正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉔、河東郡(かとうぐん)(平陽郡(へいようぐん))賈氏(かし)②[賈荃(かせん)(賈褒(かほう))・賈濬(かしゅん)(賈裕(かゆう))・賈黎民(かれいみん)・賈南風(かなんぷう)(恵賈皇后(けいかこうごう))・賈午(かご)・賈彝(かい)・賈遵(かじゅん)・賈模(かぼ)]です。

スポンサーリンク

系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

河東賈氏系図

河東郡(平陽郡)賈氏系図②

河東郡(かとうぐん)(平陽郡(へいようぐん))賈氏(かし)系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
河東郡(かとうぐん)が分割されて襄陵県(じょうりょうけん)が平陽郡(へいようぐん)に編入されたため、賈充(かじゅう)以降は平陽郡(へいようぐん)賈氏(かし)となる。この記事で扱う人物は、全員平陽郡(へいようぐん)賈氏(かし)となるが、便宜上、河東郡(かとうぐん)(平陽郡(へいようぐん))賈氏(かし)として扱う。
賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))については南陽郡(なんようぐん)韓氏(かんし)として扱う。

関連記事

この記事では河東郡(かとうぐん)(平陽郡(へいようぐん))賈氏(かし)②の人物、

についてまとめています。

関連記事

スポンサーリンク


か㉔[河東(平陽)賈氏②]

第3世代(賈荃・賈濬・賈黎民・賈南風・賈午・賈彝・賈遵・賈模)

賈荃(かせん)(賈褒(かほう))

生没年不詳。司隷(しれい)・平陽郡(へいようぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。父は賈充(かじゅう)。母は李氏(りし)。同母妹に賈濬(かしゅん)(賈裕(かゆう))。異母弟に賈黎民(かれいみん)。異母妹に賈南風(かなんぷう)、賈午(かご)。

賈充(かじゅう)の前妻・李氏(りし)は、貞淑(ていしゅく)で美しく才能があり、行いも優(すぐ)れていて、2人の女(むすめ)・賈荃(かせん)(賈褒(かほう))と賈濬(かしゅん)(賈裕(かゆう))を生んだ。

李氏(りし)の父・李豊(りほう)が司馬師(しばし)に誅殺(ちゅうさつ)されると、李氏(りし)は父に連座して流徙(りゅうし)(流罪)となり、賈充(かじゅう)は城陽太守(じょうようたいしゅ)・郭配(かくはい)の女(むすめ)・郭槐(かくかい)を娶(めと)ったが、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))が践阼(せんそ)(即位)すると、大赦(たいしゃ)により李氏(りし)は帰還を赦(ゆる)され、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は特別に、賈充(かじゅう)に2人の夫人(ふじん)を置くことを許した。

賈充(かじゅう)の母・柳氏(りゅうし)は「李氏(りし)を迎えるよう」に言ったが、賈充(かじゅう)は郭槐(かくかい)を恐れて、2人の夫人(ふじん)を置くことを辞退した。


賈荃(かせん)が斉王(せいおう)・司馬攸(しばゆう)の妃(きさき)となると、賈荃(かせん)は父・賈充(かじゅう)に「後妻の郭槐(かくかい)に、実母の李氏(りし)を迎えに行かせる」ように命じたが、賈充(かじゅう)は、賈荃(かせん)と賈濬(かしゅん)が号泣して懇願(こんがん)しても迎えに行こうとしなかった。

賈充(かじゅう)が関右(かんゆう)に出鎮することになり、公卿(こうけい)たちが幔幕(まんまく)をめぐらせて送別の宴(うたげ)を開いていた時のこと。

突然、賈荃(かせん)と賈濬(かしゅん)が幔幕(まんまく)の中に入って来たかと思うと、額(ひたい)から血を流すほど叩頭(こうとう)し、賈充(かじゅう)と公卿(こうけい)たちに向かって「母を還(かえ)らせてください」と懇願(こんがん)した。そこにいた者たちは突然の王妃(おうひ)(賈荃(かせん))の登場に驚いて、畏(おそ)れ多いとみな退出し、賈充(かじゅう)は大いに恥じ驚いて、宮中の女官を呼んで彼女らを助け起こし、そのまま帰らせた。


