建安けんあん8年(203年)8月、袁尚えんしょう袁譚えんたんの2度目の戦いと、袁譚えんたん曹操そうそうへの降伏についてまとめています。

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黎陽の戦い

黎陽の戦い

建安けんあん7年(202年)秋9月、曹操そうそう黄河こうがを渡って冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに陣を置く袁譚えんたんへの攻撃を開始。袁尚えんしょうみずから兵をひきいて袁譚えんたんの救援に向かい、曹操そうそう軍と袁尚えんしょう袁譚えんたん軍は黎陽県れいようけんの城下で対峙していくさを重ねました。


黎陽の戦い

黎陽れいようの戦い

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曹操の撤退

建安けんあん8年(203年)春2月、曹操そうそうに敗北した袁尚えんしょう袁譚えんたん黎陽県れいようけん籠城ろうじょうしますが、曹操そうそう軍に包囲される前に、夜陰にまぎれて冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに逃亡します。

これを追撃した曹操そうそうですが、袁尚えんしょうの反撃を受けて敗北。将軍しょうぐんたちは攻撃を続けようとしますが、郭嘉かくかは、

  • 袁尚えんしょう袁譚えんたんが不和であること
  • 急いで攻めれば、2人は協力して助け合うこと
  • 攻撃をゆるめれば、2人は勝手に争って弱体化すること

げ、「南方の荊州けいしゅうに向かい、劉表りゅうひょうを征伐する振りをして袁尚えんしょう袁譚えんたんが争うのを待つ」ことを提案しました。

これに同意した曹操そうそうは、5月、黎陽県れいようけん賈信かしんを残して豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに帰還します。


曹操そうそう軍が撤退すると、案の定袁尚えんしょう袁譚えんたんは争うようになり、袁尚えんしょうに敗れた袁譚えんたんは兵を退いて冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけんに入りました。


冀州・勃海郡・南皮県

冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけん


この曹操そうそうの敗北については後漢書ごかんじょ袁譚伝えんたんでんもとにしており、正史せいし三国志さんごくし魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎ魏書ぎしょ袁紹伝えんしょうでん)にはしるされていません。

魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎのその後の記述からも「曹操そうそうが敗北していたのではないか」ということがうかがえますので、正史せいし三国志さんごくしは意図的に曹操そうそうの敗北の記述を避けているのだと思われます。

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劉表の諫言

袁譚の2度目の敗北

建安けんあん8年(203年)8月、曹操そうそう荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうを征討するため、豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん西平県せいへいけんに駐屯します。

一方、袁尚えんしょうは再びみずから兵をひきいて冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけん袁譚えんたんを攻撃。迎撃に出た袁譚えんたんは大敗し、城に防備をめぐらせて固守しますが、袁尚えんしょうに厳重に包囲され青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけんに逃亡しました。


関連地図

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その後袁尚えんしょう袁譚えんたんを追って平原県へいげんけんを包囲し、袁譚えんたんは、辛評しんぴょうの弟・辛毗しんぴ曹操そうそうの元に派遣して救援を求めます。

劉表の書簡

この頃、以前から袁紹えんしょうと結んでいた荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうが、袁譚えんたん袁尚えんしょうに書簡を送って「兄弟で協力する」ようにいさめましたが、袁譚えんたん袁尚えんしょう劉表りゅうひょう諫言かんげんに従いませんでした。

袁譚えんたんへの書簡

タップ(クリック)すると開きます。

天のくだした災害は重く、わざわいは盛んに起こっております。父君(袁紹えんしょう)は他界され、天下の人々は哀悼あいとうしております。賢明なご子孫が血筋を継がれたため、遠きも近きも期待をいだき、みな腕力を発揮して盟主(袁氏えんし)に身を投じたいと願っており、それは死ぬ日にあたって、なお生きる望みを得たようなものでした。

ところが、干旌はた青蠅あおばえたかるように費無極ひぶきょく春秋しゅんじゅう時代のの臣)のような邪悪な臣がお2人のとりでの間を泳ぎ回り、ももひじを分けて2つの身体とし、背とせぼねを断ち切って別の身体とする()ことがあろうとは、どうしてさとることができたでしょうか。

