正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(90)南陽(なんよう)韓氏(かんし)①[韓王信(かんおうしん)(韓信(かんしん))・韓頹当(かんたいとう)・韓嬰(かんえい)・韓釈之(かんせきし)・韓嫣(かんえん)・韓説(かんえつ)・韓興(かんきょう)・韓増(かんぞう)・韓岑(かんしん)・韓宝(かんほう)・韓持弓(かんじきゅう)]です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

南陽韓氏①系図

南陽韓氏①系図

南陽(なんよう)韓氏(かんし)①系図

備考

  • 上記系図は基本的に『漢書(かんじょ)』韓王信伝(かんおうしんでん)より。
  • 韓孺(かんじゅ)、韓騫(かんけん)の名前は『新唐書(しんとうしょ)』宰相世系(さいしょうせいけい)より。
  • 『新唐書(しんとうしょ)』宰相世系(さいしょうせいけい)では「韓説(かんえつ)の子・韓長君(かんちょうくん)、韓長君(かんちょうくん)の子・韓増(かんぞう)」とあるが、『漢書(かんじょ)』韓王信伝(かんおうしんでん)に合わせて省(はぶ)いた。
  • 維基百科には韓頹当(かんたいとう)の嫡子(ちゃくし)の子、韓則(かんそく)、韓譊(かんどう)の名前があるが、出典が不明なため省(はぶ)いた。
  • 韓騫(かんけん)の9世孫が南陽(なんよう)韓氏(かんし)の韓術(かんじゅつ)。
  • 潁川(えいせん)韓氏(かんし)は韓頹当(かんたいとう)の後裔(こうえい)。
関連記事

この記事では南陽(なんよう)韓氏(かんし)①の人物、

についてまとめています。


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か(90)南陽韓氏①

第1世代[韓王信(韓信)]

韓王信(かんおうしん)(韓信(かんしん))

生年不詳〜前漢(ぜんかん)の高祖(こうそ)11年(紀元前196年)没。韓(かん)の襄王(じょうおう)の孽孫(げっそん)(妾腹(しょうふく)の孫)。姓名は韓信(かんしん)。淮陰侯(わいいんこう)の韓信(かんしん)と区別して韓王信(かんおうしん)と記(しる)される。子に韓頹当(かんたいとう)。

沛公(劉邦)に仕える

韓信(かんしん)は身の丈(たけ)・8尺5寸(約195cm)あった。

秦(しん)の二世皇帝(にせいこうてい)2年(紀元前208年)6月、項梁(こうりょう)が楚(そ)の懐王(かいおう)を立てた時、燕(えん)・斉(せい)・趙(ちょう)・魏(ぎ)にはそれぞれ既(すで)に王(おう)が立てられており、ただ韓(かん)だけに後嗣(こうし)(後継ぎ)がなかった。そこで項梁(こうりょう)は、韓(かん)の公子(こうし)・横陽城君(おうようじょうくん)(横陽君(おうようくん)・韓成(かんせい))を立てて韓王(かんおう)とし、韓(かん)の旧領を安定させようとしたが、同年9月に定陶(ていとう)で項梁(こうりょう)が戦死すると、韓成(かんせい)は懐王(かいおう)の元に逃げた。

沛公(はいこう)(劉邦(りゅうほう))は兵を率(ひき)いて陽城(ようじょう)を攻撃し、張良(ちょうりょう)を韓(かん)の司徒(しと)として韓(かん)の地を従わせようとしたが、韓信(かんしん)を手に入れた張良(ちょうりょう)は彼を韓(かん)の将軍(しょうぐん)とし、その兵を率(ひき)い沛公(はいこう)(劉邦(りゅうほう))に従って武関(ぶかん)に入った。

韓王となる

沛公(はいこう)(劉邦(りゅうほう))が漢王(かんおう)となると、韓信(かんしん)はこれに従って漢中(かんちゅう)に入り、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に説(と)いて言った。

「項王(こうおう)(項羽(こうう))は諸将を王(おう)に封じましたが、漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))だけが遠くこの地に遷(うつ)されました。士卒たちはみな山東(さんとう)の生まれで、彼らは故郷に帰ることを望んでいますから、その蠭(ほこさき)(矛先(ほこさき))が東の故郷に向かえば、天下を争うことが可能となります」

