呂布らが兗州で反乱を起こしたことにより、徐州侵攻を断念して引き返した曹操ですが、兗州の奪還に手間取っていました。その頃徐州では…。
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陶謙の病
画像出典:ChinaStyle.jp
前回は、曹操が蝗の大量発生のせいで曹操と呂布が停戦したところまででしたよね。
結局、曹操さんは兗州を取り返せなかったんですね…。
はい。今回は舞台が変わって徐州のお話しになります。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における「陶謙の死」については、こちらをご覧ください。
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前回までのおさらい
では少し、これまでの徐州の状況をおさらいしておきましょう。
曹操の徐州侵攻
曹操が兗州に地盤を築くと、戦乱を避けて徐州にいた曹操の父・曹嵩は、兗州の曹操の元に向かうことにしました。
曹操と誼を結びたいと思っていた陶謙はこれを知ると、曹嵩を招いてもてなし、都尉の張闓に命じて500の兵を率いて兗州まで護衛させることにします。
ですが、曹嵩の財物に目が眩んだ張闓が曹嵩とその家族を殺害し、財物を奪って逃亡してしまったため、激怒した曹操は3万の軍勢で徐州に侵攻を開始しまた。
曹操は怒りにまかせて徐州の民衆を虐殺しながら進軍します。
これに恐れをなした陶謙は、自らの命を差し出して徐州の民を救おうとまで考えますが、糜竺の進言を受け入れて、北海太守・孔融に援軍を求めることにしました。
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劉備の援軍
ですが、孔融が治める青州・北海郡(北海国)の方でも黄巾残党の管亥に包囲され、徐州への援軍どころではありませんでした。
この時、孔融への恩返しのために ただ1人救援に現れた太史慈は、管亥の包囲を突破して平原相の劉備に援軍を求めたため、見事管亥を撃ち破ることができました。
その後、孔融は糜竺に劉備を紹介し、劉備は徐州への援軍に向かうことになります。
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曹操軍の撤退
援軍に現れた劉備の人品、世の常ならず、言語も爽やかなのを見てとった陶謙は、劉備に譲ろうとしますが、劉備はこの申し出を丁重に断りました。
劉備はまず、曹操に和睦を勧めて「もし曹操が従わなかったなら、その時合戦に及んでも遅くはない」と、曹操に使者を送ります。
ちょうどこの時、曹操の本拠地の兗州では、張邈と陳宮が呂布を仲間に引き入れて反乱を起こしていました。
曹操は、劉備からの和睦の要請を「これ幸い」と、和睦を受け入れて兗州に撤退します。
曹操軍が去ると陶謙は、再び劉備に徐州を譲ろうとしますが、劉備はまた承知しなかったため、陶謙は妥協して小沛[豫州(予州)・沛国・沛県]に留まることを勧め、劉備もこれを承知しました。
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ここまではよろしいですか?
うんうん、思い出したっ!
徐州を狙っていた曹操さんも兗州で苦戦しているし、徐州は平和になったってことかな。
それにしても陶謙は、2回も徐州を譲ろうとしてたのか。
平和になったなら、劉備さんに譲る必要もなくなったのかな?
ところが、そういうわけにもいかなくなりました。
陶謙の病
では、今回のお話を始めましょう。
徐州太守の陶謙は63歳の高齢で、ふとした病がだんだん重くなり、糜竺と陳登を招いて今後の徐州について相談します。
糜竺は言いました。
「曹操の兵が引き揚げたのは、呂布が兗州を襲ったからでございます。
今のところは不作のために戦をやめておりますが、来年の春にはまた攻め寄せて来るはずです。
我が君は2度も劉玄徳(玄徳は劉備の字)に位を譲ろうとなされましたが、あの時はまだお健やかでございましたゆえ、玄徳も受けようとはいたしませんでしたが、今はもはやご重病。
今お与えになれば、玄徳も辞退はいたしますまい」
糜竺の言葉に喜んだ陶謙は、小沛に使いを出して、「軍事の相談をしたい」と言って劉備を呼び寄せました。
徐州はまだ、平和になったわけではなかったんですね。
そうだね。今回陶謙は病気で引退するから、その後継者として譲りたいってことか。
前はまだ陶謙さんが元気だったけど、病気で引退するなら劉備さんも受けやすいかも。
そうですねっ!
