正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「か」から始まる人物の一覧㉓、河東郡かとうぐん平陽郡へいようぐん賈氏かし①(賈習かしゅう賈逵かき賈充かじゅう賈混かこん)です。

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系図

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

河東賈氏系図

河東郡(平陽郡)賈氏系図

河東郡かとうぐん平陽郡へいようぐん賈氏かし系図

※親が同一人物の場合、左側が年長。
赤字がこの記事でまとめている人物。
河東郡かとうぐんが分割されて襄陵県じょうりょうけん平陽郡へいようぐんに編入されたため、賈充かじゅう以降は平陽郡へいようぐん賈氏かしとなる。
賈謐かひつ韓謐かんひつ)については南陽郡なんようぐん韓氏かんしとして扱う。


この記事では河東郡かとうぐん平陽郡へいようぐん賈氏かし①の人物、

についてまとめています。

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か㉓[河東(平陽)賈氏①]

第0世代(賈習)

賈習かしゅう

生没年不詳。司隷しれい河東郡かとうぐん襄陵県じょうりょうけんの人。子のいみなは不詳。孫に賈逵かき

子供の頃からいつも部隊を編成して遊んでいた孫の賈逵かきを見て、「お前は大きくなれば指揮官となるに違いない」と言い、数万字に及ぶ兵法を直接伝授した。


第1世代(賈逵)

賈逵かき梁道りょうどう

熹平きへい3年(174年)〜太和たいわ2年(228年)没。司隷しれい河東郡かとうぐん襄陵県じょうりょうけんの人。元のいみな。父のいみなは不詳。子に賈充かじゅう賈混かこん

曹操配下
絳邑県長こうゆうけんちょう

賈逵かきの家は代々名家であったが、若い頃に親をなくしたので、家はまずしく、冬には常にはかまもなかった。妻の兄の柳孚りゅうふおとずれてまったが、その翌朝、我慢できずに柳孚りゅうふはかまをつけて帰った。そのため当時の人は彼を頑健だとうわさし合った。

初め郡の役人となり、河東郡かとうぐん絳邑県長こうゆうけんちょうを代行した。

建安けんあん7年(202年)、袁尚えんしょうが勝手に任命した河東太守かとうたいしゅ郭援かくえん河東郡かとうぐんを攻撃した時、その通り道に当たる城やまちはすべて降伏したが、絳邑県長こうゆうけんちょう代行の賈逵かきだけは降伏せずに城を固守した。これに郭援かくえんは、匈奴きょうど単于ぜんうを呼んで両軍を合わせて激しく攻撃する。

以前、賈逵かき皮氏県ひしけんを通り過ぎた時、「領地を奪う場合、先にこの地を占拠した者が勝つ」と言ったことがあったが、城が陥落かんらく寸前となると、賈逵かきは間道づたいに人をって郡に印綬いんじゅを送り「急いで皮氏県ひしけんを占拠せよ」と伝えた。郡(河東郡かとうぐん)は、この賈逵かきの言葉に従ったお陰で、敗北をまぬかれることになる。

その後絳邑県こうゆうけんの長老たちは郭援かくえんに「賈逵かきを殺害しない」という約束を取りつけて降伏。賈逵かきの名声を聞いた郭援かくえんは彼を将軍しょうぐんにしたいと思い、武器を突きつけて脅迫するが、賈逵かきは一切動じなかった。

郭援かくえんの側近の者が賈逵かきを引っ張って叩頭こうとうさせると、賈逵かきは「国家の長吏ちょうりぞく叩頭こうとうする者がどこにあるかっ!おう府君ふくん河東太守かとうたいしゅ王邑おうゆう)が郡を治められて何年もっているのだ。お前は一体何をしようというのかっ!」と彼らを怒鳴りつけたので、郭援かくえんは腹を立てて彼を斬ろうとした。

すると絳邑県こうゆうけんの官吏・住民は、みな壁の上に登って「約束にそむいて我が賢君とのを殺すならば、いっそ一緒に死ぬだけだっ!」と叫ぶのを見た側近の者たちが彼の助命じょめい嘆願たんがんをしたので、郭援かくえんも思いとどまった。その後郭援かくえんは、司隷校尉しれいこうい鍾繇しょうようの要請を受けて出兵した馬超ばちょう麾下きか龐悳ほうとく龐徳ほうとく)に斬られた。

