建安けんあん8年(203年)5月、袁尚えんしょう袁譚えんたんを攻撃していた曹操そうそうの撤退と、その後に起こった袁尚えんしょう袁譚えんたんの争いについてまとめています。

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黎陽の戦い

黎陽の戦い

建安けんあん7年(202年)秋9月、曹操そうそう黄河こうがを渡って冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに陣を置く袁譚えんたんへの攻撃を開始。袁尚えんしょうみずから兵をひきいて袁譚えんたんの救援に向かい、曹操そうそう軍と袁尚えんしょう袁譚えんたん軍は黎陽県れいようけんの城下で対峙していくさを重ねました。


黎陽の戦い

黎陽れいようの戦い

袁尚・袁譚の敗走

建安けんあん8年(203年)春3月、曹操そうそうに敗北した袁尚えんしょう袁譚えんたん黎陽県れいようけん籠城ろうじょうしますが、曹操そうそう軍に包囲される前に、夜陰にまぎれて冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに逃亡しました。

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曹操の帰還

郭嘉の進言

夏4月、曹操そうそう袁尚えんしょう袁譚えんたん鄴県ぎょうけんまで追撃してその地の麦を奪取し、さらに張遼ちょうりょう楽進がくしんに命じて冀州きしゅう魏郡ぎぐん陰安邑いんあんゆうを陥落させ、その住民を司隷しれい河南尹かなんいんに移住させました。

将軍しょうぐんたちは勝ちに乗じて最後まで彼らを攻撃しようとしますが、そこへ郭嘉かくかが言いました。


袁紹えんしょうはこの2人の男子(袁尚えんしょう袁譚えんたん)を可愛がっていましたが、後継者を選べませんでした。郭図かくと逢紀ほうきが彼らの謀臣ぼうしんとなっていますが、その間で必ずや争いが起こり、離れ離れとなるでしょう。事を急げば彼らは助け合います。攻撃をゆるめれば、後に争いの心を起こします。

ここは南方の荊州けいしゅうに向かい、劉表りゅうひょうを征伐するような振りをして、彼らの変化を待つ方がよろしいでしょう。変化がはっきりした後に彼らを攻撃すれば、一挙に平定できます」


曹操そうそうは「もっともだ」と言い、5月、黎陽県れいようけん賈信かしんを残して駐屯させ、軍を引いて豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに帰還しました。

曹操の布令

豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに帰還した曹操そうそうは、3つの布令を出しています。

己酉きゆうの日(5月25日)の布令

司馬法しばほう*2に『将軍しょうぐんすい(退却)の責任を取らせて死罪に処す』とある。それゆえに、趙括ちょうかつの母は、趙括ちょうかつに連座しないことを要請したのである*3。これは、古代の将軍しょうぐんが国外において戦いに敗れると、家族が国内において罰を受けることを意味する。

将に命じて征討におもむかせる以上は、ただ功を賞するだけで罪を罰しないのでは、国家の規範に外れることになる。よって諸将に命じて出征させた場合、戦いに敗れた者は罪に該当がいとうさせ、利を失った者は官位・爵位を取り上げる。

脚注

*2司馬しば春秋しゅんじゅう時代、せい景公けいこう期の兵法家・司馬穰苴しばじょうしょのこと。戦国せんごく時代、せい威王いおう司馬穰苴しばじょうしょを含む古代の兵法家の兵法を編纂へんさん司馬法しばほうと名づけたと言う。元は155へんあったが、5へんが現存するのみで、ここに引くのは逸文いつぶん散逸さんいつした文)である。

*3戦国せんごく時代、ちょうの名将・趙奢ちょうしゃの子。彼の将軍しょうぐん任命に母は「そのうつわではない」と反対し、聞き入れられないと、連座しないで済むようにい許された。

庚申こうしんの日(6月7日?)の布令

意見を具申ぐしんする者の中には、軍吏ぐんりとして功績・能力があったとしても、徳行の点で郡国の首長に選ばれて任務をになうには不十分な者がいる。所謂いわゆるともに道にきも、いまともはかからず』である。

管仲かんちゅうは『賢者が能力によって俸禄を受けるならば 上の者は尊敬され、戦士が功業によって俸禄を受けるならば 兵卒は死を軽く見る(死を恐れない)。2つのことが国において確立されていれば、天下は治まる』と言っている。

