正史(せいし)『三国志(さんごくし)』、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉓、河東郡(かとうぐん)(平陽郡(へいようぐん))賈氏(かし)①(賈習(かしゅう)・賈逵(かき)・賈充(かじゅう)・賈混(かこん))です。

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系図

凡例

後漢(ごかん)〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史(せいし)『三国志(さんごくし)』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

河東賈氏系図

河東郡(平陽郡)賈氏系図

河東郡(かとうぐん)(平陽郡(へいようぐん))賈氏(かし)系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
河東郡(かとうぐん)が分割されて襄陵県(じょうりょうけん)が平陽郡(へいようぐん)に編入されたため、賈充(かじゅう)以降は平陽郡(へいようぐん)賈氏(かし)となる。
賈謐(かひつ)(韓謐(かんひつ))については南陽郡(なんようぐん)韓氏(かんし)として扱う。

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この記事では河東郡(かとうぐん)(平陽郡(へいようぐん))賈氏(かし)①の人物、

についてまとめています。

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か㉓[河東(平陽)賈氏①]

第0世代(賈習)

賈習(かしゅう)

生没年不詳。司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。子の諱(いみな)は不詳。孫に賈逵(かき)。

子供の頃からいつも部隊を編成して遊んでいた孫の賈逵(かき)を見て、「お前は大きくなれば指揮官となるに違いない」と言い、数万字に及ぶ兵法を直接伝授した。


第1世代(賈逵)

賈逵(かき)・梁道(りょうどう)

熹平(きへい)3年(174年)〜魏(ぎ)の太和(たいわ)2年(228年)没。司隷(しれい)・河東郡(かとうぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。元の諱(いみな)は衢(く)。父の諱(いみな)は不詳。子に賈充(かじゅう)、賈混(かこん)。

曹操配下
絳邑県長(こうゆうけんちょう)

賈逵(かき)の家は代々名家であったが、若い頃に親をなくしたので、家は貧(まず)しく、冬には常に袴(はかま)もなかった。妻の兄の柳孚(りゅうふ)を訪(おとず)れて泊(と)まったが、その翌朝、我慢できずに柳孚(りゅうふ)の袴(はかま)をつけて帰った。そのため当時の人は彼を頑健だと噂(うわさ)し合った。

初め郡の役人となり、河東郡(かとうぐん)の絳邑県長(こうゆうけんちょう)を代行した。

建安(けんあん)7年(202年)、袁尚(えんしょう)が勝手に任命した河東太守(かとうたいしゅ)・郭援(かくえん)が河東郡(かとうぐん)を攻撃した時、その通り道に当たる城や邑(まち)はすべて降伏したが、絳邑県長(こうゆうけんちょう)代行の賈逵(かき)だけは降伏せずに城を固守した。これに郭援(かくえん)は、匈奴(きょうど)の単于(ぜんう)を呼んで両軍を合わせて激しく攻撃する。

以前、賈逵(かき)が皮氏県(ひしけん)を通り過ぎた時、「領地を奪う場合、先にこの地を占拠した者が勝つ」と言ったことがあったが、城が陥落(かんらく)寸前となると、賈逵(かき)は間道伝(づた)いに人を遣(や)って郡に印綬(いんじゅ)を送り「急いで皮氏県(ひしけん)を占拠せよ」と伝えた。郡(河東郡(かとうぐん))は、この賈逵(かき)の言葉に従ったお陰で、敗北を免(まぬか)れることになる。

その後絳邑県(こうゆうけん)の長老たちは郭援(かくえん)に「賈逵(かき)を殺害しない」という約束を取りつけて降伏。賈逵(かき)の名声を聞いた郭援(かくえん)は彼を将軍(しょうぐん)にしたいと思い、武器を突きつけて脅迫するが、賈逵(かき)は一切動じなかった。

郭援(かくえん)の側近の者が賈逵(かき)を引っ張って叩頭(こうとう)させると、賈逵(かき)は「国家の長吏(ちょうり)で賊(ぞく)に叩頭(こうとう)する者がどこにあるかっ!王(おう)府君(ふくん)(河東太守(かとうたいしゅ)・王邑(おうゆう))が郡を治められて何年も経(た)っているのだ。お前は一体何をしようというのかっ!」と彼らを怒鳴りつけたので、郭援(かくえん)は腹を立てて彼を斬ろうとした。

すると絳邑県(こうゆうけん)の官吏・住民は、みな壁の上に登って「約束に背(そむ)いて我が賢君(との)を殺すならば、いっそ一緒に死ぬだけだっ!」と叫ぶのを見た側近の者たちが彼の助命(じょめい)嘆願(たんがん)をしたので、郭援(かくえん)も思い止(とど)まった。その後郭援(かくえん)は、司隷校尉(しれいこうい)・鍾繇(しょうよう)の要請を受けて出兵した馬超(ばちょう)麾下(きか)の龐悳(ほうとく)(龐徳(ほうとく))に斬られた。