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劉備が徐州を預かる
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陶謙の死
陶謙に招かれた劉備は、関羽・張飛と共に、数十騎を引き連れて徐州にやって来ました。
陶謙は劉備を寝室に招き入れると、劉備の見舞いの挨拶が終わるのを待って、こう切り出します。
「玄徳(劉備の字)どのをお招きしたのは他でもない。
愚老(陶謙)はすでに病が重く、明日も分からぬ状態じゃ。貴殿(劉備)には、何卒漢の城が人手に渡らぬよう、徐州の官印をお受け取りくだされ。
さすれば、愚老(陶謙)も安心して死ねると申すものです」
これに劉備が、
「2人のご子息がおられますのに、何ゆえお譲りになりませぬ?」
と問うと、陶謙は、
「長男の商、次男の応、いずれも農夫でもするしか他のない不束者。
愚老(陶謙)の死にました後も、貴殿(劉備)より何卒ご教訓あって、決して宮仕えはさせぬよう、お願いします。」
と願いましたが、劉備はまた、
「私1人でこれほどの城々を預かることができますでしょうか?」
と言うので、
「それでは貴殿(劉備)の補佐役となるべき者を推挙いたそう。
青州・北海郡(北海国)の人・孫乾、字を公祐と申す。この者を従事になされよ」
と言い、糜竺に向かって、
「玄徳(劉備の字)どのは当世の人物じゃ。お前もよくよくお仕えいたすが良い」
と言いました。
ここまで言われても劉備はまだ辞退していましたが、その劉備の目の前で、陶謙は亡くなってしまいました。
あ〜、死んじゃった…。
なんでそこまで断るの!?
確かにちょっと頑な過ぎますね。
劉備が徐州を預かる
陶謙が亡くなると、役人たちは大声で号泣して主人への哀しみをあらわしました。
それが済むとすぐに、役人たちは恭しく徐州の官印を捧げて劉備に渡そうとしますが、それでも劉備はまた固く辞退します。
また次の日、徐州の民衆たちは、役所の前に群がって泣きながら地にひれ伏して、
「劉使君(劉備)さま、もしこの郡をお引き受けなさらないのならば、私どもは安らかには暮らせません」
と訴えると、関羽と張飛もくり返し引き受ける事を勧めました。
するとようやく劉備は、仮に徐州を預かることを承諾し、孫乾・糜竺を補佐役とし、陳登を参謀として、小沛の人馬を残らず城内へ引き取り、高札を出して民衆を安堵させます。
そして劉備は大将から兵士たちまで残らず喪服を着けさせ、盛んな葬儀を営むと、黄河の河原の墓地に埋葬し、陶謙が書き遺した表文を朝廷に奉りました。
陶謙さんが亡くなる前に引き受けて、安心させてあげて欲しかったな…。
辞退し過ぎて、慎み深いを通り越してイライラしたわ。
確かに、気楽に引き受けられるものではないですけど。
何にせよ劉備は、1滴の血も流さずに徐州を手に入れてしまったわけです。
曹操軍が撤退し、平穏を取り戻したかに見えた徐州ですが、63歳と高齢の徐州太守・陶謙が重病となり、明日をも知れぬ状態となってしまいます。
陶謙は、病床に劉備を呼んで、徐州を治めるよう最後の願いを伝えますが、それでも劉備は承知しないまま、陶謙は亡くなってしまいました。
その後徐州の民衆たちに懇願された劉備は、ついに仮に徐州を預かることを承諾したのでした。
次回は、また舞台が変わって曹操のお話になります。
次回
【043】曹操が豫州の黄巾賊を討ち、豪傑・許褚を配下に加える