冀州・勃海郡・南皮県に追い詰められた袁譚の滅亡と、その後曹操に帰順した袁譚の配下についてまとめています。
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袁譚の滅亡
袁譚の裏切り
袁紹の死後、袁尚との争いに敗れて青州・平原国・平原県に逃亡した袁譚は、建安8年(203年)8月、曹操に降伏を申し入れて救援を求めました。
ですが翌年5月、曹操が袁尚配下の審配が守る冀州・魏郡・鄴県を包囲すると、袁譚は曹操との約束を破って、冀州の、
- 甘陵国(清河国)
- 安平国
- 勃海郡
- 河間国
を奪取。さらに曹操に敗れて中山国に逃亡した袁尚を攻撃し、幽州・涿郡・故安県に逃走させました。
袁譚の冀州侵攻
これを受け、鄴県を陥落させた曹操は、龍湊に駐屯する袁譚を冀州・勃海郡・南皮県に逃走させ、青州の諸県を攻略して平定します。
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袁譚の死
建安10年(205年)春正月、曹操は冀州・勃海郡・南皮県の袁譚に攻撃を開始しますが、袁譚が出撃してきたために、曹操の兵卒に多数の死者を出てしまいました。
曹操の反撃
仕方なく曹操は攻撃の手を緩めようとしますが、この時、最初議郎として司空軍事を預かり、虎豹騎を率いて戦いに参加していた曹仁の弟・曹純は、
「今、我が軍は千里の彼方から敵地に踏み込んで来ているのです。進撃して勝つことができずに引き退くとあらば、必ず威光を失うことになりましょう。
おまけに敵地深く進入した遠征軍は、長期に亘って対峙しにくいものです。敵は勝利を得てつけ上がっており、我が方は敗北を喫して慎重になっております。
慎重さをもってつけ上がっている者を相手にするのですから、必ず勝つことができます」
と進言します。
曹操はこの意見を「もっともだ」と考え、そこで自らバチと太鼓を手にとって打ち鳴らしたので、士卒たちはみな奮い立ち、たちまちの内に敵を撃ち破って南皮県を陥落させました。
曹純は直属の騎兵を率いて袁譚の首を斬り、曹操は袁譚の妻子や郭図らを処刑。これにより冀州は完全に平定されました。
豆知識
袁譚が敗れると、張遼が別軍の将として青州の海岸地帯を攻略し、幽州・遼東郡の賊・柳毅らを撃ち破りました。
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袁譚配下の帰順
李孚の帰順
袁尚が幽州・涿郡・故安県に逃走した時、李孚は袁尚と離れ離れになり、結局袁譚の下に出頭して今度は袁譚の主簿となり、東に向かって青州・平原国・平原県に帰りました。
その後、曹操の攻撃を受けて袁譚が戦死すると、李孚は平原県の城に戻りましたが、城中の議論では「曹操に降伏する」ことに決定していましたが、未だに混乱して落ち着かない状況でした。
そこで李孚は「とりあえず曹操に会いたい」と思い、馬に乗って総指揮官の軍門まで行くと、
「冀州の主簿・李孚が内密の事を(直接曹操に)口頭で申し上げたい」
と言いました。
曹操が彼に会った李孚は叩頭して挨拶し、曹操がその内容を尋ねると、李孚は次のように言いました。
「今、城中では強者と弱者がしのぎ合い、みな落ち着きません。考えますに、新たに降伏した者で城内の人が見知り、信用している者にお命じになり、明白なご命令を宣布してくださるべきかと存じます」
すると曹操は、「卿(あなた)はすぐに帰ってこのことを宣布せよ」と言い、李孚が跪いて命令を求めると、曹操はまた、「まあ、卿(あなた)の考えによって宣布せよ」とぞんざいに言いました。
そこで李孚は帰って城に入り、
「各人、元の仕事に落ち着け。互いに侵害し合うでないぞ」
との命令を宣布すると、混乱して落ち着かなかった城中はすっかり安定します。
これ以降曹操は、李孚のことを「実際、役に立つ奴だ」と考えるようになりました。
以上は『魏書』賈逵伝が注に引く『魏略』李孚伝を基にしています。
『魏略』李孚伝では、袁譚の死後に平原県が混乱していますが、『魏書』武帝紀では、前年の建安9年(204年)12月に曹操が平原県に入城して平定しており、当サイトの他の記事では『魏書』武帝紀に従っています。