澠池県令(べんちけんれい)

後に茂才(もさい)に推挙され、司隷(しれい)・弘農郡(こうのうぐん)の澠池県令(べんちけんれい)に任命された。

建安(けんあん)10年(205年)、幷州刺史(へいしゅうしし)・高幹(こうかん)が反乱を起こすと、張琰(ちょうえん)が挙兵して彼に呼応しようとした。それと知らず張琰(ちょうえん)と会っていた賈逵(かき)は、捕らえられるのを恐れ、賛同している振りをして張琰(ちょうえん)のために策を立ててやったので、張琰(ちょうえん)は彼を信用した。

当時、澠池県(べんちけん)は蠡城(れいじょう)に行政府を置いていたが、城壁も壕(ほり)も固くなかったので、賈逵(かき)は張琰(ちょうえん)に城壁を修理するための兵を求め、城を修繕して張琰(ちょうえん)に抵抗した。反乱に与(くみ)する連中はみなその計画を隠さなかったので、賈逵(かき)は全員処刑することができた。

張琰(ちょうえん)が敗北すると、賈逵(かき)は祖父を失ったことを理由に官を去り、後に司徒(しと)に辟召(まね)かれて掾(えん)(属官)となり、議郎(ぎろう)の役にあって司隷(しれい)の軍事に参加した。

弘農太守(こうのうたいしゅ)

建安(けんあん)16年(211年)、曹操(そうそう)が馬超(ばちょう)を征伐した時、曹操(そうそう)は賈逵(かき)に西方への街道の要所である弘農郡(こうのうぐん)の太守(たいしゅ)を代行させた。賈逵(かき)と会見し事態を相談した曹操(そうそう)は、たいそう彼を気に入り、側近に向かって「天下の二千石(にせんせき)(太守(たいしゅ))がみな賈逵(かき)のようであったなら、何を憂(うれ)うことがあろうか?」と言った。

その後、兵を徴発した時、賈逵(かき)は屯田都尉(とんでんとい)が逃亡民を匿(かくま)っているのではないかと疑念を抱いたが、屯田都尉(とんでんとい)は太守(たいしゅ)に属さないため、不遜(ふそん)な言葉を吐(は)いた。これに怒った賈逵(かき)は、彼を逮捕すると、罪があると責めたてて脚を叩(たた)き折った。これにより免職となったが、曹操(そうそう)は心中「賈逵(かき)を善(よ)し」とし、丞相(じょうしょう)主簿(しゅぼ)に取り立てた。

諫議大夫(かんぎたいふ)

建安(けんあん)23年(218年)、曹操(そうそう)が劉備(りゅうび)を征討した時、先に賈逵(かき)を斜谷(やこく)まで遣(や)って形勢を観察させた。その道中、水衡都尉(すいこうとい)が囚人数十人を護送しているところに出会ったが、賈逵(かき)は軍事情勢の厳しい時だからと、重罪人1人を別にしてその他の者全員を釈放した。

曹操(そうそう)はそれを「善(よ)し」とし、賈逵(かき)を諫議大夫(かんぎたいふ)に任命して夏侯尚(かこうしょう)と共に軍事上の計略を取り仕切らせた。

建安(けんあん)25年(220年)、曹操(そうそう)が洛陽(らくよう)(雒陽(らくよう))で亡くなった。官僚たちは天下に変事が起こることを心配して、喪(も)を発表しないように願ったが、賈逵(かき)は建言して「秘密にすべきでない」と主張した。そこで死去の旨(むね)を発表し、内外の人にみな参内して告別させ、告別が済むと「各人平静にして動き回ってはならぬ」と命じた。

ところが、青州軍(せいしゅうぐん)(青州兵(せいしゅうへい))は勝手に太鼓を鳴らして引き揚(あ)げていった。人々はそれを禁止し、従わなければ彼らを討伐すべきだと考えた。

賈逵(かき)は「現在、魏王(ぎおう)の遺体は柩(ひつぎ)にあり、後継の王(おう)はまだ立てられていない。この機会に彼らを労(いたわ)るのがよろしい」と言い、長文の布令文を作って「通り道のどこでも官米を支給するように」と布告した。

またこの時、鄢陵侯(えんりょうこう)の曹彰(そうしょう)は越騎将軍(えっきしょうぐん)の事務取り扱いであったが、長安(ちょうあん)から駆けつけ、賈逵(かき)に先王(せんおう)(曹操(そうそう))の璽綬(じじゅ)の在処(ありか)を尋(たず)ねた。すると賈逵(かき)は色を正して「太子(たいし)(曹丕(そうひ))さまは鄴県(ぎょうけん)に御(お)座(わ)し、国には世継ぎの君がございます。先王(せんおう)(曹操(そうそう))さまの璽綬(じじゅ)は、君侯(との)(曹彰(そうしょう))の質問すべきことではありません」と言い、柩(ひつぎ)を奉じて鄴県(ぎょうけん)に帰った。

