建安けんあん9年(204年)春2月、曹操そうそう鄴県ぎょうけん攻略の緒戦しょせん袁尚えんしょう不在の審配しんぱいが守る鄴県ぎょうけん攻撃と、袁尚えんしょう主簿しゅぼ李孚りふの活躍についてまとめています。

スポンサーリンク

曹操の北伐

袁譚の降伏

建安けんあん8年(203年)5月、冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんを攻撃しようとしていた曹操そうそうが、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに帰還すると、不仲であった袁尚えんしょう袁譚えんたんはついに兵刃へいじんまじえるようになりました。

そして、袁尚えんしょうとの2度の戦いに敗北した袁譚えんたん青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけんに逃亡。袁尚えんしょう平原県へいげんけんを包囲された袁譚えんたんは、劉表りゅうひょう征討のため豫州よしゅう予州よしゅう)・汝南郡じょなんぐん西平県せいへいけんに駐屯していた曹操そうそうに降伏して救援をいます。


関連地図

関連地図

その後、袁譚えんたんの降伏を受け入れた曹操そうそうが、袁尚えんしょう攻撃のため冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに進軍すると、袁尚えんしょう平原県へいげんけんの包囲をいて鄴県ぎょうけんに帰還しました。

関連記事

袁尚が袁譚を攻撃する

建安けんあん9年(204年)春正月、曹操そうそう黄河こうがを渡り、淇水きすいの流れをき止めて白溝はくこう(運河)に水を入れ、糧道りょうどうを通じました。

2月*1袁尚えんしょうは、冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんの守備に審配しんぱい蘇由そゆうを残して、再び青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけん袁譚えんたんを攻撃します。


淇水(きすい)と洹水(かんすい)

淇水きすい

洹水かんすい


この時審配しんぱいは、袁譚えんたんに書簡を送って兄弟の仲を修復しようとしましたが、袁譚えんたんは聞き入れませんでした。

審配の書簡・全文
タップ(クリック)すると開きます。

私が聞きますに、良薬は口ににがいがやまいに効果があり、忠言は耳に痛いが行いに便宜べんぎがあると申します。どうか将軍しょうぐん袁譚えんたん)には心をおだやかにして怒りをおさえ、最後まで私のつまらぬ文辞ぶんじかえりみてください。

思いますに春秋しゅんじゅうの義によれば、国君こくくん(一国の君主)は社稷しゃしょくのために死し、忠臣は君命のために死すものです。仮にも宗廟そうびょうあやうくするようなことをはかり、国家を騒ぎ乱すようなことは、親疎しんそを問わず一様に法が適用されるものです。

このため周公しゅうこうは涙を流しながら、兄弟である管叔かんしゅく蔡叔さいしゅくの罪をち、季友きゆうはすすり泣いて兄の叔牙しゅくが誅殺ちゅうさつを行ったのです。なぜならば、義は重く人は軽く、やむを得ない事態であったためです。

昔、先公せんこう袁紹えんしょう)は将軍しょうぐん袁譚えんたん)を廃嫡はいちゃくして賢兄けんけい(早世した伯父おじ袁成えんせいの子)の跡を継がせ、我が将軍しょうぐん袁尚えんしょう)を立てて嫡嗣ちゃくしとし、上は祖霊に報告し、下は系図に書きしるし、天下の者は遠近を問わず誰もがつぶさにこれを聞きました。

ところが思いもよらないことに、凶臣である郭図かくとがみだりに蛇足だそくえがき、言葉をねじ曲げてびへつらい、親族同士を混乱させようとは。将軍しょうぐん袁譚えんたん)に孝友の仁を忘れさせ、閼伯あつはく実沈じつしんの跡を継がせ、兵を放って略奪と攻撃を行い、城を破壊し役人を殺害し、罪なくして死んだ者の魂は黄泉よみで痛みなげき、傷つき倒れた者は草むらをおおうに至らせたのです。

さらに鄴城ぎょうじょうを獲得することをはかって、漢民族と異民族への賞賜しょうしを許し、その財物と婦女は、あらかじめ分け前が決まっておりました。また、「私には老母がいるが、捕らえた際に五体がそろっていればそれで良い」と言ったと聞きます。この言葉を聞いた者で、心をいたませ涙を流さぬ者は誰もおらず、母君をうれかなしませいきどおらせ、我が州の君臣は眠れず悲嘆ひたんに暮れました。

じっと手を組んで黙ったまま執事あなたの計画にお任せすると、春秋しゅんじゅうの君命のために死ぬという節義にそむき、母君に不測の憂患ゆうかんを残し、先公せんこう袁紹えんしょう)の非常なる立派な事業をそこなってしまうことをおそれます。我が将軍しょうぐん袁尚えんしょう)が止めようとしてもどうにもならず、このため館陶かんとうの戦いに至ったのです。

