正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉔、河東郡かとうぐん平陽郡へいようぐん賈氏かし②[賈荃かせん賈褒かほう)・賈濬かしゅん賈裕かゆう)・賈黎民かれいみん賈南風かなんぷう恵賈皇后けいかこうごう)・賈午かご賈彝かい賈遵かじゅん賈模かぼ]です。

スポンサーリンク

系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

河東賈氏系図

河東郡(平陽郡)賈氏系図②

河東郡かとうぐん平陽郡へいようぐん賈氏かし系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
河東郡かとうぐんが分割されて襄陵県じょうりょうけん平陽郡へいようぐんに編入されたため、賈充かじゅう以降は平陽郡へいようぐん賈氏かしとなる。この記事で扱う人物は、全員平陽郡へいようぐん賈氏かしとなるが、便宜上、河東郡かとうぐん平陽郡へいようぐん賈氏かしとして扱う。
賈謐かひつ韓謐かんひつ)については南陽郡なんようぐん韓氏かんしとして扱う。


この記事では河東郡かとうぐん平陽郡へいようぐん賈氏かし②の人物、

についてまとめています。

関連記事

スポンサーリンク


か㉔[河東(平陽)賈氏②]

第3世代(賈荃・賈濬・賈黎民・賈南風・賈午・賈彝・賈遵・賈模)

賈荃かせん賈褒かほう

生没年不詳。司隷しれい平陽郡へいようぐん襄陵県じょうりょうけんの人。父は賈充かじゅう。母は李氏りし。同母妹に賈濬かしゅん賈裕かゆう)。異母弟に賈黎民かれいみん。異母妹に賈南風かなんぷう賈午かご

賈充かじゅうの前妻・李氏りしは、貞淑ていしゅくで美しく才能があり、行いも優れていて、2人のむすめ賈荃かせん賈褒かほう)と賈濬かしゅん賈裕かゆう)を生んだ。

李氏りしの父・李豊りほう司馬師しばし誅殺ちゅうさつされると、李氏りしは父に連座して流徙りゅうし(流罪)となり、賈充かじゅう城陽太守じょうようたいしゅ郭配かくはいむすめ郭槐かくかいめとったが、武帝ぶてい司馬炎しばえん)が践阼せんそ(即位)すると、大赦たいしゃにより李氏りしは帰還をゆるされ、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は特別に、賈充かじゅうに2人の夫人ふじんを置くことを許した。

賈充かじゅうの母・柳氏りゅうしは「李氏りしを迎えるよう」に言ったが、賈充かじゅう郭槐かくかいを恐れて、2人の夫人ふじんを置くことを辞退した。


賈荃かせん斉王せいおう司馬攸しばゆうきさきとなると、賈荃かせんは父・賈充かじゅうに「後妻の郭槐かくかいに、実母の李氏りしを迎えに行かせる」ように命じたが、賈充かじゅうは、賈荃かせん賈濬かしゅんが号泣して懇願こんがんしても迎えに行こうとしなかった。

賈充かじゅう関右かんゆうに出鎮することになり、公卿こうけいたちが幔幕まんまくをめぐらせて送別のうたげを開いていた時のこと。

突然、賈荃かせん賈濬かしゅん幔幕まんまくの中に入って来たかと思うと、ひたいから血を流すほど叩頭こうとうし、賈充かじゅう公卿こうけいたちに向かって「母をかえらせてください」と懇願こんがんした。そこにいた者たちは突然の王妃おうひ賈荃かせん)の登場に驚いて、おそれ多いとみな退出し、賈充かじゅうは大いに恥じ驚いて、宮中の女官を呼んで彼女らを助け起こし、そのまま帰らせた。


郭槐かくかいむすめ賈南風かなんぷう太子妃こうたいしひとなると、武帝ぶてい司馬炎しばえん)はみことのりを下して「李氏りしのような者はみな、かえることあたわず」と断じたので、その後賈荃かせん恚憤いふん(激しく怒りうらむこと)して死んでしまった。