郭槐(かくかい)の女(むすめ)・賈南風(かなんぷう)が太子妃(こうたいしひ)となると、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は詔(みことのり)を下して「李氏(りし)のような者はみな、還(かえ)ること能(あた)わず」と断じたので、その後賈荃(かせん)は恚憤(いふん)(激しく怒り恨(うら)むこと)して死んでしまった。


賈濬(かしゅん)(賈裕(かゆう))

生没年不詳。司隷(しれい)・平陽郡(へいようぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。父は賈充(かじゅう)。母は李氏(りし)。同母姉に賈荃(かせん)(賈褒(かほう))。異母弟に賈黎民(かれいみん)。異母妹に賈南風(かなんぷう)、賈午(かご)。

賈充(かじゅう)の前妻・李氏(りし)は、貞淑(ていしゅく)で美しく才能があり、行いも優れていて、2人の女(むすめ)・賈荃(かせん)(賈褒(かほう))と賈濬(かしゅん)(賈裕(かゆう))を生んだ。

李氏(りし)の父・李豊(りほう)が司馬師(しばし)に誅殺(ちゅうさつ)されると、李氏(りし)は父に連座して流徙(りゅうし)(流罪)となり、賈充(かじゅう)は城陽太守(じょうようたいしゅ)・郭配(かくはい)の女(むすめ)・郭槐(かくかい)を娶(めと)ったが、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))が践阼(せんそ)(即位)すると、大赦(たいしゃ)により李氏(りし)は帰還を赦(ゆる)され、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は特別に、賈充(かじゅう)に2人の夫人(ふじん)を置くことを許した。

賈充(かじゅう)の母・柳氏(りゅうし)は「李氏(りし)を迎えるよう」に言ったが、賈充(かじゅう)は郭槐(かくかい)を恐れて、2人の夫人(ふじん)を置くことを辞退し、賈荃(かせん)と賈濬(かしゅん)が号泣して懇願(こんがん)しても迎えに行こうとしなかった。


賈充(かじゅう)が関右(かんゆう)に出鎮することになり、公卿(こうけい)たちが幔幕(まんまく)をめぐらせて送別の宴(うたげ)を開いていた時のこと。

突然、賈荃(かせん)と賈濬(かしゅん)が幔幕(まんまく)の中に入って来たかと思うと、額(ひたい)から血を流すほど叩頭(こうとう)し、賈充(かじゅう)と公卿(こうけい)たちに向かって「母を還(かえ)らせてください」と懇願(こんがん)した。そこにいた者たちは突然の王妃(おうひ)(賈荃(かせん))の登場に驚いて、畏(おそ)れ多いとみな退出し、賈充(かじゅう)は大いに恥じ驚いて、宮中の女官を呼んで彼女らを助け起こし、そのまま帰らせた。


賈黎民(かれいみん)・宮奇(きゅうき)

生没年不詳。司隷(しれい)・平陽郡(へいようぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。父は賈充(かじゅう)。母は郭槐(かくかい)。異母姉に賈荃(かせん)(賈褒(かほう))、賈濬(かしゅん)(賈裕(かゆう))、同母姉妹に賈南風(かなんぷう)、賈午(かご)。

賈充(かじゅう)の後妻・広城君(こうじょうくん)(郭槐(かくかい))は、嫉妬(しっと)深い女性だった。賈黎民(かれいみん)が3歳の時のこと。楼閣のところで乳母(うば)に抱(だ)かれていた賈黎民(かれいみん)は、賈充(かじゅう)が入ってくるのを見て喜んで笑い、賈充(かじゅう)にくっついて撫(な)でてもらった。