つつしんで考えますに、将軍しょうぐん袁譚えんたん)のあふれんばかりの至孝の情は幼少の頃より発し、兄弟思いの性格は自然に生じ、これを飾るに聡明さにより、これを行うに敏達さにより、古今の人物の挙措きょそ(立ち居振る舞い)を見、興亡のきざしをながめ、栄誉財産を糞土ふんどよりもつまらぬものとして軽んじ、名声地位を山岳よりも高いものとしてとうとんでおります。

どうして思うでしょうか、将軍しょうぐん袁譚えんたん)がにわかに迷いしずみ、賢人のみさおそこない、うらみを積み怒りに任せ、家を滅ぼすようなわざわいを取ろうとしておられることを。爪先立って首を伸ばし、仇敵を待ち望み、慈愛深い親を虎狼の牙の中に投じ、それによって一時のこころざしを欲しいままにしようとするのは、痛ましいことではありませんか。

もし天があなたの心をひらき、あなたの計画を改め考えを変えたならば、我が将軍しょうぐん袁尚えんしょう)は匍匐ほふくして将軍しょうぐん袁譚えんたん)の膝上で悲泣し、私たちもまた身体を横たえて斧鑕ふしつ(腰斬)の刑を受け入れる覚悟です。

もし改めないのであれば、わざわい将軍しょうぐん袁譚えんたん)に及ぶことでしょう。どうかよくよく吉凶をつまびらかにして、かんのごとく仲を修復されるか、けつのごとく関係を断って訣別けつべつするかをご考慮し、その返答をたまわりますよう。


袁尚えんしょう曹操そうそうを迎え撃つために鄴県ぎょうけんかえったはずですが、すぐにまた城を出て袁譚えんたんを攻撃するのは不自然な気がします。

おそらく袁尚えんしょうは、また袁譚えんたんと協力して曹操そうそうを防ぎたいと思い、審配しんぱいに説得させたが、袁譚えんたんが聞き入れなかったため、短絡的にこれを攻めたのだと思われます。

脚注

*1後漢書ごかんじょ袁譚伝えんたんでんでは3月。


スポンサーリンク


鄴城(鄴県)の攻防

緒戦の敗北

曹操そうそうが軍を進めて冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんから50里(約21.5km)の洹水かんすいまで来た時、鄴県ぎょうけんの守将の1人・蘇由そゆうは内応しようとしましたが、計画が露見ろけんして審配しんぱいと市街戦となり、敗北して曹操そうそうもとに逃げ込みました。


曹操そうそうはそのまま前進して鄴県ぎょうけんに攻撃を加え、地下道を掘りましたが、審配しんぱいもまた内部から塹壕ざんごうを掘ってこれに対抗します。

この時、審配しんぱいの大将・馮礼ふうれいが内応し、突門とつもん*2を開いて曹操そうそうの兵士3百人余りを内部に引き入れたところ、これに気づいた審配しんぱいが城壁の上から大石を落として通路にある柵門さくもんに当てたので、柵門さくもんは閉まってしまい、中に入った者たちは全滅してしまいました。

脚注

*2守備軍が奇襲のため城壁に穿うがった小さなくぐり門。

支城を落とす

緒戦しょせんで敗北した曹操そうそうは、先に冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんを支える周辺の城の攻略に取りかかります。

毛城もうじょう

冀州きしゅう魏郡ぎぐん武安県ぶあんけん県長けんちょう尹楷いんかい毛城もうじょうに駐屯しており、幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上党郡じょうとうぐんからの糧道りょうどうを確保していました。

夏4月、曹操そうそう曹洪そうこう鄴県ぎょうけんの攻撃に残し、自身で兵をひきいて尹楷いんかいを攻撃し、これを撃ち破ります。

邯鄲県かんたんけん

また、袁尚えんしょうの将・沮鵠そこく冀州きしゅう趙国ちょうこく邯鄲県かんたんけんを守っていましたが、これを攻撃して陥落かんらくさせました。

易陽県えきようけん渉県しょうけん

冀州きしゅう趙国ちょうこく易陽県えきようけん県令けんれい韓範かんはんは「県をげて降伏する」といつわり、実際は城を守って抵抗していたので、曹操そうそう徐晃じょこうを派遣してこれを攻撃させました。

徐晃じょこうは到着すると城中に矢を射込み、韓範かんはんに事の結果について説明してやります。すると韓範かんはんは降伏しなかったことを後悔したので、徐晃じょこうはすぐさま彼を降伏させました。

その後で徐晃じょこう曹操そうそうに進言します。


二袁にえん袁尚えんしょう袁煕えんき)はまだ撃破されず、まだ降伏しない諸城は耳を傾けて情報を聞いております。今日易陽県えきようけんを滅ぼしますれば、明日はすべて必死になって守りましょう。おそらく河北かほくの地域は安定する時がありますまい。どうかとの曹操そうそう)には易陽県えきようけんを降伏させ、それを諸城にお示しください。さすればうわさを聞いて従わない者はございますまい」