文帝(曹丕)臣下
鄴県令(ぎょうけんれい)・魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)・丞相(じょうしょう)主簿(しゅぼ)祭酒(さいしゅ)

冀州(きしゅう)・魏郡(ぎぐん)・鄴県(ぎょうけん)の民家・数万戸は、首都圏にありながら不法行為を働く者が多かったため、曹丕(そうひ)は王位につくと賈逵(かき)を鄴県令(ぎょうけんれい)とし、一(ひと)月(つき)余りして魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)に昇進させた。

大軍が征討に出ると、またも丞相(じょうしょう)主簿(しゅぼ)祭酒(さいしゅ)に任命された。

賈逵(かき)は以前、他人に連座して罪を受けたことがあったが、魏王(ぎおう)(曹丕(そうひ))は「(春秋(しゅんじゅう)時代の)叔向(しゅくきょう)は、その功績によって10代後の子孫まで罪を赦(ゆる)されるとされたものだ。まして賈逵(かき)の功業・徳行は自分自身のものなのだから」と言った。

魏王(ぎおう)(曹丕(そうひ))につき従って黎陽県(れいようけん)の津(わたし)まで来ると、渡る者が列を乱した。賈逵(かき)が彼らを斬り捨てたので、やっと列を整えた。

豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・譙県(しょうけん)に至ると、賈逵(かき)は豫州刺史(よしゅうしし)に任命された。

豫州刺史(よしゅうしし)

この当時、天下は回復したばかりで、州郡では行政が行き渡らないことが多かったので、賈逵(かき)は意見を述(の)べた。

「州は本来、(秦(しん)代には)御史(ぎょし)が巡行して諸郡を監督したもので、(前漢(ぜんかん)武帝(ぶてい)期には)六条詔書*1によって、郡の高官や二千石(にせんせき)以下の官吏を取り締まりました。したがってその特徴を述(の)べる場合にはすべて厳格・有能・勇武にして監督の才があると申し、平静・寛大・仁愛にして柔和な徳があるとは申しません。現在、高官は法律を蔑(ないがし)ろにし、盗賊が公然と横行しておりますが、州では承知していながら糾明(きゅうめい)いたしません。天下は一体、どうやって正しさを取り戻すのですか」

また、兵曹従事(へいそうじゅうじ)が前の刺史(しし)から休暇を取っていて、賈逵(かき)が着任してから数ヶ月してやっと帰って来た。そこで賈逵(かき)は、州の二千石(にせんせき)以下の官吏のうち、へつらい追従して法律に合わない者をことごとく調べ挙(あ)げ、免職するように上申した。

文帝(ぶんてい)(曹丕(そうひ))は「賈逵(かき)は真(まこと)の刺史(しし)だ」と言い、天下に布告して豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))のやり方を見習わせ、賈逵(かき)に関内侯(かんだいこう)の爵位を賜(たまわ)った。


当時、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))の南は呉(ご)と境を接していた。賈逵(かき)ははっきりと敵情視察をさせ、武器を修理し、守備を固めたので、賊(ぞく)(呉(ご))は思い切って侵犯して来なかった。

賈逵(かき)は、外は軍隊を整え、内は民政につとめ、鄢水(えんすい)・汝水(じょすい)を遮(さえぎ)って新しい堤(つつみ)を作った。また、山を断ち切り長い谷川の水を貯(た)めて小弋陽陂(しょうよくようひ)を作り、さらに2百余里にわたって運河を通した。賈侯渠(かこうきょ)と呼ばれるものである。


黄初(こうしょ)年間(220年〜226年)、他の将軍(しょうぐん)たちと共に呉(ご)を征討し、洞浦(どうほ)において呂範(りょはん)を破り、陽里亭侯(ようりていこう)に昇進し、建威将軍(けんいしょうぐん)を加えられた。

明帝(曹叡)臣下
豫州刺史(よしゅうしし)

明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))が即位すると2百戸を加増され、合わせて4百戸となった。

当時、孫権(そんけん)は豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))の南、長江(ちょうこう)から4百里(約172km)離れた東関(とうかん)におり、侵攻して来る場合はいつも、西は荊州(けいしゅう)・江夏郡(こうかぐん)から、東は揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)からであり、国家(魏(ぎ))が征伐する場合にも、淮水(わいすい)・沔水(べんすい)を通った。

この当時、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))の軍は汝南郡(じょなんぐん)・項県(こうけん)におり、汝南郡(じょなんぐん)、弋陽郡(よくようぐん)の諸郡は国境を守備しているだけだったので、孫権(そんけん)は北方に懸念(けねん)がなく、東方と西方に危急な状態がある時は、軍を合わせて救援し合った。故(ゆえ)に敗北することが少なかったのである。