それを遠くから見ていた郭槐(かくかい)は「賈充(かじゅう)が乳母(うば)と私通しているのだ」と思い、即刻(そっこく)鞭(むち)で叩き殺したので、賈黎民(かれいみん)は乳母(うば)を恋しがり病気になって死んでしまった。

父の賈充(かじゅう)が亡くなると、魯殤公(ろしょうこう)の称号が追贈された。


後(のち)にまた男子が生まれたが、賈充(かじゅう)が乳母(うば)が抱(だ)いている子の頭を撫(な)で摩(さす)ったところ、郭槐(かくかい)はまた乳母(うば)を疑って殺害した。これにより、次の子も乳母(うば)を思慕(しぼ)して死んでしまったので、遂(つい)に賈充(かじゅう)は後継ぎを残すことができなかった。

豆知識

賈充(かじゅう)が亡くなると、郭槐(かくかい)は外孫の韓謐(かんひつ)を賈黎民(かれいみん)の子として賈充(かじゅう)の後継ぎにしようとした。

郎中(ろうちゅう)の韓咸(かんかん)と中尉(ちゅうい)の曹軫(そうしん)は「礼には『大宗(宗家)に後継ぎがいなければ、小宗(分家)の子を後継ぎとする』とありますが『異姓を後継ぎとする』という文はありません」と諫(いさ)めたが、郭槐(かくかい)はは従わなかった。

韓咸(かんかん)らは上書して後継ぎを改めることを求めたが、結局、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は「韓謐(かんひつ)を賈充(かじゅう)の後継ぎとすることを認め、太宰(たいさい)(賈充(かじゅう))ほどの功績がない限り異姓の後継ぎを許さず、これを前例としてはならない」とした。


賈南風(かなんぷう)(恵賈皇后(けいかこうごう))

魏(ぎ)の甘露(かんろ)2年(257年)〜西晋(せいしん)の永康(えいこう)元年(300年)没。司隷(しれい)・平陽郡(へいようぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。父は賈充(かじゅう)。母は郭槐(かくかい)。異母姉に賈荃(かせん)(賈褒(かほう))、賈濬(かしゅん)(賈裕(かゆう))。同母兄弟に賈黎民(かれいみん)。同母妹に賈午(かご)。娘に河東公主(かとうこうしゅ)、臨海公主(りんかいこうしゅ)、始平公主(しへいこうしゅ)、哀献皇女(あいけんこうじょ)。小名は旹(し)(時(し))。

武帝(司馬炎)

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は太子妃(たいしひ)として衛瓘(えいかん)の女(むすめ)を娶(めと)ろうとしていたが、元后(げんこう)は賈充(かじゅう)・郭槐(かくかい)夫妻とその親族の言葉を納(い)れて、賈充(かじゅう)の女(むすめ)を娶(めと)らせようとした。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は「衛公(えいこう)(衛瓘(えいかん))の女(むすめ)には5つの長所があり、賈公(かこう)(賈充(かじゅう))の女(むすめ)には5つの短所がある。衛家(えいけ)の血筋は賢くて子が多く、美しく長身で色白である。賈家(かけ)の血筋は嫉妬深くて子が少なく、醜(みにく)く小柄で色黒である」と言ったが、元后(げんこう)はそれでも強く要請し、また、荀顗(じゅんぎ)と荀勖(じゅんきょく)も賈充(かじゅう)の女(むすめ)を賢(かしこ)いと称(たた)えたので、結局、賈充(かじゅう)の女(むすめ)を娶(めと)らせることとなった。

初め、太子(たいし)より1つ年下で12歳の賈午(かご)を娶(めと)らせようとしたが、体が小さく婚礼衣装が合わなかったために、太子(たいし)より2つ年上で15歳の賈南風(かなんぷう)に変更された。

