正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉓、河東郡(平陽郡)賈氏①(賈習・賈逵・賈充・賈混)です。
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系図
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
河東賈氏系図
河東郡(平陽郡)賈氏系図
※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
河東郡が分割されて襄陵県が平陽郡に編入されたため、賈充以降は平陽郡賈氏となる。
賈謐(韓謐)については南陽郡韓氏として扱う。
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この記事では河東郡(平陽郡)賈氏①の人物、
についてまとめています。
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か㉓[河東(平陽)賈氏①]
第0世代(賈習)
賈習
生没年不詳。司隷・河東郡・襄陵県の人。子の諱は不詳。孫に賈逵。
子供の頃からいつも部隊を編成して遊んでいた孫の賈逵を見て、「お前は大きくなれば指揮官となるに違いない」と言い、数万字に及ぶ兵法を直接伝授した。
第1世代(賈逵)
賈逵・梁道
熹平3年(174年)〜魏の太和2年(228年)没。司隷・河東郡・襄陵県の人。元の諱は衢。父の諱は不詳。子に賈充、賈混。
曹操配下
絳邑県長
賈逵の家は代々名家であったが、若い頃に親をなくしたので、家は貧しく、冬には常に袴もなかった。妻の兄の柳孚を訪れて泊まったが、その翌朝、我慢できずに柳孚の袴をつけて帰った。そのため当時の人は彼を頑健だと噂し合った。
初め郡の役人となり、河東郡の絳邑県長を代行した。
建安7年(202年)、袁尚が勝手に任命した河東太守・郭援が河東郡を攻撃した時、その通り道に当たる城や邑はすべて降伏したが、絳邑県長代行の賈逵だけは降伏せずに城を固守した。これに郭援は、匈奴の単于を呼んで両軍を合わせて激しく攻撃する。
以前、賈逵が皮氏県を通り過ぎた時、「領地を奪う場合、先にこの地を占拠した者が勝つ」と言ったことがあったが、城が陥落寸前となると、賈逵は間道伝いに人を遣って郡に印綬を送り「急いで皮氏県を占拠せよ」と伝えた。郡(河東郡)は、この賈逵の言葉に従ったお陰で、敗北を免れることになる。
その後絳邑県の長老たちは郭援に「賈逵を殺害しない」という約束を取りつけて降伏。賈逵の名声を聞いた郭援は彼を将軍にしたいと思い、武器を突きつけて脅迫するが、賈逵は一切動じなかった。
郭援の側近の者が賈逵を引っ張って叩頭させると、賈逵は「国家の長吏で賊に叩頭する者がどこにあるかっ!王府君(河東太守・王邑)が郡を治められて何年も経っているのだ。お前は一体何をしようというのかっ!」と彼らを怒鳴りつけたので、郭援は腹を立てて彼を斬ろうとした。
すると絳邑県の官吏・住民は、みな壁の上に登って「約束に背いて我が賢君を殺すならば、いっそ一緒に死ぬだけだっ!」と叫ぶのを見た側近の者たちが彼の助命嘆願をしたので、郭援も思い止まった。その後郭援は、司隷校尉・鍾繇の要請を受けて出兵した馬超麾下の龐悳(龐徳)に斬られた。
澠池県令
後に茂才に推挙され、司隷・弘農郡の澠池県令に任命された。
建安10年(205年)、幷州刺史・高幹が反乱を起こすと、張琰が挙兵して彼に呼応しようとした。それと知らず張琰と会っていた賈逵は、捕らえられるのを恐れ、賛同している振りをして張琰のために策を立ててやったので、張琰は彼を信用した。
