正史『三国志』、『三国志演義』に登場する人物たちの略歴、個別の詳細記事、関連記事をご案内する【三国志人物伝】の「お」から始まる人物の一覧㉟、「王」から始まる人物の一覧㉞王芬・王模・王方・王方平(王遠)・王訪・王鳳・王褒・王髦・王謀です。
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凡例・目次
凡例
後漢〜三国時代にかけての人物は深緑の枠、それ以外の時代の人物で正史『三国志』に名前が登場する人物はオレンジの枠、『三国志演義』にのみ登場する架空の人物は水色の枠で表しています。
目次
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お㉟(王㉞)
王(おう)
王芬
生没年不詳。霊帝期の冀州刺史。
中平5年(188年)、冀州刺史・王芬が主催した会合で、青州・平原国出身の方術士・襄楷が、
「天文現象は宦官に不利です。黄門・常侍といった高官一族は滅亡するでしょう」
と言うと、これを聞いた陳蕃の子・陳逸は喜び、王芬は「そういうことならば、王芬が除き去ろう」と言い、
- 荊州・南陽郡出身の許攸
- 豫州(予州)・沛国出身の周旌
ら実力者たちと連合して、霊帝の廃位と合肥侯(諱不明)の擁立を計画した。
王芬はこれを曹操、華歆、陶丘洪らに打ち明けたが、曹操は「古の成功例である伊尹・霍光の時と比べて困難であること」を理由に参加を拒否し、華歆は「王芬は大ざっぱな性格で武勇がない。きっと失敗に終わり、一族にまで災難が降りかかるだろう」と言って、参加しようとする陶丘洪を引き止めた。
この時霊帝は、北方の冀州・河間国にある旧宅に巡行する予定であったので、王芬らはこの機会に乱を起こそうと計画し、「黒山賊が郡県を攻撃し圧迫している」と上奏して軍隊を出動する許可を求めた。
ところがちょうどその時、北方に赤気が立ち籠めて東西に渡って空にたなびいたので、太史(天文係)が「陰謀があるに違いありません。北方への巡行は不適当です」と進言した。
そこで霊帝は、巡行と軍隊の出動を中止して王芬を召し出すと、王芬は恐懼(非常に恐れ畏まること)のあまり自殺した。
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王模
生没年不詳。青州・楽安国の人。
建安3年(198年)に曹操が呂布を滅ぼした後のこと。青州・楽安国出身の王模と徐州・下邳国出身の周逵を推薦する者がいて、曹操は彼らを召し出した。
すると陳羣は封緘(封を閉じること)して命令書を返上し、「王模と周逵は道徳を穢す人物であるから、最後は必ず失敗するであろう」と主張したが、曹操は聞き入れなかった。
後に王模と周逵はいずれも悪事を行ったかどで処刑されたため、曹操は陳羣に謝罪した。
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王方
生没年不詳。元董卓配下の将。
初平3年(192年)、董卓が王允・呂布らに殺害されると、落ち着く場所を失った元董卓配下の李傕らは、その軍勢を率いて西(長安)に向かい、行く先々で兵士をかり集め、長安に到着する頃には10万以上の軍勢になっていた。
李傕らは、元董卓の配下であった樊稠・李蒙・王方らと合流して長安城を包囲し、10日で城は陥落した。
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王方平(王遠)
生没年不詳。神仙。
建安元年(196年)、孫策が揚州・会稽郡に軍を進めると、会稽郡の功曹・虞翻は会稽太守・王朗を送って徐州・広陵郡に行くつもりであったが、王朗は王方平(王遠)の予言書に「急ぎ来たりて我を迎えよ。南岳に捜すべし」とあるのに惑わされて南に向かった。
揚州・会稽郡・候官県までやって来ると、王朗はさらに交州に身を寄せようとしたが、虞翻が王朗を諫めて、
「それはでたらめな書物にすぎません。交州には南岳もありませんのに、どこに身を寄せようとされるのですか」
と言うと、王朗は思い止まった。
王方平(王遠)は、三国両晋時期の神仙・道教信仰において重要な位置を占めた。
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王鳳
生没年不詳。漢の大将軍にして外戚。
建安5年(200年)春正月、袁譚を斬り冀州を平定した曹操が、その年の9月に出した布告に名前が挙がっている。
「阿諛迎合して徒党を組むことは、過去の聖人が憎んだことである。聞くに冀州の風俗は、父と子が党派を異にし、互いに批判し合い称誉し合うとか。
昔、
- 直不疑(漢の臣)は兄もいないのに、世間の人に嫂と密通したと言われ、
- 第五伯魚(第五倫・後漢の臣)は3度親のない娘を娶ったが、嫁の父親を鞭打ったと言われ、
- 王鳳(漢の大将軍にして外戚)が権力を我が物にしているのに、谷永は彼を申伯(周の宣王の臣にして外戚)になぞらえ、
- 王商(漢の臣)が忠誠な議論を述べているのに、張匡はそれを邪道だと言った。
これらはすべて白を黒とし、天を欺き君を蔑ろにする者である。
儂は風俗をきっちりと整えたいが、上の4つのことが除去されないことを恥と考える」
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王褒・子淵
生年不詳〜神爵元年(紀元前61年)没。益州・犍為郡・資中県の人。前漢の文人。
前漢・宣帝期に諫大夫となった。
『九懐』『洞簫賦』などの辞賦を著わした。諧謔(面白い気のきいた冗談)的な筆致で奴隷の境遇を描写した『僮約』は当時の社会生活を知る資料としての価値がある。
蜀漢の降伏文書を書いた郤正が著作を読んでいたとして『蜀書』郤正伝に名前が登場する。
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王髦
生没年不詳。魏の刀匠。
その昔、「王髦の剣」を手に入れた楊脩(楊修)が太子(曹丕)に献上した。
そして、楊脩(楊修)が処刑され、曹操も亡くなった後のこと。
魏王となった曹丕は常にそれを帯用し、天子の位について洛陽に住んだが、宮殿からのんびりとお出ましになった時、楊脩(楊修)の自分に対するあまりにも冷淡だった態度を思い出し「王髦の剣」を撫でさすりながら、車を止めて側仕えの者を振り返って、
「これは楊徳祖(楊脩)が昔、話をしていた王髦の剣だが、王髦は今どこにおる?」
と尋ね、彼を召し出して目通りさせた文帝(曹丕)は、王髦に穀物と帛を下賜した。
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王謀
生没年不詳。蜀の少府。
建安25年(220年)、魏の文帝(曹丕)が皇帝の称号を名乗り、年号を黄初と改めると、蜀では「漢の皇帝(献帝)が殺害された」と伝達する者があった。
そこで少府の王謀は、
- 太傅の許靖
- 安漢将軍の糜竺
- 軍師将軍の諸葛亮
- 太常の頼恭
- 光禄勲の黄柱
らと、劉備に皇帝に即位することを勧める上奏文を奉った。
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