昔、三王さんおう禹王うおういん湯王とうおうしゅう文王ぶんおう五覇ごは春秋しゅんじゅう時代の5人の覇者)の時代からくだって戦国せんごく時代に至るまで、父子ふし相剋そうこくということは、あることにはありました。しかしながら、ある者は王業を成就じょうじゅしたいと願い、ある者は覇業を定めたいと願い、ある者は本家の地位をはっきりさせたいと願い、またある者は世子せいし(後継ぎ)を確固たるものにしたいと願ったもので、親を見棄みすてて他人につき、そのみきや根(同族)を揺さぶりながら、功業を高め功績を成しげて、位を子孫に伝えた者はいまだかつて存在しません。

例えば、せい襄公じょうこうは遠祖9世の復讐をげ、しん士匄しかいは、せいとの戦争の途中で死んだ荀偃じゅんえんの仕事をやりげさせるために、彼のおいを任命してやったのですが、このために春秋しゅんじゅうではその道義を賛美し、世の君子はその信義を称賛しているのです。

そもそも伯游はくゆう荀偃じゅんえん)のせいへのうらみも、き父君(袁紹えんしょう)の曹操そうそうへの憤怒ふんどほどではなく、范宣子はんせんし士匄しかい)が仕事を荀偃じゅんえんおいに引き継がせたのも、仁君じんくん袁譚えんたん)が血筋を継いだのには及びません。

その上、君子は危難を逃れて敵国に行くことはしないもの、一体先君(袁紹えんしょう)のうらみを忘れ、至親(袁尚えんしょう)への情愛をてて、万代の後まで鑑戒かんかいいましめ)となるようなことを行い、同盟者(劉表りゅうひょう)に対して恥辱を与えて良いものでしょうか。

冀州きしゅう袁尚えんしょう)が弟としての道義を尽くさず傲慢ごうまんであることは確かにその通りですが、仁君じんくん袁譚えんたん)にはこころざしげ身をはずかしめても、国家を正し救うことを義務となさるべきでしょう。

夫人(母)に憎まれているとはいっても、てい荘公そうこうに対する母・姜夫人きょうふじんほどではなく、兄弟仲が悪いとは言っても、重華ちょうかしゅん)に対するしょう傲慢ごうまんさほどではありません。このようでありながら、荘公そうこうには大隧トンネルの中の喜びがあり、しょう有鼻ゆうびを領地として受けております。

どうか古い怒りをて、旧来の恩義に遠く思いをせられ、母子兄弟元通りの姿に立ち戻られますように。


袁譚えんたん劉表りゅうひょうの手紙を受け取るとしょんぼりとし、城壁に登って涙を流していましたが、郭図かくとによって脅迫されている上に、何度も戦闘をまじえて抜き差しならない状態になっていたので、結局この諫言かんげんに従うことはできませんでした。

袁尚えんしょうへの書簡

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変事は辛評しんぴょう郭図かくとによって引き起こされ、兄弟の間に災禍さいかを生じたとうかがっておりますが、互いに攻め合った帝嚳ていこくの兄弟・閼伯あつはく実沈じっしんの跡を追い、詩経しきょう小雅しょうがおさめられた常棣じょうてい(詩歌の題)にみえる兄弟が相手の死を心配するという建前を忘れ、みずかたてほこもちい、倒れたしかばねから血が流れているとのこと。それを聞いて涙にむせび、生きた心地もいたしません。

昔、軒轅氏けんえんし黄帝こうてい)には、反乱を起こした蚩尤しゆうとの涿鹿たくろくの戦いがありましたが、いずれも悪人を駆逐くちくし、王業を安定させんがためであり、強弱を争い、喜怒の感情によるものではありません。だからこそ、身内を滅ぼしても非難を受けず、兄を誅殺ちゅうさつしても道義にもとることにはならないのです。