賈逵(かき)は「もし長江(ちょうこう)までの直通の道を開設すれば、孫権(そんけん)が自分で守れば東西両方面に救援を送れなくなり、東関(とうかん)を取ることができる」と主張した。そこで、駐屯地を潦口(りょうこう)に移して東関(とうかん)を攻め取る計画を上申すると、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))はそれを「善(よ)し」とした。


呉(ご)の将軍(しょうぐん)・張嬰(ちょうえい)と王崇(おうすう)が軍勢を引き連れて降伏した。

太和(たいわ)2年(228年)、明帝(めいてい)(曹叡(そうえい))は賈逵(かき)に前将軍(ぜんしょうぐん)・満寵(まんちょう)と東莞太守(とうかんたいしゅ)・胡質(こしつ)ら四軍を監督させ、豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・弋陽郡(よくようぐん)・西陽県せいようけんから真っ直(す)ぐに東関(とうかん)に向かわせ、曹休(そうきゅう)には揚州(ようしゅう)・廬江郡(ろこうぐん)・晥県(かんけん)から、司馬懿(しばい)には荊州(けいしゅう)・南郡(なんぐん)・江陵県(こうりょうけん)から進ませた。

賈逵(かき)が五将山(ごしょうざん)まで来た時、曹休(そうきゅう)が「賊(ぞく)(呉(ご))の中に降伏を願う者がある」と上奏し、敵地深く進入してそれに呼応することを求め、その結果、「司馬懿(しばい)は軍を駐(と)め、賈逵(かき)は東方に向かい曹休(そうきゅう)と合流して進むように」との詔勅(しょうちょく)が下った。

ところが賈逵(かき)は「賊(ぞく)(呉(ご))は東関(とうかん)の守備を置かず、必ず晥県(かんけん)に軍を集結させる筈(はず)だ。曹休(そうきゅう)が奥深く侵入すれば、必ず敗北する」と判断し、諸将に部署を割り当て、水陸両面から同時に進軍した。2百里(約860m)ほど行軍したところで、生け捕(ど)りにした呉(ご)の兵が「曹休(そうきゅう)が戦闘に敗れ、孫権(そんけん)は兵を派遣して夾石(きょうせき)を遮(さえぎ)った」と語った。

諸将の中にはどうして良いか分からず「後援の軍を待ちたい」と望む者もいたが、賈逵(かき)は、

「曹休(そうきゅう)の兵が外に敗れ、都(みやこ)への道は絶たれている。進んでも戦うことができず、退(ひ)いても帰ることができない。安危(あんき)の切っ掛けは1日が終わらぬうちに訪れる。賊(ぞく)(呉(ご))は継続の軍がないのを見て取ったからここまで来たのだ。今、急いで進軍し、奴らの不意を突こう。これこそ『人の先手を打つことによってその心を奪う』というものだ。賊(ぞく)(呉(ご))は我が兵を見て必ず逃走する。もし後援の軍を待てば、賊(ぞく)(呉(ご))はすでに難所を遮(さえぎ)っているのだから、兵数が多くても何の役にも立たない」

と言い、通常の倍の速度で軍を進め、旗指物と陣太鼓をたくさん設(もう)けて見せかけの兵としたので、これを見た呉(ご)軍は退却した。賈逵(かき)は夾石(きょうせき)を占拠し、兵と食糧を曹休(そうきゅう)に提供したので、曹休(そうきゅう)の軍はやっと勢いを盛り返した。

これより以前、賈逵(かき)と曹休(そうきゅう)は仲が悪かったが、賈逵(かき)がいなければ曹休(そうきゅう)の軍は助からなかったと言える。


たまたま病気にかかって危篤(きとく)となり、側近に対して言った。

「国の厚(あつ)きご恩を受けながら、孫権(そんけん)を斬って、地下で先帝にお目通りできないのが残念じゃ。葬式のために新しく作ったり修(なお)したりすることは一切ならぬ」

享年(きょうねん)55歳。肅侯(しゅくこう)(粛侯(しゅくこう))と諡(おくりな)された。

脚注

*1武帝(ぶてい)が示した「刺史(しし)(秦(しん)代の御史(ぎょし))が取り締まるべき6ヶ条」の条項。


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第2世代(賈充・賈混)

賈充(かじゅう)・公閭(こうりょ)

建安(けんあん)22年(217年)〜西晋(せいしん)の太康(たいこう)3年(282年)没。司隷(しれい)・平陽郡(へいようぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。父は賈逵(かき)。弟に賈混(かこん)。子に賈荃(かせん)(賈褒(かほう))、賈濬(かしゅん)(賈裕(かゆう))、賈黎民(かれいみん)、賈南風(かなんぷう)、賈午(かご)。前妻に李氏(りし)、後妻に郭槐(かくかい)。

