正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉔、河東郡(平陽郡)賈氏②[賈荃(賈褒)・賈濬(賈裕)・賈黎民・賈南風(恵賈皇后)・賈午・賈彝・賈遵・賈模]です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河東賈氏系図
河東郡(平陽郡)賈氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
河東郡が分割されて襄陵県が平陽郡に編入されたため、賈充以降は平陽郡賈氏となる。この記事で扱う人物は、全員平陽郡賈氏となるが、便宜上、河東郡(平陽郡)賈氏として扱う。
賈謐(韓謐)については南陽郡韓氏として扱う。
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この記事では河東郡(平陽郡)賈氏②の人物、
についてまとめています。
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か㉔[河東(平陽)賈氏②]
第3世代(賈荃・賈濬・賈黎民・賈南風・賈午・賈彝・賈遵・賈模)
賈荃(賈褒)
生没年不詳。司隷・平陽郡・襄陵県の人。父は賈充。母は李氏。同母妹に賈濬(賈裕)。異母弟に賈黎民。異母妹に賈南風、賈午。
賈充の前妻・李氏は、貞淑で美しく才能があり、行いも優れていて、2人の女・賈荃(賈褒)と賈濬(賈裕)を生んだ。
李氏の父・李豊が司馬師に誅殺されると、李氏は父に連座して流徙(流罪)となり、賈充は城陽太守・郭配の女・郭槐を娶ったが、武帝(司馬炎)が践阼(即位)すると、大赦により李氏は帰還を赦され、武帝(司馬炎)は特別に、賈充に2人の夫人を置くことを許した。
賈充の母・柳氏は「李氏を迎えるよう」に言ったが、賈充は郭槐を恐れて、2人の夫人を置くことを辞退した。
賈荃が斉王・司馬攸の妃となると、賈荃は父・賈充に「後妻の郭槐に、実母の李氏を迎えに行かせる」ように命じたが、賈充は、賈荃と賈濬が号泣して懇願しても迎えに行こうとしなかった。
賈充が関右に出鎮することになり、公卿たちが幔幕をめぐらせて送別の宴を開いていた時のこと。
突然、賈荃と賈濬が幔幕の中に入って来たかと思うと、額から血を流すほど叩頭し、賈充と公卿たちに向かって「母を還らせてください」と懇願した。そこにいた者たちは突然の王妃(賈荃)の登場に驚いて、畏れ多いとみな退出し、賈充は大いに恥じ驚いて、宮中の女官を呼んで彼女らを助け起こし、そのまま帰らせた。
郭槐の女・賈南風が太子妃となると、武帝(司馬炎)は詔を下して「李氏のような者はみな、還ること能わず」と断じたので、その後賈荃は恚憤(激しく怒り恨むこと)して死んでしまった。
賈濬(賈裕)
生没年不詳。司隷・平陽郡・襄陵県の人。父は賈充。母は李氏。同母姉に賈荃(賈褒)。異母弟に賈黎民。異母妹に賈南風、賈午。
賈充の前妻・李氏は、貞淑で美しく才能があり、行いも優れていて、2人の女・賈荃(賈褒)と賈濬(賈裕)を生んだ。
李氏の父・李豊が司馬師に誅殺されると、李氏は父に連座して流徙(流罪)となり、賈充は城陽太守・郭配の女・郭槐を娶ったが、武帝(司馬炎)が践阼(即位)すると、大赦により李氏は帰還を赦され、武帝(司馬炎)は特別に、賈充に2人の夫人を置くことを許した。
賈充の母・柳氏は「李氏を迎えるよう」に言ったが、賈充は郭槐を恐れて、2人の夫人を置くことを辞退し、賈荃と賈濬が号泣して懇願しても迎えに行こうとしなかった。
賈充が関右に出鎮することになり、公卿たちが幔幕をめぐらせて送別の宴を開いていた時のこと。
