正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧(90)南陽韓氏①[韓王信(韓信)・韓頹当・韓嬰・韓釈之・韓嫣・韓説・韓興・韓増・韓岑・韓宝・韓持弓]です。
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目次
系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
南陽韓氏①系図
南陽韓氏①系図
備考
- 上記系図は基本的に『漢書』韓王信伝より。
- 韓孺、韓騫の名前は『新唐書』宰相世系より。
- 『新唐書』宰相世系では「韓説の子・韓長君、韓長君の子・韓増」とあるが、『漢書』韓王信伝に合わせて省いた。
- 維基百科には韓頹当の嫡子の子、韓則、韓譊の名前があるが、出典が不明なため省いた。
- 韓騫の9世孫が南陽韓氏の韓術。
- 潁川韓氏は韓頹当の後裔。
関連記事
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- 維基百科|韓王信
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この記事では南陽韓氏①の人物、
についてまとめています。
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か(90)南陽韓氏①
第1世代[韓王信(韓信)]
韓王信(韓信)
生年不詳〜前漢の高祖11年(紀元前196年)没。韓の襄王の孽孫(妾腹の孫)。姓名は韓信。淮陰侯の韓信と区別して韓王信と記される。子に韓頹当。
沛公(劉邦)に仕える
韓信は身の丈・8尺5寸(約195cm)あった。
秦の二世皇帝2年(紀元前208年)6月、項梁が楚の懐王を立てた時、燕・斉・趙・魏にはそれぞれ既に王が立てられており、ただ韓だけに後嗣(後継ぎ)がなかった。そこで項梁は、韓の公子・横陽城君(横陽君・韓成)を立てて韓王とし、韓の旧領を安定させようとしたが、同年9月に定陶で項梁が戦死すると、韓成は懐王の元に逃げた。
沛公(劉邦)は兵を率いて陽城を攻撃し、張良を韓の司徒として韓の地を従わせようとしたが、韓信を手に入れた張良は彼を韓の将軍とし、その兵を率い沛公(劉邦)に従って武関に入った。
韓王となる
沛公(劉邦)が漢王となると、韓信はこれに従って漢中に入り、漢王(劉邦)に説いて言った。
「項王(項羽)は諸将を王に封じましたが、漢王(劉邦)だけが遠くこの地に遷されました。士卒たちはみな山東の生まれで、彼らは故郷に帰ることを望んでいますから、その蠭(矛先)が東の故郷に向かえば、天下を争うことが可能となります」
漢王(劉邦)は引き返して三秦を平定し、韓信を王とすることを約束したが、先ずは韓の太尉に任命し、兵を率いて韓の地を攻略させた。
項籍(項羽)が封じた諸王はみな封国に赴いたが、韓王成は項籍(項羽)の軍に従軍しておらず、また他に功績もなかったことから、国(韓)には赴かせずに穰侯に封じ、後に殺害した。
「漢(劉邦)が韓信を派遣して韓の地を攻略した」ことを聞き知った項籍(項羽)は、かつて呉にいた時に一緒に遊んでいた県令の鄭昌を韓王(韓王昌)として漢の軍を防がせた。
漢2年(紀元前205年)、韓信は韓の地の10余城を攻略して平定した。漢王(劉邦)が河南に至ると韓信は韓王昌を急襲し、韓王昌は漢に降伏した。そこで漢王(劉邦)は韓信を立てて韓王(韓王信)とし、韓王信はそれ以来、常に韓の兵を率いて漢王(劉邦)に従った。
漢王(劉邦)は韓王信と周苛らを派遣して滎陽を守らせたが、楚に城を落とされ、韓王信は降伏した。韓信が漢に逃げ帰ってくると、漢は再び韓信を韓王とし、ついに韓王信は漢王(劉邦)に従って項籍(項羽)を撃ち破った。
漢5年(紀元前202年)春、韓信は割符を与えられ、潁川に都を置いた。(原文:五年春,與信剖符,王潁川)
匈奴に降る
漢6年(紀元前201年)春、高祖(劉邦)は韓王信が武勇に優れており、(その領土は)北は鞏・雒に近く、南は宛・葉に迫り、東に淮陽があり、みな天下の強兵の地であることから、太原郡を韓の国とし、韓王信をそこに移して匈奴に備えさせ、晋陽に都を置かせた。
すると韓王信は「(韓の)国境はしばしば匈奴の侵入を受けますが、晋陽は塞(長城)から遠いため、馬邑を都とすることをお許しください」と上言し、許可された。
秋、匈奴の冒頓単于が大軍で韓王信を包囲したので、韓王信は何度も使者を送って匈奴に和解を求めた。漢は兵を出してこれを救ったが、韓王信が何度も使者を送っていたことから「二心があるのではないか」と疑い、高祖(劉邦)は書簡を送って韓王信を責めた。
書簡を受け取った韓王信は誅殺を恐れ、匈奴と共に漢を攻める約定を交わし、馬邑ごと匈奴に降伏して太原郡を攻撃した。