澠池県令べんちけんれい

後に茂才もさいに推挙され、司隷しれい弘農郡こうのうぐん澠池県令べんちけんれいに任命された。

建安けんあん10年(205年)、幷州刺史へいしゅうしし高幹こうかんが反乱を起こすと、張琰ちょうえんが挙兵して彼に呼応しようとした。それと知らず張琰ちょうえんと会っていた賈逵かきは、捕らえられるのを恐れ、賛同している振りをして張琰ちょうえんのために策を立ててやったので、張琰ちょうえんは彼を信用した。

当時、澠池県べんちけん蠡城れいじょうに行政府を置いていたが、城壁もほりも固くなかったので、賈逵かき張琰ちょうえんに城壁を修理するための兵を求め、城を修繕して張琰ちょうえんに抵抗した。反乱にくみする連中はみなその計画を隠さなかったので、賈逵かきは全員処刑することができた。

張琰ちょうえんが敗北すると、賈逵かきは祖父を失ったことを理由に官を去り、後に司徒しと辟召まねかれてえん(属官)となり、議郎ぎろうの役にあって司隷しれいの軍事に参加した。

弘農太守こうのうたいしゅ

建安けんあん16年(211年)、曹操そうそう馬超ばちょうを征伐した時、曹操そうそう賈逵かきに西方への街道の要所である弘農郡こうのうぐん太守たいしゅを代行させた。賈逵かきと会見し事態を相談した曹操そうそうは、たいそう彼を気に入り、側近に向かって「天下の二千石にせんせき太守たいしゅ)がみな賈逵かきのようであったなら、何をうれうことがあろうか?」と言った。

その後、兵を徴発した時、賈逵かき屯田都尉とんでんといが逃亡民をかくまっているのではないかと疑念を抱いたが、屯田都尉とんでんとい太守たいしゅに属さないため、不遜ふそんな言葉をいた。これに怒った賈逵かきは、彼を逮捕すると、罪があると責めたてて脚をたたき折った。これにより免職となったが、曹操そうそうは心中「賈逵かきし」とし、丞相じょうしょう主簿しゅぼに取り立てた。

諫議大夫かんぎたいふ

建安けんあん23年(218年)、曹操そうそう劉備りゅうびを征討した時、先に賈逵かき斜谷やこくまでって形勢を観察させた。その道中、水衡都尉すいこうといが囚人数十人を護送しているところに出会ったが、賈逵かきは軍事情勢の厳しい時だからと、重罪人1人を別にしてその他の者全員を釈放した。

曹操そうそうはそれを「し」とし、賈逵かき諫議大夫かんぎたいふに任命して夏侯尚かこうしょうと共に軍事上の計略を取り仕切らせた。

建安けんあん25年(220年)、曹操そうそう洛陽らくよう雒陽らくよう)で亡くなった。官僚たちは天下に変事が起こることを心配して、を発表しないように願ったが、賈逵かきは建言して「秘密にすべきでない」と主張した。そこで死去のむねを発表し、内外の人にみな参内して告別させ、告別が済むと「各人平静にして動き回ってはならぬ」と命じた。

ところが、青州軍せいしゅうぐん青州兵せいしゅうへい)は勝手に太鼓を鳴らして引きげていった。人々はそれを禁止し、従わなければ彼らを討伐すべきだと考えた。

賈逵かきは「現在、魏王ぎおうの遺体はひつぎにあり、後継のおうはまだ立てられていない。この機会に彼らをいたわるのがよろしい」と言い、長文の布令文を作って「通り道のどこでも官米を支給するように」と布告した。

またこの時、鄢陵侯えんりょうこう曹彰そうしょう越騎将軍えっきしょうぐんの事務取り扱いであったが、長安ちょうあんから駆けつけ、賈逵かき先王せんおう曹操そうそう)の璽綬じじゅ在処ありかたずねた。すると賈逵かきは色を正して「太子たいし曹丕そうひ)さまは鄴県ぎょうけんし、国には世継ぎの君がございます。先王せんおう曹操そうそう)さまの璽綬じじゅは、君侯との曹彰そうしょう)の質問すべきことではありません」と言い、ひつぎを奉じて鄴県ぎょうけんに帰った。