突然、賈荃と賈濬が幔幕の中に入って来たかと思うと、額から血を流すほど叩頭し、賈充と公卿たちに向かって「母を還らせてください」と懇願した。そこにいた者たちは突然の王妃(賈荃)の登場に驚いて、畏れ多いとみな退出し、賈充は大いに恥じ驚いて、宮中の女官を呼んで彼女らを助け起こし、そのまま帰らせた。
賈黎民・宮奇
生没年不詳。司隷・平陽郡・襄陵県の人。父は賈充。母は郭槐。異母姉に賈荃(賈褒)、賈濬(賈裕)、同母姉妹に賈南風、賈午。
賈充の後妻・広城君(郭槐)は、嫉妬深い女性だった。賈黎民が3歳の時のこと。楼閣のところで乳母に抱かれていた賈黎民は、賈充が入ってくるのを見て喜んで笑い、賈充にくっついて撫でてもらった。
それを遠くから見ていた郭槐は「賈充が乳母と私通しているのだ」と思い、即刻鞭で叩き殺したので、賈黎民は乳母を恋しがり病気になって死んでしまった。
父の賈充が亡くなると、魯殤公の称号が追贈された。
後にまた男子が生まれたが、賈充が乳母が抱いている子の頭を撫で摩ったところ、郭槐はまた乳母を疑って殺害した。これにより、次の子も乳母を思慕して死んでしまったので、遂に賈充は後継ぎを残すことができなかった。
豆知識
賈充が亡くなると、郭槐は外孫の韓謐を賈黎民の子として賈充の後継ぎにしようとした。
郎中の韓咸と中尉の曹軫は「礼には『大宗(宗家)に後継ぎがいなければ、小宗(分家)の子を後継ぎとする』とありますが『異姓を後継ぎとする』という文はありません」と諫めたが、郭槐はは従わなかった。
韓咸らは上書して後継ぎを改めることを求めたが、結局、武帝(司馬炎)は「韓謐を賈充の後継ぎとすることを認め、太宰(賈充)ほどの功績がない限り異姓の後継ぎを許さず、これを前例としてはならない」とした。
賈南風(恵賈皇后)
魏の甘露2年(257年)〜西晋の永康元年(300年)没。司隷・平陽郡・襄陵県の人。父は賈充。母は郭槐。異母姉に賈荃(賈褒)、賈濬(賈裕)。同母兄弟に賈黎民。同母妹に賈午。娘に河東公主、臨海公主、始平公主、哀献皇女。小名は旹(時)。
武帝(司馬炎)
武帝(司馬炎)は太子妃として衛瓘の女を娶ろうとしていたが、元后は賈充・郭槐夫妻とその親族の言葉を納れて、賈充の女を娶らせようとした。
武帝(司馬炎)は「衛公(衛瓘)の女には5つの長所があり、賈公(賈充)の女には5つの短所がある。衛家の血筋は賢くて子が多く、美しく長身で色白である。賈家の血筋は嫉妬深くて子が少なく、醜く小柄で色黒である」と言ったが、元后はそれでも強く要請し、また、荀顗と荀勖も賈充の女を賢いと称えたので、結局、賈充の女を娶らせることとなった。
初め、太子より1つ年下で12歳の賈午を娶らせようとしたが、体が小さく婚礼衣装が合わなかったために、太子より2つ年上で15歳の賈南風に変更された。
西晋の泰始8年(272年)2月、こうして賈南風は太子妃に立てられたが、彼女は嫉妬深く謀や詐りが多かったので、太子は畏れ惑い、賈南風の元を訪れることは滅多になかった。
武帝(司馬炎)は常に太子が不慧(愚か)なのではないかと疑っており、ある時それを試すことにした。そこで東宮(皇太子の居所)のすべての属官を召して宴会を設け、その席で懸案事項を密封して太子に渡し、返信を待つことにした。
賈妃(賈南風)は大いに懼れ、人を雇って模範解答を作らせたが、それには古義(故事や典籍)が多数引用されていた。これを見た給使の張泓は「太子は学がありません。古義を引用すれば、必ず草案を書いた者が別にいると疑われ、さらなる非難を浴びることになるでしょう」と言った。賈妃(賈南風)は大いに喜んで張泓に草案を作らせ、それを太子に書き写させたので、それを読んだ武帝(司馬炎)はとても悦んだ。
武帝(司馬炎)が太子少傅の衛瓘に太子の解答を示すと、衛瓘はおどおどとして挙動不審になった。多くの人は以前から衛瓘が太子を譏っていたことを知っており、みな万歳を唱えた。