漢を攻める
漢7年(紀元前200年)冬、高祖(劉邦)が親征して韓信の軍を銅鞮で撃破し、その配下の王喜を斬ると、韓信は匈奴の元に逃亡した。韓信の配下である白土出身の曼丘臣、王黄らは、趙の苗裔(遠い血統の子孫)の趙利を立てて王とすると、韓信の敗残兵をまとめ、韓信と冒頓単于と共に漢を攻めようと謀った。
匈奴は左賢王と右賢王に命じ、1万余騎を率いて王黄らと広武に駐屯させ、晋陽に南下して漢軍と戦わせた。漢軍はこれを大いに撃ち破って離石まで追撃し、そこでまたこれを破った。匈奴は再び楼煩の西北に兵を集めたが、漢は車騎将軍に匈奴を攻撃させ、匈奴はその度に敗走し、漢は勝ちに乗じて追撃した。
「冒頓単于が代谷にいる」と聞いた時、高祖(劉邦)は晋陽にいたが、人を遣って冒頓単于を探らせた。「攻撃すべきです」との報告を受けた高祖(劉邦)は、ついに平城まで北上して白登山に登ったが、そこで匈奴の騎兵に包囲された。
高祖(劉邦)が人を遣って閼氏(単于の妻の称号)に手厚い贈り物をおくると、閼氏は冒頓単于に説いて言った。
「今、漢の地を得たとしても、そこに住むことはできないのです。それに両国の君主は互いに苦しめ合うものではありません」
7日経つと、匈奴の騎兵は徐々に引き去り始めたが、ちょうど濃い霧が立ち込めていたので、漢が使者を往来させても匈奴には気づかれなかった。
そこで護軍中尉の陳平は「胡者(匈奴)は士卒の損傷を恐れております。強弩に両矢をつがえ、敵に向けながらゆっくり進んで包囲を抜け出しましょう」と言上した。
こうして高祖(劉邦)は平城に入り、漢の援軍も到着したので、匈奴の騎兵はついに包囲を解いて去り、漢もまた戦いをやめて引き揚げた。
韓信は匈奴のために兵を率いて往来し、辺境を攻撃して、王黄らに命じて陳豨を説いてその身を誤らせた。
韓信の死
漢11年(紀元前196年)春、韓信はまた匈奴の騎兵と共に侵入して参合にいた。漢が柴將軍(柴武)にこれを攻撃させると、柴將軍(柴武)は韓信に書簡を送って言った。
「陛下(劉邦)は寬仁(心が広く情け深いこと)であられるので、叛いて逃げた諸侯であっても、帰って来れば元の位号に戻して誅罰を加えることはなさいません。大王(韓信)もご存知のはずです。今、王(韓信)は戦いに敗れ兵を失って胡(匈奴)に逃亡されましたが、大罪があるわけではありません。あなた様の方から急いで帰還なさいますように」
すると韓信はこれに答えて、
「陛下(劉邦)は僕(韓信)を閭巷(村里)から抜擢なされ、南面して孤(君主や諸侯などの謙譲の一人称)と称する身分にまでしてくださいました。これは僕(韓信)の幸いとするところです。
ですが、滎陽の戦いでは死ぬことができず項籍(項羽)に捕らわれました。これが第1の罪です。
匈奴が馬邑を攻めた時、僕(韓信)はこれを堅く守り抜くことができず、城ごと敵に降りました。これが第2の罪です。
そして今や、匈奴のために兵を率いて将軍(柴武)と一朝の命を争っています。これが第3の罪です。
かの大夫種(文種)や范蠡は、1つの罪もないのにその身は死亡しました。僕(韓信)めは3つの罪を犯しながら尚も世に生き長らえようとしております。帰ればきっと、伍子胥が罪を得ながら呉を去らず、ついに呉で殺されたのと同じ道を辿ることになるでしょう。
今、僕(韓信)は山谷の間に逃げ隠れ、朝夕、蛮夷に乞い求めております。僕(韓信)が帰国を願う思いは、足が萎えた者が立ち上がることを忘れられず、目が見えなくなった者が見ることを忘れられないようなものですが、こうなってしまえば、どんなに願ってもどうにもならないのです」
と言った。
ついに戦いとなって、柴將軍(柴武)は参合を陥落させ、韓信を斬った。
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第2世代(韓頹当)
韓頹当
生没年不詳。父は韓王信(韓信)。
韓信(韓王信)が匈奴の地に入り、太子(韓信の子)と共に頹当城まで来たところで子が生まれたので、韓信はそれに因んで頹当と名づけた。また、韓の太子(韓信の子)にも子が生まれ、嬰と名づけた。
文帝の時代[高后8年(紀元前180年)〜文帝7年(紀元前157年)]、韓頹当と韓嬰がその部下を率いて漢に帰順し、漢は韓頹当を弓高侯に封じ、韓嬰を襄城侯に封じた。
景帝3年(紀元前154年)の呉楚七国の乱の際、韓頹当の功績は諸将第一であった。
韓頹当は封国を子に伝え、孫に至ったが、孫に子がなかったので国が絶えた。
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第3世代(韓嬰)
韓嬰
生没年不詳。父は韓の太子[韓王信(韓信)の子]。