当時、澠池県は蠡城に行政府を置いていたが、城壁も壕も固くなかったので、賈逵は張琰に城壁を修理するための兵を求め、城を修繕して張琰に抵抗した。反乱に与する連中はみなその計画を隠さなかったので、賈逵は全員処刑することができた。
張琰が敗北すると、賈逵は祖父を失ったことを理由に官を去り、後に司徒に辟召かれて掾(属官)となり、議郎の役にあって司隷の軍事に参加した。
弘農太守
建安16年(211年)、曹操が馬超を征伐した時、曹操は賈逵に西方への街道の要所である弘農郡の太守を代行させた。賈逵と会見し事態を相談した曹操は、たいそう彼を気に入り、側近に向かって「天下の二千石(太守)がみな賈逵のようであったなら、何を憂うことがあろうか?」と言った。
その後、兵を徴発した時、賈逵は屯田都尉が逃亡民を匿っているのではないかと疑念を抱いたが、屯田都尉は太守に属さないため、不遜な言葉を吐いた。これに怒った賈逵は、彼を逮捕すると、罪があると責めたてて脚を叩き折った。これにより免職となったが、曹操は心中「賈逵を善し」とし、丞相主簿に取り立てた。
諫議大夫
建安23年(218年)、曹操が劉備を征討した時、先に賈逵を斜谷まで遣って形勢を観察させた。その道中、水衡都尉が囚人数十人を護送しているところに出会ったが、賈逵は軍事情勢の厳しい時だからと、重罪人1人を別にしてその他の者全員を釈放した。
曹操はそれを「善し」とし、賈逵を諫議大夫に任命して夏侯尚と共に軍事上の計略を取り仕切らせた。
建安25年(220年)、曹操が洛陽(雒陽)で亡くなった。官僚たちは天下に変事が起こることを心配して、喪を発表しないように願ったが、賈逵は建言して「秘密にすべきでない」と主張した。そこで死去の旨を発表し、内外の人にみな参内して告別させ、告別が済むと「各人平静にして動き回ってはならぬ」と命じた。
ところが、青州軍(青州兵)は勝手に太鼓を鳴らして引き揚げていった。人々はそれを禁止し、従わなければ彼らを討伐すべきだと考えた。
賈逵は「現在、魏王の遺体は柩にあり、後継の王はまだ立てられていない。この機会に彼らを労るのがよろしい」と言い、長文の布令文を作って「通り道のどこでも官米を支給するように」と布告した。
またこの時、鄢陵侯の曹彰は越騎将軍の事務取り扱いであったが、長安から駆けつけ、賈逵に先王(曹操)の璽綬の在処を尋ねた。すると賈逵は色を正して「太子(曹丕)さまは鄴県に御座し、国には世継ぎの君がございます。先王(曹操)さまの璽綬は、君侯(曹彰)の質問すべきことではありません」と言い、柩を奉じて鄴県に帰った。
文帝(曹丕)臣下
鄴県令・魏郡太守・丞相主簿祭酒
冀州・魏郡・鄴県の民家・数万戸は、首都圏にありながら不法行為を働く者が多かったため、曹丕は王位につくと賈逵を鄴県令とし、一月余りして魏郡太守に昇進させた。
大軍が征討に出ると、またも丞相主簿祭酒に任命された。
賈逵は以前、他人に連座して罪を受けたことがあったが、魏王(曹丕)は「(春秋時代の)叔向は、その功績によって10代後の子孫まで罪を赦されるとされたものだ。まして賈逵の功業・徳行は自分自身のものなのだから」と言った。
魏王(曹丕)につき従って黎陽県の津まで来ると、渡る者が列を乱した。賈逵が彼らを斬り捨てたので、やっと列を整えた。
豫州(予州)・沛国・譙県に至ると、賈逵は豫州刺史に任命された。
豫州刺史
この当時、天下は回復したばかりで、州郡では行政が行き渡らないことが多かったので、賈逵は意見を述べた。
「州は本来、(秦代には)御史が巡行して諸郡を監督したもので、(前漢武帝期には)六条詔書*1によって、郡の高官や二千石以下の官吏を取り締まりました。したがってその特徴を述べる場合にはすべて厳格・有能・勇武にして監督の才があると申し、平静・寛大・仁愛にして柔和な徳があるとは申しません。現在、高官は法律を蔑ろにし、盗賊が公然と横行しておりますが、州では承知していながら糾明いたしません。天下は一体、どうやって正しさを取り戻すのですか」
