正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉞、「王」から始まる人物の一覧㉝王毖・王秘(涼州・武威郡の人)・王秘(魏の将)・王必・王表・王美人(王夫人・献帝の母・霊懐皇后)・王布・王普・王誧です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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お㉞(王㉝)
王(おう)
王毖
生没年不詳。給事黄門侍郎。
建安25年(220年)、献帝は兼御史大夫の張音に節(使者の証)を持たせ、天子の印璽と綬(綬)を捧げて魏王(曹丕)に帝位を譲った。
この時王毖は、左中郎将の李伏に続いて、
- 侍中・劉廙、辛毗、劉曄
- 尚書令・桓階
- 尚書・陳矯、陳羣
- 給事黄門侍郎・董遇
らと、魏王(曹丕)を祝い、禅譲を受けるように勧める言上をした。
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王秘(涼州・武威郡の人)
生没年不詳。涼州・武威郡の人。
建安24年(219年)、雍州では、
- 武威郡の顔俊(顔雋)
- 張掖郡の和鸞
- 酒泉郡の黄華
- 西平郡の麹演
らが、それぞれ郡を挙げて反乱を起こし、自ら将軍と号して互いに攻撃し合った。
この時、顔俊は魏王・曹操に使者を派遣し、母と子を人質に差し出して救援を求めた。
曹操がこれについて張既に意見を求めると、張既は、
「顔俊らは、外は国威(朝廷の威光)を借りながら内では傲悖(傲慢と逆心)を抱いており、計が定まって勢力が拡大すれば即座に背くでしょう。今は蜀平定に注力すべき時ですので、しばらく彼らを並立させて闘わせ、(戦国時代の)卞荘子が虎を刺した時のように、座して共倒れするのを待つのがよろしいかと存じます」
と言い、曹操は張既の意見に従った。
その結果、1年余りして和鸞が顔俊を殺害し、武威郡の王秘がまた和鸞を殺害した。
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王秘(魏の将)
生没年不詳。魏の将。
正元2年(255年)、姜維と夏侯覇が3つの街道から祁山、石営、金城に侵攻した。
征西将軍・仮節・都督・雍涼諸軍事の陳泰は、敵が合流するのを待ってから攻略することとし、雍州刺史・王経を狄道に駐屯させて合流しようとしたが、王経は姜維と戦って大敗。狄道県に立て籠り、勝利に乗じた姜維はこれを包囲した。
陳泰は上邽に軍を置いて要所を守らせると、夜を日に継いで前進し、到着した鄧艾、胡奮、王秘らの援軍と共に隴西に進軍した。
鄧艾らは「今は隴西を守って姜維の勢いが衰えるのを待つ」ように主張したが、これを否定した陳泰はこっそり狄道の東南にある高い山の上に到達し、姜維と交戦して撤退させた。
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王必
生没年不詳。曹操配下。
建安3年(198年)、呂布が曹操に降伏した際、曹操が彼の縄目を緩めるように命じた。
すると、主簿の王必が走り出て「呂布は手強い男です。彼の軍勢がすぐ外にいるのですから、緩めてはなりません」と言ったので、曹操は「儂は本当は緩くしてやりたいのだが、主簿(王必)が許さないのだ。どうしようもないな」と言って、結局呂布の縄目を緩めなかった。
建安23年(218年)春正月、漢の大医令・吉本が少府の耿紀、司直の韋晃らと共謀して反乱を起こし、豫州(予州)・潁川郡・許県を攻めて丞相長史・王必の陣営に火を放った。
当時、荊州の関羽の勢いが盛んであり、魏王(曹操)は冀州・魏郡・鄴県に滞在し、許県に王必を残していた。
王必は典農中郎将・厳匡と共に討伐して彼らを斬ったが、この時受けた矢傷のため、14日後に亡くなった。
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王表
生没年不詳。揚州・臨海郡・羅陽県の神。
以前より揚州・臨海郡・羅陽県には神がいて、自ら王表と名乗っていた。
この神は民間を移り歩き、言葉を発し飲食をすることは、人間と変わりがなかったが、姿を見せることはなく、別に紡績と呼ばれる婢女(召使いの女)がいてこの神に仕えていた。
呉の太元元年(251年)夏5月、中書郎の李崇を派遣し、輔国将軍・羅陽王の印綬を授けて王表を迎えさせた。