魏

賈充(かじゅう)は晩年になってできた子であったため、早くに父を失って喪(も)に服し、孝行で評判となった。

父の爵位を継いで侯(こう)となり、尚書郎(しょうしょろう)、黄門侍郎(こうもんじろう)、郡の典農中郎将(てんのうちゅうろうしょう)を歴任した。

大将軍(だいしょうぐん)の軍事に参画し、司馬師(しばし)に従って楽嘉(がくか)に毌丘倹(かんきゅうけん)(毋丘倹(ぶきゅうけん))と文欽(ぶんきん)を討伐した。司馬師(しばし)は許昌(きょしょう)に還(かえ)ると賈充(かじゅう)を監諸軍事(かんしょぐんじ)に留(とど)め、その功労により封邑(ほうゆう)350戸を加増した。


後に大将軍(だいしょうぐん)・司馬昭(しばしょう)の司馬(しば)となり、右長史(ゆうちょうし)に転じた。司馬昭(しばしょう)が朝廷で権力を握ると、司馬昭(しばしょう)は方鎮(ほうちん)(地方の有力者)の反発を恐れ、諸葛誕(しょかつたん)の元に賈充(かじゅう)を遣(つか)わして呉(ご)討伐について図(はか)ると共に、秘かに変わったところがないか観察させた。

賈充(かじゅう)は帰還すると「諸葛誕(しょかつたん)に叛意(はんい)あり」と報告し「今、彼を中央に召(め)し寄せれば、準備が不充分なまま反乱を起こすでしょう。放っておけば禍(わざわい)が大きくなります」と言った。そこで司馬昭(しばしょう)が諸葛誕(しょかつたん)を司空(しくう)に任命すると、果たして諸葛誕(しょかつたん)は反乱を起こした。賈充(かじゅう)は諸葛誕(しょかつたん)征伐に従軍し、計略を進言して反乱の鎮圧に貢献する。司馬昭(しばしょう)は賈充(かじゅう)に後事を任せて洛陽(らくよう)に帰った。

賈充(かじゅう)は宣陽郷侯(せんようきょうこう)に爵位を進め、封邑(ほうゆう)千戸を加増された。後に廷尉(ていい)に遷(うつ)り、中護軍(ちゅうごぐん)に転じた。


魏(ぎ)の甘露(かんろ)5年(260年)、実権を取り戻そうと高貴郷公(こうききょうこう)(曹髦(そうぼう))が挙兵すると、賈充(かじゅう)は軍勢を率(ひき)い、司馬昭(しばしょう)方として南闕(なんけつ)で戦った。

この時、騎督(きとく)・成倅(せいさい)の弟で太子舍人(たいししゃじん)の成済(せいさい)が「今日のこの事態(天子(てんし)と戦う事態)、どうすれば良いのですか?」と言うと、賈充(かじゅう)は「公らがお前を養っていたのは、正(まさ)に今日のため。何を戸惑(とまど)っているのだっ!」と言い、成済(せいさい)は戈(か)をもって高貴郷公(こうききょうこう)(曹髦(そうぼう))を殺した。


常道郷公(じょうどうきょうこう)(曹奐(そうかん))が即位すると、賈充(かじゅう)は爵位を進めて安陽郷侯(あんようきょうこう)に封ぜられ、封邑(ほうゆう)千1,200戸を加増されて、城外の諸軍を統率し、散騎常侍(さんきじょうじ)を加えられた。

鍾会(しょうかい)が蜀(しょく)で謀反すると、司馬昭(しばしょう)は賈充(かじゅう)に仮節(かせつ)を与え、都督(ととく)関中(かんちゅう)・隴右(ろうゆう)諸軍事(しょぐんじ)として西の漢中(かんちゅう)に向かわせたが、到着する前に鍾会(しょうかい)が死んだ。

当時、国は多難であったが、朝廷の機密はすべて賈充(かじゅう)が関与した。司馬昭(しばしょう)は賈充(かじゅう)をとても信頼して重用し、裴秀(はいしゅう)、王沈(おうしん)、羊祜(ようこ)、荀勖(じゅんきょく)と共に腹心とし、賈充(かじゅう)に法律の制定を命じた。

司馬昭(しばしょう)は賈充(かじゅう)に金章を与え、甲第一区を賜(たまわ)った。五等爵が建てられると、臨沂侯(りんぎこう)に封じ、晋(しん)王朝の元勲として特別に寵愛(ちょうあい)され、俸禄と賞賜(しょうし)は常に群官より優れていた。

晋

これより先、司馬昭(しばしょう)は司馬師(しばし)が王業を大いに助けたことから、王位を司馬師(しばし)の子・舞陽侯(ぶようこう)(司馬攸(しばゆう))に継承させようとした。すると賈充(かじゅう)は、司馬昭(しばしょう)の子・司馬炎(しばえん)が寛大で慈悲深いことを称賛し、また司馬攸(しばゆう)より年長でもあり「人君の徳」を備(そな)えていることから、司馬炎(しばえん)に社稷(しゃしょく)を継がせるように進言した。

司馬昭(しばしょう)が病気になった時、司馬炎(しばえん)が後事を問(と)うと、司馬昭(しばしょう)は「お前を知る者は賈公閭(かこうりょ)(賈充(かじゅう))である」と言った。