また、兵曹従事が前の刺史から休暇を取っていて、賈逵が着任してから数ヶ月してやっと帰って来た。そこで賈逵は、州の二千石以下の官吏のうち、へつらい追従して法律に合わない者をことごとく調べ挙げ、免職するように上申した。
文帝(曹丕)は「賈逵は真の刺史だ」と言い、天下に布告して豫州(予州)のやり方を見習わせ、賈逵に関内侯の爵位を賜った。
当時、豫州(予州)の南は呉と境を接していた。賈逵ははっきりと敵情視察をさせ、武器を修理し、守備を固めたので、賊(呉)は思い切って侵犯して来なかった。
賈逵は、外は軍隊を整え、内は民政につとめ、鄢水・汝水を遮って新しい堤を作った。また、山を断ち切り長い谷川の水を貯めて小弋陽陂を作り、さらに2百余里にわたって運河を通した。賈侯渠と呼ばれるものである。
黄初年間(220年〜226年)、他の将軍たちと共に呉を征討し、洞浦において呂範を破り、陽里亭侯に昇進し、建威将軍を加えられた。
明帝(曹叡)臣下
豫州刺史
明帝(曹叡)が即位すると2百戸を加増され、合わせて4百戸となった。
当時、孫権は豫州(予州)の南、長江から4百里(約172km)離れた東関におり、侵攻して来る場合はいつも、西は荊州・江夏郡から、東は揚州・廬江郡からであり、国家(魏)が征伐する場合にも、淮水・沔水を通った。
この当時、豫州(予州)の軍は汝南郡・項県におり、汝南郡、弋陽郡の諸郡は国境を守備しているだけだったので、孫権は北方に懸念がなく、東方と西方に危急な状態がある時は、軍を合わせて救援し合った。故に敗北することが少なかったのである。
賈逵は「もし長江までの直通の道を開設すれば、孫権が自分で守れば東西両方面に救援を送れなくなり、東関を取ることができる」と主張した。そこで、駐屯地を潦口に移して東関を攻め取る計画を上申すると、明帝(曹叡)はそれを「善し」とした。
呉の将軍・張嬰と王崇が軍勢を引き連れて降伏した。
太和2年(228年)、明帝(曹叡)は賈逵に前将軍・満寵と東莞太守・胡質ら四軍を監督させ、豫州(予州)・弋陽郡・西陽県から真っ直ぐに東関に向かわせ、曹休には揚州・廬江郡・晥県から、司馬懿には荊州・南郡・江陵県から進ませた。
賈逵が五将山まで来た時、曹休が「賊(呉)の中に降伏を願う者がある」と上奏し、敵地深く進入してそれに呼応することを求め、その結果、「司馬懿は軍を駐め、賈逵は東方に向かい曹休と合流して進むように」との詔勅が下った。
ところが賈逵は「賊(呉)は東関の守備を置かず、必ず晥県に軍を集結させる筈だ。曹休が奥深く侵入すれば、必ず敗北する」と判断し、諸将に部署を割り当て、水陸両面から同時に進軍した。2百里(約860m)ほど行軍したところで、生け捕りにした呉の兵が「曹休が戦闘に敗れ、孫権は兵を派遣して夾石を遮った」と語った。
諸将の中にはどうして良いか分からず「後援の軍を待ちたい」と望む者もいたが、賈逵は、
「曹休の兵が外に敗れ、都への道は絶たれている。進んでも戦うことができず、退いても帰ることができない。安危の切っ掛けは1日が終わらぬうちに訪れる。賊(呉)は継続の軍がないのを見て取ったからここまで来たのだ。今、急いで進軍し、奴らの不意を突こう。これこそ『人の先手を打つことによってその心を奪う』というものだ。賊(呉)は我が兵を見て必ず逃走する。もし後援の軍を待てば、賊(呉)はすでに難所を遮っているのだから、兵数が多くても何の役にも立たない」
と言い、通常の倍の速度で軍を進め、旗指物と陣太鼓をたくさん設けて見せかけの兵としたので、これを見た呉軍は退却した。賈逵は夾石を占拠し、兵と食糧を曹休に提供したので、曹休の軍はやっと勢いを盛り返した。
これより以前、賈逵と曹休は仲が悪かったが、賈逵がいなければ曹休の軍は助からなかったと言える。