西晋(せいしん)の泰始(たいし)8年(272年)2月、こうして賈南風(かなんぷう)は太子妃(たいしひ)に立てられたが、彼女は嫉妬(しっと)深く謀(はかりごと)や詐(いつわ)りが多かったので、太子(たいし)は畏(おそ)れ惑(まど)い、賈南風(かなんぷう)の元を訪(おとず)れることは滅多になかった。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は常に太子(たいし)が不慧(ふすい)(愚か)なのではないかと疑っており、ある時それを試(ため)すことにした。そこで東宮(とうぐう)(皇太子(こうたいし)の居所)のすべての属官を召(め)して宴会を設(もう)け、その席で懸案事項を密封して太子(たいし)に渡し、返信を待つことにした。

賈妃(かき)(賈南風(かなんぷう))は大いに懼(おそ)れ、人を雇って模範解答を作らせたが、それには古義(故事や典籍)が多数引用されていた。これを見た給使(きゅうし)の張泓(ちょうおう)は「太子(たいし)は学がありません。古義を引用すれば、必ず草案を書いた者が別にいると疑われ、さらなる非難を浴(あ)びることになるでしょう」と言った。賈妃(かき)(賈南風(かなんぷう))は大いに喜んで張泓(ちょうおう)に草案を作らせ、それを太子(たいし)に書き写させたので、それを読んだ武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))はとても悦(よろこ)んだ。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))が太子少傅(たいししょうふ)の衛瓘(えいかん)に太子(たいし)の解答を示すと、衛瓘(えいかん)はおどおどとして挙動不審になった。多くの人は以前から衛瓘(えいかん)が太子(たいし)を譏(そし)っていたことを知っており、みな万歳を唱(とな)えた。

賈充(かじゅう)は秘かに「衛瓘(えいかん)の老いぼれは、お前の家(太子(たいし)の家)を破壊しようとしている」と賈妃(かき)(賈南風(かなんぷう))に語り伝えた。


賈妃(かき)(賈南風(かなんぷう))は残酷・残虐な性格で、その手で数人を殺したことがあった。

ある時、賈妃(かき)(賈南風(かなんぷう))は妊婦に戟(げき)を投げつけ、刃(やいば)が刺さった胎児が地面に落ちた。これを聞いた武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は大いに怒り、金墉城(きんようじょう)において賈妃(かき)(賈南風(かなんぷう))を廃位しようとした。すると充華(じゅうか)(側室)の趙粲(ちょうさん)は慌(あわ)てた様子もなく「賈妃(かき)(賈南風(かなんぷう))はまだ若く、嫉妬(しっと)は婦人の情ですので、きっと直ります。察(さっ)してあげてください」と言った。

また、楊珧(ようよう)は「陛下は賈公閭(かこうりょ)(賈充(かじゅう))をお忘れか?」と言い、荀勖(じゅんきょく)も必死に賈妃(かき)(賈南風(かなんぷう))を庇(かば)ったので、賈妃(かき)(賈南風(かなんぷう))は廃位されずに済んだ。

恵帝(司馬衷)

恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))が即位すると皇后(こうごう)に立てられ、河東公主(かとうこうしゅ)・臨海公主(りんかいこうしゅ)・始平公主(しへいこうしゅ)・哀献皇女(あいけんこうじょ)を生んだ。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の乱暴で人道に外れた行動は、次第に苛烈(かれつ)になっていった。

  • 賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の族兄で侍中(じちゅう)の賈模(かぼ)
  • 賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の従舅(じゅうきゅう)で右衛(ゆうえい)の郭彰(かくしょう)

は、その才能と人望により官位に就(つ)いて、楚王(そおう)・司馬瑋(しばい)、東安公(とうあんこう)・司馬繇(しばよう)と共に分担して朝政にあたっていたが、。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の母・広城君(こうじょうくん)(郭槐(かくかい))の養孫・賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))を国政に関与させ、人主(皇帝?諸侯?)と同じ権力を与えた。