李崇に付き従って都へと上る際、王表は李崇や都への途中の郡守・県令たちと議論したが、李崇たちには王表を言い負かすことができなかった。また王表は、途中の山川に対して、その1つごとに側仕えの女を遣ってその神々に挨拶をさせた。
秋7月、李崇が王表と共に都に達すると、孫権は蒼龍門(都・建業の東門)の外に王表のための屋敷を建ててやり、しばしば側仕えの臣下を遣わし、酒食を持って王表の元を訪れさせた。王表は水害や旱などの小さな事柄について予言をなし、それはよく的中した。
このことについて孫盛は、
「『国が興ろうとしている時、その国の主君は民衆の意見に聴き従い、国が亡びようとしている時、神の言葉に聴き従う』と聞く。孫権は、年老いて精神の張りを失い、讒佞の臣が側に仕え、嫡子を廃して庶子を立て、側室を正妻となした。徳にもとるところが多かったと言えよう。
しかも天命が己にあることを示す瑞祥を偽作し、邪神たちに福を求めようとした。国の亡びようとする兆しは、顕かではないか」
と言っている。
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王美人(王夫人・献帝の母・霊懐皇后)
生年不詳〜光和4年(181年)。冀州・趙国の人。祖父の王苞は五官中郎将であった。
容姿端麗な上に聡明で才能があり、書道と会計にも明るく、良家の子女として基準に適った容貌であることから、選ばれて霊帝の掖庭(後宮)に入った。
光和3年(180年)に何皇后が立てられ、自分が妊娠していることに気づいた王美人は、何皇后を恐れて薬を飲んで堕そうとしたが、胎盤は安定したままで動かず、またしばしば太陽を背負う光景を夢に見た。
そして光和4年(181年)、王美人は劉協(後の献帝)を生んだが、何皇后に酖殺(毒殺)された。霊帝は大いに怒り、何皇后を廃そうとしたが、多くの宦官が固くすがって取りなしたために取りやめにした。
霊帝は劉協が幼くして母を喪ったことを哀れみ、また王美人を偲んで「追徳賦」と「令儀頌」を作った。
後に愍帝(献帝:愍帝は蜀漢からの諡号)は、母の王夫人(王美人)を改葬し、霊懐皇后の尊号を奉った。
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王布
生没年不詳。揚州・淮南郡・寿春県の人。魏の部将。
呉の元興2年(265年)、孫晧(孫皓)の使者として魏に赴いた紀陟と弘璆は、魏の国境に入ると、「礼」に従って諱(皇帝の祖先の実名)を尋ね、国都に入るとその地の特別な風習について尋ねた。
この時、魏の部将の王布は馬射をやって見せ、終わった後で「呉の方々もこうしたことがお出来になるだろうか?」と尋ねた。
これに紀陟が「こうしたことは軍人や騎士たちがその職務として行うところです。士大夫やちゃんとした人物には、このようなことを行う者はおりません」と答えると、王布はひどく恥じ入った。
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王普
生没年不詳。広漢太守の主簿。
劉備が益州を平定した後のこと。広漢太守の夏侯纂が秦宓を招聘して師友祭酒とし、五官掾を兼ねさせて「仲父*1」と呼んだ。
秦宓が病気と称して邸に臥せっていたところ、夏侯纂は功曹の古朴、主簿の王普を引き連れ、食膳を持ち込んで秦宓の邸を訪れ、くつろいだ座談を楽しんだが、秦宓は以前の通り横になったままであった。
脚注
*1斉の桓公が管仲を尊んで「仲父」と呼んだことから、後に優れた臣下に対する尊称となった。
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王誧
生没年不詳。漢の議郎。
建安2年(197年)夏、漢の朝廷は議郎の王誧を使者として遣わして孫策を騎都尉に任命し、(父・孫堅の)烏程侯の爵位を嗣がせて会稽太守を兼任させると、呂布、陳瑀と共に袁術討伐の詔勅を下した。
孫策は「騎都尉のままで郡の太守を兼ねるのでは官職が軽すぎる」と考え、王誧にそれとなく「将軍の称号を得たい」との希望を伝えてきた。
そこで王誧は、すぐさまその権限で孫策を仮の明漢将軍に任命した。
また、漢の朝廷は王誧に王命を与えて南方の地を巡察すべく派遣した。この時王誧は、孫策が丹楊太守に任命した呉景を揚武将軍に任命し、丹楊郡(丹陽郡)の太守の職務はこれまで通りに執り行うことを承認した。
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