今、2君(袁譚えんたん袁尚えんしょう)は大業を受け継がれ、前代の跡を継承されたばかりで、公的には国家の危機を打開する方法を考慮する必要があり、私的にはき父君(袁紹えんしょう)の遺恨いこんを晴らす責任がありますので、ただ道義を守ることのみにつとめ、国家を安定なさるべきです。

なぜならば、金と木、火と水は、剛と柔によって互いにおぎない合って初めて調和を得ることができ、民衆に有用となるからです。

今、青州せいしゅう袁譚えんたん)は短気な性格で曲直きょくちょく(不正と公正)に暗い方です。仁君じんくん袁尚えんしょう)は度量広大、ゆったりと余裕を持っておりますから、大をもって小を包み込み、すぐれた面をもっておとった面を受け入れるべきかと存じます。

まず曹操そうそうを滅ぼして父君のうらみを晴らされ、事が終わった後で初めて曲直きょくちょくをはっきりさせる態度を取られることこそ、望ましいのではありませんか。

もし遠大なる計画に留意され、みずからの欲望に打ち勝って、人の守るべき道に立ち返られるならば、軍旗を振るって遠征され、協力して王室を盛り立てられるべきです。もし迷いから覚めることがなく、人の道にそむいて改めることがなければ、夷狄いてきすら非難の言葉をびせることになりましょう。まして我ら同盟国は、どうして君の戦いに協力することなどできましょうか。

それこそ、昔、韓盧かんろ(足の速い猟犬の名)と東郭とうかくかしこうさぎの名)が追いかけ合って、目の前で疲れ果てていたため、百姓ジジイの獲物となったような始末になるでしょう。イライラと首を長くして、仲直りの声を聞くことを待ち望んでおります。

もし、君子の道が長じ、小人の道が消滅するというたいに相当するならば、袁氏えんし一族はかん王朝と共に隆盛となるでしょう。もし、小人の道が長じ、君子の道が消滅するというに相当するならば、同盟国の希望は永遠に断たれてしまうでしょう。

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袁譚が曹操に降伏する

荀攸の進言

袁譚えんたんが派遣した辛毗しんぴが、豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん西平県せいへいけんに駐屯する曹操そうそうの元に到着し、「降伏したい」と願い出て救援を要請しました。

曹操そうそうはこれを「承知する」つもりで配下の者たちに問うと、多くの者たちは、


劉表りゅうひょうは強敵ですので、これを先に平定するのが妥当だとうであり、袁譚えんたん袁尚えんしょうなぞ気にかけるまでもない」


と主張しましたが、そこに荀攸じゅんゆうが進み出て言いました。


「天下に騒動が起こっていますのに、劉表りゅうひょう長江ちょうこう漢水かんすいを保持して動こうとしません。彼が周囲に対して野心を持たぬことは察知できましょう。

一方、袁氏えんし一族は4つの州[冀州きしゅう青州せいしゅう幽州ゆうしゅう幷州へいしゅう并州へいしゅう)]を根城として、武装兵10万をようし、袁紹えんしょうは寛大さと厚情によって人々の気持ちを把握しておりました。万一、2人の息子が和睦わぼくして、父の成しげた事業を守るならば、天下の兵難はまだまだ終息しないでしょう。

今、兄弟は互いに憎み合っております。これはどちらかが倒れる形勢です。もしどちらかが一方を併呑へいどんするようなことがあれば、その力は1つにまとまります。1つにまとまれば手を下すことは難しいでしょう。

彼らの混乱に乗じてその地を取れば、天下は平定されます。この機会をのがしてはなりません」


すると曹操そうそうは、


わし呂布りょふを攻撃した時、劉表りゅうひょうは侵略して来なかった。また、官渡かんとの戦役では袁紹えんしょうを救援しなかった。劉表りゅうひょうは自己保全のみを願う賊徒ぞくとである。後回しにして大丈夫だ。

袁譚えんたん袁尚えんしょう狡猾こうかつであるから、その乱れにつけ込まなければならない。例え袁譚えんたんが不誠実で最後まで大人おとなしくしていることはないとしても、我が軍が袁尚えんしょうを撃ち破り、その領地を全部手に入れるならば、利益は当然多い」


