孫策そんさくの怒りを買って処刑された徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく道士どうし于吉うきつとは、一体どんな人物だったのでしょうか。

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琅邪の道士・于吉

于吉(うきつ)

出身地 / 生没年

あざな

不明。

出身地

徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく


徐州・琅邪国

徐州じょしゅう琅邪国ろうやこく

生没年

  • 生年不詳〜建安けんあん5年(200年)没。
  • 呉書ごしょ孫策伝そんさくでんが注に引く江表伝こうひょうでん志林しりん捜神記そうしんきにまとまった記述があります。正史せいし三国志さんごくし本文には登場していません。

家族・親族

不明。

『太平青領道(太平清領書)』を手に入れる

于吉うきつは先祖代々東方とうほう(東部の海岸地帯)に寓居かりずまいをし、呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐん一帯を行き来して精舎しょうじゃ(道教徒の集まる教会)を建て、こういて道教の経典を誦読しょうどく(声を出して読み上げること)し、おふだや神聖な水をもちいて病気の治療を行っていました。


後漢ごかんの第8代皇帝・順帝じゅんていの時代[延光えんこう4年(125年)〜建康けんこう元年(144年)]、琅邪国ろうやこく出身の宮崇きゅうすうが宮廷に参内して、彼の師匠である于吉うきつが「徐州じょしゅう下邳国かひこく曲陽県きょくようけんの水辺で手に入れた神書しんしょ」を献上します。

その神書しんしょは白い絹に朱色の罫線けいせんが引かれた書物で、太平青領道たいへいせいりょうどう*1と名づけられ、全部で百余巻ありました。

脚注

*1後漢書ごかんじょ襄楷伝じょうかいでんでは「太平清領書たいへいせいりょうしょ170巻を得た」とあり、これが後漢ごかん末の張角ちょうかくなどに引き継がれて、道教経典の最も古いものの1つ、太平経たいへいきょうへと発展する。

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于吉の死

于吉うきつの死については江表伝こうひょうでん捜神記そうしんきに、それぞれ異なるエピソードがしるされています。

『江表伝』

時代は下って建安けんあん5年(200年)当時、呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐん一帯には于吉うきつを信奉する者が数多くいました。順帝じゅんていの時代から5、60年のへだたりがあり、于吉うきつはこの時すでに100歳に近くなっているはずです。


ある日、孫策そんさくが城門のろうの上で部将や賓客ひんかくたちを集めて宴会を開いていた時のこと。

たまたまはなやかに美しく着飾った于吉うきつが、仙人鏵せんにんかと呼ばれる「うるしで絵が描かれた小さなはこ(箱)」を地面に引きずりながら、その門の下を小走りに通り過ぎました。

それを見た部将や賓客ひんかくたちの2/3までがろうを降りて于吉うきつを出迎えて礼拝し、宴会係の役人が大声をげて禁じても、それをやめさせることができませんでした。


これを見た孫策そんさくただちに命令を出して于吉うきつを捕らえさせましたが、彼を信仰する者たちは、みな妻子たちを孫策そんさくの母親の元にやって、于吉うきつの助命をわせました。

これに孫策そんさくの母親は、


于先生うせんせい于吉うきつ)は、軍のためにも幸運をもたらし将士たちの健康を守っております。殺してはなりません」


孫策そんさくなだ)宥めましたが、孫策そんさくは、


「こ奴(于吉うきつ)はあやしげなデタラメを行い、人々の心をたくみに幻惑げんわくし、ついには部将たちに君臣の礼など顧慮こりょすることなく、この私をほったらかしにしてみなろうを降り、自分を礼拝させるというようなことまでさせました。生かしておくわけにはゆかぬのです」


と言って聞きません。

そこで部将たちは、さらに連名で事情を説明し、「于吉うきつゆるして欲しい」との請願書せいがんしょたてまつります。

すると孫策そんさくは、


「昔、南陽なんよう張津ちょうしん交州刺史こうしゅうししであった時、昔の聖人たちの権威ある教えを打ちて、かん王朝の律法もないがしろにして、いつも赤い帕頭ずきんをかぶり琴を鳴らしこういて、間違った庸俗ようぞく(平凡で取り柄のないこと)な内容の道書を読み、『このようにして政治教化の助けとなすのだ』と言っていたが、結局は南方の異民族に殺されてしまった。

こうしたことはまったく益もないことであるのに、諸君たちにはまだそれが分かっておらぬのだ。こいつはもう亡者の帳簿にその名が載せられている。上書などして紙や筆の無駄遣いなどせぬように」*2