文帝(曹丕)臣下
鄴県令ぎょうけんれい魏郡太守ぎぐんたいしゅ丞相じょうしょう主簿しゅぼ祭酒さいしゅ

冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんの民家・数万戸は、首都圏にありながら不法行為を働く者が多かったため、曹丕そうひは王位につくと賈逵かき鄴県令ぎょうけんれいとし、ひとつき余りして魏郡太守ぎぐんたいしゅに昇進させた。

大軍が征討に出ると、またも丞相じょうしょう主簿しゅぼ祭酒さいしゅに任命された。

賈逵かきは以前、他人に連座して罪を受けたことがあったが、魏王ぎおう曹丕そうひ)は「(春秋しゅんじゅう時代の)叔向しゅくきょうは、その功績によって10代後の子孫まで罪をゆるされるとされたものだ。まして賈逵かきの功業・徳行は自分自身のものなのだから」と言った。

魏王ぎおう曹丕そうひ)につき従って黎陽県れいようけんわたしまで来ると、渡る者が列を乱した。賈逵かきが彼らを斬り捨てたので、やっと列を整えた。

豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく譙県しょうけんに至ると、賈逵かき豫州刺史よしゅうししに任命された。

豫州刺史よしゅうしし

この当時、天下は回復したばかりで、州郡では行政が行き渡らないことが多かったので、賈逵かきは意見をべた。

「州は本来、(しん代には)御史ぎょしが巡行して諸郡を監督したもので、(前漢ぜんかん武帝ぶてい期には)六条詔書*1によって、郡の高官や二千石にせんせき以下の官吏を取り締まりました。したがってその特徴をべる場合にはすべて厳格・有能・勇武にして監督の才があると申し、平静・寛大・仁愛にして柔和な徳があるとは申しません。現在、高官は法律をないがしろにし、盗賊が公然と横行しておりますが、州では承知していながら糾明きゅうめいいたしません。天下は一体、どうやって正しさを取り戻すのですか」

また、兵曹従事へいそうじゅうじが前の刺史ししから休暇を取っていて、賈逵かきが着任してから数ヶ月してやっと帰って来た。そこで賈逵かきは、州の二千石にせんせき以下の官吏のうち、へつらい追従して法律に合わない者をことごとく調べげ、免職するように上申した。

文帝ぶんてい曹丕そうひ)は「賈逵かきまこと刺史ししだ」と言い、天下に布告して豫州よしゅう予州よしゅう)のやり方を見習わせ、賈逵かき関内侯かんだいこうの爵位をたまわった。


当時、豫州よしゅう予州よしゅう)の南はと境を接していた。賈逵かきははっきりと敵情視察をさせ、武器を修理し、守備を固めたので、ぞく)は思い切って侵犯して来なかった。

賈逵かきは、外は軍隊を整え、内は民政につとめ、鄢水えんすい汝水じょすいさえぎって新しいつつみを作った。また、山を断ち切り長い谷川の水をめて小弋陽陂しょうよくようひを作り、さらに2百余里にわたって運河を通した。賈侯渠かこうきょと呼ばれるものである。


黄初こうしょ年間(220年〜226年)、他の将軍しょうぐんたちと共にを征討し、洞浦どうほにおいて呂範りょはんを破り、陽里亭侯ようりていこうに昇進し、建威将軍けんいしょうぐんを加えられた。

明帝(曹叡)臣下
豫州刺史よしゅうしし

明帝めいてい曹叡そうえい)が即位すると2百戸を加増され、合わせて4百戸となった。

当時、孫権そんけん豫州よしゅう予州よしゅう)の南、長江ちょうこうから4百里(約172km)離れた東関とうかんにおり、侵攻して来る場合はいつも、西は荊州けいしゅう江夏郡こうかぐんから、東は揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐんからであり、国家()が征伐する場合にも、淮水わいすい沔水べんすいを通った。

この当時、豫州よしゅう予州よしゅう)の軍は汝南郡じょなんぐん項県こうけんにおり、汝南郡じょなんぐん弋陽郡よくようぐんの諸郡は国境を守備しているだけだったので、孫権そんけんは北方に懸念けねんがなく、東方と西方に危急な状態がある時は、軍を合わせて救援し合った。ゆえに敗北することが少なかったのである。