司馬炎(しばえん)が晋王(しんおう)を継ぐと、賈充(かじゅう)は晋(しん)国の衛将軍(えいしょうぐん)・儀同三司(ぎどうさんし)・給事中(きゅうじちゅう)に任命され、臨潁侯(りんえいこう)に改封された。禅譲(ぜんじょう)を受けて武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))が即位すると、賈充(かじゅう)は車騎将軍(しゃきしょうぐん)・散騎常侍(さんきじょうじ)・尚書僕射(しょうしょぼくや)に転任し、改めて魯郡公(ろぐんこう)に封ぜられ、賈充(かじゅう)の母の柳氏(りゅうし)は魯国太夫人(ろこくたいふじん)とされた。


賈充(かじゅう)が定めた法律が天下に公布され、民衆はみなそれを喜んだ。詔(みことのり)がくだされ、この功績により、賈充(かじゅう)の子弟1人が関内侯(かんだいこう)に封ぜられて絹5百匹を賜(たまわ)った。賈充(かじゅう)は固辞したが許されなかった。

後に裴秀(はいしゅう)に代わって尚書令(しょうしょれい)となり、常侍(じょうじ)と車騎将軍(しゃきしょうぐん)はこれまで通りとされた。その後、常侍(じょうじ)を改めて侍中(じちゅう)となり、絹7百匹を賜(たまわ)ったが、母の喪(も)に服すために職を去ると、詔(みことのり)により黄門侍郎(こうもんじろう)が慰問(いもん)に遣(つか)わされた。


賈充(かじゅう)は農業に務(つと)め、無駄な官職を省(はぶ)くなどして武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))に高く評価されたが、文官の領する兵の廃止や、自身が辺境に出鎮することは許されなかった。

賈充(かじゅう)は人材を推薦することを好んだので、多くの士が彼に帰服したが、賈充(かじゅう)は品行方正な節操がなく、身を正して部下を率(ひき)いることができなかったので、専ら媚(こ)び諂(へつら)う者が多かった。

剛直に正しさを守る侍中(じちゅう)の任愷(じんがい)、中書令(ちゅうしょれい)の庾純(ゆじゅん)らは賈充(かじゅう)を嫌い、また賈充(かじゅう)の娘が斉王(せいおう)(司馬攸(しばゆう))の妃となったので、後年益々盛んになることを恐れた。


氐族(ていぞく)や羌族(きょうぞく)が反乱を起こすと、これを深く憂慮(ゆうりょ)した武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は、任愷(じんがい)の進言を受け容(い)れて「賈充(かじゅう)を使持節(しじせつ)・都督(ととく)秦涼(しんりょう)二州(にしゅう)諸軍事(しょぐんじ)に任命し、侍中(じちゅう)・車騎将軍(しゃきしょうぐん)はこれまで通りとして、関中(かんちゅう)に出鎮するように」との詔(みことのり)を下した。

地方に出ることになった賈充(かじゅう)は、任愷(じんがい)に深く銜(ふく)むところがあったが、どうすることもできなかった。百官が夕陽亭(せきようてい)で餞(はなむけ)を贈った時、賈充(かじゅう)が荀勖(じゅんきょく)に憂(うれ)いを告げると、荀勖(じゅんきょく)は「(賈充(かじゅう)の娘が)太子(たいし)と結婚すれば、中央に留(とど)まることができます」と言い、その役目を引き受けた。

荀勖(じゅんきょく)は宴席で太子(たいし)の婚姻のことを論じ、「賈充(かじゅう)の娘は才色兼備(才質令淑)ですので、太子妃(たいしひ)とされるのがよろしい」と言った。すると楊皇后(ようこうごう)と荀顗(じゅんぎ)も彼女を称(たた)えたので、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))はこの提案を受け入れた。

この時賈充(かじゅう)は、京師(けいし)(洛陽(らくよう))で大雪が降ったため出発できずにいたが、太子(たいし)が賈充(かじゅう)の娘と結婚したため、結局西(関中(かんちゅう))に行かずに済み、詔(みことのり)により元の職に留(とど)め置かれた。

また武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))が「羊祜(ようこ)が秘かに『賈充(かじゅう)を中央に留(とど)めるように』と啓(さと)していたこと」を語ると、賈充(かじゅう)は羊祜(ようこ)に感謝して「初めて君が長者(徳の優(すぐ)れている人)であることを知った」と言った。


この時、呉(ご)の将・孫秀(そんしゅう)が投降し、驃騎大将軍(ひょうきだいしょうぐん)に任命された。武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は賈充(かじゅう)が旧臣であることから、(賈充(かじゅう)の)車騎将軍(しゃきしょうぐん)を(孫秀(そんしゅう)の)驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の右(上位)に改めようとしたが、賈充(かじゅう)は固辞し、認められた。