韓信(韓王信)が匈奴の地に入り、太子(韓信の子)と共に頹当城まで来たところで子が生まれたので、韓信はそれに因んで頹当と名づけた。また、韓の太子(韓信の子)にも子が生まれ、嬰と名づけた。
文帝の時代[高后8年(紀元前180年)〜文帝7年(紀元前157年)]、韓頹当と韓嬰がその部下を率いて漢に帰順し、漢は韓頹当を弓高侯に封じ、韓嬰を襄城侯に封じた。
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第4世代(韓釈之・韓嫣・韓説)
韓説
生年不詳〜征和2年(紀元前91年)没。祖父は韓頹当。兄に韓嫣。
校尉として匈奴を撃ち、龍額侯に封ぜられた。
後に「酎金律*2」を犯した罪に連座して侯の爵位を失ったが、また待詔*3をもって横海将軍となり、東越を撃破して按道侯に封ぜられた。
前漢・武帝の太初年間(紀元前104年〜紀元前101年)に遊擊将軍となって幷州(并州)・五原郡の外の列城に駐屯し、帰還して光禄勲となった。
征和2年(紀元前91年)、巫蠱の乱*4に際し、太子宮で偶人(木の人形)を掘り当てたため、太子に殺害された。
脚注
*2前漢の法令で諸侯の抑圧政策の1つ。酎とは天子が宗廟の祭りに供える新酒のことで、諸侯は資格に応じて黄金を献上したので酎金という。その量が少く品質が悪い場合、諸侯王は領地を削られ、列侯は国を免ぜられた。前漢・武帝の元鼎5年(紀元前112年)には、これによって列侯106人が国を免ぜられている。
*3天子に召し出され、詔命を待つこと。
*4巫蠱とは偶人(木の人形)を土中に埋め、巫に祈らせて願いを叶えたり人を呪い殺すという迷信。
武帝が行幸先の甘泉宮で病床に伏すと、衛太子と反目していた江充は「武帝の病は巫蠱によるものだ」として調査を開始。調査は太子宮にまで及び、そこで偶人が発見された。
身の危険を感じた衛太子は長安で挙兵して江充を殺害したが、武帝はこれを謀反として討伐し、敗れた衛太子は自害した。
後にこれが冤罪であることが分かると、武帝は江充の一族を皆殺しにし、衛太子が自害した湖県に思子宮(子を思う宮殿)を建設した。
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第5世代(韓興・韓増)
韓興
生年不詳〜征和2年(紀元前91年)没。父は韓説。弟に韓増。
征和2年(紀元前91年)の巫蠱の乱*4に際し、父・韓説が太子に殺害されると、その後を継いだが、巫蠱の乱*4に連座して誅殺された。
脚注
*4巫蠱とは偶人(木の人形)を土中に埋め、巫に祈らせて願いを叶えたり人を呪い殺すという迷信。
武帝が行幸先の甘泉宮で病床に伏すと、衛太子と反目していた江充は「武帝の病は巫蠱によるものだ」として調査を開始。調査は太子宮にまで及び、そこで偶人が発見された。
身の危険を感じた衛太子は長安で挙兵して江充を殺害したが、武帝はこれを謀反として討伐し、敗れた衛太子は自害した。
後にこれが冤罪であることが分かると、武帝は江充の一族を皆殺しにし、衛太子が自害した湖県に思子宮(子を思う宮殿)を建設した。
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韓増
生年不詳〜五鳳2年(紀元前56年)没。父は韓説。兄に韓興。
征和2年(紀元前91年)の巫蠱の乱*4に際し、父・韓説は太子に殺害され、兄・韓興は連座して誅殺された。
すると武帝は、
「遊擊将軍(韓説)は国事に死んだのであり、論告して連座させるべき理由がない」
と言い、再び韓興の弟・韓増を龍額侯に封じた。
韓増は若い頃に郎となり、諸曹の侍中光禄大夫を経て、昭帝の代に前将軍となり、大将軍・霍光と共に宣帝策立のことを定めて封邑千戸を加増された。
本始2年(紀元前72年)に5将軍が匈奴を征伐した時、韓増は3万騎を率いて幷州(并州)・雲中郡から出撃し、百余級を斬首して帰還した。
神爵元年(紀元前61年)、張安世に代わって大司馬・車騎将軍となり、尚書の事を総領した(領尚書事)。
韓増の家は代々貴ばれ、幼くして忠臣となり、3代の主君に仕え、朝廷に重んぜられた。
生まれつき寬大柔和をもって自ら守り、上にも下にも温厚な顔つきと謙虚な辞をもって接し、自分の意見を失うことなく身を保ったが、事を興し明らかにするようなことはできなかった。
五鳳2年(紀元前56年)に亡くなり、安侯と諡された。
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第6世代(韓岑・韓宝)
韓岑
生没年不詳。父は韓説の子、韓増の兄だが名前は不詳。
成帝の時代[竟寧元年(紀元前33年)〜綏和2年(紀元前7年)]に断絶した功臣の家が再興され、韓増の兄の子・韓岑が龍額侯に封ぜられた。
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