賈濬かしゅん賈裕かゆう

生没年不詳。司隷しれい平陽郡へいようぐん襄陵県じょうりょうけんの人。父は賈充かじゅう。母は李氏りし。同母姉に賈荃かせん賈褒かほう)。異母弟に賈黎民かれいみん。異母妹に賈南風かなんぷう賈午かご

賈充かじゅうの前妻・李氏りしは、貞淑ていしゅくで美しく才能があり、行いも優れていて、2人のむすめ賈荃かせん賈褒かほう)と賈濬かしゅん賈裕かゆう)を生んだ。

李氏りしの父・李豊りほう司馬師しばし誅殺ちゅうさつされると、李氏りしは父に連座して流徙りゅうし(流罪)となり、賈充かじゅう城陽太守じょうようたいしゅ郭配かくはいむすめ郭槐かくかいめとったが、武帝ぶてい司馬炎しばえん)が践阼せんそ(即位)すると、大赦たいしゃにより李氏りしは帰還をゆるされ、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は特別に、賈充かじゅうに2人の夫人ふじんを置くことを許した。

賈充かじゅうの母・柳氏りゅうしは「李氏りしを迎えるよう」に言ったが、賈充かじゅう郭槐かくかいを恐れて、2人の夫人ふじんを置くことを辞退し、賈荃かせん賈濬かしゅんが号泣して懇願こんがんしても迎えに行こうとしなかった。


賈充かじゅう関右かんゆうに出鎮することになり、公卿こうけいたちが幔幕まんまくをめぐらせて送別のうたげを開いていた時のこと。

突然、賈荃かせん賈濬かしゅん幔幕まんまくの中に入って来たかと思うと、ひたいから血を流すほど叩頭こうとうし、賈充かじゅう公卿こうけいたちに向かって「母をかえらせてください」と懇願こんがんした。そこにいた者たちは突然の王妃おうひ賈荃かせん)の登場に驚いて、おそれ多いとみな退出し、賈充かじゅうは大いに恥じ驚いて、宮中の女官を呼んで彼女らを助け起こし、そのまま帰らせた。


賈黎民かれいみん宮奇きゅうき

生没年不詳。司隷しれい平陽郡へいようぐん襄陵県じょうりょうけんの人。父は賈充かじゅう。母は郭槐かくかい。異母姉に賈荃かせん賈褒かほう)、賈濬かしゅん賈裕かゆう)、同母姉妹に賈南風かなんぷう賈午かご

賈充かじゅうの後妻・広城君こうじょうくん郭槐かくかい)は、嫉妬しっと深い女性だった。賈黎民かれいみんが3歳の時のこと。楼閣のところで乳母うばかれていた賈黎民かれいみんは、賈充かじゅうが入ってくるのを見て喜んで笑い、賈充かじゅうにくっついてでてもらった。

それを遠くから見ていた郭槐かくかいは「賈充かじゅう乳母うばと私通しているのだ」と思い、即刻そっこくむちで叩き殺したので、賈黎民かれいみん乳母うばを恋しがり病気になって死んでしまった。

父の賈充かじゅうが亡くなると、魯殤公ろしょうこうの称号が追贈された。


のちにまた男子が生まれたが、賈充かじゅう乳母うばいている子の頭をさすったところ、郭槐かくかいはまた乳母うばを疑って殺害した。これにより、次の子も乳母うば思慕しぼして死んでしまったので、つい賈充かじゅうは後継ぎを残すことができなかった。

豆知識

賈充かじゅうが亡くなると、郭槐かくかいは外孫の韓謐かんひつ賈黎民かれいみんの子として賈充かじゅうの後継ぎにしようとした。

郎中ろうちゅう韓咸かんかん中尉ちゅうい曹軫そうしんは「礼には『大宗(宗家)に後継ぎがいなければ、小宗(分家)の子を後継ぎとする』とありますが『異姓を後継ぎとする』という文はありません」といさめたが、郭槐かくかいはは従わなかった。

韓咸かんかんらは上書して後継ぎを改めることを求めたが、結局、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は「韓謐かんひつ賈充かじゅうの後継ぎとすることを認め、太宰たいさい賈充かじゅう)ほどの功績がない限り異姓の後継ぎを許さず、これを前例としてはならない」とした。