その後賈充(かじゅう)は司空(しくう)に遷(うつ)り、侍中(じちゅう)・尚書令(しょうしょれい)と領兵はこれまで通りとされた。


武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))が病(やまい)に臥(ふ)すと、賈充(かじゅう)と斉王(せいおう)(司馬攸(しばゆう))、荀勖(じゅんきょく)は医薬品を献上し、病(やまい)が癒(い)えると、絹を5百匹ずつ賜(たまわ)った。

これより先、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))の病(やまい)が重くなった時、朝廷は司馬攸(しばゆう)に心を寄せ、河南尹(かなんいん)の夏侯和(かこうか)(夏侯和(かこうわ))が賈充(かじゅう)に「(太子(たいし)と斉王(せいおう)はどちらも)卿(あなた)の2人の娘の婿(むこ)であり、(卿(あなた)にとって)の関係の深さは等しいのだから、徳をもって人を立てるべきだ」と言ったが、賈充(かじゅう)は答えなかった。

後にこのことを聞いた武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は、夏侯和(かこうか)(夏侯和(かこうわ))を光禄勲(こうろくくん)に移し、賈充(かじゅう)の兵権を奪ったが、位(くらい)や待遇は変えなかった。その後賈充(かじゅう)は太尉(たいい)・行(こう)太子(たいし)太保(たいほ)・録尚書事(ろくしょうしょじ)に転任した。

西晋(せいしん)の咸寧(かんねい)3年(277年)、日食があり、賈充(かじゅう)は位(くらい)を退(しりぞ)くことを願い出たが許されなかった。更に豫州(よしゅう)(予州(よしゅう))・沛国(はいこく)・公丘県(こうきゅうけん)を封邑(ほうゆう)に追加され、過分な寵愛(ちょうあい)が愈甚(ひど)くなり、朝臣たちはこれを横目に見て嘆(なげ)いていた。


西晋(せいしん)の咸寧(かんねい)6年(280年)の呉(ご)征伐において、賈充(かじゅう)は詔(みことのり)により使持節(しじせつ)・仮黄鉞(かこうえつ)・大都督(だいととく)に任命され、六師(りくし)(天子(てんし)の率(ひき)いる軍:六軍(りくぐん))を総統し、羽葆(はねがさ)・鼓吹(こすい)・緹幢(ていとう)(赤い絹で作られた旗)に兵1万人と騎兵2千を給(たま)わり、左右長史(ちょうし)・司馬(しば)・従事中郎(じゅうじちゅうろう)が置かれ、参軍(さんぐん)・騎司馬(きしば)を各10人、帳下司馬(ちょうかしば)を20人、大車・官騎を30人ずつを増員された。

賈充(かじゅう)は大功を果たせぬことを憂慮(ゆうりょ)し「辞退の意」を上表したが、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は詔(みことのり)して「君が行かぬのなら、吾(わたし)が自(みずか)ら出陣しよう」と言うので、賈充(かじゅう)は仕方なく節鉞(せつえつ)を受け、冠軍将軍(かんぐんしょうぐん)の楊済(ようせい)を副官として南の襄陽県(じょうようけん)に駐屯した。

すると江陵県(こうりょうけん)周辺の呉(ご)の守将たちはみな降伏。そこで賈充(かじゅう)は項県(こうけん)に移って駐屯した。


成都(せいと)を出発した王濬(おうしゅん)の船団が荊州(けいしゅう)・江夏郡(こうかぐん)・武昌県(ぶしょうけん)を降伏させると、賈充(かじゅう)は使者を派遣して「呉(ご)を完全に平定することができぬまま季節は夏となり、湿地帯の江水(こうすい)や淮水(わいすい)では必ず疫病が起こります。諸軍を召(め)し返して期を改めるべきです。(もしこのまま戦(いくさ)を続けるならば、呉(ご)平定の策を立てた)張華(ちょうか)を腰斬の刑に処しても、天下に謝罪するには足りません」と上表し、また中書監(ちゅうしょかん)の荀勖(じゅんきょく)が「よろしく賈充(かじゅう)の上表のようにするべきです」と上奏したが、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は従わなかった。

杜預(とよ)は賈充(かじゅう)が上奏したことを聞くと、急いで「呉(ご)の平定は間近です」と上表したが、ちょうどその使者が轘轅関(かんえんかん)に至った頃に孫晧(そんこう)(孫皓(そんこう))が降伏し、呉(ご)が平定されると軍は解散された。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は侍中(じちゅう)の程咸(ていかん)を派遣して労をねぎらい、賈充(かじゅう)に帛(きぬ)8千匹を賜(たまわ)り、封邑(ほうゆう)8千戸を加増したが、元々賈充(かじゅう)は「呉(ご)征伐を諫言(かんげん)していた」ことから大いに恥じ懼(おそ)れ、処罰されることを請(こ)うた。