と言い、役人をかせて于吉うきつを斬らせ、その首を市場にさらしました。

彼を信仰する者たちは、それでも「于吉うきつが死んだ」とは考えず、尸解しかい*3したのだと言い、彼を祭って福を求めることをやめませんでした。

脚注

*2張津ちょうしん孫策そんさくが死んだ建安けんあん5年(200年)4月4日以降も交州牧こうしゅうぼくの任にあり、孫策そんさくが人をなじるのに張津ちょうしんの死のことをたとえに引くことなどありえない。

*3一旦死んだ後に生き返り、他の離れた土地で仙人になること。

『捜神記』

建安けんあん5年(200年)、孫策そんさく長江ちょうこうを渡って許都きょと豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん]を襲撃しようとし、于吉うきつを一緒に連れて軍を進めていましたが、この時ちょうどひどいひでりい、どこもかしこも乾ききっていました。

孫策そんさくは船を引いてすみやかに進むよう将士たちを督励とくれいし、時には朝早くからみずから陣頭に立って監督叱咤しったしていましたが、気づけば部将や軍吏たちの多くが于吉うきつの元に集まっています。

これを見た孫策そんさくは、


「俺が于吉うきつに及ばぬと、奴(于吉うきつ)の元に集まって指示をあおいでいるというのかっ!」


と激怒してすぐさま于吉うきつを捕らえさせ、


「今、ひでり続きで雨が降らず、行軍は難渋なんじゅうし、前進に時間ばかり掛かる。だからこそ俺は朝早くから陣頭に立っているのだ。

それなのにお前は、俺の心配事など顧慮こりょせず、船中に安閑あんかんと座ってあやしげなわざをなし、俺の部下たちを駄目にしてしまっている。お前をこのまま生かしておくわけにはゆかぬ」


詰問きつもんすると、命令を下して于吉うきつを縛って地面に転がし、


「もしお前が天を感ぜしめ、日中に雨を降らせることができたならゆるしてやろう。さもなくば誅殺ちゅうさつするっ!」


と言って于吉うきつ雨乞あまごいをさせました。

すると、にわかに雲気が立ち昇ったかと思うと空が真っ暗にくもり、日中になる頃には土砂降りの雨が降りだして、谷川の水があふれ出すほどでした。

これに将士たちは喜び、于吉うきつはきっとゆるされるだろうと、みな慶賀けいがねぎらいのため彼の元に集まりましたが、結局孫策そんさく于吉うきつを処刑してしまいます。

この仕打ちに将士たちは悲しみに暮れ、みなでその遺体を人目につかないところに安置しましたが、その夜のこと、再び突然雲が起こって于吉うきつの遺体の上をおおい、次の日の朝に行ってみると、遺体は行方ゆくえ知れずとなっていました。

于吉うきつの亡霊

この許都きょと豫州よしゅう予州よしゅう)・潁川郡えいせんぐん許県きょけん]襲撃*4の際、広陵太守こうりょうたいしゅ陳登ちんとうに後方の攪乱かくらん工作を受けた孫策そんさくは、軍を返して陳登ちんとうの討伐に向かいます。

揚州ようしゅう呉郡ごぐん丹徒県たんとけんまで進んだ孫策そんさくは、兵糧の到着を待つために軍をとどめ、歩兵・騎兵を連れてしばしば狩猟に出掛けますが、そこで以前、私怨しえんのために処刑した許貢きょこう食客しょっかくに襲撃され、ほおに矢を受けてしまいました。

医者の診察では「致命傷にはならない」とのことでしたが、于吉うきつを殺して以降、孫策そんさくは1人で座っていると、いつもそば于吉うきつの姿がぼんやりと見える幻覚に悩まされるようになります。

後に傷がほとんどえかかった頃のこと。鏡を手に取って自分の顔をうつしてみたところ、鏡の中に于吉うきつの姿が見えました。後ろを振り返っても誰もおらず、また鏡をのぞき込んでみれば、やはりそこには于吉うきつの姿があります。

孫策そんさくは思わず鏡をなぐりつけて絶叫すると、傷口がみなけて、間もなく死んでしまいました。

脚注

*4呉書ごしょ孫策伝そんさくでんが注に引く江表伝こうひょうでんでは「西征」とだけしるされており、資治通鑑しじつがんではこれを「黄祖こうそ討伐」としています。


呉書ごしょ孫策伝そんさくでんが注に引く志林しりんの著者・虞喜ぐきは、

于吉うきつはこの時、もう100歳に近かったはずだ。『高齢者と幼児には刑を加えない』のが『礼』のさだめである。于吉うきつの罪は死罪にしょするほどのものではなかったのに、無理矢理に酷刑こくけいを加えた。これは道理にたがった誅殺ちゅうさつであって、孫策そんさくにとって名誉なことではない」