たまたま病気にかかって危篤となり、側近に対して言った。
「国の厚きご恩を受けながら、孫権を斬って、地下で先帝にお目通りできないのが残念じゃ。葬式のために新しく作ったり修したりすることは一切ならぬ」
享年55歳。肅侯(粛侯)と諡された。
脚注
*1武帝が示した「刺史(秦代の御史)が取り締まるべき6ヶ条」の条項。
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第2世代(賈充・賈混)
賈充・公閭
建安22年(217年)〜西晋の太康3年(282年)没。司隷・平陽郡・襄陵県の人。父は賈逵。弟に賈混。子に賈荃(賈褒)、賈濬(賈裕)、賈黎民、賈南風、賈午。前妻に李氏、後妻に郭槐。
魏
賈充は晩年になってできた子であったため、早くに父を失って喪に服し、孝行で評判となった。
父の爵位を継いで侯となり、尚書郎、黄門侍郎、郡の典農中郎将を歴任した。
大将軍の軍事に参画し、司馬師に従って楽嘉に毌丘倹(毋丘倹)と文欽を討伐した。司馬師は許昌に還ると賈充を監諸軍事に留め、その功労により封邑350戸を加増した。
後に大将軍・司馬昭の司馬となり、右長史に転じた。司馬昭が朝廷で権力を握ると、司馬昭は方鎮(地方の有力者)の反発を恐れ、諸葛誕の元に賈充を遣わして呉討伐について図ると共に、秘かに変わったところがないか観察させた。
賈充は帰還すると「諸葛誕に叛意あり」と報告し「今、彼を中央に召し寄せれば、準備が不充分なまま反乱を起こすでしょう。放っておけば禍が大きくなります」と言った。そこで司馬昭が諸葛誕を司空に任命すると、果たして諸葛誕は反乱を起こした。賈充は諸葛誕征伐に従軍し、計略を進言して反乱の鎮圧に貢献する。司馬昭は賈充に後事を任せて洛陽に帰った。
賈充は宣陽郷侯に爵位を進め、封邑千戸を加増された。後に廷尉に遷り、中護軍に転じた。
魏の甘露5年(260年)、実権を取り戻そうと高貴郷公(曹髦)が挙兵すると、賈充は軍勢を率い、司馬昭方として南闕で戦った。
この時、騎督・成倅の弟で太子舍人の成済が「今日のこの事態(天子と戦う事態)、どうすれば良いのですか?」と言うと、賈充は「公らがお前を養っていたのは、正に今日のため。何を戸惑っているのだっ!」と言い、成済は戈をもって高貴郷公(曹髦)を殺した。
常道郷公(曹奐)が即位すると、賈充は爵位を進めて安陽郷侯に封ぜられ、封邑千1,200戸を加増されて、城外の諸軍を統率し、散騎常侍を加えられた。
鍾会が蜀で謀反すると、司馬昭は賈充に仮節を与え、都督関中・隴右諸軍事として西の漢中に向かわせたが、到着する前に鍾会が死んだ。
当時、国は多難であったが、朝廷の機密はすべて賈充が関与した。司馬昭は賈充をとても信頼して重用し、裴秀、王沈、羊祜、荀勖と共に腹心とし、賈充に法律の制定を命じた。
司馬昭は賈充に金章を与え、甲第一区を賜った。五等爵が建てられると、臨沂侯に封じ、晋王朝の元勲として特別に寵愛され、俸禄と賞賜は常に群官より優れていた。
晋
これより先、司馬昭は司馬師が王業を大いに助けたことから、王位を司馬師の子・舞陽侯(司馬攸)に継承させようとした。すると賈充は、司馬昭の子・司馬炎が寛大で慈悲深いことを称賛し、また司馬攸より年長でもあり「人君の徳」を備えていることから、司馬炎に社稷を継がせるように進言した。
司馬昭が病気になった時、司馬炎が後事を問うと、司馬昭は「お前を知る者は賈公閭(賈充)である」と言った。
司馬炎が晋王を継ぐと、賈充は晋国の衛将軍・儀同三司・給事中に任命され、臨潁侯に改封された。禅譲を受けて武帝(司馬炎)が即位すると、賈充は車騎将軍・散騎常侍・尚書僕射に転任し、改めて魯郡公に封ぜられ、賈充の母の柳氏は魯国太夫人とされた。