賈南風かなんぷう恵賈皇后けいかこうごう

甘露かんろ2年(257年)〜西晋せいしん永康えいこう元年(300年)没。司隷しれい平陽郡へいようぐん襄陵県じょうりょうけんの人。父は賈充かじゅう。母は郭槐かくかい。異母姉に賈荃かせん賈褒かほう)、賈濬かしゅん賈裕かゆう)。同母兄弟に賈黎民かれいみん。同母妹に賈午かご。娘に河東公主かとうこうしゅ臨海公主りんかいこうしゅ始平公主しへいこうしゅ哀献皇女あいけんこうじょ。小名は)。

武帝(司馬炎)

武帝ぶてい司馬炎しばえん)は太子妃たいしひとして衛瓘えいかんむすめめとろうとしていたが、元后げんこう賈充かじゅう郭槐かくかい夫妻とその親族の言葉をれて、賈充かじゅうむすめめとらせようとした。

武帝ぶてい司馬炎しばえん)は「衛公えいこう衛瓘えいかん)のむすめには5つの長所があり、賈公かこう賈充かじゅう)のむすめには5つの短所がある。衛家えいけの血筋は賢くて子が多く、美しく長身で色白である。賈家かけの血筋は嫉妬深くて子が少なく、みにくく小柄で色黒である」と言ったが、元后げんこうはそれでも強く要請し、また、荀顗じゅんぎ荀勖じゅんきょく賈充かじゅうむすめかしこいとたたえたので、結局、賈充かじゅうむすめめとらせることとなった。

初め、太子たいしより1つ年下で12歳の賈午かごめとらせようとしたが、体が小さく婚礼衣装が合わなかったために、太子たいしより2つ年上で15歳の賈南風かなんぷうに変更された。

西晋せいしん泰始たいし8年(272年)2月、こうして賈南風かなんぷう太子妃たいしひに立てられたが、彼女は嫉妬しっと深くはかりごといつわりが多かったので、太子たいしおそまどい、賈南風かなんぷうの元をおとずれることは滅多になかった。

武帝ぶてい司馬炎しばえん)は常に太子たいし不慧ふすい(愚か)なのではないかと疑っており、ある時それをためすことにした。そこで東宮とうぐう皇太子こうたいしの居所)のすべての属官をして宴会をもうけ、その席で懸案事項を密封して太子たいしに渡し、返信を待つことにした。

賈妃かき賈南風かなんぷう)は大いにおそれ、人を雇って模範解答を作らせたが、それには古義(故事や典籍)が多数引用されていた。これを見た給使きゅうし張泓ちょうおうは「太子たいしは学がありません。古義を引用すれば、必ず草案を書いた者が別にいると疑われ、さらなる非難をびることになるでしょう」と言った。賈妃かき賈南風かなんぷう)は大いに喜んで張泓ちょうおうに草案を作らせ、それを太子たいしに書き写させたので、それを読んだ武帝ぶてい司馬炎しばえん)はとてもよろこんだ。

武帝ぶてい司馬炎しばえん)が太子少傅たいししょうふ衛瓘えいかん太子たいしの解答を示すと、衛瓘えいかんはおどおどとして挙動不審になった。多くの人は以前から衛瓘えいかん太子たいしそしっていたことを知っており、みな万歳をとなえた。

賈充かじゅうは秘かに「衛瓘えいかんの老いぼれは、お前の家(太子たいしの家)を破壊しようとしている」と賈妃かき賈南風かなんぷう)に語り伝えた。


賈妃かき賈南風かなんぷう)は残酷・残虐な性格で、その手で数人を殺したことがあった。

ある時、賈妃かき賈南風かなんぷう)は妊婦にげきを投げつけ、やいばが刺さった胎児が地面に落ちた。これを聞いた武帝ぶてい司馬炎しばえん)は大いに怒り、金墉城きんようじょうにおいて賈妃かき賈南風かなんぷう)を廃位しようとした。すると充華じゅうか(側室)の趙粲ちょうさんあわてた様子もなく「賈妃かき賈南風かなんぷう)はまだ若く、嫉妬しっとは婦人の情ですので、きっと直ります。さっしてあげてください」と言った。