賈逵かきは「もし長江ちょうこうまでの直通の道を開設すれば、孫権そんけんが自分で守れば東西両方面に救援を送れなくなり、東関とうかんを取ることができる」と主張した。そこで、駐屯地を潦口りょうこうに移して東関とうかんを攻め取る計画を上申すると、明帝めいてい曹叡そうえい)はそれを「し」とした。


将軍しょうぐん張嬰ちょうえい王崇おうすうが軍勢を引き連れて降伏した。

太和たいわ2年(228年)、明帝めいてい曹叡そうえい)は賈逵かき前将軍ぜんしょうぐん満寵まんちょう東莞太守とうかんたいしゅ胡質こしつら四軍を監督させ、豫州よしゅう予州よしゅう)・弋陽郡よくようぐん西陽県せいようけんから真っぐに東関とうかんに向かわせ、曹休そうきゅうには揚州ようしゅう廬江郡ろこうぐん晥県かんけんから、司馬懿しばいには荊州けいしゅう南郡なんぐん江陵県こうりょうけんから進ませた。

賈逵かき五将山ごしょうざんまで来た時、曹休そうきゅうが「ぞく)の中に降伏を願う者がある」と上奏し、敵地深く進入してそれに呼応することを求め、その結果、「司馬懿しばいは軍をめ、賈逵かきは東方に向かい曹休そうきゅうと合流して進むように」との詔勅しょうちょくが下った。

ところが賈逵かきは「ぞく)は東関とうかんの守備を置かず、必ず晥県かんけんに軍を集結させるはずだ。曹休そうきゅうが奥深く侵入すれば、必ず敗北する」と判断し、諸将に部署を割り当て、水陸両面から同時に進軍した。2百里(約860m)ほど行軍したところで、生けりにしたの兵が「曹休そうきゅうが戦闘に敗れ、孫権そんけんは兵を派遣して夾石きょうせきさえぎった」と語った。

諸将の中にはどうして良いか分からず「後援の軍を待ちたい」と望む者もいたが、賈逵かきは、

曹休そうきゅうの兵が外に敗れ、みやこへの道は絶たれている。進んでも戦うことができず、退いても帰ることができない。安危あんきの切っ掛けは1日が終わらぬうちに訪れる。ぞく)は継続の軍がないのを見て取ったからここまで来たのだ。今、急いで進軍し、奴らの不意を突こう。これこそ『人の先手を打つことによってその心を奪う』というものだ。ぞく)は我が兵を見て必ず逃走する。もし後援の軍を待てば、ぞく)はすでに難所をさえぎっているのだから、兵数が多くても何の役にも立たない」

と言い、通常の倍の速度で軍を進め、旗指物と陣太鼓をたくさんもうけて見せかけの兵としたので、これを見た軍は退却した。賈逵かき夾石きょうせきを占拠し、兵と食糧を曹休そうきゅうに提供したので、曹休そうきゅうの軍はやっと勢いを盛り返した。

これより以前、賈逵かき曹休そうきゅうは仲が悪かったが、賈逵かきがいなければ曹休そうきゅうの軍は助からなかったと言える。


たまたま病気にかかって危篤きとくとなり、側近に対して言った。

「国のあつきご恩を受けながら、孫権そんけんを斬って、地下で先帝にお目通りできないのが残念じゃ。葬式のために新しく作ったりなおしたりすることは一切ならぬ」

享年きょうねん55歳。肅侯しゅくこう粛侯しゅくこう)とおくりなされた。

脚注

*1武帝ぶていが示した「刺史しししん代の御史ぎょし)が取り締まるべき6ヶ条」の条項。


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第2世代(賈充・賈混)

賈充かじゅう公閭こうりょ

建安けんあん22年(217年)〜西晋せいしん太康たいこう3年(282年)没。司隷しれい平陽郡へいようぐん襄陵県じょうりょうけんの人。父は賈逵かき。弟に賈混かこん。子に賈荃かせん賈褒かほう)、賈濬かしゅん賈裕かゆう)、賈黎民かれいみん賈南風かなんぷう賈午かご。前妻に李氏りし、後妻に郭槐かくかい