賈充が定めた法律が天下に公布され、民衆はみなそれを喜んだ。詔がくだされ、この功績により、賈充の子弟1人が関内侯に封ぜられて絹5百匹を賜った。賈充は固辞したが許されなかった。
後に裴秀に代わって尚書令となり、常侍と車騎将軍はこれまで通りとされた。その後、常侍を改めて侍中となり、絹7百匹を賜ったが、母の喪に服すために職を去ると、詔により黄門侍郎が慰問に遣わされた。
賈充は農業に務め、無駄な官職を省くなどして武帝(司馬炎)に高く評価されたが、文官の領する兵の廃止や、自身が辺境に出鎮することは許されなかった。
賈充は人材を推薦することを好んだので、多くの士が彼に帰服したが、賈充は品行方正な節操がなく、身を正して部下を率いることができなかったので、専ら媚び諂う者が多かった。
剛直に正しさを守る侍中の任愷、中書令の庾純らは賈充を嫌い、また賈充の娘が斉王(司馬攸)の妃となったので、後年益々盛んになることを恐れた。
氐族や羌族が反乱を起こすと、これを深く憂慮した武帝(司馬炎)は、任愷の進言を受け容れて「賈充を使持節・都督秦涼二州諸軍事に任命し、侍中・車騎将軍はこれまで通りとして、関中に出鎮するように」との詔を下した。
地方に出ることになった賈充は、任愷に深く銜むところがあったが、どうすることもできなかった。百官が夕陽亭で餞を贈った時、賈充が荀勖に憂いを告げると、荀勖は「(賈充の娘が)太子と結婚すれば、中央に留まることができます」と言い、その役目を引き受けた。
荀勖は宴席で太子の婚姻のことを論じ、「賈充の娘は才色兼備(才質令淑)ですので、太子妃とされるのがよろしい」と言った。すると楊皇后と荀顗も彼女を称えたので、武帝(司馬炎)はこの提案を受け入れた。
この時賈充は、京師(洛陽)で大雪が降ったため出発できずにいたが、太子が賈充の娘と結婚したため、結局西(関中)に行かずに済み、詔により元の職に留め置かれた。
また武帝(司馬炎)が「羊祜が秘かに『賈充を中央に留めるように』と啓していたこと」を語ると、賈充は羊祜に感謝して「初めて君が長者(徳の優れている人)であることを知った」と言った。
この時、呉の将・孫秀が投降し、驃騎大将軍に任命された。武帝(司馬炎)は賈充が旧臣であることから、(賈充の)車騎将軍を(孫秀の)驃騎将軍の右(上位)に改めようとしたが、賈充は固辞し、認められた。
その後賈充は司空に遷り、侍中・尚書令と領兵はこれまで通りとされた。
武帝(司馬炎)が病に臥すと、賈充と斉王(司馬攸)、荀勖は医薬品を献上し、病が癒えると、絹を5百匹ずつ賜った。
これより先、武帝(司馬炎)の病が重くなった時、朝廷は司馬攸に心を寄せ、河南尹の夏侯和(夏侯和)が賈充に「(太子と斉王はどちらも)卿の2人の娘の婿であり、(卿にとって)の関係の深さは等しいのだから、徳をもって人を立てるべきだ」と言ったが、賈充は答えなかった。
後にこのことを聞いた武帝(司馬炎)は、夏侯和(夏侯和)を光禄勲に移し、賈充の兵権を奪ったが、位や待遇は変えなかった。その後賈充は太尉・行太子太保・録尚書事に転任した。
西晋の咸寧3年(277年)、日食があり、賈充は位を退くことを願い出たが許されなかった。更に豫州(予州)・沛国・公丘県を封邑に追加され、過分な寵愛が愈甚くなり、朝臣たちはこれを横目に見て嘆いていた。
西晋の咸寧6年(280年)の呉征伐において、賈充は詔により使持節・仮黄鉞・大都督に任命され、六師(天子の率いる軍:六軍)を総統し、羽葆・鼓吹・緹幢(赤い絹で作られた旗)に兵1万人と騎兵2千を給わり、左右長史・司馬・従事中郎が置かれ、参軍・騎司馬を各10人、帳下司馬を20人、大車・官騎を30人ずつを増員された。
賈充は大功を果たせぬことを憂慮し「辞退の意」を上表したが、武帝(司馬炎)は詔して「君が行かぬのなら、吾が自ら出陣しよう」と言うので、賈充は仕方なく節鉞を受け、冠軍将軍の楊済を副官として南の襄陽県に駐屯した。