武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は賈充(かじゅう)が闕(けつ)(宮殿の門)に向かっていることを聞くと、前もって東堂(とうどう)に行幸(ぎょうこう)して彼を待ち、賈充(かじゅう)の節鉞(せつえつ)と僚佐(りょうさ)(補佐の任に当たる役人)を取り上げたが、鼓吹(こすい)と麾幢(きとう)(儀仗(ぎじょう))はそのままとした。

賈充(かじゅう)は群臣と共に「告成(こくせい)の礼(天下統一の達成を報告する儀礼)」の準備を請(こ)うたが、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は謙譲(けんじょう)して許さなかった。


病気が重くなると、賈充(かじゅう)は印綬(いんじゅ)を返上して官職を退(しりぞ)いた。武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は侍臣(じしん)(近侍(きんじ))を遣(つか)わして病状を聞き、殿中(でんちゅう)の太医(たいい)に湯薬を届けさせ、寝台と銭・帛(きぬ)を賜(たまわ)り、皇太子(こうたいし)から宗室までが自(みずか)ら賈充(かじゅう)を見舞わせた*1。

西晋(せいしん)の太康(たいこう)3年(282年)4月、賈充(かじゅう)は66歳で亡くなった。武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は彼のために慟哭(どうこく)し、使持節(しじせつ)と太常(たいじょう)を遣(つか)わして太宰(たいさい)を追贈し、袞冕(こんべん)の服*2・緑綟綬(りょくれいじゅ)・御剣(ぎょけん)を加え、東園の秘器・朝服1具(ぐ)・衣1襲(しゅう)を賜(たまわ)った。大鴻臚(だいこうろ)が喪事(そうじ)を護(まも)り、節鉞(せつえつ)を授(さず)け、(その行列は)前後に羽葆(はねがさ)・鼓吹(こすい)・緹幢(ていとう)(赤い絹で作られた旗)を備(そな)え、大路・鑾路(らんろ)(車駕)・轀輬車(おんりょうしゃ)(霊柩車(れいきゅうしゃ))・帳下(ちょうか)司馬(しば)の大車、椎斧文衣武賁・軽車(けいしゃ)介士(かいし)(戦車に乗った鎧武者(よろいむしゃ))が参加した。

葬礼は霍光(かくこう)や安平献王(あんぺいけんおう)(司馬孚(しばふ))の故事に依拠し、塋田(えいでん)(墓地)1頃(けい)(約35,138㎡)を給(たま)わり、また、石苞(せきほう)らと共に王業への功績があるとして廟庭(びょうてい)に配饗(はいきょう)され、武(ぶ)と諡(おくりな)された。

豆知識

賈充(かじゅう)が亡くなると、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は礼官(れいかん)に命じて賈充(かじゅう)の諡(おくりな)を議論させた。この時、博士(はくし)の秦秀(しんしゅう)は「荒(こう)」と諡(おくりな)することを提案したが、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))は納(い)れなかった。その後、博士(はくし)の段暢(だんちょう)が迎合(げいごう)して「武(ぶ)」と諡(おくりな)することを提案すると、武帝(ぶてい)(司馬炎(しばえん))はこれに従った。

賈充(かじゅう)が亡くなってから埋葬(まいそう)されるまで、2千万銭が賻贈(ふそう)(葬送を助ける贈り物)された。

恵帝(けいてい)(司馬衷(しばちゅう))が即位すると、賈后(かこう)(賈南風(かなんぷう))が権力を欲しいままにし、賈充(かじゅう)の廟(びょう)に諸侯に許された「六佾(いつ)の楽」を備(そな)え、母の郭槐(かくかい)を宜城君(ぎじょうくん)とした。郭槐(かくかい)が亡くなると宣(せん)と諡(おくりな)し、殊礼(しゅれい)(特別の待遇)を加えた。当時の人はこれを譏(そし)ったが、口が裂けても言えなかった。

脚注

*1訳に自信がありません。(原文:自皇太子宗室躬省起居)

*2袞衣(こんえ)(天子(てんし)の礼服)と冕冠(べんかん)(天子(てんし)の礼冠)。


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賈混(かこん)・宮奇(きゅうき)

生没年不詳。司隷(しれい)・平陽郡(へいようぐん)・襄陵県(じょうりょうけん)の人。父は賈逵(かき)。兄に賈充(かじゅう)。

人情に厚(あつ)く誠実ではあったが、保身的で特別な才能はなかった。

西晋(せいしん)の太康(たいこう)元年(280年)に呉(ご)が平定されると、陽里亭侯(ようりていこう)であった賈混(かこん)は封邑(ほうゆう)を加増された。

西晋(せいしん)の太康(たいこう)年間(280年〜289年)に宗正卿(そうせいきょう)となり、鎮軍将軍(ちんぐんしょうぐん)、城門校尉(じょうもんこうい)を歴任し、侍中(じちゅう)を加えられ、永平侯(えいへいこう)に封ぜられた。

死後、中軍大将軍(ちゅうぐんだいしょうぐん)・儀同三司(ぎどうさんし)が追贈された。



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