賈充は秘かに「衛瓘の老いぼれは、お前の家(太子の家)を破壊しようとしている」と賈妃(賈南風)に語り伝えた。
賈妃(賈南風)は残酷・残虐な性格で、その手で数人を殺したことがあった。
ある時、賈妃(賈南風)は妊婦に戟を投げつけ、刃が刺さった胎児が地面に落ちた。これを聞いた武帝(司馬炎)は大いに怒り、金墉城において賈妃(賈南風)を廃位しようとした。すると充華(側室)の趙粲は慌てた様子もなく「賈妃(賈南風)はまだ若く、嫉妬は婦人の情ですので、きっと直ります。察してあげてください」と言った。
また、楊珧は「陛下は賈公閭(賈充)をお忘れか?」と言い、荀勖も必死に賈妃(賈南風)を庇ったので、賈妃(賈南風)は廃位されずに済んだ。
恵帝(司馬衷)
恵帝(司馬衷)が即位すると皇后に立てられ、河東公主・臨海公主・始平公主・哀献皇女を生んだ。
賈后(賈南風)の乱暴で人道に外れた行動は、次第に苛烈になっていった。
- 賈后(賈南風)の族兄で侍中の賈模
- 賈后(賈南風)の従舅で右衛の郭彰
は、その才能と人望により官位に就いて、楚王・司馬瑋、東安公・司馬繇と共に分担して朝政にあたっていたが、。
賈后(賈南風)の母・広城君(郭槐)の養孫・賈謐(韓謐)を国政に関与させ、人主(皇帝?諸侯?)と同じ権力を与えた。
これに司馬繇は、秘かに賈后(賈南風)を廃位しようとしたが、ちょうど太宰の司馬亮と衛瓘らが上表して司馬繇を幽州・帯方郡に流罪とし、楚王・司馬瑋の中候(北軍中候)を奪おうとした。賈后(賈南風)は司馬瑋が彼らを怨んでいることを知ると、恵帝(司馬衷)に密詔を作らせて司馬瑋に衛瓘と司馬亮を誅殺させ、かねてからの怨みに報いた。
賈模は賈后(賈南風)の凶暴さを知り、禍が自分に及ぶことを恐れ、裴頠・王衍と共に賈后(賈南風)の廃位を謀ったが、王衍が後悔して計画を中止した。
その後賈后(賈南風)は、過度に色事に耽り、勝手きままで節度がなり、太医令の程拠らと共にその乱れ振りは内外に知られるようになった。
洛南の盗尉部に容姿端麗な小役人がいたが、ある日突然、分不相応な衣服を着るようになったので、窃盗の疑いをかけられて弁明の機会が与えられた。
この時、賈后(賈南風)の縁者がその盗品を得ようと弁明を傍聴したが、結局のところ、「身分を偽って男漁りをしていた賈后(賈南風)に気に入られ、その謝礼に受け取ったもの」だった。賈后(賈南風)の相手に選ばれた者はその多くが殺されたが、この小役人だけは賈后(賈南風)に愛されたために、生きて帰れたのである。
賈后(賈南風)には男子がなく、側室の子・愍懐太子(司馬遹)が太子に立てられていた。
賈后(賈南風)は妊娠したと詐って、妹の夫・韓寿の子、韓慰祖を自分の子として養い、愍懐太子(司馬遹)を廃して、韓慰祖を太子に立てようとした。
賈后(賈南風)の母・広城君(郭槐)はたいそう愍懐太子(司馬遹)を敬い、事あるごとに賈后(賈南風)に「愍懐太子(司馬遹)に愛情を注げ」と言った。また、賈謐(韓謐)は生まれの高貴さを恃みに、驕り高ぶって愍懐太子(司馬遹)を尊重しなかったので、広城君(郭槐)はいつも厳しく彼を叱っていた。
広城君(郭槐)の病気が重くなると、占術師が「広城君に封ぜられているのがいけない」と言ったので、改めて宜城君に封ぜられた。
賈后(賈南風)が後宮を出て宜城君(郭槐)を看病すること10余日。その間、愍懐太子(司馬遹)は常に医者と共に通って礼を尽くしていた。
宜城君(郭槐)は臨終に際し、賈后(賈南風)の手を取って「くれぐれも愍懐太子(司馬遹)に尽くすように」と命じ、また、「趙粲と賈午は必ずあなたの政事を乱します。私が死んだら、彼らの言葉を聞き入れてはなりません。私の言葉を努々忘れないように」と言った。
