建安8年(203年)の孫権による黄祖討伐と、豫章郡(予章郡)と会稽郡で起こった反乱の鎮圧についてまとめています。
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孫権の黄祖討伐と豫章郡の反乱
孫権の黄祖討伐
建安8年(203年)、孫権が西に軍を進めて黄祖を攻撃しました。
ですが、これを迎撃に出た黄祖の水軍を撃ち破ることはできましたが、まだ城を落とすことができずにいるうちに、山岳地帯の不服住民(山越)たちがまた動き始めたため、孫権は軍を還して反乱の鎮圧に向かいます。
豆知識
孫権が呉の軍の総指揮に当たるようになると、破賊校尉・凌操はその配下として江夏の黄祖討伐に向かいました。
夏口に侵入すると、凌操は真っ先に岸に登って敵の先鋒を破りましたが、足の速い舟で単身前進している時に、黄祖軍の殿*1をつとめていた甘寧に射殺されました。
脚注
*1退却する軍列の最後尾にあって敵の追撃を防ぐ部隊。
豫章郡の反乱の鎮圧
孫権は揚州・豫章郡(予章郡)まで来ると、
- 征虜中郎将の呂範に鄱陽県を平定させ、
- 盪寇中郎将の程普に楽安*1を討たせ、
- 建昌都尉の太史慈に海昬国を治めさせ、
別部司馬の黄蓋*3、韓当、周泰、呂蒙らを劇県(政情が不安定な諸県)の県令や県長に任命して山越を討伐させ、ことごとく平定させました。
豫章郡(予章郡)の反乱
豆知識
太史慈について。上記(『呉書』呉主伝)では、ここで初めて太史慈が海昬国を治めることになったように読めますが、『呉書』太史慈伝には、
「劉表の従子・劉磐は勇猛で、しばしば豫章郡(予章郡)の艾県や西安県などの諸県に攻め込んで荒らし回っていた。そこで孫策は海昬国と建昌県の近辺の6県を割き、太史慈を建昌都尉に任命して6県の統治に当たらせると、海昬国に役所を置かせ、部将たちを指揮して劉磐の侵攻を食い止めさせた。劉磐は姿を潜め、それ以降、侵入して荒らし回ることはなくなった」
とあり、太史慈は孫策の時代から海昬国を治めていたことが分かります。
脚注
*1楽安県は建安15年(210年)に豫章郡(予章郡)の北東部が分割されて設置された、鄱陽郡に属すが、建安8年(203年)当時、県として存在していたかは不明。
*2『資治通鑑』より。『呉書』呉主伝にも同様の記述があるが、韓当、周泰、呂蒙のみで黄蓋の名前はない。
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会稽郡の反乱
南部都尉・賀斉
また孫権は、揚州・会稽郡南部の建安県、漢興県(呉興県)、南平県で起こった反乱に対して、南部都尉の賀斉に討伐を命じ、賀斉は建安県まで兵を進めてそこに都尉の役所を置きました。
そして会稽郡の役所は、その配下の各県に指令を出して5千人の兵を徴発して軍団を作らせ、各県の知事がその指揮者となって、みな賀斉の指図の下に入らせます。
賀斉が丁蕃を斬る
一方、反乱軍の方は、
- 不服住民の洪明、洪進、苑御、呉免、華当ら5人はそれぞれ1万戸を指揮して漢興県(呉興県)に本営を連ねて置き、
- 呉五は6千戸を率いて大潭に本営を置き、
- 鄒臨は6千戸を率いて蓋竹に本営を置いて、
それぞれ揚州・豫章郡(予章郡)・余汗県まで兵を進めてきました。
会稽郡の反乱
この時賀斉は、漢興県(呉興県)の討伐に向かう途中で余汗県までやって来ましたが、叛徒たちの数が多く官兵が少ないことから、深く攻め込めば後が続かず退路を断たれてしまうことを恐れ、松陽県長の丁蕃に命じて余汗県に留まって敵の動きに備えるように指示を出します。
ですが、元々賀斉と隣り合う城を治めた同輩だった丁蕃は、彼の指図を受けることを恥だと考え、余汗県に留まろうとしませんでした。
賀斉がやむを得ず丁蕃を斬ると、それ以降は全軍が震え上がって、彼の命令に違反する者はいなくなりました。
地図を確認して見てみると「漢興県(呉興県)の討伐に向かう途中で余汗県に来た」というのは不自然な気がします。
おそらく賀斉は、まず最初に敵の攻撃目標である余汗県の救援に向かい、そこから攻勢に転じて漢興県(呉興県)に向かうにあたって、丁蕃に余汗県を守らせようとしたものと思われます。
反乱の鎮圧
結局賀斉は、兵の一部を余汗県の守備に留めて洪明らの討伐に出陣し、続けざまに勝利を収めて洪明を斬ると、呉免、華当、洪進、苑御らは降伏しました。
そして、その後方向を転じて蓋竹を討ち、軍が大潭に迫ると、3人*3の敵将も降伏。この戦いの中で斬首した者は6千人に達し、名のある頭目はことごとく捕虜にしました。
反乱を鎮圧した後、賀斉は再び県や邑の行政機構を再編成し、この地域から選抜して兵士1万人を軍に編入しました。
またこの功績により、賀斉は平東校尉に任命されました。
脚注
*3はじめに名前が挙がった敵将は7人。洪明が斬られ、呉免、華当、洪進、苑御らが降伏すれば、残りは2人のはずである。2人の間違いか、名前の挙がっていない敵将がいたのかは不明。
建安8年(203年)、孫権が西に軍を進めて黄祖を攻撃し、迎撃に出た黄祖の水軍を撃ち破りますが、まだ城を落とすことができずにいるうちに、山岳地帯の不服住民(山越)たちが背後の豫章郡(予章郡)と会稽郡で反乱を起こしました。
そこで孫権は、仕方なく黄祖の攻撃をあきらめ、軍を還して反乱の鎮圧に向かうと、各地に配下の諸将を派遣して反乱を鎮圧しました。