賈充かじゅうは晩年になってできた子であったため、早くに父を失ってに服し、孝行で評判となった。

父の爵位を継いでこうとなり、尚書郎しょうしょろう黄門侍郎こうもんじろう、郡の典農中郎将てんのうちゅうろうしょうを歴任した。

大将軍だいしょうぐんの軍事に参画し、司馬師しばしに従って楽嘉がくか毌丘倹かんきゅうけん毋丘倹ぶきゅうけん)と文欽ぶんきんを討伐した。司馬師しばし許昌きょしょうかえると賈充かじゅう監諸軍事かんしょぐんじとどめ、その功労により封邑ほうゆう350戸を加増した。


後に大将軍だいしょうぐん司馬昭しばしょう司馬しばとなり、右長史ゆうちょうしに転じた。司馬昭しばしょうが朝廷で権力を握ると、司馬昭しばしょう方鎮ほうちん(地方の有力者)の反発を恐れ、諸葛誕しょかつたんの元に賈充かじゅうつかわして討伐についてはかると共に、秘かに変わったところがないか観察させた。

賈充かじゅうは帰還すると「諸葛誕しょかつたん叛意はんいあり」と報告し「今、彼を中央にし寄せれば、準備が不充分なまま反乱を起こすでしょう。放っておけばわざわいが大きくなります」と言った。そこで司馬昭しばしょう諸葛誕しょかつたん司空しくうに任命すると、果たして諸葛誕しょかつたんは反乱を起こした。賈充かじゅう諸葛誕しょかつたん征伐に従軍し、計略を進言して反乱の鎮圧に貢献する。司馬昭しばしょう賈充かじゅうに後事を任せて洛陽らくように帰った。

賈充かじゅう宣陽郷侯せんようきょうこうに爵位を進め、封邑ほうゆう千戸を加増された。後に廷尉ていいうつり、中護軍ちゅうごぐんに転じた。


甘露かんろ5年(260年)、実権を取り戻そうと高貴郷公こうききょうこう曹髦そうぼう)が挙兵すると、賈充かじゅうは軍勢をひきい、司馬昭しばしょう方として南闕なんけつで戦った。

この時、騎督きとく成倅せいさいの弟で太子舍人たいししゃじん成済せいさいが「今日のこの事態(天子てんしと戦う事態)、どうすれば良いのですか?」と言うと、賈充かじゅうは「公らがお前を養っていたのは、まさに今日のため。何を戸惑とまどっているのだっ!」と言い、成済せいさいをもって高貴郷公こうききょうこう曹髦そうぼう)を殺した。


常道郷公じょうどうきょうこう曹奐そうかん)が即位すると、賈充かじゅうは爵位を進めて安陽郷侯あんようきょうこうに封ぜられ、封邑ほうゆう千1,200戸を加増されて、城外の諸軍を統率し、散騎常侍さんきじょうじを加えられた。

鍾会しょうかいしょくで謀反すると、司馬昭しばしょう賈充かじゅう仮節かせつを与え、都督ととく関中かんちゅう隴右ろうゆう諸軍事しょぐんじとして西の漢中かんちゅうに向かわせたが、到着する前に鍾会しょうかいが死んだ。

当時、国は多難であったが、朝廷の機密はすべて賈充かじゅうが関与した。司馬昭しばしょう賈充かじゅうをとても信頼して重用し、裴秀はいしゅう王沈おうしん羊祜ようこ荀勖じゅんきょくと共に腹心とし、賈充かじゅうに法律の制定を命じた。

司馬昭しばしょう賈充かじゅうに金章を与え、甲第一区をたまわった。五等爵が建てられると、臨沂侯りんぎこうに封じ、しん王朝の元勲として特別に寵愛ちょうあいされ、俸禄と賞賜しょうしは常に群官より優れていた。

これより先、司馬昭しばしょう司馬師しばしが王業を大いに助けたことから、王位を司馬師しばしの子・舞陽侯ぶようこう司馬攸しばゆう)に継承させようとした。すると賈充かじゅうは、司馬昭しばしょうの子・司馬炎しばえんが寛大で慈悲深いことを称賛し、また司馬攸しばゆうより年長でもあり「人君の徳」をそなえていることから、司馬炎しばえん社稷しゃしょくを継がせるように進言した。

