建安9年(204年)8月に鄴県を陥落させ、冀州の大半を平定した曹操の人事と、袁譚の背反、袁尚に味方する烏丸族を従えた牽招の活躍についてまとめています。
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目次
鄴県(鄴城)の平定
鄴県(鄴城)の陥落
建安9年(204年)春2月、袁譚の降伏を受け入れた曹操は、審配が守る冀州・魏郡・鄴県に攻撃を開始。鄴県の周囲に塹壕を掘って漳水の水を注ぎ込み、鄴県を孤立させました。
秋7月、鄴県の救援にやって来た袁尚が敗れて冀州・中山国に逃走すると、翌月には審配の兄の子・審栄が東門を開いて曹操の兵を城内に引き入れたので、ついに鄴県は陥落し、審配は処刑されました。
赤:漳水
上記勢力図について
袁譚が曹操に降伏した時、袁譚の領土は青州のみで、袁尚に平原県を包囲されていました。
曹操が鄴県を攻撃し、袁尚がその救援に向かうと、袁譚は曹操との約定を破って冀州の諸郡を奪取します。その詳細についてはこの記事で後述します。
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曹操の布令
9月、曹操は、
「河北は袁氏の難により被害を受けた。今年の租税を供出しないようにさせよ」
という布告を出し、また「権勢ある者が土地や財貨を兼併(併合)することに対する法令」を厳しくしたので、人々は大喜びしました。
曹操の布令・全文
曹操が冀州牧となる
天子(献帝)は曹操に冀州牧を担当させ、曹操は兗州牧を辞退して返上しました。
『資治通鑑』胡三省注に、
「当時、政令は曹操が自ら出していた。任命を受けた場合は本当に受けたことになるが、辞退した場合は本当の辞退ではない(當時政自操出,領則眞領,而讓非眞讓也)」
とあります。
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曹操の人事
高幹と牽招の帰順
曹操が冀州・魏郡・鄴県を包囲していた時、袁尚は牽招を幷州(并州)・上党郡に派遣して軍糧を監督させ、届けさせていましたが、牽招がまだ帰り着かないうちに、袁尚は敗れて冀州・中山郡に逃走してしまいました。
当時、袁尚の外兄の高幹が幷州刺史をつとめていました。
幷州(并州)には東に恒山の要害があり、西には大河の固めを持ち、5万の鎧武者を有して、北方は強力な蛮族を阻んでいるのを見た牽招は、
「袁尚を幷州(并州)に迎え、力を合わせて変化を見よ」
と高幹に勧めますが、高幹はこれを受け入れないばかりか、秘かに牽招を殺害しようとしました。曹操が鄴県を陥落させると、高幹は曹操に降伏してそのまま幷州刺史に任命されていたのです。
牽招は間道伝いに袁尚の下に逃げようとしましたが、道が遮られていたために袁尚を追うことができなかったので、そのまま東に向かって曹操の元に行きました。
冀州刺史*2を兼任することになった曹操は、牽招を召して冀州の従事に任命しました。
脚注
*2『魏書』牽招伝による。『魏書』武帝紀や『後漢書』献帝紀では冀州牧。
崔琰を召し出す
冀州牧となった曹操は、袁紹の下で騎都尉をつとめていた崔琰を召し寄せて別駕従事とし、崔琰に向かって、
「昨日、戸籍を調べてみたところ、30万の軍勢を手に入れることができる。したがって、この冀州は大州ということになる」
と言ったところ、崔琰はそれに答えて、
「現在、天下は粉々に崩壊し、九州は散り散りに分裂しております。また、袁氏の兄弟が自ら武器を用いたので、冀州の民衆は白骨を原野に晒しています。
ところが、進軍に先んじて天子の軍隊の仁愛のお声がかかり、民の風俗をお訊ねになり、彼らの塗炭の苦しみを救われたというような話をまだ聞きませぬうちに、武装兵の数を調べられ、ひたすらそのことを優先されるとは。
これが、鄙州*3の士民女子が明公(曹操)に期待していたことでございましょうか」
と言いました。
この時、その場にいた賓客たちは恐怖のあまりみな俯き、顔面蒼白となっていましたが、曹操は態度を改めて崔琰に陳謝しました。
袁紹が亡くなると、2人の子・袁譚と袁尚は互いにいがみ合い、争って崔琰を味方に引き入れようとしました。
崔琰が病気と称して固辞したため、牢獄に閉じ込められていましたが、陰夔と陳琳の救助運動により免れることができていました。
脚注
*3都から遠く離れて文化の至らない州。田舎。自分の州を謙っていう言葉。
許攸の死
「官渡の戦い」で高い功績を挙げた許攸は、自分の勲功を恃んで、時に曹操と戯れあうことがあり、同席していてもいつも折り目を正そうとせず、曹操の幼時の字を呼んで、
「阿瞞*4、あなたは私を手に入れなければ、冀州を得られなかったのですぞ」
と言うほどでした。曹操は笑って、