ところが、賈后(賈南風)はこれに従うことができず、ついに内外を威圧して服従させ、天下に専制した。さらに、専ら趙粲・賈午らと姦謀を巡らせて愍懐太子(司馬遹)を誣告したので、人々は顕著に嫌悪した。
ついに愍懐太子(司馬遹)が廃位・追放されると、趙王・司馬倫、孫秀らは人々の怨みに応えて賈后(賈南風)を廃位しようとした。
賈后(賈南風)は数人の宮婢を送り込み秘かに探らせていたので、その企てを漏れ知った。賈后(賈南風)はひどく懼れ、ついに愍懐太子(司馬遹)を殺害した。
事ここに及んで、趙王・司馬倫は兵を率いて宮中に入ると、賈后(賈南風)を廃位させるため翊軍校尉・斉王・司馬冏を殿中に入らせた。
賈后(賈南風)が驚いて「卿は何をしに来たのかっ!」と言うと、司馬冏は「詔により賈后(賈南風)を捕らえます」と言った。賈后(賈南風)は「詔は私が出しているのに、何の詔か?」と言い、上閤に登ると恵帝(司馬衷)に向かって「陛下、私を廃位させたなら、次はあなたの番ですよっ!」と呼びかけた。
また、司馬冏に「誰の差し金か?」と問うと、司馬冏は「梁・趙(梁王・司馬肜と趙王・司馬倫)」とだけ答え、賈后(賈南風)は「犬を繋ぐなら首を繋ぐべきであった。尾を繋いで何になるというのかっ!」と言った。
賈后(賈南風)は捕らえられ、宮殿の西に至ると、そこに賈謐(韓謐)の死体を見つけ、声をあげて泣いたが、急に泣き止んだ。司馬倫は詔を偽って尚書の劉弘らに節を持たせ、金屑酒もって賈后(賈南風)に死を賜った。在位11年、趙粲・賈午・韓寿・董猛らもみな誅に伏した。
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賈午
魏の甘露5年(260年)〜西晋の永康元年(300年)没。司隷・平陽郡・襄陵県の人。父は賈充。母は郭槐。異母姉に賈荃(賈褒)、賈濬(賈裕)。同母兄弟に賈黎民。同母姉に賈南風。
武帝(司馬炎)は太子に賈充の女を娶らせることにし、太子より1つ年下で12歳の賈午を娶らせようとしたが、体が小さく婚礼衣装が合わなかったために、太子より2つ年上で15歳の賈南風に変更された。
賈充が辟召いて司空の掾(属官)とした韓寿は、姿形や立ち居振る舞いも美しかった。
賈充が賓客や属僚と宴を催していた時のこと。賈午は青鏁(?)の中から覗き見て韓寿に一目惚れし、左右の者に尋ねると、1人の下女(婢)が「私の前の主人です」と言った。賈午は感激のあまり寝ても覚めても忘れられなかった。
そこで下女(婢)は韓寿の家に行って賈午の想いを伝え、華やかで美しい女性だとつけ加えたので、韓寿は心を動かされ、丁寧な返事を返した。下女(婢)がこれを報告すると、賈午は秘かに連絡を取って互いに愛を育み、夜、韓寿を部屋に招き入れた。韓寿は素早く垣根を飛びこえて忍び込んだので、家中の者は誰も気づいていなかったが、ただ父・賈充だけは、女の普段の素振りの変化に気づいていた。
当時、西域から「珍しいお香」が贈られ、それは一度焚くと数ヶ月の間、香りが消えなかった。武帝(司馬炎)はこれをとても貴重な物だと考え、ただ賈充と大司馬の陳騫だけに下賜していたが、賈午は秘かにこれを盗んで韓寿に贈った。
賈充の属僚たちが韓寿とくつろいでいた時、あの「珍しいお香」の香りに気づいて賈充に告げた。これにより賈充は、賈午と韓寿が通じていることに気づいたが、邸の門の警備は厳重なので、どこから入ったのか分からなかった。
そこで夜中に驚いた振りをして「盗賊が出た」と騒ぎ、それに託けて垣根に変わったところがないか観察させたが、左右の者はただ「異常はありません。ただ、東北の角に狐狸の通った跡がありました」と言うだけだった。
賈充は賈午の周辺を取り調べて詳しく白状させると、そのことを秘密にしたまま、ついに韓寿と結婚させた。韓寿は散騎常侍、河南尹に至ったが、元康初年(291年)に亡くなり、驃騎将軍を追贈された。