司馬昭しばしょうが病気になった時、司馬炎しばえんが後事をうと、司馬昭しばしょうは「お前を知る者は賈公閭かこうりょ賈充かじゅう)である」と言った。

司馬炎しばえん晋王しんおうを継ぐと、賈充かじゅうしん国の衛将軍えいしょうぐん儀同三司ぎどうさんし給事中きゅうじちゅうに任命され、臨潁侯りんえいこうに改封された。禅譲ぜんじょうを受けて武帝ぶてい司馬炎しばえん)が即位すると、賈充かじゅう車騎将軍しゃきしょうぐん散騎常侍さんきじょうじ尚書僕射しょうしょぼくやに転任し、改めて魯郡公ろぐんこうに封ぜられ、賈充かじゅうの母の柳氏りゅうし魯国太夫人ろこくたいふじんとされた。


賈充かじゅうが定めた法律が天下に公布され、民衆はみなそれを喜んだ。みことのりがくだされ、この功績により、賈充かじゅうの子弟1人が関内侯かんだいこうに封ぜられて絹5百匹をたまわった。賈充かじゅうは固辞したが許されなかった。

後に裴秀はいしゅうに代わって尚書令しょうしょれいとなり、常侍じょうじ車騎将軍しゃきしょうぐんはこれまで通りとされた。その後、常侍じょうじを改めて侍中じちゅうとなり、絹7百匹をたまわったが、母のに服すために職を去ると、みことのりにより黄門侍郎こうもんじろう慰問いもんつかわされた。


賈充かじゅうは農業につとめ、無駄な官職をはぶくなどして武帝ぶてい司馬炎しばえん)に高く評価されたが、文官の領する兵の廃止や、自身が辺境に出鎮することは許されなかった。

賈充かじゅうは人材を推薦することを好んだので、多くの士が彼に帰服したが、賈充かじゅうは品行方正な節操がなく、身を正して部下をひきいることができなかったので、専らへつらう者が多かった。

剛直に正しさを守る侍中じちゅう任愷じんがい中書令ちゅうしょれい庾純ゆじゅんらは賈充かじゅうを嫌い、また賈充かじゅうの娘が斉王せいおう司馬攸しばゆう)の妃となったので、後年益々盛んになることを恐れた。


氐族ていぞく羌族きょうぞくが反乱を起こすと、これを深く憂慮ゆうりょした武帝ぶてい司馬炎しばえん)は、任愷じんがいの進言を受けれて「賈充かじゅう使持節しじせつ都督ととく秦涼しんりょう二州にしゅう諸軍事しょぐんじに任命し、侍中じちゅう車騎将軍しゃきしょうぐんはこれまで通りとして、関中かんちゅうに出鎮するように」とのみことのりを下した。

地方に出ることになった賈充かじゅうは、任愷じんがいに深くふくむところがあったが、どうすることもできなかった。百官が夕陽亭せきようていはなむけを贈った時、賈充かじゅう荀勖じゅんきょくうれいを告げると、荀勖じゅんきょくは「(賈充かじゅうの娘が)太子たいしと結婚すれば、中央にとどまることができます」と言い、その役目を引き受けた。

荀勖じゅんきょくは宴席で太子たいしの婚姻のことを論じ、「賈充かじゅうの娘は才色兼備(才質令淑)ですので、太子妃たいしひとされるのがよろしい」と言った。すると楊皇后ようこうごう荀顗じゅんぎも彼女をたたえたので、武帝ぶてい司馬炎しばえん)はこの提案を受け入れた。

この時賈充かじゅうは、京師けいし洛陽らくよう)で大雪が降ったため出発できずにいたが、太子たいし賈充かじゅうの娘と結婚したため、結局西(関中かんちゅう)に行かずに済み、みことのりにより元の職にとどめ置かれた。

また武帝ぶてい司馬炎しばえん)が「羊祜ようこが秘かに『賈充かじゅうを中央にとどめるように』とさとしていたこと」を語ると、賈充かじゅう羊祜ようこに感謝して「初めて君が長者(徳のすぐれている人)であることを知った」と言った。


この時、の将・孫秀そんしゅうが投降し、驃騎大将軍ひょうきだいしょうぐんに任命された。武帝ぶてい司馬炎しばえん)は賈充かじゅうが旧臣であることから、(賈充かじゅうの)車騎将軍しゃきしょうぐんを(孫秀そんしゅうの)驃騎将軍ひょうきしょうぐんの右(上位)に改めようとしたが、賈充かじゅうは固辞し、認められた。