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は引き返して三秦(さんしん)を平定し、韓信(かんしん)を王(おう)とすることを約束したが、先(ま)ずは韓(かん)の太尉(たいい)に任命し、兵を率(ひき)いて韓(かん)の地を攻略させた。


項籍(こうせき)(項羽(こうう))が封じた諸王はみな封国に赴(おもむ)いたが、韓王成(かんおうせい)は項籍(こうせき)(項羽(こうう))の軍に従軍しておらず、また他に功績もなかったことから、国(韓(かん))には赴(おもむ)かせずに穰侯(じょうこう)に封じ、後に殺害した。

「漢(かん)(劉邦(りゅうほう))が韓信(かんしん)を派遣して韓(かん)の地を攻略した」ことを聞き知った項籍(こうせき)(項羽(こうう))は、かつて呉(ご)にいた時に一緒に遊んでいた県令(けんれい)の鄭昌(ていしょう)を韓王(かんおう)(韓王昌(かんおうしょう))として漢(かん)の軍を防がせた。


漢(かん)2年(紀元前205年)、韓信(かんしん)は韓(かん)の地の10余城を攻略して平定した。漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))が河南(かなん)に至ると韓信(かんしん)は韓王昌(かんおうしょう)を急襲し、韓王昌(かんおうしょう)は漢(かん)に降伏した。そこで漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は韓信(かんしん)を立てて韓王(かんおう)(韓王信(かんおうしん))とし、韓王信(かんおうしん)はそれ以来、常に韓(かん)の兵を率(ひき)いて漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に従った。

漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))は韓王信(かんおうしん)と周苛(しゅうか)らを派遣して滎陽(けいよう)を守らせたが、楚(そ)に城を落とされ、韓王信(かんおうしん)は降伏した。韓信(かんしん)が漢(かん)に逃げ帰ってくると、漢(かん)は再び韓信(かんしん)を韓王(かんおう)とし、ついに韓王信(かんおうしん)は漢王(かんおう)(劉邦(りゅうほう))に従って項籍(こうせき)(項羽(こうう))を撃ち破った。

漢(かん)5年(紀元前202年)春、韓信(かんしん)は割符(わりふ)を与えられ、潁川(えいせん)に都を置いた。(原文:五年春,與信剖符,王潁川)

匈奴に降る

漢(かん)6年(紀元前201年)春、高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))は韓王信(かんおうしん)が武勇に優(すぐ)れており、(その領土は)北は鞏(きょう)・雒(らく)に近く、南は宛(えん)・葉(しょう)に迫(せま)り、東に淮陽(わいよう)があり、みな天下の強兵の地であることから、太原郡(たいげんぐん)を韓(かん)の国とし、韓王信(かんおうしん)をそこに移して匈奴(きょうど)に備えさせ、晋陽(しんよう)に都を置かせた。

すると韓王信(かんおうしん)は「(韓(かん)の)国境はしばしば匈奴(きょうど)の侵入を受けますが、晋陽(しんよう)は塞(さい)(長城)から遠いため、馬邑(ばゆう)を都とすることをお許しください」と上言し、許可された。

秋、匈奴(きょうど)の冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)が大軍で韓王信(かんおうしん)を包囲したので、韓王信(かんおうしん)は何度も使者を送って匈奴(きょうど)に和解を求めた。漢(かん)は兵を出してこれを救ったが、韓王信(かんおうしん)が何度も使者を送っていたことから「二心(ふたごころ)があるのではないか」と疑い、高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))は書簡を送って韓王信(かんおうしん)を責めた。

書簡を受け取った韓王信(かんおうしん)は誅殺(ちゅうさつ)を恐れ、匈奴(きょうど)と共に漢(かん)を攻める約定(やくじょう)を交(か)わし、馬邑(ばゆう)ごと匈奴(きょうど)に降伏して太原郡(たいげんぐん)を攻撃した。