これに司馬繇(しばよう)は、秘かに賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))を廃位しようとしたが、ちょうど太宰(たいさい)の司馬亮(しばりょう)と衛瓘(えいかん)らが上表して司馬繇(しばよう)を幽州(ゆうしゅう)・帯方郡(たいほうぐん)に流罪とし、楚王(そおう)・司馬瑋(しばい)の中候(ちゅうこう)(北軍中候(ほくぐんちゅうこう))を奪おうとした。賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))は司馬瑋(しばい)が彼らを怨(うら)んでいることを知ると、恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))に密詔(みっしょう)を作らせて司馬瑋(しばい)に衛瓘(えいかん)と司馬亮(しばりょう)を誅殺(ちゅうさつ)させ、かねてからの怨(うら)みに報(むく)いた。

賈模(かぼ)は賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の凶暴さを知り、禍(わざわい)が自分に及ぶことを恐れ、裴頠(はいぎ)・王衍(おうえん)と共に賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の廃位を謀(はか)ったが、王衍(おうえん)が後悔して計画を中止した。


その後賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))は、過度に色事に耽(ふけ)り、勝手きままで節度がなり、太医令(たいいれい)の程拠(ていきょ)らと共にその乱れ振りは内外に知られるようになった。

洛南(らくなん)の盗尉部(とういぶ)に容姿端麗な小役人がいたが、ある日突然、分不相応な衣服を着るようになったので、窃盗の疑いをかけられて弁明の機会が与えられた。

この時、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の縁者がその盗品を得ようと弁明を傍聴(ぼうちょう)したが、結局のところ、「身分を偽(いつわ)って男漁(あさ)りをしていた賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))に気に入られ、その謝礼に受け取ったもの」だった。賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の相手に選ばれた者はその多くが殺されたが、この小役人だけは賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))に愛されたために、生きて帰れたのである。


賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))には男子がなく、側室の子・愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))が太子(たいし)に立てられていた。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))は妊娠したと詐(いつわ)って、妹の夫・韓寿(かんじゅ)の子、韓慰祖(かんいそ)を自分の子として養い、愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))を廃して、韓慰祖(かんいそ)を太子(たいし)に立てようとした。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の母・広城君(こうじょうくん)(郭槐(かくかい))はたいそう愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))を敬(うやま)い、事あるごとに賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))に「愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))に愛情を注(そそ)げ」と言った。また、賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))は生まれの高貴さを恃(たの)みに、驕(おご)り高ぶって愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))を尊重しなかったので、広城君(こうじょうくん)(郭槐(かくかい))はいつも厳しく彼を叱(しか)っていた。

広城君(こうじょうくん)(郭槐(かくかい))の病気が重くなると、占術師(せんじゅつし)が「広城君(こうじょうくん)に封ぜられているのがいけない」と言ったので、改めて宜城君(ぎじょうくん)に封ぜられた。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))が後宮を出て宜城君(ぎじょうくん)(郭槐(かくかい))を看病すること10余日。その間、愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))は常に医者と共に通って礼を尽くしていた。

宜城君(ぎじょうくん)(郭槐(かくかい))は臨終(りんじゅう)に際し、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の手を取って「くれぐれも愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))に尽くすように」と命じ、また、「趙粲(ちょうさん)と賈午(かご)は必ずあなたの政事を乱します。私が死んだら、彼らの言葉を聞き入れてはなりません。私の言葉を努々(ゆめゆめ)忘れないように」と言った。

ところが、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))はこれに従うことができず、ついに内外を威圧して服従させ、天下に専制した。さらに、専(もっぱ)ら趙粲(ちょうさん)・賈午(かご)らと姦謀(かんぼう)を巡(めぐ)らせて愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))を誣告(ぶこく)したので、人々は顕著(けんちょ)に嫌悪(けんお)した。