その後賈充かじゅう司空しくううつり、侍中じちゅう尚書令しょうしょれいと領兵はこれまで通りとされた。


武帝ぶてい司馬炎しばえん)がやまいすと、賈充かじゅう斉王せいおう司馬攸しばゆう)、荀勖じゅんきょくは医薬品を献上し、やまいえると、絹を5百匹ずつたまわった。

これより先、武帝ぶてい司馬炎しばえん)のやまいが重くなった時、朝廷は司馬攸しばゆうに心を寄せ、河南尹かなんいん夏侯和かこうか夏侯和かこうわ)が賈充かじゅうに「(太子たいし斉王せいおうはどちらも)あなたの2人の娘の婿むこであり、(あなたにとって)の関係の深さは等しいのだから、徳をもって人を立てるべきだ」と言ったが、賈充かじゅうは答えなかった。

後にこのことを聞いた武帝ぶてい司馬炎しばえん)は、夏侯和かこうか夏侯和かこうわ)を光禄勲こうろくくんに移し、賈充かじゅうの兵権を奪ったが、くらいや待遇は変えなかった。その後賈充かじゅう太尉たいいこう太子たいし太保たいほ録尚書事ろくしょうしょじに転任した。

西晋せいしん咸寧かんねい3年(277年)、日食があり、賈充かじゅうくらい退しりぞくことを願い出たが許されなかった。更に豫州よしゅう予州よしゅう)・沛国はいこく公丘県こうきゅうけん封邑ほうゆうに追加され、過分な寵愛ちょうあい愈甚ひどくなり、朝臣たちはこれを横目に見てなげいていた。


西晋せいしん咸寧かんねい6年(280年)の征伐において、賈充かじゅうみことのりにより使持節しじせつ仮黄鉞かこうえつ大都督だいととくに任命され、六師りくし天子てんしひきいる軍:六軍りくぐん)を総統し、羽葆はねがさ鼓吹こすい緹幢ていとう(赤い絹で作られた旗)に兵1万人と騎兵2千をたまわり、左右長史ちょうし司馬しば従事中郎じゅうじちゅうろうが置かれ、参軍さんぐん騎司馬きしばを各10人、帳下司馬ちょうかしばを20人、大車・官騎を30人ずつを増員された。

賈充かじゅうは大功を果たせぬことを憂慮ゆうりょし「辞退の意」を上表したが、武帝ぶてい司馬炎しばえん)はみことのりして「君が行かぬのなら、わたしみずから出陣しよう」と言うので、賈充かじゅうは仕方なく節鉞せつえつを受け、冠軍将軍かんぐんしょうぐん楊済ようせいを副官として南の襄陽県じょうようけんに駐屯した。

すると江陵県こうりょうけん周辺のの守将たちはみな降伏。そこで賈充かじゅう項県こうけんに移って駐屯した。


成都せいとを出発した王濬おうしゅんの船団が荊州けいしゅう江夏郡こうかぐん武昌県ぶしょうけんを降伏させると、賈充かじゅうは使者を派遣して「を完全に平定することができぬまま季節は夏となり、湿地帯の江水こうすい淮水わいすいでは必ず疫病が起こります。諸軍をし返して期を改めるべきです。(もしこのままいくさを続けるならば、平定の策を立てた)張華ちょうかを腰斬の刑に処しても、天下に謝罪するには足りません」と上表し、また中書監ちゅうしょかん荀勖じゅんきょくが「よろしく賈充かじゅうの上表のようにするべきです」と上奏したが、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は従わなかった。

杜預とよ賈充かじゅうが上奏したことを聞くと、急いで「の平定は間近です」と上表したが、ちょうどその使者が轘轅関かんえんかんに至った頃に孫晧そんこう孫皓そんこう)が降伏し、が平定されると軍は解散された。

武帝ぶてい司馬炎しばえん)は侍中じちゅう程咸ていかんを派遣して労をねぎらい、賈充かじゅうきぬ8千匹をたまわり、封邑ほうゆう8千戸を加増したが、元々賈充かじゅうは「征伐を諫言かんげんしていた」ことから大いに恥じおそれ、処罰されることをうた。