また、楊珧ようようは「陛下は賈公閭かこうりょ賈充かじゅう)をお忘れか?」と言い、荀勖じゅんきょくも必死に賈妃かき賈南風かなんぷう)をかばったので、賈妃かき賈南風かなんぷう)は廃位されずに済んだ。

恵帝(司馬衷)

恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)が即位すると皇后こうごうに立てられ、河東公主かとうこうしゅ臨海公主りんかいこうしゅ始平公主しへいこうしゅ哀献皇女あいけんこうじょを生んだ。

賈后かこう賈南風かなんぷう)の乱暴で人道に外れた行動は、次第に苛烈かれつになっていった。

  • 賈后かこう賈南風かなんぷう)の族兄で侍中じちゅう賈模かぼ
  • 賈后かこう賈南風かなんぷう)の従舅じゅうきゅう右衛ゆうえい郭彰かくしょう

は、その才能と人望により官位にいて、楚王そおう司馬瑋しばい東安公とうあんこう司馬繇しばようと共に分担して朝政にあたっていたが、。

賈后かこう賈南風かなんぷう)の母・広城君こうじょうくん郭槐かくかい)の養孫・賈謐かひつ韓謐かんひつ)を国政に関与させ、人主(皇帝?諸侯?)と同じ権力を与えた。

これに司馬繇しばようは、秘かに賈后かこう賈南風かなんぷう)を廃位しようとしたが、ちょうど太宰たいさい司馬亮しばりょう衛瓘えいかんらが上表して司馬繇しばよう幽州ゆうしゅう帯方郡たいほうぐんに流罪とし、楚王そおう司馬瑋しばい中候ちゅうこう北軍中候ほくぐんちゅうこう)を奪おうとした。賈后かこう賈南風かなんぷう)は司馬瑋しばいが彼らをうらんでいることを知ると、恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)に密詔みっしょうを作らせて司馬瑋しばい衛瓘えいかん司馬亮しばりょう誅殺ちゅうさつさせ、かねてからのうらみにむくいた。

賈模かぼ賈后かこう賈南風かなんぷう)の凶暴さを知り、わざわいが自分に及ぶことを恐れ、裴頠はいぎ王衍おうえんと共に賈后かこう賈南風かなんぷう)の廃位をはかったが、王衍おうえんが後悔して計画を中止した。


その後賈后かこう賈南風かなんぷう)は、過度に色事にふけり、勝手きままで節度がなり、太医令たいいれい程拠ていきょらと共にその乱れ振りは内外に知られるようになった。

洛南らくなん盗尉部とういぶに容姿端麗な小役人がいたが、ある日突然、分不相応な衣服を着るようになったので、窃盗の疑いをかけられて弁明の機会が与えられた。

この時、賈后かこう賈南風かなんぷう)の縁者がその盗品を得ようと弁明を傍聴ぼうちょうしたが、結局のところ、「身分をいつわって男あさりをしていた賈后かこう賈南風かなんぷう)に気に入られ、その謝礼に受け取ったもの」だった。賈后かこう賈南風かなんぷう)の相手に選ばれた者はその多くが殺されたが、この小役人だけは賈后かこう賈南風かなんぷう)に愛されたために、生きて帰れたのである。


賈后かこう賈南風かなんぷう)には男子がなく、側室の子・愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)が太子たいしに立てられていた。

賈后かこう賈南風かなんぷう)は妊娠したといつわって、妹の夫・韓寿かんじゅの子、韓慰祖かんいそを自分の子として養い、愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)を廃して、韓慰祖かんいそ太子たいしに立てようとした。

賈后かこう賈南風かなんぷう)の母・広城君こうじょうくん郭槐かくかい)はたいそう愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)をうやまい、事あるごとに賈后かこう賈南風かなんぷう)に「愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)に愛情をそそげ」と言った。また、賈謐かひつ韓謐かんひつ)は生まれの高貴さをたのみに、おごり高ぶって愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)を尊重しなかったので、広城君こうじょうくん郭槐かくかい)はいつも厳しく彼をしかっていた。