と言い、袁譚えんたんの降伏を受け入れ、救援することにしました。

辛毗の説得

ですがその数日後、曹操そうそうは気が変わって「先に荊州けいしゅう劉表りゅうひょう)を平定し、袁譚えんたん袁尚えんしょうを勝手に戦わせ疲弊ひへいさせる」ことを考えるようになりました。

別の日の宴席でのこと。袁譚えんたんの使者・辛毗しんぴは、曹操そうそうの様子から「方針に変更があったこと」をさとり、郭嘉かくかに相談します。

そして、郭嘉かくかから話を聞いた曹操そうそう辛毗しんぴに言いました。


袁譚えんたんは信頼できるか。袁尚えんしょうに必ず勝てるか。どうだ?」


すると辛毗しんぴはこれに答えて、「袁譚えんたん袁尚えんしょうの両軍は疲弊ひへいし、冀州きしゅうの領民は困窮こんきゅうしています。今こそ河北かほくを平定する絶好の好機であり、今をのがしてはなりません」ときました。

辛毗の返答・全文
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明公との曹操そうそう)には信義と詐術さじゅつについて質問されずに、ただその情勢のみを論ずるべきでありましょう。

袁氏えんしは元々兄弟が攻撃し合ってはおりますのは、他者がその隙に乗じることを考えず、自分だけが天下を平定できると思っているからです。今になって急に明公との曹操そうそう)に救援を求めたことから、袁譚えんたん窮状きゅうじょうは理解できるでしょう。

顕甫けんぽ袁尚えんしょうあざな)が、顕思けんし袁譚えんたんあざな)が困窮こんきゅうしているのを見ながら、なお攻め取れないでいるのは、それこそ力が尽き果てているからです。軍隊は外において敗れ、謀臣は内において殺され、兄弟が悪口を言ってせめぎ合い、国が分裂して2つになっております。

連年戦闘に明け暮れて、鎧兜には蟣蝨しらみが湧き、それに加えてひでりいなごの害があって、飢饉ききんが一斉に襲いかかり、国には穀物倉もなく、行軍には携帯食料もありません。上にあっては天が災害を下し、下にあっては人事が行きまり、民衆は愚者と智者の区別なく、みな土のくずれるごとくくずれ、かわらくだけるごとくくだけ散る運命を知っております。これこそ天が袁尚えんしょうほろぼす時です。

兵法では、石の城と熱湯の池がめぐり、鎧武者100万をようしても、穀物がない場合には守ることができないと申しております。今、ぎょう攻撃に出向いた場合、袁尚えんしょうは救助に引き返さなければ自領を守ることができず、救助に引き返せば袁譚えんたんがその背後を追うことになります。

明公との曹操そうそう)のご威光をもって、困窮している敵に対応し、疲弊ひへいしているぞくを攻撃するのは、迅風はやてが秋の葉を振るい落とすのと変わりはないでしょう。

天が袁尚えんしょうを(恰好かっこうまととして)明公との曹操そうそう)に与えているのに、明公との曹操そうそう)は受け取らずに荊州けいしゅうを討伐されるとか。荊州けいしゅうは物は豊かで人は楽しんでおり、国にはまだ隙がございません。仲虺ちゅうきいん湯王とうおうの臣)に「乱れた国を取り、ほろびかけている国を侮辱する」*1という言葉がございます。

現在、両方の袁氏えんしは共に将来の計画につとめず、内部で互いに攻め合っており、乱れていると言って良いでしょう。家にいる者には食がなく、外に出掛けた者にはかてがないので、ほろびかけていると言って良いでしょう。

冀州きしゅうの領民は)朝に夕べのことを考えられず、民の命の綱が断ち切れているというのに、[明公との曹操そうそう)は]彼らを落ち着かせる手も打たず、次の年を待つつもりでおります。