ついに愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))が廃位・追放されると、趙王(ちょうおう)・司馬倫(しばりん)、孫秀(そんしゅう)らは人々の怨(うら)みに応(こた)えて賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))を廃位しようとした。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))は数人の宮婢(きゅうひ)を送り込み秘かに探(さぐ)らせていたので、その企(くわだ)てを漏(も)れ知った。賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))はひどく懼(おそ)れ、ついに愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))を殺害した。

事ここに及んで、趙王(ちょうおう)・司馬倫(しばりん)は兵を率(ひき)いて宮中に入ると、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))を廃位させるため翊軍校尉(よくぐんこうい)・斉王(せいおう)・司馬冏(しばけい)を殿中に入らせた。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))が驚いて「卿(けい)は何をしに来たのかっ!」と言うと、司馬冏(しばけい)は「詔(みことのり)により賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))を捕らえます」と言った。賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))は「詔(みことのり)は私が出しているのに、何の詔(みことのり)か?」と言い、上閤(じょうかく)に登ると恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))に向かって「陛下、私を廃位させたなら、次はあなたの番ですよっ!」と呼びかけた。

また、司馬冏(しばけい)に「誰の差(さ)し金(がね)か?」と問うと、司馬冏(しばけい)は「梁(りょう)・趙(ちょう)(梁王(りょうおう)・司馬肜(しばゆう)と趙王(ちょうおう)・司馬倫(しばりん))」とだけ答え、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))は「犬を繋(つな)ぐなら首を繋(つな)ぐべきであった。尾を繋(つな)いで何になるというのかっ!」と言った。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))は捕らえられ、宮殿の西に至ると、そこに賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))の死体を見つけ、声をあげて泣いたが、急に泣き止んだ。司馬倫(しばりん)は詔(みことのり)を偽(いつわ)って尚書(しょうしょ)の劉弘(りゅうこう)らに節(せつ)を持たせ、金屑酒(きんせつしゅ)もって賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))に死を賜(たまわ)った。在位11年、趙粲(ちょうさん)・賈午(かご)・韓寿(かんじゅ)・董猛(とうもう)らもみな誅(ちゅう)に伏(ふ)した。


「賈南風(かなんぷう)」の関連記事

賈午(かご)

魏(ぎ)の甘露(かんろ)5年(260年)〜西晋(せいしん)の永康(えいこう)元年(300年)没。司隷(しれい)・平陽郡(へいようぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。父は賈充(かじゅう)。母は郭槐(かくかい)。異母姉に賈荃(かせん)(賈褒(かほう))、賈濬(かしゅん)(賈裕(かゆう))。同母兄弟に賈黎民(かれいみん)。同母姉に賈南風(かなんぷう)。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は太子(たいし)に賈充(かじゅう)の女(むすめ)を娶(めと)らせることにし、太子(たいし)より1つ年下で12歳の賈午(かご)を娶(めと)らせようとしたが、体が小さく婚礼衣装が合わなかったために、太子(たいし)より2つ年上で15歳の賈南風(かなんぷう)に変更された。


賈充(かじゅう)が辟召(まね)いて司空(しくう)の掾(えん)(属官)とした韓寿(かんじゅ)は、姿形(すがたかたち)や立ち居振る舞いも美しかった。

賈充(かじゅう)が賓客(ひんかく)や属僚と宴(うたげ)を催(もよお)していた時のこと。賈午(かご)は青鏁(せいさ)(?)の中から覗(のぞ)き見て韓寿(かんじゅ)に一目惚れし、左右の者に尋(たず)ねると、1人の下女(婢(ひ))が「私の前の主人です」と言った。賈午(かご)は感激のあまり寝ても覚めても忘れられなかった。