広城君こうじょうくん郭槐かくかい)の病気が重くなると、占術師せんじゅつしが「広城君こうじょうくんに封ぜられているのがいけない」と言ったので、改めて宜城君ぎじょうくんに封ぜられた。

賈后かこう賈南風かなんぷう)が後宮を出て宜城君ぎじょうくん郭槐かくかい)を看病すること10余日。その間、愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)は常に医者と共に通って礼を尽くしていた。

宜城君ぎじょうくん郭槐かくかい)は臨終りんじゅうに際し、賈后かこう賈南風かなんぷう)の手を取って「くれぐれも愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)に尽くすように」と命じ、また、「趙粲ちょうさん賈午かごは必ずあなたの政事を乱します。私が死んだら、彼らの言葉を聞き入れてはなりません。私の言葉を努々ゆめゆめ忘れないように」と言った。

ところが、賈后かこう賈南風かなんぷう)はこれに従うことができず、ついに内外を威圧して服従させ、天下に専制した。さらに、もっぱ趙粲ちょうさん賈午かごらと姦謀かんぼうめぐらせて愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)を誣告ぶこくしたので、人々は顕著けんちょ嫌悪けんおした。


ついに愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)が廃位・追放されると、趙王ちょうおう司馬倫しばりん孫秀そんしゅうらは人々のうらみにこたえて賈后かこう賈南風かなんぷう)を廃位しようとした。

賈后かこう賈南風かなんぷう)は数人の宮婢きゅうひを送り込み秘かにさぐらせていたので、そのくわだてをれ知った。賈后かこう賈南風かなんぷう)はひどくおそれ、ついに愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)を殺害した。

事ここに及んで、趙王ちょうおう司馬倫しばりんは兵をひきいて宮中に入ると、賈后かこう賈南風かなんぷう)を廃位させるため翊軍校尉よくぐんこうい斉王せいおう司馬冏しばけいを殿中に入らせた。

賈后かこう賈南風かなんぷう)が驚いて「けいは何をしに来たのかっ!」と言うと、司馬冏しばけいは「みことのりにより賈后かこう賈南風かなんぷう)を捕らえます」と言った。賈后かこう賈南風かなんぷう)は「みことのりは私が出しているのに、何のみことのりか?」と言い、上閤じょうかくに登ると恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)に向かって「陛下、私を廃位させたなら、次はあなたの番ですよっ!」と呼びかけた。

また、司馬冏しばけいに「誰のがねか?」と問うと、司馬冏しばけいは「りょうちょう梁王りょうおう司馬肜しばゆう趙王ちょうおう司馬倫しばりん)」とだけ答え、賈后かこう賈南風かなんぷう)は「犬をつなぐなら首をつなぐべきであった。尾をつないで何になるというのかっ!」と言った。

賈后かこう賈南風かなんぷう)は捕らえられ、宮殿の西に至ると、そこに賈謐かひつ韓謐かんひつ)の死体を見つけ、声をあげて泣いたが、急に泣き止んだ。司馬倫しばりんみことのりいつわって尚書しょうしょ劉弘りゅうこうらにせつを持たせ、金屑酒きんせつしゅもって賈后かこう賈南風かなんぷう)に死をたまわった。在位11年、趙粲ちょうさん賈午かご韓寿かんじゅ董猛とうもうらもみなちゅうした。


賈南風かなんぷう」の関連記事

賈午かご

甘露かんろ5年(260年)〜西晋せいしん永康えいこう元年(300年)没。司隷しれい平陽郡へいようぐん襄陵県じょうりょうけんの人。父は賈充かじゅう。母は郭槐かくかい。異母姉に賈荃かせん賈褒かほう)、賈濬かしゅん賈裕かゆう)。同母兄弟に賈黎民かれいみん。同母姉に賈南風かなんぷう

武帝ぶてい司馬炎しばえん)は太子たいし賈充かじゅうむすめめとらせることにし、太子たいしより1つ年下で12歳の賈午かごめとらせようとしたが、体が小さく婚礼衣装が合わなかったために、太子たいしより2つ年上で15歳の賈南風かなんぷうに変更された。