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王脩(王修)の帰順
袁譚の遺体を引き取る
曹操が冀州・勃海郡・南皮県の袁譚を攻撃した時、王脩(王修)は兵糧を輸送して青州・楽安国・楽安県にいましたが、袁譚の危急を聞くと、配下の兵と従事たち数十人を引き連れて袁譚の下に向かいました。
ですが、青州・北海国・高密国まで来たところで袁譚の死を聞くと、王脩(王修)は馬を下り号泣して、
「主君(袁譚)がおられなくなった…。どこを頼って行けば良いのか…」
と言い、曹操の元に行って「袁譚の遺体を引き取って埋葬したい」と願い出ます。
ですがこの時、曹操は王脩(王修)の気持ちを観察しようと、押し黙ったまま返答しませんでした。
すると王脩(王修)は、
「袁氏の厚きご恩を受けております。もし譚(袁譚)の遺体を収容できましたならば、その後に死刑に処されましても悔恨することはございません」
と言うので、曹操は彼の義の心を嘉してこれを聞き届け、王脩(王修)を兵糧監督に任命し、楽安県に還らせました。
忠臣・管統を帰順させる
袁譚が敗れると、袁譚の支配下にあった諸城はすべて降伏しましたが、ただ管統だけは青州・楽安国・楽安県に立て籠もって命令に服従しませんでした。
そこで曹操は、王脩(王修)に「管統の首を取ってこい」と命令します。
ですが王脩(王修)は、管統が亡国の忠臣であることから彼の縛めを解き*1、曹操の元に出頭させたので、曹操は上機嫌で管統を赦免しました。
脚注
*1王脩(王修)が捕らえたことが省略されているのか、すでに捕らえられていたのかは分かりません。
司空の掾に任命される
袁氏の政治は大雑把だったので、権勢のある官職に就いていた者は多くの蓄財をしていました。
冀州・魏郡・鄴県を陥落させた時、曹操は審配らの財産を記録して没収し、それは5桁の数にのぼりました。
曹操が冀州・勃海郡・南皮県を陥落させた後、王脩(王修)の家を調べてみたところ、穀物は10石に満たず、書物が数百巻あるだけでした。
そのことを知った曹操は嘆息して、
「名声がある士には理由があるものだ」
と言い、礼を持って王脩(王修)を召請すると、司空の掾(属官)とし、司金中郎将を代行させました。
陳琳の帰順
袁氏が敗れると、陳琳は曹操に帰伏しました。
この時曹操は、
「卿(あなた)は昔、本初(袁紹の字)の為に檄文を書いたが、ただ儂の罪状だけをあげつらっておけば良かったものを、どうしてそれを遡って父や祖父まで引き合いに出したのだ。悪を憎んでもその人の身だけに止めるべきだ」
と言ってみせましたが、陳琳の謝罪を受けた曹操はその才能を愛して彼を咎めず、阮瑀と共に司空軍謀祭酒に任命し、記室を担当させました。
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『魏書』郭嘉伝が注に引く『傅子』に、
「河北が平定された後、太祖(曹操)は青州・冀州・幽州・幷州(并州)の各州で名を知られた人物を多数招聘し、次第に彼らを臣下として使用し、省事*2・掾属にしてしまった。それはすべて郭嘉の策略である」
とあります。
脚注
*2ちくま学芸文庫『正史三国志』の注では「未詳」とし、『集解』に「従事か徴事の誤りか」とあるのを載せている。
曹操の布告
冀州を平定した曹操は、
「さあ、袁氏の悪事に荷担した者も、一緒に新時代へ出発しよう」
と布告し、個人的な復讐を許さず、贅沢な葬儀を禁止するなど、すべて法律によって統一しました。
建安8年(203年)8月に曹操に降伏した袁譚は、曹操が冀州・魏郡・鄴県を包囲すると、曹操との約束を破って冀州の諸郡を奪取し、さらに中山国に逃亡した袁尚を攻撃して幽州・涿郡・故安県に逃走させてしまいます。
その後、鄴県を陥落させた曹操は、背反した袁譚に攻撃を開始。建安10年(205年)春正月、袁譚が逃げ込んだ冀州・勃海郡・南皮県を陥落させ、袁譚を斬りました。
また、郭嘉の進言を受けた曹操は、青州・冀州・幽州・幷州(并州)の各州で名を知られた人物を多数招聘し、配下に加えました。