そこで下女(婢(ひ))は韓寿(かんじゅ)の家に行って賈午(かご)の想いを伝え、華やかで美しい女性だとつけ加えたので、韓寿(かんじゅ)は心を動かされ、丁寧な返事を返した。下女(婢(ひ))がこれを報告すると、賈午(かご)は秘かに連絡を取って互いに愛を育(はぐく)み、夜、韓寿(かんじゅ)を部屋に招(まね)き入れた。韓寿(かんじゅ)は素早く垣根を飛びこえて忍び込んだので、家中の者は誰も気づいていなかったが、ただ父・賈充(かじゅう)だけは、女(むすめ)の普段の素振りの変化に気づいていた。

当時、西域から「珍しいお香」が贈られ、それは一度焚(た)くと数ヶ月の間、香りが消えなかった。武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))はこれをとても貴重な物だと考え、ただ賈充(かじゅう)と大司馬(だいしば)の陳騫(ちんけん)だけに下賜(かし)していたが、賈午(かご)は秘かにこれを盗んで韓寿(かんじゅ)に贈った。

賈充(かじゅう)の属僚たちが韓寿(かんじゅ)とくつろいでいた時、あの「珍しいお香」の香りに気づいて賈充(かじゅう)に告げた。これにより賈充(かじゅう)は、賈午(かご)と韓寿(かんじゅ)が通じていることに気づいたが、邸(やしき)の門の警備は厳重なので、どこから入ったのか分からなかった。

そこで夜中に驚いた振りをして「盗賊が出た」と騒ぎ、それに託(かこつ)けて垣根に変わったところがないか観察させたが、左右の者はただ「異常はありません。ただ、東北の角に狐狸の通った跡(あと)がありました」と言うだけだった。

賈充(かじゅう)は賈午(かご)の周辺を取り調べて詳しく白状させると、そのことを秘密にしたまま、ついに韓寿(かんじゅ)と結婚させた。韓寿(かんじゅ)は散騎常侍(さんきじょうじ)、河南尹(かなんいん)に至ったが、元康(げんこう)初年(291年)に亡くなり、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)を追贈された。


賈充(かじゅう)が亡くなると賈充(かじゅう)の後妻・郭槐(かくかい)は、韓寿(かんじゅ)と賈午(かご)の子・韓謐(かんひつ)を賈黎民(かれいみん)の子として賈充(かじゅう)の後を継がせた。

また郭槐(かくかい)は、韓寿(かんじゅ)と賈午(かご)の女(むすめ)を太子妃(たいしひ)にしたいと考え、愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))もまた韓氏(かんし)と結婚して自分の地位を固めたいと考えていたが、賈午(かご)と賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))が認めなかったので、愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))は、王衍(おうえん)の末娘・王恵風(おうけいふう)を招(まね)いて妻とした。


郭槐(かくかい)はその臨終(りんじゅう)に際し、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の手を取って「くれぐれも愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))に尽くすように」と命じ、また、「趙粲(ちょうさん)と賈午(かご)は必ずあなたの政事を乱します。私が死んだら、彼らの言葉を聞き入れてはなりません。私の言葉を努々(ゆめゆめ)忘れないように」と言った。

ところが、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))はこれに従うことができず、ついに内外を威圧して服従させ、天下に専制した。さらに、専(もっぱ)ら趙粲(ちょうさん)・賈午(かご)らと姦謀(かんぼう)を巡(めぐ)らせて愍懐太子(びんかいたいし)(司馬遹(しばいつ))を誣告(ぶこく)したので、人々は顕著(けんちょ)に嫌悪(けんお)した。

永康(えいこう)元年(300年)、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))が廃位されると、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))・韓寿(かんじゅ)・賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))、趙粲(ちょうさん)・董猛(とうもう)らと共に誅殺(ちゅうさつ)された。賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))は金屑酒(きんせつしゅ)をもって死を賜(たまわ)り、賈午(かご)は大杖で叩き殺されたと言う。


賈彝(かい)

生没年不詳。司隷(しれい)・平陽郡(へいようぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。父は不詳。賈充(かじゅう)の従子。

賈充(かじゅう)の従子である賈彝(かい)と賈遵(かじゅん)はどちらも人物を見る目があり、黄門郎(こうもんろう)となった。


賈遵(かじゅん)