賈充かじゅう辟召まねいて司空しくうえん(属官)とした韓寿かんじゅは、姿形すがたかたちや立ち居振る舞いも美しかった。

賈充かじゅう賓客ひんかくや属僚とうたげもよおしていた時のこと。賈午かご青鏁せいさ(?)の中からのぞき見て韓寿かんじゅに一目惚れし、左右の者にたずねると、1人の下女()が「私の前の主人です」と言った。賈午かごは感激のあまり寝ても覚めても忘れられなかった。

そこで下女()は韓寿かんじゅの家に行くと、賈午かごの想いを伝え、華やかで美しい女性だとつけ加えたので、韓寿かんじゅは心を動かされ、丁寧な返事を返した。下女()がこれを報告すると、賈午かごは秘かに連絡を取って互いに愛をはぐくみ、夜、韓寿かんじゅを部屋にまねき入れた。韓寿かんじゅは素早く垣根を飛びこえて忍び込んだので、家中の者は誰も気づいていなかったが、ただ父・賈充かじゅうだけは、むすめの普段の素振りの変化に気づいていた。

当時、西域から「珍しいお香」が贈られ、それは一度くと数ヶ月の間、香りが消えなかった。武帝ぶてい司馬炎しばえん)はこれをとても貴重な物だと考え、ただ賈充かじゅう大司馬だいしば陳騫ちんけんだけに下賜かししていたが、賈午かごは秘かにこれを盗んで韓寿かんじゅに贈った。

韓寿かんじゅの属僚たちが韓寿かんじゅとくつろいでいた時、あの「珍しいお香」の香りに気づいて賈充かじゅうに告げた。これにより賈充かじゅうは、賈午かご韓寿かんじゅが通じていることに気づいたが、やしきの門の警備は厳重なので、どこから入ったのか分からなかった。

そこで夜中に驚いた振りをして「盗賊が出た」と言い、それにかこつけて壁に変わったところがないか観察させたが、左右の者はただ「異常はありません。ただ、東北の角に狐狸の通ったあとがあります」と言うだけだった。

賈充かじゅう賈午かごの周辺を取り調べて詳しく白状させると、そのことを秘密にしたまま、ついに韓寿かんじゅと結婚させた。韓寿かんじゅ散騎常侍さんきじょうじ河南尹かなんいんに至ったが、元康げんこう初年(291年)に亡くなり、驃騎将軍ひょうきしょうぐんを追贈された。


賈充かじゅうが亡くなると賈充かじゅうの後妻・郭槐かくかいは、韓寿かんじゅ賈午かごの子・韓謐かんひつ賈黎民かれいみんの子として賈充かじゅうの後を継がせた。

また郭槐かくかいは、韓寿かんじゅ賈午かごむすめ太子妃たいしひにしたいと考え、愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)もまた韓氏かんしと結婚して自分の地位を固めたいと考えていたが、賈午かご賈后かこう賈南風かなんぷう)が認めなかったので、愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)は、王衍おうえんの末娘・王恵風おうけいふうまねいて妻とした。


郭槐かくかいはその臨終りんじゅうに際し、賈后かこう賈南風かなんぷう)の手を取って「くれぐれも愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)に尽くすように」と命じ、また、「趙粲ちょうさん賈午かごは必ずあなたの政事を乱します。私が死んだら、彼らの言葉を聞き入れてはなりません。私の言葉を努々ゆめゆめ忘れないように」と言った。

ところが、賈后かこう賈南風かなんぷう)はこれに従うことができず、ついに内外を威圧して服従させ、天下に専制した。さらに、もっぱ趙粲ちょうさん賈午かごらと姦謀かんぼうめぐらせて愍懐太子びんかいたいし司馬遹しばいつ)を誣告ぶこくしたので、人々は顕著けんちょ嫌悪けんおした。

