劉備・関羽・張飛の3人が義兄弟の契りを結んだ「桃園の誓い」が『三国志演義』のフィクションであることは有名でが、この「桃園の誓い」は、劉備軍団の実情をみごとに象徴したエピソードなのです。
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目次
劉備の実像
多くの優秀な人材を擁する劉備軍団とは一体どんな集団だったのかを考える上で、まず、劉備の実像を確認しておきましょう。
一般的な劉備像
一般的な劉備象は、母親思いで争いを好まず武術は不得手。草履や蓆を売って貧しい暮らしをしていた青年。
私利私欲がなく礼節を重んじる劉備の人柄には、多くの人々を惹きつける魅力があったという感じではないでしょうか。
ですが、蜀志『先主伝』をよく読んでみると、劉備の印象はかなり変わってしまうのです。
蜀志『先主伝』の劉備
本当に親孝行だったのか?
劉備の母親については、
- 若くして父親を失ったため、母とともに草履を売り蓆を織って生活していた
- 15歳のとき、母から遊学に出された
という2つの記録しかありません。
劉備が母親のために何かをしてあげた、または、県令になったときに母親を呼び寄せた、というような親孝行エピソードはないのです。
劉備の母親が亡くなった時期は記録されていませんので、劉備が黄巾賊討伐に挙兵する以前に亡くなっていたのかもしれませんが…。
野心家だった劉備
子どもの頃の劉備が庭に生えている大きな桑の木を見て、「将来この木のような屋根のついた馬車に乗るんだ!」と言ったエピソードが紹介されています。
大きな屋根のついた馬車とは皇帝の馬車のことであり、皇帝の馬車に乗るということは、つまり自分が皇帝になるという意味になります。
謙虚で私利私欲がない従来の劉備像とは、ずいぶんかけ離れていますよね。
貧しくはなかった劉備
若くして父を亡くした劉備の一家は、確かに貧しかったかもしれません。
ですが、叔父の劉元起は自分の息子と同じように劉備に援助をしたので、地元の名士である盧植に師事することができました。
劉備はこのとき、遼西の公孫瓚と親交を深めています。
やんちゃだった劉備
叔父のお陰で盧植に師事することができた劉備ですが、あまり勉強熱心ではなく、狩猟や音楽、華美な服装などに夢中になっていたようです。
また、豪傑や俠客たちと親交を結ぶことを好み、若者たちは競うように劉備の元に集まりました。
蜀志『先主伝』の内容を現代風に例えるなら劉備は、「オレは将来ビッグになるんだ!」と言いながら、親戚のおじさんにお金を出してもらっている学校へも行かず、遊びやオシャレに夢中になり、不良仲間を集めているようなものです。
一般的に知られているような、親孝行で働き者の劉備像とは似ても似つかない青年期を送っていたことが分かります。
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劉備の魅力とは
『三国志演義』は、曹操を悪玉、劉備を善玉として描かれているため、劉備や劉備陣営の人物が美化されていることは、多くの方がご存知だと思います。
ですが実際の劉備も、『三国志演義』の劉備に決して劣らない人望がありました。では、劉備の魅力の正体は一体何だったのでしょうか。
まず、当時の時代背景を確認してみましょう。
劉備が生きた時代背景
地縁や血縁によるコネ社会
後漢の官吏登用制度である郷挙里選は、地方官や地方の有力者が、その土地の優秀な人物を推薦する制度です。
いくら優秀であっても、地方官や地方の有力者とのコネクションがなければ推薦されることは難しく、実質一部の名門の子弟ばかりが推薦されていました。
儒教社会と身分制度
当時、すべての人が遵守しなければならない規範とされていた儒教の教えは、「人はどのように生きるべきか」という道徳を説く一方で、厳しい身分の差をつくり出していました。
当時の身分に対する意識を象徴するエピソードがあります。
あるとき張飛が劉巴の屋敷に宿泊したことがありました。ですがこのとき劉巴は張飛と一言も口を利かなかったため、張飛は激怒します。
仲裁に入った諸葛亮に、劉巴は「彼が英雄ならばつき合いたいと思いますが、平民風情の相手はいたしません」と答えました。
また、この話を伝え聞いた孫権は、相手が張飛だからといって態度を変えない劉巴を称賛したと言います。
劉巴は主君の挙兵以来の宿将である張飛ですら、平民出身であることを理由に口を利かなかったのです。
これは劉巴が特別なのではなく、当時の儒教社会では当たり前のことでした。
有力者のコネや血縁を持たない若者たちは、いくら勉学や武術の鍛錬に励んでも、ほとんど出世が見込めない現状にありました。
また、なんとか功績をあげて出世できたとしても、支配者階級である士大夫と平民の間には、精神的に大きな壁があったのです。
個人的なつながりを重視した劉備
先程お話ししたように、劉備は豪傑や俠客たちと、身分の分けへだてなく親しくつき合いました。
劉備は落ちぶれたとはいえ漢の景帝の末裔、少なくとも祖父は県令まで務めた豪族の出身です。
そんな劉備が自分と対等に話をし、一緒に食事をしてくれるだけで、豪傑や俠客たちが熱狂的に支持するだけの十分な理由になったのです。