すると江陵県周辺の呉の守将たちはみな降伏。そこで賈充は項県に移って駐屯した。
成都を出発した王濬の船団が荊州・江夏郡・武昌県を降伏させると、賈充は使者を派遣して「呉を完全に平定することができぬまま季節は夏となり、湿地帯の江水や淮水では必ず疫病が起こります。諸軍を召し返して期を改めるべきです。(もしこのまま戦を続けるならば、呉平定の策を立てた)張華を腰斬の刑に処しても、天下に謝罪するには足りません」と上表し、また中書監の荀勖が「よろしく賈充の上表のようにするべきです」と上奏したが、武帝(司馬炎)は従わなかった。
杜預は賈充が上奏したことを聞くと、急いで「呉の平定は間近です」と上表したが、ちょうどその使者が轘轅関に至った頃に孫晧(孫皓)が降伏し、呉が平定されると軍は解散された。
武帝(司馬炎)は侍中の程咸を派遣して労をねぎらい、賈充に帛8千匹を賜り、封邑8千戸を加増したが、元々賈充は「呉征伐を諫言していた」ことから大いに恥じ懼れ、処罰されることを請うた。
武帝(司馬炎)は賈充が闕(宮殿の門)に向かっていることを聞くと、前もって東堂に行幸して彼を待ち、賈充の節鉞と僚佐(補佐の任に当たる役人)を取り上げたが、鼓吹と麾幢(儀仗)はそのままとした。
賈充は群臣と共に「告成の礼(天下統一の達成を報告する儀礼)」の準備を請うたが、武帝(司馬炎)は謙譲して許さなかった。
病気が重くなると、賈充は印綬を返上して官職を退いた。武帝(司馬炎)は侍臣(近侍)を遣わして病状を聞き、殿中の太医に湯薬を届けさせ、寝台と銭・帛を賜り、皇太子から宗室までが自ら賈充を見舞わせた*1。
西晋の太康3年(282年)4月、賈充は66歳で亡くなった。武帝(司馬炎)は彼のために慟哭し、使持節と太常を遣わして太宰を追贈し、袞冕の服*2・緑綟綬・御剣を加え、東園の秘器・朝服1具・衣1襲を賜った。大鴻臚が喪事を護り、節鉞を授け、(その行列は)前後に羽葆・鼓吹・緹幢(赤い絹で作られた旗)を備え、大路・鑾路(車駕)・轀輬車(霊柩車)・帳下司馬の大車、椎斧文衣武賁・軽車介士(戦車に乗った鎧武者)が参加した。
葬礼は霍光や安平献王(司馬孚)の故事に依拠し、塋田(墓地)1頃(約35,138㎡)を給わり、また、石苞らと共に王業への功績があるとして廟庭に配饗され、武と諡された。
豆知識
賈充が亡くなると、武帝(司馬炎)は礼官に命じて賈充の諡を議論させた。この時、博士の秦秀は「荒」と諡することを提案したが、武帝(司馬炎)は納れなかった。その後、博士の段暢が迎合して「武」と諡することを提案すると、武帝(司馬炎)はこれに従った。
賈充が亡くなってから埋葬されるまで、2千万銭が賻贈(葬送を助ける贈り物)された。
恵帝(司馬衷)が即位すると、賈后(賈南風)が権力を欲しいままにし、賈充の廟に諸侯に許された「六佾の楽」を備え、母の郭槐を宜城君とした。郭槐が亡くなると宣と諡し、殊礼(特別の待遇)を加えた。当時の人はこれを譏ったが、口が裂けても言えなかった。
脚注
*1訳に自信がありません。(原文:自皇太子宗室躬省起居)
*2袞衣(天子の礼服)と冕冠(天子の礼冠)。
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賈混・宮奇
生没年不詳。司隷・平陽郡・襄陵県の人。父は賈逵。兄に賈充。
人情に厚く誠実ではあったが、保身的で特別な才能はなかった。
西晋の太康元年(280年)に呉が平定されると、陽里亭侯であった賈混は封邑を加増された。
西晋の太康年間(280年〜289年)に宗正卿となり、鎮軍将軍、城門校尉を歴任し、侍中を加えられ、永平侯に封ぜられた。
死後、中軍大将軍・儀同三司が追贈された。
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