元年(291年)に病気で亡くなり、驃騎将軍ひょうきしょうぐんを追贈された。


賈充かじゅうには後継ぎがいなかったので、韓寿かんじゅの子・韓謐かんひつ賈謐かひつ)を後継ぎとした。

脚注

*3魏書ぎしょ韓曁伝かきでんより。晋書しんじょ賈充伝かじゅうでんでは、あざな徳真とくしん


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韓預かんよ

生年不詳〜永康えいこう元年(300年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓洪かんこう。兄は韓保かんほ韓寿かんじゅ。弟に韓鑑かんかん韓蔚かんうつ

散騎侍郎さんきじろうとなった。

永康えいこう元年(300年)に趙王倫ちょうおうりん司馬倫しばりん)が賈后かこう賈南風かなんぷう)を廃位すると、おい賈謐かひつ韓謐かんひつ)、兄の韓保かんほ、弟の韓鑑かんかん韓蔚かんうつ、兄・韓寿かんじゅの妻・賈午かごと共に誅殺ちゅうさつされ、韓氏かんしは滅亡した。


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韓鑑かんかん

生年不詳〜永康えいこう元年(300年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓洪かんこう。兄は韓保かんほ韓寿かんじゅ韓預かんよ。弟に韓蔚かんうつ

呉王ごおう司馬晏しばあんの友であった。

永康えいこう元年(300年)に趙王倫ちょうおうりん司馬倫しばりん)が賈后かこう賈南風かなんぷう)を廃位すると、おい賈謐かひつ韓謐かんひつ)、兄の韓保かんほ韓預かんよ、弟の韓蔚かんうつ、兄・韓寿かんじゅの妻・賈午かごと共に誅殺ちゅうさつされ、韓氏かんしは滅亡した。


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韓蔚かんうつ

生年不詳〜永康えいこう元年(300年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓洪かんこう。兄は韓保かんほ韓寿かんじゅ韓預かんよ韓鑑かんかん

器量と声望があった。

永康えいこう元年(300年)に趙王倫ちょうおうりん司馬倫しばりん)が賈后かこう賈南風かなんぷう)を廃位すると、おい賈謐かひつ韓謐かんひつ)、兄の韓保かんほ韓預かんよ韓鑑かんかん。兄・韓寿かんじゅの妻・賈午かごと共に誅殺ちゅうさつされ、韓氏かんしは滅亡した。


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第7世代(韓謐)

韓謐かんひつ長深ちょうしん賈謐かひつ

生年不詳〜永康えいこう元年(300年)没。荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん堵陽県しゃようけんの人。父は韓寿かんじゅ。母は賈充かじゅうの末娘・賈午かご

賈充の後を継ぐ

母方の祖父・賈充かじゅうが亡くなると、彼には後継ぎがいなかったので、賈充かじゅうの妻の郭槐かくかいは外孫の韓謐かんひつを、亡くなった賈充かじゅうの子・賈黎民かれいみんの子として後継ぎにしようとした。

郎中ろうちゅう韓咸かんかん中尉ちゅうい曹軫そうしんは「礼には『大宗(宗家)に後継ぎがいなければ、小宗(分家)の子を後継ぎとする』とありますが『異姓を後継ぎとする』という文はありません」といさめたが、郭槐かくかいはは従わなかった。

韓咸かんかんらは上書して後継ぎを改めることを求めたが、結局、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は「韓謐かんひつ賈充かじゅうの後継ぎとすることを認め、太宰たいさい賈充かじゅう)ほどの功績がない限り異姓の後継ぎを許さず、これを前例としてはならない」とした。

賈謐かひつ韓謐かんひつ)は弱冠じゃっかん(20歳)で秘書監ひしょかん侍中じちゅうとなった。

権勢を振るう

賈謐かひつは学門を好み、才知のすぐれた考えがあった。

賈謐かひつは「佐命の臣(天子てんしを補佐する臣下:賈充かじゅう)」の後継者であり、また伯母おば賈后かこう賈南風かなんぷう)が政治を欲しいままにしていたので、賈謐かひつの権勢は人主[恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)]を上回り、その威福は黄門侍郎こうもんじろうを鎖でつなぐほどであった。

その驕慢ごうまんさと寵愛ちょうあいを背景に賈謐かひつ贅沢ぜいたくは限度を超え、屋敷は分不相応に豪勢で、器物や衣服はめずらしく美麗なものをもちい、歌僮の舞女は最高の者を厳選した。

賈謐かひつが屋敷を開いて賓客ひんかくまねくと、国内の方々から集まった貴遊(高貴な家柄)や豪戚(豪族)、浮競の徒らはみな礼を尽くして賈謐かひつに仕え、ある者は文章をあらわして賈謐かひつを賛美し、前漢ぜんかん賈誼かぎなぞらえた。

賈謐かひつに追従する者たちは数えきれず、おもった者たちは「二十四友」と呼ばれた。

二十四友
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  • 冀州きしゅう渤海郡ぼっかいぐん石崇せきすう歐陽建おうようけん
  • 司州ししゅう滎陽郡けいようぐん潘岳はんがく
  • 揚州ようしゅう呉国ごこく陸機りくき陸雲りくうん
  • 徐州じょしゅう蘭陵郡らんりょうぐん繆征ぼくせい
  • 雍州ようしゅう京兆郡けいちょうぐん杜斌とひん摯虞しぐ
  • 徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく諸葛詮しょかつせん
  • 司州ししゅう弘農郡こうのうぐん王粋おうすい
  • 豫州よしゅう予州よしゅう)・襄城郡じょうじょうぐん杜育といく
  • 荊州けいしゅう南陽郡なんようぐん鄒捷すうしょう
  • 青州せいしゅう斉国せいこく左思さし
  • 冀州きしゅう清河国せいがこく崔基さいき
  • 豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく劉瑰りゅうかい
  • 豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん和郁かいく周恢しゅうかい
  • 冀州きしゅう安平国あんぺいこく牽秀けんしゅう
  • 豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん陳眕ちんしん
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)・太原国たいげんこく郭彰かくしょう
  • 冀州きしゅう高陽国こうようこく許猛きょもう
  • 徐州じょしゅう彭城国ほうじょうこく劉訥りゅうとつ
  • 冀州きしゅう中山国ちゅうざんこく劉輿りゅうよ劉琨りゅうこん
『晋書』の限断*4