無能の人・不闘の士が、共に俸禄・恩賞を受けながら、功業が打ち立てられ、国家が興隆したという話は聞いたことがない。

それゆえ名君は無功の臣を官位につけず、不戦の士に恩賞を与えない。泰平の時代には徳行を尊重し、有事の際は功あり能ある者に賞を与える。

論者の言葉は、まったくくだを通してのぞき見している虎*4に似ていることよ」

脚注

*4見識がせまいのに勇ましい発言をする者。

秋7月の布令

動乱以来15年間、若者たちはじんれいじょうの気風に接していない。わしはそれをはなはだ痛ましく思う。

よって郡国に命じてそれぞれ学問をおさめさせよ。5百戸以上の県には校官こうかんを置き、そのきょう(県の下の行政単位)の俊才しゅんさい抜擢ばってきして教育をほどこせ。

願わくは先王(過去の聖王)の道がすたれずに、天下の利益のあらんことを。

黎陽の戦いの勝敗について

黎陽れいようの戦い」について。以上は魏書ぎしょ武帝紀ぶていぎ魏書ぎしょ袁紹伝えんしょうでんもとにしていますが、その勝敗については異なった記述があります。

まず、後漢書ごかんじょ袁譚伝えんたんでんには、

「(袁譚えんたん袁尚えんしょうは)曹操そうそう黎陽れいようで対峙した。9月から翌年の3月に至るまで大いに城下で戦ったが、袁譚えんたん袁尚えんしょうは敗れて退却した。曹操そうそうがまさにこれを包囲しようとすると、夜にまぎれてぎょうに戻った。曹操そうそうは進軍したが、袁尚えんしょうが迎撃して曹操そうそうを破ったので、曹操そうそう軍はきょに帰還した」


とあり、また蜀書しょくしょ諸葛亮伝しょかつりょうでんが注に引く漢晋春秋かんしんしゅんじゅうにある、所謂いわゆる後出師表ごすいしのひょうには、


「(曹操そうそうは)黎陽れいようで追いつめられ」*5


とあることから資治通鑑しじつがん胡三省こさんせい注は「曹操そうそう黎陽れいようで敗れたことは確実で、(魏書ぎしょに敗戦の記述がないのは)の人が敗戦に触れることをけた結果である」と言っています。

脚注

*5後出師表ごすいしのひょうには「(曹操そうそうは)烏巣うそうひどい目にい」と、烏巣うそうでも敗北したように書かれているため、信憑性しんぴょうせいに欠けるところがある。


後漢書ごかんじょ袁譚伝えんたんでんに従って「曹操そうそうが敗北していた」と仮定すると、郭嘉かくかは「勝ちに乗じて袁尚えんしょうらを滅ぼそうとする諸将をなだめた」のではなく「袁尚えんしょうの反撃を受けて敗北したため、1度撤退すること」を勧めていたことになります。

また、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに帰還した曹操そうそうが「敗軍の将」についての布令を出していることから、これらの布令は「冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに逃亡した袁尚えんしょう袁譚えんたんを追撃し、反撃を受けて敗北した」ことをいましめているのではないでしょうか。


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袁尚と袁譚の争い

袁尚と袁譚の争い

5月、曹操そうそう豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに撤退を始めると、袁譚えんたん袁尚えんしょうに言いました。


「先の戦いでは我が軍の装備が不十分だったので、曹操そうそうに敗れることとなった。今、曹操そうそう軍は退却し、その兵士たちは故郷を恋しがっている。

曹操そうそう軍がまだ黄河こうがを渡りきらないうちに兵を出して包囲すれば、敵を壊滅させることができる。この機をのがしてはならない」


ですが、袁尚えんしょう袁譚えんたんを疑って増兵も装備の追加も許さなかったので、袁譚えんたんは激怒します。

またこの時、袁譚えんたん派の郭図かくと辛評しんぴょうが、


「先公(袁紹えんしょう)が将軍しょうぐん袁譚えんたん)を青州せいしゅうに派遣して兄*6の後継者としたのは、すべて(袁尚えんしょう派の)審配しんぱいの差し金です」


と言ったので、これを「もっともだ」と思った袁譚えんたんは、ついに兵をひきいて袁尚えんしょうを攻撃。郛郭ふかくの門(外門)で戦いましたが、袁譚えんたんは敗れ、兵を退いて冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけんに帰還しました。