永康えいこう元年(300年)、賈后かこう賈南風かなんぷう)が廃位されると、賈后かこう賈南風かなんぷう)・韓寿かんじゅ賈謐かひつ韓謐かんひつ)、趙粲ちょうさん董猛とうもうらと共に誅殺ちゅうさつされた。賈后かこう賈南風かなんぷう)は金屑酒きんせつしゅをもって死をたまわり、賈午かごは大杖で叩き殺されたと言う。


賈彝かい

生没年不詳。司隷しれい平陽郡へいようぐん襄陵県じょうりょうけんの人。父は不詳。賈充かじゅうの従子。

賈充かじゅうの従子である賈彝かい賈遵かじゅんはどちらも人物を見る目があり、黄門郎こうもんろうとなった。


賈遵かじゅん

生没年不詳。司隷しれい平陽郡へいようぐん襄陵県じょうりょうけんの人。父は不詳。賈充かじゅうの従子。弟に賈模かぼ

賈充かじゅうの従子である賈彝かい賈遵かじゅんはどちらも人物を見る目があり、黄門郎こうもんろうとなった。


賈模かぼ思範しはん

生没年不詳。司隷しれい平陽郡へいようぐん襄陵県じょうりょうけんの人。父は不詳。賈充かじゅうの従子。兄に賈遵かじゅん。子に賈遊かゆう

賈模かぼは若い頃から高いこころざしを持ち、典籍に精通し、沈着で思慮深かった。賈充かじゅうに深く信頼され、事あるごとにはかりごとたずねられた。

賈充かじゅう老衰ろうすいして病気が重くなると、常に自分のおくりなと列伝を気にかけていたが*3賈模かぼは「評価の是非はすでに明らかです。今さらおおい隠す事はできません」と言うだけだった。

官にあげられて邵陵県令しょうりょうけんれいとなり、二宮(朝廷と東宮)で尚書吏部郎しょうしょりぶろうを歴任し、公事によって免官されたが、復帰して車騎将軍しゃきしょうぐん司馬しばとなった。

楊駿ようしゅん誅殺ちゅうさつに参与し、平陽郷侯へいようきょうこうに封ぜられ、封邑ほうゆう千戸を与えられた。

楚王そおう司馬瑋しばいみことのりを偽造して汝南王じょなんおう司馬亮しばりょう太保たいほ衛瓘えいかんを殺害した時、賈模かぼは(本物の)みことのりにより中騶ちゅうすう(騎兵)2百人をひきいて救援した。

この時賈后かこう賈南風かなんぷう)は、親しく信頼できる者に朝政を委任したいと考え、賈模かぼ散騎常侍さんきじょうじに任命し、2日で侍中じちゅう抜擢ばってきした。

賈模かぼは非を正すことに心を尽くし、また張華ちょうか裴顗はいぎを推薦し、心を1つにして国政をたすけた。数年の内に朝野ちょうや(政府と民間)が平穏になったのは、賈模かぼの力である。その後、光禄大夫こうろくたいふを加えられた。

賈模かぼは裏では権勢を振るいながら、表では権勢を遠ざけるように、賈后かこう賈南風かなんぷう)に意見を申し上げることがあっても、急用や病気を理由にして参内を避けた。

また、平素から嫌い腹を立てている相手をおとしいれることが多かったので、朝廷ではひどくはばかられた。加えてむさぼるように苛酷かこくな取り立てを行ったので、その富はおうこうに匹敵した*4

賈后かこう賈南風かなんぷう)の性格はとても強暴であり、賈模かぼが言葉を尽くして禍福かふく(メリットとデメリット)について述べても従うことができず、賈模かぼに批判されていると感じるようになった。その結果、賈模かぼに委任する気持ちが日ごとにおとろえ、讒言ざんげんによって人の関係をくようなやからを取り立てるようになった。

賈模かぼこころざしを得ず、うれいきどおって病気をわずらい亡くなった。車騎将軍しゃきしょうぐん開府かいふ儀同三司ぎどうさんしを追贈され、せいおくりなされた。

脚注

*3高貴郷公こうききょうこう曹髦そうぼう)を殺したことの評価。

*4原文も主語なし。前後の内容的に主語は賈后かこう賈南風かなんぷう)?



スポンサーリンク


【三国志人物伝】総索引