漢を攻める

漢(かん)7年(紀元前200年)冬、高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))が親征して韓信(かんしん)の軍を銅鞮(どうてい)で撃破し、その配下の王喜(おうき)を斬ると、韓信(かんしん)は匈奴(きょうど)の元に逃亡した。韓信(かんしん)の配下である白土(はくど)出身の曼丘臣(まんきゅうしん)、王黄(おうこう)らは、趙(ちょう)の苗裔(びょうえい)(遠い血統の子孫)の趙利(ちょうり)を立てて王(おう)とすると、韓信(かんしん)の敗残兵をまとめ、韓信(かんしん)と冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)と共に漢(かん)を攻めようと謀(はか)った。

匈奴(きょうど)は左賢王(さけんおう)と右賢王(ゆうけんおう)に命じ、1万余騎を率(ひき)いて王黄(おうこう)らと広武(こうぶ)に駐屯させ、晋陽(しんよう)に南下して漢(かん)軍と戦わせた。漢(かん)軍はこれを大いに撃ち破って離石(りせき)まで追撃し、そこでまたこれを破った。匈奴(きょうど)は再び楼煩(ろうはん)の西北に兵を集めたが、漢(かん)は車騎将軍(しゃきしょうぐん)に匈奴(きょうど)を攻撃させ、匈奴(きょうど)はその度(たび)に敗走し、漢(かん)は勝ちに乗じて追撃した。


「冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)が代谷(だいこく)にいる」と聞いた時、高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))は晋陽(しんよう)にいたが、人を遣(や)って冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)を探(さぐ)らせた。「攻撃すべきです」との報告を受けた高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))は、ついに平城(へいじょう)まで北上して白登山(はくとうさん)に登ったが、そこで匈奴(きょうど)の騎兵に包囲された。

高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))が人を遣(や)って閼氏(あつし)(単于(ぜんう)の妻の称号)に手厚い贈り物をおくると、閼氏(あつし)は冒頓(ぼくとつ)単于(ぜんう)に説(と)いて言った。

「今、漢(かん)の地を得たとしても、そこに住むことはできないのです。それに両国の君主は互いに苦しめ合うものではありません」

7日経つと、匈奴(きょうど)の騎兵は徐々に引き去り始めたが、ちょうど濃(こ)い霧(きり)が立ち込めていたので、漢(かん)が使者を往来させても匈奴(きょうど)には気づかれなかった。

そこで護軍中尉(ごぐんちゅうい)の陳平(ちんぺい)は「胡者(こしゃ)(匈奴(きょうど))は士卒の損傷を恐れております。強弩(きょうど)に両矢をつがえ、敵に向けながらゆっくり進んで包囲を抜け出しましょう」と言上した。

こうして高祖(こうそ)(劉邦(りゅうほう))は平城(へいじょう)に入り、漢(かん)の援軍も到着したので、匈奴(きょうど)の騎兵はついに包囲を解いて去り、漢(かん)もまた戦いをやめて引き揚(あ)げた。

韓信(かんしん)は匈奴(きょうど)のために兵を率(ひき)いて往来し、辺境を攻撃して、王黄(おうこう)らに命じて陳豨(ちんき)を説(と)いてその身を誤(あやま)らせた。

韓信の死

漢(かん)11年(紀元前196年)春、韓信(かんしん)はまた匈奴(きょうど)の騎兵と共に侵入して参合(さんごう)にいた。漢(かん)が柴将軍(さいしょうぐん)(柴武(さいぶ))にこれを攻撃させると、柴将軍(さいしょうぐん)(柴武(さいぶ))は韓信(かんしん)に書簡を送って言った。

「陛下(劉邦(りゅうほう))は寬仁(かんじん)(心が広く情け深いこと)であられるので、叛(そむ)いて逃げた諸侯(しょこう)であっても、帰って来れば元の位号に戻して誅罰(ちゅうばつ)を加えることはなさいません。大王(だいおう)(韓信(かんしん))もご存知のはずです。今、王(おう)(韓信(かんしん))は戦いに敗れ兵を失って胡(こ)(匈奴(きょうど))に逃亡されましたが、大罪があるわけではありません。あなた様の方から急いで帰還なさいますように」