賈謐かひつ散騎常侍さんきじょうじ後軍将軍こうぐんしょうぐんを歴任し、広城君こうじょうくん賈充かじゅうの妻・郭槐かくかい)が亡くなると職を去ったが、まだが明ける前に復帰して秘書監ひしょかんとなり、国史の編纂へんさんを取り仕切った。

これより先、朝廷では晋書しんじょ限断げんだん*4をしていたが、中書監ちゅうしょかん荀勖じゅんきょくは「正始せいし(240年)*5を起年とすべき」と言い、また著作郎ちょさくろう王瓚おうさんは「嘉平かへい(249年)*6以降の朝臣を晋史しんしに入れるべき」と言って結論が出なかった。

恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)が即位すると議論が再開され、賈謐かひつは「しん泰始たいし(265年)*7を区切りとする」ように申し上げた。この事が三府さんぷ三公府さんこうふ)に下されると、

  • 司徒しと王戎おうじゅう
  • 司空しくう張華ちょうか
  • 領軍将軍りょうぐんしょうぐん王衍おうえん
  • 侍中じちゅう楽広がくこう
  • 黄門侍郎こうもんじう嵇紹けいしょう
  • 国子博士こくしはくし謝衡しゃこう

らはみな賈謐かひつ韓謐かんひつ)の意見に従ったが、

  • 騎都尉きとい済北侯せいほくこう荀畯じゅんしゅん
  • 侍中じちゅう荀藩じゅんはん
  • 黄門侍郎こうもんじう華混かこん

らは「正始せいし(240年)*5しんの開元(国の始まり)としてもちいるべき」と言い、博士はくし荀熙じゅんき刁協ちょうきょうらは「嘉平かへい(249年)*6を起年とすべき」と言ってまたも意見が割れた。

すると賈謐かひつは何度も王戎おうじゅう張華ちょうかの意見を上奏し、ついに賈謐かひつの意見が採用された。

脚注

*4歴史書(断代史)を編纂へんさんするに当た って、その王朝の紀元(断代史の起筆時期)をどこに定めるのかを議論すること。

*5斉王せいおう曹芳そうほうの治世における最初の元号。

*6斉王せいおう曹芳そうほうの治世における2番目の元号。

*7しんを建国した武帝ぶてい司馬炎しばえん)の治世における最初の元号。

成都王・司馬穎を降格させる

その後、賈謐かひつ侍中じちゅうに転任し、これまで通り秘書監ひしょかんを領した。

賈謐かひつが「恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)が宣武観せんぶかんで行う校猟こうりょう(巻き狩り)」に随行ずいこうした時のこと。[恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)は]、尚書しょうしょを通じて賈謐かひつして「取り巻きの連中をもちいるのはやめよ」といましめた。この一件で多くの人は「賈謐かひつ謀反むほんの心があること」を疑うようになった。

外戚がいせき(親貴)である賈謐かひつはしばしば二宮に入って愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)と共に遊んだが、まったく遠慮がなかった。

賈謐かひつはいつも太子たいし司馬遹しばいつ)と弈棋えきき(囲碁)の打ち方で言い争っていたが、同席していた成都王せいとおう司馬穎しばえい)が改まった顔をして「皇太子こうたいし司馬遹しばいつ)は国の儲君ちょくん天子てんしの位を継ぐべき皇子おうじ)である。賈謐かひつはなぜ無礼を働くのかっ!」と言った。

賈謐かひつおそれ、このことを賈后かこう賈南風かなんぷう)に告げたところ、賈后かこう賈南風かなんぷう)はとうとう司馬穎しばえいを転出させて平北将軍へいほくしょうぐんとし、司州ししゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけん鎮守ちんじゅさせた。

妖異に怯える

賈謐かひつ常侍じょうじとなって東宮とうぐう太子たいし司馬遹しばいつ)に学問を講義するようになったが、太子たいし司馬遹しばいつ)が不満げであったので、賈謐かひつにがにがしく思っていた。

この頃、賈謐かひつの屋敷ではしばしば妖異が起こり、突然巻き起こった風が朝服を数百丈も吹き飛ばして中丞台ちゅうじょうだいに落ちたり、賈謐かひつの朝服の中から蛇が出てきたりした。

また、夜に突然、賈謐かひつの屋敷に雷が落ち、柱が地面に陥没して寝台やとばりを押しつぶしたので、賈謐かひつはますます恐れた。

賈謐の最期

賈謐かひつ侍中じちゅううつると、もっぱら禁中の内部にもって政務をっていたが、ついに賈后かこう賈南風かなんぷう)とはかって、太子たいし司馬遹しばいつ)を誣告ぶこくしておとしいれた。

永康えいこう元年(300年)、趙王倫ちょうおうりん司馬倫しばりん)は賈后かこう賈南風かなんぷう)を廃位すると、みことのりを下して賈謐かひつを殿前にし出し、彼を殺害しようとした。

賈謐かひつ西鐘せいしょうの下に逃げ込んで「阿后あこう賈后かこう)よ、わたしを救ってくれっ!」と叫んだが、結局捕まって斬られた。


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【三国志人物伝】総索引