冀州・勃海郡・南皮県

冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけん

脚注

*6養父・袁成えんせいの長男、または実兄・袁基えんき

劉詢の反乱

袁譚えんたん冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけんに帰還すると、別駕従事べつがじゅうじ王脩おうしゅう王修おうしゅう)が役人・住民をひきいて青州せいしゅうから袁譚えんたんを救援にやって来たので、袁譚えんたんは、


「我が軍を成り立たせているのは、王別駕おうべつが王脩おうしゅう)である」


と言って喜びました。


ですが、袁譚えんたんが敗れると、袁譚えんたんの将・劉詢りゅうじゅん青州せいしゅう平原国へいげんこく漯陰県とういんけん湿陰県しゅういんけん)で兵をげ、諸城はすべて呼応します。


劉詢の反乱

劉詢りゅうじゅんの反乱


「今、州をげて裏切りそむいているのは、わしの不徳のせいだろうか」


袁譚えんたん嘆息たんそくして言うと、王脩おうしゅう王修おうしゅう)が言いました。


「海沿いの地におります東萊太守とうらいたいしゅの管統かんとうは、きっとそむかずに救援に駆けつけるでしょう」


そして10日余り後、王脩おうしゅう王修おうしゅう)の言葉通り、管統かんとうは妻子を残して袁譚えんたんもとに駆けつけましたが、彼の妻子は反乱軍によって殺害されてしまいました。

袁譚えんたんは、改めて管統かんとう楽安太守らくあんたいしゅに任命しました。


この後、劉詢りゅうじゅんについての記述がないことから、この時管統かんとうらの働きによって劉詢りゅうじゅんの反乱は鎮圧されたものと思われます。

王脩(王修)の諫言

袁譚えんたんはまたも袁尚えんしょうを攻撃するつもりでいたので、王脩おうしゅう王修おうしゅう)が、


「兄弟なのに攻撃し合うのは、それこそ滅亡の道です」


いさめると、袁譚えんたんは不機嫌になりました。

ですが一方で王脩おうしゅう王修おうしゅう)の意志と節義を承知していたので、その後もう1度王脩おうしゅう王修おうしゅう)に、


「どんな計略を取れば良かろう?」


たずねました。すると王脩おうしゅう王修おうしゅう)は、


「例えるなら、兄弟とは『左右の手』のようなものです。人が闘おうとしている時に、自分の右手を斬り断って『私は必ずお前に勝つ』と言ったとすればどうでしょうか。また、兄弟をてて親愛しない者に、天下の誰が親しむでしょうか。

たまたま讒言ざんげんする者が現れて、互いに離間をはかることで利益を求めようとしても、耳をふさいでお聞きになりませぬように。

もし佞臣ねいしん(主君にこびへつらう家来)数人を斬り、再び互いに親睦し合って四方を防御なされば、思いのままに天下を闊歩かっぽできるでしょう」


と、再び袁尚えんしょうと手を組むように勧めましたが、袁譚えんたんは聞き入れませんでした。


前年の建安けんあん7年(202年)秋9月、曹操そうそう冀州きしゅう魏郡ぎぐん黎陽県れいようけんに侵攻し、袁尚えんしょう袁譚えんたんとの戦いが続いていました。

建安けんあん8年(203年)春3月、戦いに敗れた袁尚えんしょう袁譚えんたん冀州きしゅう魏郡ぎぐん鄴県ぎょうけんに敗走。曹操そうそうはこれを追撃しますが、袁尚えんしょうの反撃にって敗れ、5月、豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけんに撤退を開始します。

袁譚えんたんはこれを追撃することを主張し、袁尚えんしょうに増兵と装備の追加を求めますが、袁尚えんしょうは応じませんでした。激怒した袁譚えんたんはついに袁尚えんしょうを攻撃しますが、勝利を得ることはできず、兵を退いて冀州きしゅう勃海郡ぼっかいぐん南皮県なんぴけんに帰還しました。