賈充が亡くなると賈充の後妻・郭槐は、韓寿と賈午の子・韓謐を賈黎民の子として賈充の後を継がせた。
また郭槐は、韓寿と賈午の女を太子妃にしたいと考え、愍懐太子(司馬遹)もまた韓氏と結婚して自分の地位を固めたいと考えていたが、賈午と賈后(賈南風)が認めなかったので、愍懐太子(司馬遹)は、王衍の末娘・王恵風を招いて妻とした。
郭槐はその臨終に際し、賈后(賈南風)の手を取って「くれぐれも愍懐太子(司馬遹)に尽くすように」と命じ、また、「趙粲と賈午は必ずあなたの政事を乱します。私が死んだら、彼らの言葉を聞き入れてはなりません。私の言葉を努々忘れないように」と言った。
ところが、賈后(賈南風)はこれに従うことができず、ついに内外を威圧して服従させ、天下に専制した。さらに、専ら趙粲・賈午らと姦謀を巡らせて愍懐太子(司馬遹)を誣告したので、人々は顕著に嫌悪した。
永康元年(300年)、賈后(賈南風)が廃位されると、賈后(賈南風)・韓寿・賈謐(韓謐)、趙粲・董猛らと共に誅殺された。賈后(賈南風)は金屑酒をもって死を賜り、賈午は大杖で叩き殺されたと言う。
賈彝
生没年不詳。司隷・平陽郡・襄陵県の人。父は不詳。賈充の従子。
賈充の従子である賈彝と賈遵はどちらも人物を見る目があり、黄門郎となった。
賈遵
生没年不詳。司隷・平陽郡・襄陵県の人。父は不詳。賈充の従子。弟に賈模。
賈充の従子である賈彝と賈遵はどちらも人物を見る目があり、黄門郎となった。
賈模・思範
生没年不詳。司隷・平陽郡・襄陵県の人。父は不詳。賈充の従子。兄に賈遵。子に賈遊。
賈模は若い頃から高い志を持ち、典籍に精通し、沈着で思慮深かった。賈充に深く信頼され、事あるごとに謀を尋ねられた。
賈充は老衰して病気が重くなると、常に自分の諡と列伝を気にかけていたが*3、賈模は「評価の是非はすでに明らかです。今さら覆い隠す事はできません」と言うだけだった。
官にあげられて邵陵県令となり、二宮(朝廷と東宮)で尚書吏部郎を歴任し、公事によって免官されたが、復帰して車騎将軍の司馬となった。
楊駿の誅殺に参与し、平陽郷侯に封ぜられ、封邑千戸を与えられた。
楚王・司馬瑋が詔を偽造して汝南王・司馬亮と太保の衛瓘を殺害した時、賈模は(本物の)詔により中騶(騎兵)2百人を率いて救援した。
この時賈后(賈南風)は、親しく信頼できる者に朝政を委任したいと考え、賈模を散騎常侍に任命し、2日で侍中に抜擢した。
賈模は非を正すことに心を尽くし、また張華や裴顗を推薦し、心を1つにして国政を輔けた。数年の内に朝野(政府と民間)が平穏になったのは、賈模の力である。その後、光禄大夫を加えられた。
賈模は裏では権勢を振るいながら、表では権勢を遠ざけるように、賈后(賈南風)に意見を申し上げることがあっても、急用や病気を理由にして参内を避けた。
また、平素から嫌い腹を立てている相手を陥れることが多かったので、朝廷ではひどく憚られた。加えて貪るように苛酷な取り立てを行ったので、その富は王や公に匹敵した*4。
賈后(賈南風)の性格はとても強暴であり、賈模が言葉を尽くして禍福(メリットとデメリット)について述べても従うことができず、賈模に批判されていると感じるようになった。その結果、賈模に委任する気持ちが日ごとに衰え、讒言によって人の関係を割くような輩を取り立てるようになった。
賈模は志を得ず、憂い憤って病気を患い亡くなった。車騎将軍・開府・儀同三司を追贈され、成と諡された。
脚注
*3高貴郷公(曹髦)を殺したことの評価。
*4原文も主語なし。前後の内容的に主語は賈后(賈南風)?
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