次の年になって、あるいはみのりがあり、その上、(袁氏えんしが)みずかほろびかけていることに気づき、心を入れ替えてその徳をおさめたとしますと、兵をもちうべき絶好の機会を失うことになりましょう。

今、その救援の要請を利用して彼(袁譚えんたん)をいたわりますれば、利益は莫大ばくだいであります。それに四方からの侵略は河北かほくが最大です。河北かほくが平定されれば、六軍りくぐん天子てんしの軍)は盛んになり、天下は震えおののきましょう。

脚注

*1春秋左氏伝しゅんじゅうさしでん宣公せんこう12年


曹操そうそうは「し」と一言ひとこと発すると、袁譚えんたんに対して和議を認め、冬10月、袁尚えんしょうを攻撃するため冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに駐屯し、子の曹整そうせい袁譚えんたんの娘を縁組えんぐみさせました。

豆知識

曹操そうそうの子・曹整そうせい袁譚えんたんの娘が縁組みをした建安けんあん8年(203年)冬10月は、袁紹えんしょうの死からこの時まで、一周忌いっしゅうきを5ヶ月過ぎただけでした。

袁譚えんたんは家を出て伯父おじ袁成えんせいの家を継いでいましたので、袁紹えんしょうのために3年のに服す必要はありませんが、2年以内に婚礼を行うのは道義に外れることとされていました。

魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎの注において裴松之はいしょうしは、

曹操そうそうは臨時の処置として婚約をしただけかもしれない。ここで『縁組えんぐみ』をしたと言うが、必ずしもただちに婚礼をしたとは限らない」

と言っています。

呂曠・呂翔(高翔)の帰順

袁尚えんしょうは「曹操そうそう豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん西平県せいへいけんから北上して黄河こうがを渡っている」と聞くと、青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけんの包囲をいて冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに帰還します。

この時、兗州えんしゅう東平国とうへいこく出身の呂曠りょこう呂翔りょしょう*1が、袁尚えんしょうそむ)背いて兗州えんしゅう東郡とうぐん陽平国ようへいこくに駐屯していましたが、軍勢をげて曹操そうそうに降伏し、列侯れっこうに封ぜられました。

脚注

*1後漢書ごかんじょ袁譚伝えんたんでんでは高翔こうしょう

袁譚の陰謀

袁尚えんしょう鄴県ぎょうけんに帰還して平原県へいげんけんの包囲がかれると、袁譚えんたんは内密に将軍しょうぐん印綬いんじゅ呂曠りょこうに与えましたが、呂曠りょこうはそれをそのまま曹操そうそうの元に送り届けてしまいます。

すると曹操そうそうは、


わしは当然、袁譚えんたん小賢こざかしい計略をめぐらせていることを知っている。

わし袁尚えんしょうを攻撃させておいて、その間に民衆を取り込み軍勢を集め、袁尚えんしょうが敗れれば自分(袁譚えんたん)は強力になって我が軍の疲弊ひへいにつけ込むつもりなのだ。

袁尚えんしょうが敗れれば我が軍はさかんになる。どうやって疲弊ひへいにつけ込むつもりなのだ?」


と言いました。


建安けんあん8年(203年)8月、荊州牧けいしゅうぼく劉表りゅうひょうを征討するため、曹操そうそう豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん西平県せいへいけんに駐屯すると、袁尚えんしょうみずから兵をひきいて冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけん袁譚えんたんを攻撃し、この戦いに大敗北した袁譚えんたん青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけんに逃亡します。

滅亡の危機にひんした袁譚えんたんは、曹操そうそう辛毗しんぴを派遣して「降伏」を条件に救援を求め、曹操そうそうはこれを認めて袁尚えんしょう攻撃のため冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに駐屯しました。

ですが、曹操そうそうを迎え撃つため袁尚えんしょう平原県へいげんけんの包囲をくと、早速袁譚えんたんは、曹操そうそうに帰順した呂曠りょこう呂翔りょしょうを取り込もうとしますが、この行為は呂曠りょこうによって曹操そうそうに筒抜けになっていたのでした。