袁譚滅亡後の幽州の様子と、曹操に降伏した幷州刺史・高幹の背反についてまとめています。
スポンサーリンク
袁煕・袁尚が烏丸族を頼る
王松・劉放の帰順
当時、幽州・涿郡を根拠にしていた幽州・漁陽郡出身の王松は、曹操が官渡で袁紹を撃ち破った時、彼の下に身を寄せていた劉放の進言を受け、「いち早く曹操に帰順すること」に賛成していました。
幽州・涿郡
劉放の進言・全文
タップ(クリック)すると開きます。
先頃、董卓が反逆を起こすと、英雄たちが次々と起ち上がり、官軍を阻止して勝手に命令を出し、各自 自己の勢力拡大につとめておりました。
ただ曹公(曹操)だけがよく危機騒乱を救い、天子を奉戴してその『お言葉』をかしこみて罪ある者を討伐しており、向かうところ必ず勝利を得ております。2袁(袁紹・袁術)の強大さをもってしても、守りにまわれば(袁術は)淮南で氷の如く消え去り、戦えば(袁紹は)官渡で大敗北を喫しました。勝利に乗じて席巻し、今にも河朔(河北地方)を掃蕩しようとしております。
その武威と刑罰はすでに行き渡り、大勢の行き着くところは目に見えております。早く駆けつける者は幸せを得られますが、後から服従する者は先に滅亡することになります。それこそ1日の終わるのを待たずに馳せ参ずる時です。
昔、黥布は南面(君主)の高貴を投げ捨て、剣を杖に持ち替えて漢に身を寄せました。真に興亡の理をわきまえ、去就の定に明らかであったと申せましょう。将軍(王松)には身を投げ出し命を委ね、ご自身から固い結びつきをすべきです。
そんな折り、袁譚を征討した曹操が文書をもって王松を招いたので、王松は勢力範囲の、
- 幽州・漁陽郡・雍奴県
- 幽州・漁陽郡・泉州県
- 幽州・広陽郡・安次県
を土産にして曹操に服属しました。
雍奴県・泉州県・安次県
この時劉放は、王松のために曹操への返書をしたためましたが、その文章が非情に流麗であり、また、劉放が王松に帰順を進めたことを聞き、感心して劉放を招聘することにします。
建安10年(205年)、劉放が王松と共に都に到着すると曹操は大いに喜んで、劉放に向かって言いました。
「昔(後漢の初め)、班彪は竇融に従っていたが、竇融に漢に仕えることを勧め、河西(竇融の勢力範囲)を漢のものとする功績があった。今回のことと、なんと似ていることか」
そこで曹操は、劉放を司空の軍事に参画させました。
焦触・張南の帰順
袁煕(袁熙)・袁尚が逃走する
建安10年(205年)春正月、袁煕(袁熙)の将軍・焦触、張南らが、袁煕と袁尚に背いて彼らを攻撃します。
袁煕と袁尚は、
- 幽州・遼西郡の蹋頓
- 幽州・遼東郡の蘇僕延
- 幽州・右北平郡の烏延
ら3郡の烏丸族の元に逃走しました。
遼西郡・遼東郡・右北平郡
3郡の烏丸族
その昔、3郡の烏丸族は天下の動乱につけ込んで幽州に侵入し、漢の住民・合計10余万戸を略取していました。
袁紹はその酋長たちをすべて単于に取り立ててやり、従者の子を自分の娘にしたてて彼らに娶せました。
中でも最も強力な遼西郡の蹋頓が袁紹に厚遇されていたので、袁尚兄弟は彼を頼ったのでした。
関連記事
焦触・張南らの帰順
焦触は自分勝手に幽州刺史と号して諸郡の太守や県令・県長を駆り立てると、兵数万を連ね、白馬を殺して血をすすって盟約を結んで、「袁尚を裏切って曹操につく」命令を下して、
「命令に背く者は斬るぞっ!」