と言っています。


于吉うきつ孫策そんさくうらみを買って処刑されるまでの経緯は、江表伝こうひょうでん捜神記そうしんきでまったく異なっており、どちらが正しいのかは分かりません。

おそらく、当時呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐん一帯に広く信奉者を持つ于吉うきつという道士どうしがおり、孫策そんさくに処刑されたことは間違いないでしょう。江表伝こうひょうでん捜神記そうしんきにあるエピソードは、信奉者によってその死が伝わるうちに次第に変化していったものと思われます。

『三国志演義』での于吉

三国志演義さんごくしえんぎでは、

「城門のやぐらの上で宴会をしているところに于吉うきつが通りかかり、配下の注意を集めたことに立腹した孫策そんさくが、『神通力じんつうりきを持っているのなら雨を降らせてみせよ』と無理難題を言い、于吉うきつが言われたとおり雨を降らせたにもかかわらず処刑した」

となっており、江表伝こうひょうでん捜神記そうしんきのエピソードをうまく組み合わせています。

詳細

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江東こうとう揚州ようしゅう)を平定した孫策そんさくは、許昌きょしょう許都きょと)に勝利を上奏して大司馬だいしばの官職を求めますが、曹操そうそうは承知しませんでした。

これをうらみに思った孫策そんさくは、許昌きょしょう許都きょと)襲撃を計画。その計画を曹操そうそうに知らせようとした呉郡太守ごぐんたいしゅ許貢きょこうを殺害しますが、巻狩まきがり(狩猟)の最中に許貢きょこう食客しょっかくに襲撃され、ほおに矢を受ける深手を負って、医者から「100日間の安静が必要」と診断されました。


そんな時、袁紹えんしょうの使者・陳震ちんしんがやって来て「共に曹操そうそうを攻撃したい」むねを申し出ると、大層喜んだ孫策そんさくは大将たちを呼び、門のやぐらの上で宴会を開いて陳震ちんしんをもてなします。

ですがその最中、大将たちがささやき合って下に降りて行くのを不審に思った孫策そんさくたずねると、「于吉うきつ仙人がやぐらの下を通られたので、大将方もおがみに行かれたのでございます」とのこと。

孫策そんさくは立腹して于吉うきつを捕らえさせると「邪法をもって人々をまどわせている」として処刑しようとしますが、孫策そんさくの母・呉太夫人ごたいふじんをはじめ張昭ちょうしょうら数十人が連名で許しをいました。

そこへ呂範りょはんが進み出て「于先生うせんせい于吉うきつ)は風をいのり雨を降らす力をお持ちとか。近頃日照りが続いておりますから、雨を降らせて罪のつぐないとさせてはいかがでしょう」と提案します。


于吉うきつただちに身を清め、縄で自分の身体をしばって日向ひなたさらし、見守る人々に「わしは三尺の雨をい受けて諸人の難儀を救おう。さりながら死はまぬかれまい」と言いました。

孫策そんさくは「もしうまこく(11時〜13時)になっても雨が降らねば、于吉うきつを焼き殺せ」と言い、よく乾いたしばを積み上げて用意させます。

うまこくが近づいた頃、にわかに旋風つむじかぜが吹き起こり、四方から黒雲が集まって来ましたが、孫策そんさくは「もはやうまこくが過ぎた」と、たきぎの山に于吉うきつかつぎ上げて火をかけさせました。

まさにその時、黒雲の中から雷鳴がとどろいたかと思うと、大雨が降りそそいで辺り一面はみずびたしになり、于吉うきつが一声叫ぶと雨が上がって雲も消えせ、再び太陽が顔を見せます。

「これで于吉うきつは助かった」と、みなが彼を助け起こすのを見た孫策そんさくは、「雨が降るか降らぬかは天地の定め。運良くその時にめぐり会っただけのこと。たぶらかされるでないっ!」と叫ぶと、一刀のもとに于吉うきつの首をねさせました。


その後孫策そんさく于吉うきつの亡霊に悩まされ、傷口がけて命を落とすのは捜神記そうしんきと同様です。


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于吉関連年表

西暦 出来事
不明
  • 徐州じょしゅう下邳国かひこく曲陽県きょくようけんの水辺で太平青領道たいへいせいりょうどうを手に入れる。
  • 呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐん一帯を行き来して、おふだや聖水をもちいて病気の治療を行う。
125年

144年

順帝じゅんていの時代

  • 弟子の宮崇きゅうすう太平青領道たいへいせいりょうどうを宮廷に献上する。
200年

建安けんあん5年

  • この頃もなお呉郡ごぐん会稽郡かいけいぐん一帯の多くの人々に信奉されていた。
  • 孫策そんさく嫉妬しっとされ処刑される。
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