正史せいし三国志さんごくし三国志演義さんごくしえんぎに登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉝、「おう」から始まる人物の一覧㉜王図おうと王同おうどう王当おうとう王徳弥おうとくび王惇おうとん王買おうばい王範おうはんです。

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凡例・目次

凡例

後漢ごかん〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史せいし三国志さんごくしに名前が登場する人物はオレンジの枠、三国志演義さんごくしえんぎにのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。

目次


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お㉝(王㉜)

王(おう)

王図おうと

生没年不詳。領護軍将軍りょうごぐんしょうぐん

曹操そうそう魏公ぎこう就任を勧める30名の連名の中に「領護軍将軍りょうごぐんしょうぐん王図おうと」の名前がある。


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王同おうどう劉節りゅうせつの客)

生没年不詳。劉節りゅうせつの客。

荊州けいしゅうを平定した曹操そうそうは、司馬芝しばし青州せいしゅう済南郡せいなんぐん済南国せいなんこく)・菅県かんけん県長けんちょうに任命したが、当時天下は立て直されたばかりで法律を無視する者が多かった。

郡の主簿しゅぼ劉節りゅうせつは古い家柄の親分で、千余軒の子分を持ち、郡の外に出ると盗賊となり、中に入ると役人の統治を乱していた。

しばらくして、司馬芝しばし劉節りゅうせつの子分の王同おうどうらを兵士として取り立てようとしたところ、彼の掾史えんしが「劉節りゅうせつの家は前にも後にも役務を提供したことがございません。命令が届いた時にはかくまってしまい、必ず保留扱いとなります」と言いましたが、司馬芝しばしは聞き入れず、劉節りゅうせつに手紙を送って言った。

「君は大家たいかであり、そのうえ郡では股肱ここうの臣である。それなのに門下の客人はいつも役務にたずさわらないでいる。庶民たちの怨嗟えんさの的となっている上、うわさが上聞に達することもあるのだ。今、王同おうどうらを兵として徴発している。願わくはこの機会に出立しゅったつさせよ」

すでに兵は郡に集結しているのに、劉節りゅうせつ王同おうどうらをかくまい、一方では督郵とくゆうを動かして「兵士調達不足」のかどで県の責任を追求させたので、県の掾史えんし切羽せっぱまって、王同おうどうの代わりに行くことを願い出た。

そこで司馬芝しばしは、早馬で済南郡せいなんぐんに公文書を送り、詳しく劉節りゅうせつの罪を陳情した。

太守たいしゅ郝光かくこうは平素から司馬芝しばしを尊敬し信頼していたから、即座に劉節りゅうせつ王同おうどうの代わりに行かせたので、青州せいしゅうでは司馬芝しばしを「郡の主簿しゅぼを兵卒とした」とはやした。


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王同おうどう烏丸うがん帰義侯きぎこう

生没年不詳。烏丸うがん帰義侯きぎこう

文帝ぶんてい曹丕そうひ)の時代、国境地帯に位置する幷州へいしゅう并州へいしゅう)・雁門郡がんもんぐんは、偵察や物見の備えをしていたが略奪が絶えなかった。

雁門太守がんもんたいしゅに任命された牽招けんしょうは、住民に戦闘の方法を教え、敵が国境をおかたびに兵を指揮して撃ち破り、離間を策して敵のまとまりを失わせ、互いに猜疑さいぎし合うようにさせた。

その結果、鮮卑族せんぴぞく大人たいじん(部族長)・歩度根ほどこん泄帰泥せつきでい泄帰尼せつきじ)らが軻比能かひのうと仲違いをし、部落3万余家を引き連れて郡に出頭して国境地帯に従属した。

牽招けんしょうは彼らに命令を下し、引き返して軻比能かひのうを攻撃させた。歩度根ほどこん泄帰泥せつきでい泄帰尼せつきじ)らは、軻比能かひのうの弟の苴羅侯しょらこうと、反逆した烏丸うがん帰義侯きぎこう王同おうどう王寄おうきらを殺害し、まったくの仇敵同士となった。

