正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉝、「王」から始まる人物の一覧㉜王図・王同・王当・王徳弥・王惇・王買・王範です。
スポンサーリンク
凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
スポンサーリンク
お㉝(王㉜)
王(おう)
王同(劉節の客)
生没年不詳。劉節の客。
荊州を平定した曹操は、司馬芝を青州・済南郡(済南国)・菅県の県長に任命したが、当時天下は立て直されたばかりで法律を無視する者が多かった。
郡の主簿・劉節は古い家柄の親分で、千余軒の子分を持ち、郡の外に出ると盗賊となり、中に入ると役人の統治を乱していた。
しばらくして、司馬芝が劉節の子分の王同らを兵士として取り立てようとしたところ、彼の掾史が「劉節の家は前にも後にも役務を提供したことがございません。命令が届いた時には匿ってしまい、必ず保留扱いとなります」と言いましたが、司馬芝は聞き入れず、劉節に手紙を送って言った。
「君は大家であり、そのうえ郡では股肱の臣である。それなのに門下の客人はいつも役務に携わらないでいる。庶民たちの怨嗟の的となっている上、噂が上聞に達することもあるのだ。今、王同らを兵として徴発している。願わくはこの機会に出立させよ」
すでに兵は郡に集結しているのに、劉節は王同らを匿い、一方では督郵を動かして「兵士調達不足」の廉で県の責任を追求させたので、県の掾史は切羽詰まって、王同の代わりに行くことを願い出た。
そこで司馬芝は、早馬で済南郡に公文書を送り、詳しく劉節の罪を陳情した。
太守の郝光は平素から司馬芝を尊敬し信頼していたから、即座に劉節を王同の代わりに行かせたので、青州では司馬芝を「郡の主簿を兵卒とした」と囃した。
「王同」の関連記事
王同(烏丸の帰義侯)
生没年不詳。烏丸の帰義侯。
文帝(曹丕)の時代、国境地帯に位置する幷州(并州)・雁門郡は、偵察や物見の備えをしていたが略奪が絶えなかった。
雁門太守に任命された牽招は、住民に戦闘の方法を教え、敵が国境を侵す度に兵を指揮して撃ち破り、離間を策して敵のまとまりを失わせ、互いに猜疑し合うようにさせた。
その結果、鮮卑族の大人(部族長)・歩度根、泄帰泥(泄帰尼)らが軻比能と仲違いをし、部落3万余家を引き連れて郡に出頭して国境地帯に従属した。
牽招は彼らに命令を下し、引き返して軻比能を攻撃させた。歩度根、泄帰泥(泄帰尼)らは、軻比能の弟の苴羅侯と、反逆した烏丸の帰義侯・王同、王寄らを殺害し、まったくの仇敵同士となった。
そこで牽招は自ら出撃し、泄帰泥(泄帰尼)らを指揮して元の雲中郡の地で軻比能を討ち、大いにこれを破った。
「王同」の関連記事
王当
生没年不詳。河北の賊の小頭目。
黄巾が蜂起した時、冀州・常山国・真定県出身の褚燕(張燕)は、若者を集めて盗賊団を結成し、冀州・博陵郡出身の張牛角の一団と合流した。
流れ矢に当たって死んだ張牛角の遺言により頭目となった褚燕は「張燕」と名を変え、次第に人数が多くなり、
- 冀州・常山国
- 冀州・趙国
- 冀州・中山国
- 幷州(并州)・上党郡
- 司隷・河内郡
の諸山谷の賊徒とすべて誼を通じ、そこの小頭目の孫軽、王当らはいずれも手勢を率いて張燕につき従ったので、軍勢は100万に達し「黒山」と号した。
「王当」の関連記事
王徳弥
生没年不詳。後漢末期の名士。
袁紹と名声を競っていた袁術は、ある時、大勢の人々のいる席上で、袁紹と「奔走の友」の交わりを結んでいた何顒の3つの罪を挙げたが、その中の1つに「王徳弥は見識のある大先輩で、高名明徳の人であるのに、伯求(何顒の字)は彼を無視している」と言った。
すると陶丘洪は「王徳弥は偉大な賢者ではありますが、世の難事を救う才能に欠けています。伯求(何顒の字)は善人を挙げる場合には、王徳弥を筆頭に数えています」と言った。
「王徳弥」の関連記事
王惇
生年不詳〜呉の太平元年(256年)没。孫権配下。
孫権が関羽を討って荊州を平定すると、曹操は上表して孫権を驃騎将軍に任命し、仮節を与えて荊州牧の職務につかせ、南昌侯に封じた。
孫権は校尉の梁㝢を立てて漢の朝廷に献上物を捧げさせ、それと共に王惇に命じて馬を買い入れさせた。
孫峻が死去し、孫綝(孫綝)が大将軍に任命されると、呉の太平元年(256年)11月、孫峻に厚遇されていた右将軍・無難督の孫憲(孫慮)は、将軍の王惇と謀って孫綝(孫綝)の暗殺を企てたが、事が発覚して、孫綝(孫綝)は王惇を殺害し、孫憲(孫慮)は毒薬を仰って自殺した。
「王惇」の関連記事
王買
生没年不詳。魏の将軍。姜維の降伏を受け入れた鍾会の上奏文に名前が登場する。
魏の景元4年(263年)、魏の蜀侵攻の際、鍾会に従い、参軍の皇甫闓と共に涪県を通って南へ出て、成都に向かう姜維らの腹部を突いた。
「王買」の関連記事
スポンサーリンク