すると韓信(かんしん)はこれに答えて、

「陛下(劉邦(りゅうほう))は僕(わたし)(韓信(かんしん))を閭巷(りょこう)(村里)から抜擢(ばってき)なされ、南面して孤(こ)(君主や諸侯(しょこう)などの謙譲の一人称)と称する身分にまでしてくださいました。これは僕(わたし)(韓信(かんしん))の幸いとするところです。
ですが、滎陽(けいよう)の戦いでは死ぬことができず項籍(こうせき)(項羽(こうう))に捕らわれました。これが第1の罪です。
匈奴(きょうど)が馬邑(ばゆう)を攻めた時、僕(わたし)(韓信(かんしん))はこれを堅く守り抜くことができず、城ごと敵に降(くだ)りました。これが第2の罪です。
そして今や、匈奴(きょうど)のために兵を率(ひき)いて将軍(しょうぐん)(柴武(さいぶ))と一朝の命を争っています。これが第3の罪です。
かの大夫(たいふ)種(しょう)(文種(ぶんしょう))や范蠡(はんれい)は、1つの罪もないのにその身は死亡しました。僕(わたし)(韓信(かんしん))めは3つの罪を犯しながら尚(なお)も世に生き長らえようとしております。帰ればきっと、伍子胥(ごししょ)が罪を得ながら呉(ご)を去らず、ついに呉(ご)で殺されたのと同じ道を辿(たど)ることになるでしょう。
今、僕(わたし)(韓信(かんしん))は山谷の間に逃げ隠れ、朝夕、蛮夷(ばんい)に乞(こ)い求めております。僕(わたし)(韓信(かんしん))が帰国を願う思いは、足が萎(な)えた者が立ち上がることを忘れられず、目が見えなくなった者が見ることを忘れられないようなものですが、こうなってしまえば、どんなに願ってもどうにもならないのです」

と言った。

ついに戦いとなって、柴将軍(さいしょうぐん)(柴武(さいぶ))は参合(さんごう)を陥落させ、韓信(かんしん)を斬った。


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第2世代(韓頹当)

韓頹当(かんたいとう)

生没年不詳。父は韓王信(かんおうしん)(韓信(かんしん))。

韓信(かんしん)(韓王信(かんおうしん))が匈奴(きょうど)の地に入り、太子(たいし)(韓信(かんしん)の子)と共に頹当城(たいとうじょう)まで来たところで子が生まれたので、韓信(かんしん)はそれに因(ちな)んで頹当(たいとう)と名づけた。また、韓(かん)の太子(たいし)(韓信(かんしん)の子)にも子が生まれ、嬰(えい)と名づけた。

文帝(ぶんてい)の時代[高后(こうこう)8年(紀元前180年)〜文帝(ぶんてい)7年(紀元前157年)]、韓頹当(かんたいとう)と韓嬰(かんえい)がその部下を率(ひき)いて漢(かん)に帰順し、漢(かん)は韓頹当(かんたいとう)を弓高侯(きゅうこうこう)に封じ、韓嬰(かんえい)を襄城侯(じょうじょうこう)に封じた。

景帝(けいてい)3年(紀元前154年)の呉(ご)楚(そ)七国の乱の際、韓頹当(かんたいとう)の功績は諸将第一であった。

韓頹当(かんたいとう)は封国を子に伝え、孫に至ったが、孫に子がなかったので国が絶えた。


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第3世代(韓嬰)

韓嬰(かんえい)

生没年不詳。父は韓(かん)の太子(たいし)[韓王信(かんおうしん)(韓信(かんしん))の子]。

韓信(かんしん)(韓王信(かんおうしん))が匈奴(きょうど)の地に入り、太子(たいし)(韓信(かんしん)の子)と共に頹当城(たいとうじょう)まで来たところで子が生まれたので、韓信(かんしん)はそれに因(ちな)んで頹当(たいとう)と名づけた。また、韓(かん)の太子(たいし)(韓信(かんしん)の子)にも子が生まれ、嬰(えい)と名づけた。

文帝(ぶんてい)の時代[高后(こうこう)8年(紀元前180年)〜文帝(ぶんてい)7年(紀元前157年)]、韓頹当(かんたいとう)と韓嬰(かんえい)がその部下を率(ひき)いて漢(かん)に帰順し、漢(かん)は韓頹当(かんたいとう)を弓高侯(きゅうこうこう)に封じ、韓嬰(かんえい)を襄城侯(じょうじょうこう)に封じた。


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第4世代(韓釈之・韓嫣・韓説)

韓釈之(かんせきし)