生没年不詳。司隷(しれい)・平陽郡(へいようぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。父は不詳。賈充(かじゅう)の従子。弟に賈模(かぼ)。

賈充(かじゅう)の従子である賈彝(かい)と賈遵(かじゅん)はどちらも人物を見る目があり、黄門郎(こうもんろう)となった。


賈模(かぼ・思範(しはん)

生没年不詳。司隷(しれい)・平陽郡(へいようぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。父は不詳。賈充(かじゅう)の従子。兄に賈遵(かじゅん)。子に賈遊(かゆう)。

賈模(かぼ)は若い頃から高い志(こころざし)を持ち、典籍に精通し、沈着で思慮深かった。賈充(かじゅう)に深く信頼され、事あるごとに謀(はかりごと)を尋(たず)ねられた。

賈充(かじゅう)は老衰(ろうすい)して病気が重くなると、常に自分の諡(おくりな)と列伝を気にかけていたが*3、賈模(かぼ)は「評価の是非はすでに明らかです。今さら覆(おお)い隠す事はできません」と言うだけだった。

官にあげられて邵陵県令(しょうりょうけんれい)となり、二宮(朝廷と東宮)で尚書吏部郎(しょうしょりぶろう)を歴任し、公事によって免官されたが、復帰して車騎将軍(しゃきしょうぐん)の司馬(しば)となった。

楊駿(ようしゅん)の誅殺(ちゅうさつ)に参与し、平陽郷侯(へいようきょうこう)に封ぜられ、封邑(ほうゆう)千戸を与えられた。

楚王(そおう)・司馬瑋(しばい)が詔(みことのり)を偽造して汝南王(じょなんおう)・司馬亮(しばりょう)と太保(たいほ)の衛瓘(えいかん)を殺害した時、賈模(かぼ)は(本物の)詔(みことのり)により中騶(ちゅうすう)(騎兵)2百人を率(ひき)いて救援した。

この時賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))は、親しく信頼できる者に朝政を委任したいと考え、賈模(かぼ)を散騎常侍(さんきじょうじ)に任命し、2日で侍中(じちゅう)に抜擢(ばってき)した。

賈模(かぼ)は非を正すことに心を尽くし、また張華(ちょうか)や裴顗(はいぎ)を推薦し、心を1つにして国政を輔(たす)けた。数年の内に朝野(ちょうや)(政府と民間)が平穏になったのは、賈模(かぼ)の力である。その後、光禄大夫(こうろくたいふ)を加えられた。

賈模(かぼ)は裏では権勢を振るいながら、表では権勢を遠ざけるように、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))に意見を申し上げることがあっても、急用や病気を理由にして参内を避けた。

また、平素から嫌い腹を立てている相手を陥(おとしい)れることが多かったので、朝廷ではひどく憚(はばか)られた。加えて貪(むさぼ)るように苛酷(かこく)な取り立てを行ったので、その富は王(おう)や公(こう)に匹敵した*4。

賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))の性格はとても強暴であり、賈模(かぼ)が言葉を尽くして禍福(かふく)(メリットとデメリット)について述べても従うことができず、賈模(かぼ)に批判されていると感じるようになった。その結果、賈模(かぼ)に委任する気持ちが日ごとに衰(おとろ)え、讒言(ざんげん)によって人の関係を割(さ)くような輩(やから)を取り立てるようになった。

賈模(かぼ)は志(こころざし)を得ず、憂(うれ)い憤(いきどお)って病気を患(わずら)い亡くなった。車騎将軍(しゃきしょうぐん)・開府(かいふ)・儀同三司(ぎどうさんし)を追贈され、成(せい)と諡(おくりな)された。

脚注

*3高貴郷公(こうききょうこう)(曹髦(そうぼう))を殺したことの評価。

*4原文も主語なし。前後の内容的に主語は賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))?



スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引