易陽県えきようけんが降伏すると、冀州きしゅう魏郡ぎぐん渉県しょうけん県長けんちょう梁岐りょうきも県をげてくだり、曹操そうそう韓範かんはん梁岐りょうき関内侯かんだいこうの爵位を与えました。


関連地図

関連地図

黒山賊こくざんぞく張燕ちょうえん

またこの頃、黒山賊こくざんぞく張燕ちょうえん曹操そうそうに使者を派遣し、「官軍に助力したい」と申し入れて来たので、曹操そうそうは彼を平北将軍へいほくしょうぐんに任命しました。

曹操が塹壕を掘る

5月、曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんを包囲して土山と地下道を壊し、城の周囲40里(約17.2km)にわたって塹壕ざんごうを掘り、最初は浅く掘らせて、あたかも容易に越えることができるかのように見せかけます。

その様子をながめ見ていた審配しんぱいは、その塹壕ざんごうが浅いのを見て嘲笑あざわらい、えて出兵して妨害ぼうがいすることをしませんでした。

ところが曹操そうそうは、一晩かかってこれを広さ・深さ2丈(約4.62m)まで掘り進ませ、漳水しょうすいを決壊させてその水をそそぎ込みます。

これにより城の内外は遮断され、8月になる頃には城中の半分以上の者が餓死がししてしまいました。


スポンサーリンク


袁尚の主簿・李孚の活躍

李孚が使者に立つ

冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんの緊急事態を知った袁尚えんしょうは、1万余りの兵をひきいて救援に立ちかえろうと考え、鄴県ぎょうけんの守備兵が少ないことを案じた上に、審配しんぱいに外部の動勢を知らせるため、派遣する使者について主簿しゅぼ李孚りふに相談しました。

すると李孚りふは、みずからその使者になることを申し出て、おだやかで信頼の置ける者3人を自分で選び、武器を持たせずに携帯食糧と駿馬しゅんめを与えて出発します。

李孚りふは時折駅亭えきていで休息を取り、梁淇りょうきまで来ると問事もんじ*3の杖・30本をつくらせて馬の腹につなぎ、自分は平上幘へいじょうさく(武官がもちいる頭巾)をつけ、夜陰にじょうじて鄴県ぎょうけんの辺りまで来ました。

李孚りふみずか都督ととくと称して曹操そうそうの包囲陣に近づくと、まるで任務を遂行しているかのように将兵たちを叱責しっせきしながら北・東・南と包囲陣をめぐります。

そして、曹操そうそうの陣営の前を通って章門しょうもんの前に到着した李孚りふは、城壁の上にいた男に縄で引き上げられて城内に入りました。


この報告を受けた曹操そうそうは、


「こ奴(李孚りふ)はただ入っただけではないぞ。今になんとかして、また出て来るはずだ」


と言いました。

脚注

*3巡察の時に杖を持って先払いする役人。

李孚の脱出

審配しんぱいらは李孚りふに会うと、喜んだり心配したり、太鼓を打ち鳴らしてはやし立て、万歳をとなえました。

任務を果たした李孚りふは早く帰還したいと思っていましたが、外の包囲が厳しく再び突破するのは難しい。

そこで李孚りふは、


「今、城中の穀物は少なく、老人や子供のために使うのは無駄です。追い出して穀物の使用を節約するに限ります」


と言いました。

そこで審配しんぱいはその夜、老人・子供、数千人を選び出し、全員に白旗を持たせ、3つの城門から同時に出て降伏させます。

李孚りふは元連れて来た者たちを従え、降伏者が着る服をしつらえ、彼らの後について夜のうちに城を出て包囲を突破することができました。


翌朝、李孚りふがすでに脱出したことを聞いた曹操そうそうは、


「やはりわしの言った通りだった」


と言って、手を打って笑いました。


建安けんあん9年(204年)春2月、曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんせまる中、袁尚えんしょう鄴県ぎょうけんの守備に審配しんぱい蘇由そゆうを残して、再び青州せいしゅう平原国へいげんこく平原県へいげんけん袁譚えんたんに向かいます。

鄴県ぎょうけんを守る審配しんぱいは、蘇由そゆう馮礼ふうれいの内応がありながらも城を固守。曹操そうそうは力攻めをあきらめて周辺の諸城を攻略すると、鄴県ぎょうけんの周囲に塹壕ざんごうを掘って漳水しょうすいの水をそそぎ込み、鄴県ぎょうけんを孤立させました。

ここに来て鄴県ぎょうけんの救援に向かうことにした袁尚えんしょうは、先に李孚りふを派遣して、鄴県ぎょうけんに援軍に向かっていることを知らせました。