劉備は自分を慕ってくる豪傑や俠客たちを、身分や出自に関わらず仲間にしていきました。
財力も大きなコネクションもない劉備は、旧来の血縁による人材登用と儒教的な身分差別を取り払い、友情や義理人情といった個人的なつながりによって、地方官僚の圧政や山賊による略奪などから庶民を守る、いわゆる任侠集団を形成したのです。
任侠集団には、自分を認めてくれる人には命をかけて恩を返して義理を果たすという、利害関係よりも精神性を重視した強い結びつきがありました。
この任侠精神こそが、どんなに逆境にあってもつき従う劉備軍団の固い絆の正体だったのです。
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桃園の誓いが象徴するもの
劉備・関羽・張飛の出会い
実は正史『三国志』には、劉備・関羽・張飛の3人の出会いについては詳しく記載されていません。
正史『三国志』における、それぞれの出会いの部分を確認してみましょう。
『蜀志』先主伝
霊帝末期に黄巾の乱が起こり、州郡ではそれぞれ義勇兵が立ち上がって賊と戦った。先主は義勇兵を率いて黄巾賊討伐に参加すると、校尉・鄒靖の指揮下で戦功を立て、安熹県尉に任命された。
このように、『蜀志』先主伝には、関羽・張飛との出会いについては記載されていません。
『蜀志』関羽伝
関羽は字を雲長、元の字を長生といい、河東郡解県の人で涿郡に亡命した。
涿郡で仲間を集めていた劉備の下に張飛とともに加わって彼を護衛した。
先主は(関羽・張飛の)2人とは同じ寝台で眠り、恩愛は兄弟のようであった。
関羽は何らかの罪を犯し、名前を変えて涿郡に亡命していました。関羽が犯した罪について正史『三国志』に記載はありませんが、様々な言い伝えが残っています。
また、張飛とともに劉備の下に加わったとあることから、劉備より先に張飛と知り合っていたことが推測されます。
『蜀志』張飛伝
張飛は字を益徳といい、涿郡の人である。若いころから関羽とともに先主に仕えていた。
関羽が数歳年長であったので、張飛は彼に兄事した。
3人の伝をまとめると、
関羽は罪を犯して故郷を捨て、涿郡に流れ着いた。
そこで出会った張飛と意気投合した関羽は、張飛とともに仲間を集めていた劉備の一党に加わる。
特に腕っぷしの強かった2人は劉備の身辺警護を務めるようになり、いつも一緒にいた3人の間には、兄弟のような感情が芽生えていた。
と、このような感じではないでしょうか。
では、『三国志演義』における「桃園の誓い」は、彼ら3人の間柄を強調し、印象づけるための単なる演出にすぎないのでしょうか。
どうやらそれだけではないような気がするのです。
義兄弟の意味の変遷
後漢末期の義兄弟
義兄弟の誓いによって固い絆を結ぶ習慣は、後漢末期にはまだ一般的ではありませんでした。
当時の義兄弟の契りは、和睦・同盟の証しのようなもので「これから仲良くしましょう」というポーズでしかなく、情勢が変われば簡単に争い合う関係に逆戻りしてしまうような、弱い絆でしかなかったのです。
また、正史『三国志』には、お互いを「大兄」「大弟」と呼び合っている場面がありますが、これは相手に対する尊敬、親しみを込めた呼びかけの言葉であって、本当の義兄弟の関係を示すものではありません。
『演義』成立時の義兄弟
「桃園の誓い」における義兄弟のつながりは、『三国志演義』が成立した明の時代を考慮に入れる必要があります。
明代初頭には、のちに「幇」と呼ばれることになる同業者や同郷人による相互援助組織がつくられていました。
ですが、明の政府から弾圧を受けて非合法化されると、役人の横暴に対抗するための反政府組織へと変貌していきます。
彼らは政府に立ち向かうために義兄弟となることで仲間意識を強めるようになり、やがて「義兄弟の誓い」は生死をともにする強い絆の証しとなっていきました。
『三国志演義』とほぼ同時代に成立した『水滸伝』に登場する英雄・豪傑たちも、頻繁に義兄弟の契りを結びます。
そんな彼らも、様々な事情で世間からはじき出されたアウトローたちでした。
明代の人々にとって、義兄弟の契りを結ぶことは「悪に立ち向かうヒーロー」の証しであり、劉備・関羽・張飛の3人が義兄弟の契りを結ぶことで、当時の読者の理解と共感を得ることができ、3人の立場を強烈に印象づけることができたのです。
桃園の誓いは任侠の証し
挙兵のための資産を所有していた曹操や、江南土着の豪族であった孫権と違い、劉備には十分な資産や地盤がありませんでした。
そんな劉備が人材を手に入れるためには、任侠精神による無条件の献身が必要不可欠だったのです。
桃園の誓いは、劉備軍団が任侠精神によって支えられていることを暗にあらわしているのではないでしょうか。
任侠精神とは、仁義を重んじ、困っている人に手を差し伸べ、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神のことを言います。
劉備が常に仁義を口にして偽善ともとれる行動をとったのは、劉備軍団の支柱である任侠精神に反する行動をとることで、軍団の結束に支障をきたすのを恐れたからかもしれません。