「お前の言う通りだ」
と言っていましたが、心の中ではそんな許攸を嫌悪していました。
その後、許攸が曹操に随行して鄴県の東門を通った時、振り返って側にいる者に向かってまた、
「この男(曹操)は儂を手に入れなかったら、この門を出入りできなかっただろう」
と言いました。
このことを言上する者がおり、許攸はついに逮捕され、処刑されました。
脚注
*4曹操の幼時の字は「阿瞞」という。原文では遠慮して記載せず「某甲」と記している。
公孫度の死
以前、曹操が上表して公孫度を武威将軍とし、永寧郷侯に取り立てたところ、公孫度は、
「儂は遼東の王だ。何が永寧郷侯だ」
と言って、印綬を武器庫にしまい込んでしまいました。
この年[建安9年(204年)]、公孫度が死ぬと、子の公孫康が位を相続し、弟の公孫恭を永寧郷侯に封じました。
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袁譚の裏切り
袁譚の裏切り
曹操が冀州・魏郡・鄴県を包囲していた時、曹操に降伏した青州・平原国・平原県の袁譚は、
- 甘陵国(清河国)
- 安平国
- 勃海郡
- 河間国
を奪取し、さらに中山国に逃亡した袁尚を攻撃します。
敗れた袁尚は、袁煕を頼って幽州・涿郡・故安県に逃走し、袁譚は袁尚の軍勢をすべて手中に収めました。
袁譚の冀州侵攻
鄴県を平定した曹操は、袁譚に書簡を送って「約束に背いたこと」を責め、彼との縁戚関係を絶ち、袁譚の娘が帰途についたのを見届けてから軍を進めます。
12月、袁譚は龍湊に駐屯していましたが、夜のうちに冀州・勃海郡・南皮県に逃走し、清河を前にして駐屯し、その後曹操は、青州・平原国・平原県に入城し、諸県を攻略して平定しました。
曹操の反撃
烏丸族を従える
曹操は袁譚を討伐するつもりでしたが、柳城(幽州・遼西郡)の烏丸族が騎兵を繰り出して袁譚を援助していました。
そこで曹操は、かつて袁紹が冀州牧であった時、督軍従事として烏丸突騎を兼任していた牽招を柳城に派遣します。
牽招が到着した時、峭王(烏丸族の有力者・蘇僕)は、ちょうど警戒態勢を布いて5千騎を袁譚の元に派遣しようとしているところでした。
また、遼東太守の公孫康が平州牧を自称し、使者の韓忠を派遣して峭王に単于の印綬を与えようとしており、牽招の来訪を受けて集めたられた多数の部族長の中に、韓忠の姿もありました。
柳城
そこで峭王が牽招に質問します。
「昔、袁公(袁紹)は天子の命令を受けたと申して、儂を単于に取り立ててくれた。今、曹公(曹操)がまたも改めて天子に言上し、儂を真の単于に取り立てるつもりだと言っている。また遼東からも印綬を持ってきている。一体、誰を正当としたら良いのだ?」
牽招は答えて言いました。
「昔、袁公(袁紹)は、詔勅をお受けして任命する権限を持っておりましたが、その後天子の命令に違反し、曹公(曹操)がそれに代わりました。
曹公(曹操)が天子に言上し、改めて真の単于に取り立てると申しているのが正当です。遼東は天子の管轄下の郡でありますから、どうして勝手に任命することなどできましょうか」
これに遼東の使者・韓忠が、
「我が遼東は滄海の東に位置し、百万の兵を擁しており、その上また、扶余・濊貊(東北の民族)の働きがあります。
現在の情勢から申して最右翼の強者です。どうして曹操だけが正当だと言えるのでしょうか」
と反論します。
すると、牽招は韓忠を怒鳴りつけ、
「曹公(曹操)は慎み深く道理に明るく、天子を補佐・推戴され、反逆者を討ち、服従者を懐け、四海を静めておられる。
お前たち君臣は頑迷で、今も堅固さと遠隔の地であることを恃んで王命に違反し、勝手に任命しようとしている。神器を蔑ろにして弄ぶのは、まさしく殺戮に値する。
なぜ敢えて大人(曹操)を軽んじ悪口を言うのだっ!」
と言い、韓忠の頭を引っ掴んで地面に打ちつけると、刀を抜いて彼を斬ろうとしました。
これを見た左右の者は顔色を失い、峭王は驚き怖れ、裸足で飛び出して牽招を抱きすくめて韓忠の命乞いをします。
牽招はやっとのことで席に戻り、峭王らに成敗の結果や禍福(禍と福)の行き着くところを説明して聞かせると、みな席を下りて拝伏し、敬んで命令教示を受け、すぐさま遼東からの使者(韓忠)に暇を告げ、警戒態勢をとっていた騎兵を解除しました。
建安9年(204年)春2月、曹操は布令を出して冀州の住民を慰撫。袁尚の外兄の幷州刺史・高幹の降伏を受け入れ、元袁紹配下の中から優秀な人材を取り立てます。
また曹操は、約束に背いて冀州の諸郡を奪取した袁譚との縁戚関係を絶ち、攻撃して冀州・勃海郡・南皮県に逃走させると、幽州に逃亡した袁尚を援助しようとしていた峭王(烏丸族の有力者・蘇僕)に使者を送って、これを従えました。