武帝ぶてい司馬炎しばえん)は賈充かじゅうけつ(宮殿の門)に向かっていることを聞くと、前もって東堂とうどう行幸ぎょうこうして彼を待ち、賈充かじゅう節鉞せつえつ僚佐りょうさ(補佐の任に当たる役人)を取り上げたが、鼓吹こすい麾幢きとう儀仗ぎじょう)はそのままとした。

賈充かじゅうは群臣と共に「告成こくせいの礼(天下統一の達成を報告する儀礼)」の準備をうたが、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は謙譲けんじょうして許さなかった。


病気が重くなると、賈充かじゅう印綬いんじゅを返上して官職を退しりぞいた。武帝ぶてい司馬炎しばえん)は侍臣じしん近侍きんじ)をつかわして病状を聞き、殿中でんちゅう太医たいいに湯薬を届けさせ、寝台と銭・きぬたまわり、皇太子こうたいしから宗室までがみずか賈充かじゅうを見舞わせた*1

西晋せいしん太康たいこう3年(282年)4月、賈充かじゅうは66歳で亡くなった。武帝ぶてい司馬炎しばえん)は彼のために慟哭どうこくし、使持節しじせつ太常たいじょうつかわして太宰たいさいを追贈し、袞冕こんべんの服*2緑綟綬りょくれいじゅ御剣ぎょけんを加え、東園の秘器・朝服1・衣1しゅうたまわった。大鴻臚だいこうろ喪事そうじまもり、節鉞せつえつさずけ、(その行列は)前後に羽葆はねがさ鼓吹こすい緹幢ていとう(赤い絹で作られた旗)をそなえ、大路・鑾路らんろ(車駕)・轀輬車おんりょうしゃ霊柩車れいきゅうしゃ)・帳下ちょうか司馬しばの大車、椎斧文衣武賁・軽車けいしゃ介士かいし(戦車に乗った鎧武者よろいむしゃ)が参加した。

葬礼は霍光かくこう安平献王あんぺいけんおう司馬孚しばふ)の故事に依拠し、塋田えいでん(墓地)1けい(約35,138㎡)をたまわり、また、石苞せきほうらと共に王業への功績があるとして廟庭びょうてい配饗はいきょうされ、おくりなされた。

豆知識

賈充かじゅうが亡くなると、武帝ぶてい司馬炎しばえん)は礼官れいかんに命じて賈充かじゅうおくりなを議論させた。この時、博士はくし秦秀しんしゅうは「こう」とおくりなすることを提案したが、武帝ぶてい司馬炎しばえん)はれなかった。その後、博士はくし段暢だんちょう迎合げいごうして「」とおくりなすることを提案すると、武帝ぶてい司馬炎しばえん)はこれに従った。

賈充かじゅうが亡くなってから埋葬まいそうされるまで、2千万銭が賻贈ふそう(葬送を助ける贈り物)された。

恵帝けいてい司馬衷しばちゅう)が即位すると、賈后かこう賈南風かなんぷう)が権力を欲しいままにし、賈充かじゅうびょうに諸侯に許された「六いつの楽」をそなえ、母の郭槐かくかい宜城君ぎじょうくんとした。郭槐かくかいが亡くなるとせんおくりなし、殊礼しゅれい(特別の待遇)を加えた。当時の人はこれをそしったが、口が裂けても言えなかった。

脚注

*1訳に自信がありません。(原文:自皇太子宗室躬省起居)

*2袞衣こんえ天子てんしの礼服)と冕冠べんかん天子てんしの礼冠)。


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賈混かこん宮奇きゅうき

生没年不詳。司隷しれい平陽郡へいようぐん襄陵県じょうりょうけんの人。父は賈逵かき。兄に賈充かじゅう

人情にあつく誠実ではあったが、保身的で特別な才能はなかった。

西晋せいしん太康たいこう元年(280年)にが平定されると、陽里亭侯ようりていこうであった賈混かこん封邑ほうゆうを加増された。

西晋せいしん太康たいこう年間(280年〜289年)に宗正卿そうせいきょうとなり、鎮軍将軍ちんぐんしょうぐん城門校尉じょうもんこういを歴任し、侍中じちゅうを加えられ、永平侯えいへいこうに封ぜられた。

死後、中軍大将軍ちゅうぐんだいしょうぐん儀同三司ぎどうさんしが追贈された。



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