そこで牽招けんしょうみずから出撃し、泄帰泥せつきでい泄帰尼せつきじ)らを指揮して元の雲中郡うんちゅうぐんの地で軻比能かひのうを討ち、大いにこれを破った。


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王当おうとう

生没年不詳。河北かほくぞく小頭目しょうとうもく

黄巾こうきん蜂起ほうきした時、冀州きしゅう常山国じょうざんこく真定県しんていけん出身の褚燕ちょえん張燕ちょうえん)は、若者を集めて盗賊団を結成し、冀州きしゅう博陵郡はくりょうぐん出身の張牛角ちょうぎゅうかくの一団と合流した。

流れ矢に当たって死んだ張牛角ちょうぎゅうかく遺言ゆいごんにより頭目とうもくとなった褚燕ちょえんは「張燕ちょうえん」と名を変え、次第に人数が多くなり、

  • 冀州きしゅう常山国じょうざんこく
  • 冀州きしゅう趙国ちょうこく
  • 冀州きしゅう中山国ちゅうざんこく
  • 幷州へいしゅう并州へいしゅう)・上党郡じょうとうぐん
  • 司隷しれい河内郡かだいぐん

の諸山谷の賊徒ぞくととすべてよしみを通じ、そこの小頭目しょうとうもく孫軽そんけい王当おうとうらはいずれも手勢をひきいて張燕ちょうえんにつき従ったので、軍勢は100万に達し「黒山こくざん」と号した。


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王徳弥おうとくび

生没年不詳。後漢ごかん末期の名士。

袁紹えんしょうと名声を競っていた袁術えんじゅつは、ある時、大勢の人々のいる席上で、袁紹えんしょうと「奔走ほんそうの友」のまじわりを結んでいた何顒かぎょうの3つの罪をげたが、その中の1つに「王徳弥おうとくびは見識のある大先輩で、高名明徳の人であるのに、伯求はくきゅう何顒かぎょうあざな)は彼を無視している」と言った。

すると陶丘洪とうきゅうこうは「王徳弥おうとくびは偉大な賢者ではありますが、世の難事を救う才能に欠けています。伯求はくきゅう何顒かぎょうあざな)は善人をげる場合には、王徳弥おうとくびを筆頭に数えています」と言った。


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王惇おうとん

生年不詳〜太平たいへい元年(256年)没。孫権そんけん配下。

孫権そんけん関羽かんうを討って荊州けいしゅうを平定すると、曹操そうそうは上表して孫権そんけん驃騎将軍ひょうきしょうぐんに任命し、仮節かせつを与えて荊州牧けいしゅうぼくの職務につかせ、南昌侯なんしょうこうに封じた。

孫権そんけん校尉こうい梁㝢りょううを立ててかんの朝廷に献上物をささげさせ、それと共に王惇おうとんに命じて馬を買い入れさせた。

孫峻そんしゅんが死去し、孫綝そんりん孫綝そんちん)が大将軍だいしょうぐんに任命されると、太平たいへい元年(256年)11月、孫峻そんしゅんに厚遇されていた右将軍ゆうしょうぐん無難督ぶなんとく孫憲そんけん孫慮そんりょ)は、将軍しょうぐん王惇おうとんはかって孫綝そんりん孫綝そんちん)の暗殺をくわだてたが、事が発覚して、孫綝そんりん孫綝そんちん)は王惇おうとんを殺害し、孫憲そんけん孫慮そんりょ)は毒薬をあおって自殺した。


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王買おうばい

生没年不詳。将軍しょうぐん姜維きょういの降伏を受け入れた鍾会しょうかいの上奏文に名前が登場する。

景元けいげん4年(263年)、しょく侵攻の際、鍾会しょうかいに従い、参軍さんぐん皇甫闓こうほがいと共に涪県ふうけんを通って南へ出て、成都せいとに向かう姜維きょういらの腹部を突いた。


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王範おうはん

生没年不詳。西晋せいしん広州こうしゅう大中正だいちゅうせい

西晋せいしん太康たいこう8年に交広こうこう二州にしゅう春秋しゅんじゅうを献上した。


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【三国志人物伝】総索引