と言ったので、人々は思いきって言葉を発する者もなく、それぞれ順番にその血をすすります。
ですが、別駕の韓珩の番になった時、韓珩は、
「私は袁公父子の大恩を受けた者である。今、主家が敗れ滅亡したのに救う知力もなく、討ち死にする勇気もなかったのは、信義において欠けるものです。それを曹操に北面して仕えることなどできないことです」
と言いました。
その場にいた者たちは韓珩の身を案じて顔を蒼くしていましたが、焦触は、
「そもそも、大事を起こすには大義に立脚せねばならず、事が成就するかしないかは、1人だけの力にはよらぬものである。韓珩の意志を貫かせてやり、主君に仕える者を励ましてやるがよかろう」
と言い、韓珩を自由にさせました。
こうして焦触らは県をあげて曹操に降伏し、列侯に封ぜられました。
曹操の情け
以前、曹操が袁譚を討伐した時、川や運河の水が凍っていたので、住民を使って氷を叩き割らせて船を通しましたが、役務を放棄して逃亡した住民がいました。
曹操は彼らの降伏を許さないという布令を出していましたが、しばらくすると、逃亡した民の中から軍門に出頭して自首した者がいました。
曹操はその者に向かって言いました。
「お前を許せば布令に違反することになるが、お前を殺せば自首した者を処刑することになる。帰って役人に捕らえられないように深く隠れておれ」
自首して来た民は、涙を流しながらその場を去りましたが、結局後になって逮捕されてしまいました。
スポンサーリンク
幽州と幷州の騒乱
黒山賊・張燕の降伏
夏4月、黒山賊の張燕がその軍勢10余万を率いて降伏し、安国亭侯に封ぜられ、封邑500戸を与えられました。
幽州の騒乱
幽州・涿郡・故安県の趙犢、霍奴らが、幽州刺史と涿郡太守を殺害し、また、3郡の烏丸族(蹋頓・蘇僕延・烏延)が幽州・漁陽郡・獷平県にいる鮮于輔を攻撃しました。
秋8月、曹操はこれを征討して趙犢らを斬り、潞河を渡って獷平県の鮮于輔を救援すると、烏丸族(蹋頓・蘇僕延・烏延)は国境を出て遁走しました。
関連地図
曹操が鄴県に還る
9月、曹操は「冀州の風俗を正す」内容の布令を出し、冬10月に冀州・魏郡・鄴県に還りました。
曹操の布令・全文
タップ(クリック)すると開きます。
阿諛迎合(媚びて機嫌を取ること)して徒党を組むことは、過去の聖人が憎んだことである。聞くに冀州の風俗は、父と子が党派を異にし、互いに批判し合い称誉し合うとか。
昔、直不疑(前漢の臣)は兄もいないのに世間の人に嫂と密通したと言われ、第五伯魚(第五倫、後漢の臣)は3度親のない娘を娶ったが、嫁の父親を鞭打ったと言われ、王鳳(前漢の大将軍にして外戚)が権力を我が物にしているのに、谷永は彼を申伯(周の宣王の臣にして外戚)になぞらえ、王商(前漢の臣)が忠誠な議論を述べているのに、張匡はそれを邪道だと言った。
これらはすべて白を黒とし、天を欺き君を蔑ろにする者である。
儂は風俗をきっちりと整えたいが、上の4つのことが除去されないのを恥と考える。
建安10年(205年)、曹操の招きを受けた幽州・涿郡の王松・劉放らが曹操に服属します。
また、袁煕の将軍・焦触・張南らが背いて袁煕と袁尚を攻撃し、曹操に帰順。敗れた袁煕と袁尚は3郡の烏丸族(蹋頓・蘇僕延・烏延)の元に逃走しました。
その後さらに幽州では趙犢・霍奴らが反乱を起こし、蹋頓・蘇僕延・烏延ら烏丸族が鮮于輔を攻撃。曹操はこれを征討すると、冀州・魏郡・鄴県に還りました。