生没年不詳。父は韓嬰(かんえい)。

韓嬰(かんえい)の子*1・韓釈之(かんせきし)は、不敬の罪によって侯(こう)の爵位を失った。

脚注

*1原文は孫だが子に修正した。


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韓嫣(かんえん)

生没年不詳。祖父は韓頹当(かんたいとう)。弟に韓説(かんえつ)。

韓頹当(かんたいとう)の孽孫(げっそん)(妾腹(しょうふく)の孫)・韓嫣(かんえん)は皇帝に寵愛(ちょうあい)され、当世に名を知られた。


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韓説(かんえつ)

生年不詳〜征和(せいわ)2年(紀元前91年)没。祖父は韓頹当(かんたいとう)。兄に韓嫣(かんえん)。

校尉(こうい)として匈奴(きょうど)を撃ち、龍額侯(りゅうがくこう)に封ぜられた。

後(のち)に「酎金律(ちゅうきんりつ)*2」を犯した罪に連座して侯(こう)の爵位を失ったが、また待詔(たいしょう)*3をもって横海将軍(おうかいしょうぐん)となり、東越(とうえつ)を撃破して按道侯(あんどうこう)に封ぜられた。

前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の太初(たいしょ)年間(紀元前104年〜紀元前101年)に遊擊将軍(ゆうげきしょうぐん)となって幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・五原郡(ごげんぐん)の外の列城(れつじょう)に駐屯し、帰還して光禄勲(こうろくくん)となった。

征和(せいわ)2年(紀元前91年)、巫蠱(ふこ)の乱*4に際し、太子宮(たいしきゅう)で偶人(ぐうじん)(木の人形)を掘り当てたため、太子(たいし)に殺害された。

脚注

*2前漢(ぜんかん)の法令で諸侯(しょこう)の抑圧政策の1つ。酎(ちゅう)とは天子(てんし)が宗廟(そうびょう)の祭りに供(そな)える新酒のことで、諸侯(しょこう)は資格に応じて黄金を献上したので酎金(ちゅうきん)という。その量が少く品質が悪い場合、諸侯王(しょこうおう)は領地を削(けず)られ、列侯(れっこう)は国を免(めん)ぜられた。前漢(ぜんかん)・武帝(ぶてい)の元鼎(げんてい)5年(紀元前112年)には、これによって列侯(れっこう)106人が国を免(めん)ぜられている。

*3天子(てんし)に召(め)し出され、詔命(しょうめい)を待つこと。

*4巫蠱(ふこ)とは偶人(ぐうじん)(木の人形)を土中に埋(う)め、巫(みこ)に祈らせて願いを叶(かな)えたり人を呪い殺すという迷信。
武帝(ぶてい)が行幸(ぎょうこう)先の甘泉宮(かんせんきゅう)で病床に伏(ふ)すと、衛太子(えいたいし)と反目していた江充(こうじゅう)は「武帝(ぶてい)の病(やまい)は巫蠱(ふこ)によるものだ」として調査を開始。調査は太子宮(たいしきゅう)にまで及び、そこで偶人(ぐうじん)が発見された。
身の危険を感じた衛太子(えいたいし)は長安(ちょうあん)で挙兵して江充(こうじゅう)を殺害したが、武帝(ぶてい)はこれを謀反(むほん)として討伐し、敗れた衛太子(えいたいし)は自害した。
後にこれが冤罪(えんざい)であることが分かると、武帝(ぶてい)は江充(こうじゅう)の一族を皆殺しにし、衛太子(えいたいし)が自害した湖県(こけん)に思子宮(ししきゅう)(子を思う宮殿)を建設した。


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第5世代(韓興・韓増)

韓興(かんきょう)

生年不詳〜征和(せいわ)2年(紀元前91年)没。父は韓説(かんえつ)。弟に韓増(かんぞう)。

征和(せいわ)2年(紀元前91年)の巫蠱(ふこ)の乱*4に際し、父・韓説(かんえつ)が太子(たいし)に殺害されると、その後を継いだが、巫蠱(ふこ)の乱*4に連座して誅殺(ちゅうさつ)された。

脚注

*4巫蠱(ふこ)とは偶人(ぐうじん)(木の人形)を土中に埋(う)め、巫(みこ)に祈らせて願いを叶(かな)えたり人を呪い殺すという迷信。
武帝(ぶてい)が行幸(ぎょうこう)先の甘泉宮(かんせんきゅう)で病床に伏(ふ)すと、衛太子(えいたいし)と反目していた江充(こうじゅう)は「武帝(ぶてい)の病(やまい)は巫蠱(ふこ)によるものだ」として調査を開始。調査は太子宮(たいしきゅう)にまで及び、そこで偶人(ぐうじん)が発見された。
身の危険を感じた衛太子(えいたいし)は長安(ちょうあん)で挙兵して江充(こうじゅう)を殺害したが、武帝(ぶてい)はこれを謀反(むほん)として討伐し、敗れた衛太子(えいたいし)は自害した。
後にこれが冤罪(えんざい)であることが分かると、武帝(ぶてい)は江充(こうじゅう)の一族を皆殺しにし、衛太子(えいたいし)が自害した湖県(こけん)に思子宮(ししきゅう)(子を思う宮殿)を建設した。


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韓増(かんぞう)

生年不詳〜五鳳(ごほう)2年(紀元前56年)没。父は韓説(かんえつ)。兄に韓興(かんきょう)。

征和(せいわ)2年(紀元前91年)の巫蠱(ふこ)の乱*4に際し、父・韓説(かんえつ)は太子(たいし)に殺害され、兄・韓興(かんきょう)は連座して誅殺(ちゅうさつ)された。

すると武帝(ぶてい)は、

「遊擊将軍(ゆうげきしょうぐん)(韓説(かんえつ))は国事に死んだのであり、論告して連座させるべき理由がない」

と言い、再び韓興(かんきょう)の弟・韓増(かんぞう)を龍額侯(りゅうがくこう)に封じた。

韓増(かんぞう)は若い頃に郎(ろう)となり、諸曹(そう)の侍中(じちゅう)光禄大夫(こうろくたいふ)を経(へ)て、昭帝(しょうてい)の代に前将軍(ぜんしょうぐん)となり、大将軍(だいしょうぐん)・霍光(かくこう)と共に宣帝(せんてい)策立のことを定(さだ)めて封邑(ほうゆう)千戸を加増された。

本始(ほんし)2年(紀元前72年)に5将軍(しょうぐん)が匈奴(きょうど)を征伐した時、韓増(かんぞう)は3万騎を率(ひき)いて幷州(へいしゅう)(并州(へいしゅう))・雲中郡(うんちゅうぐん)から出撃し、百余級を斬首して帰還した。

神爵(しんしゃく)元年(紀元前61年)、張安世(ちょうあんせい)に代わって大司馬(だいしば)・車騎将軍(しゃきしょうぐん)となり、尚書(しょうしょ)の事を総領した(領尚書事)。

韓増(かんぞう)の家は代々貴(とうと)ばれ、幼くして忠臣となり、3代の主君に仕え、朝廷に重んぜられた。

生まれつき寬大柔和をもって自(みずか)ら守り、上にも下にも温厚な顔つきと謙虚(けんきょ)な辞(ことば)をもって接し、自分の意見を失うことなく身を保(たも)ったが、事を興(おこ)し明らかにするようなことはできなかった。

五鳳(ごほう)2年(紀元前56年)に亡くなり、安侯(あんこう)と諡(おくりな)された。


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第6世代(韓岑・韓宝)

韓岑(かんしん)

生没年不詳。父は韓説(かんえつ)の子、韓増(かんぞう)の兄だが名前は不詳。

成帝(せいてい)の時代[竟寧(きょうねい)元年(紀元前33年)〜綏和(すいわ)2年(紀元前7年)]に断絶した功臣の家が再興され、韓増(かんぞう)の兄の子・韓岑(かんしん)が龍額侯(りゅうがくこう)に封ぜられた。


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韓宝(かんほう)

生没年不詳。父は韓増(かんぞう)。

父・韓増(かんぞう)の後を継いだが、韓宝(かんほう)には子がなく、国が除かれた。


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第7世代(韓持弓)

韓持弓(かんじきゅう)

生没年不詳。父は韓岑(かんしん)。

父・韓岑(かんしん)の後を継いだが、王莽(おうもう)が敗れて家は断絶した。


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【三国志人物伝】総索引