徐州侵攻を断念して兗州に引き返した曹操が呂布との戦いに苦戦していた頃、劉備は労せずして徐州を手に入れました。そのことを知った曹操は、すぐさま徐州に攻め込もうとしますが…。
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目次
曹操が徐州侵攻を考える
画像出典:ChinaStyle.jp
前回は陶謙さんが亡くなって、劉備さんが徐州を治めることになったんですよね。
しかし、引き受けるまでが長かったなぁ…(笑)
確かに(笑)
今回は舞台が変わって、また曹操のお話になります。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における「曹操の豫州(予州)侵攻」については、こちらをご覧ください。
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前回までのおさらい
では少し、これまでの曹操の状況をおさらいしておきましょう。
曹操が「父・曹嵩の仇討ち」を大義名分にして徐州に侵攻すると、その留守を狙って呂布・陳宮らが、曹操の本拠地・兗州で反乱を起こします。
この報告を受けた曹操は、劉備からの和睦の申し出を受け入れて、すぐさま兗州に取って返しますが、呂布の武勇と陳宮の知略の前に苦戦を強いられていました。
そんなところへ、にわかに蝗が大量発生して作物を食い荒らしたので、関東(広く函谷関より東の地域のこと)一帯では穀物1石が銭50貫文にまで上がり、人を殺して食べる者さえ出る有り様となります。
そのため両軍ともに貯えていた兵糧を食べ尽くしてしまい、しばらく兵を引き揚げて、曹操軍は兗州・済陰郡・鄄城県に、呂布軍は食糧の豊かな兗州・山陽郡に引き揚げて、しばらく戦いをやめることにしました。
ここまではよろしいですか?
そうだった…。まだ曹操さんは兗州を取り返していなかったんですね。
うんうん、思い出したっ!蝗が人間の戦争を止めさせたんだったねっ!
荀彧の諫言
では、今回のお話を始めましょう。
兗州・済陰郡・鄄城県にいた曹操は「陶謙が死んで劉備が徐州を領した」と聞いて大変腹を立て、
「儂の仇も討たぬ間に、おのれは矢の1本も使うことなく、よくも徐州を乗っ取りおったな。
この上はまず劉備を打ち殺し、それから陶謙の死骸を切り刻んで、父上の仇に報いるのだっ!」
と言って、すぐさま徐州に侵攻する号令を出そうとします。
するとそこへ荀彧が来て言いました。
「昔、(前漢を興した)高祖皇帝(劉邦)は関中(函谷関より西の長安を中心とする地域)を、(後漢を興した)光武皇帝(劉秀)は河内を根城として、根本を深く固められたからこそ、天下を制することができたのでございます。
進んでは敵に勝ち、退いては堅く守るに足るだけの足場がありましたので、戦い不利になることはあっても最後に大業を成し遂げました。
我が君には、兗州を本拠地として兵を挙げられましたが、この黄河・済水の間の地方(兗州)は天下の要害で、その昔の関中・河内に相当する土地です。
今、仮に徐州を攻め取ったとしても、後に残す兵が多ければ向こうでは手薄になり、もしまた残す兵が少なければ、呂布がその隙を窺って仇をなすでございましょう。そうなっては兗州を失うことになります。
そして万一徐州が取れなければ、我が君はどこへお帰りになるおつもりですか?
陶謙は死にましたものの、今度は劉備が守っております。徐州の民も劉備に帰服しておりますゆえ、彼を助けて決死の戦いをするでしょう。
我が君の兗州を棄てて徐州を取ろうとの思し召しは、大を捨てて小を取り、本を除けて末を求め、安きをもって危うきに取り換えると申すものでございます。どうかよくよくお考えください」
確かに劉備さんが徐州を治めることになって、曹操さんは相当悔しかったでしょうね。
荀彧は色々言ってるけど、まずは本拠地の兗州をしっかり固めろってことだよね。
そうですね。そして、これに曹操が答えます。
「今年は不作のため兵糧にも事欠く有り様。兵たちをいつまでもここにじっとさせているのは、得策とは思えぬのだが…」
すると荀彧はまた言いました。
「それには東方の陳国の地方を攻め取って軍隊を移動させ、食糧に困らないようにするのが一番でございます。
また、[豫州(予州)・]汝南郡・潁川郡の辺りには、黄巾の残党・何儀、黄邵などという者が州郡を略奪し、金銀反物や食糧をおびただしく貯えております。
このような盗賊どもを撃ち破るのは容易いこと。これを破り、兵糧を奪い取って軍隊を養うならば、朝廷も民衆たちも喜ぶでしょう。これこそ天意に順うことにございます」
これを聞いた曹操は喜んで、夏侯惇と曹仁に鄄城県を守備させて、自ら兵を率いてまず陳国の地方を攻め取りました。
これなら荀彧さんの言う通り、朝廷も民衆たちも喜びますねっ!
なるほど。まず平定しやすい賊を討って、賊から奪った物資を元手に呂布と戦うのか。
史実では兗州を平定してから攻めるんですけどね。
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豫州(予州)黄巾賊の討伐
画像出典:ChinaStyle.jp
何儀と黄邵
次ぎに曹操は、汝南郡・潁川郡の2郡の攻略に取りかかります。
黄巾の残党・何儀、黄邵らは、曹操の軍勢が攻め寄せて来たと聞くと、手下を羊山に集めました。
その数・10万。曹操の軍勢に向けて進軍を開始すると、曹操は強弓と弩で射立てておいて、典韋に馬を出させます。そして、両脇に矛をはさんだ典韋が出て来ると、何儀は副将を出して戦わせましたが、3合と打ち合わないうちに典韋の一突きで馬から突き落とされました。
曹操はこれを合図に攻めかかり、羊山を越えて陣を取ります。
典韋さん、敵なしですねっ!
やっぱり黄巾賊相手なら余裕だなっ!
まだ戦いは始まったばかりですよ(笑)
截天夜叉・何曼
さて、次の日には黄邵が自ら軍を率いて攻め寄せてきました。
そして両軍が陣形を整えると、1人の大将が歩み出て戦いを挑みます。
その出で立ちは、頭には黄色の頭巾をつけ、体には緑色の上衣を着て、身の丈9尺5寸(約218cm)、手に1本の鉄棒を引っさげ、
「我こそは、截天夜叉・何曼なり。相手になる者はいないかっ!」
と呼ばわりました。
するとこれを見た曹洪は、大声で叫んで自分も馬から下りると、刀をさげて歩み出ます。
2人は陣の前で4、50合も斬り結びましたが、一向に勝負がつきません。そこで曹洪は、わざと負けた振りをして逃げ始めると、振り返りざまに追ってくる何曼を斬りつけ、腿を切り落として討ち取りました。
身の丈9尺5寸(約218cm)って、関羽さんより大きいですねっ!
デカいだけだったな、だいたい截天夜叉って何だよ(笑)
「截」は「断ち切る」という意味ですので「天を断ち切る夜叉」という意味ですね。
自分で言っちゃう奴はだいたい弱いね(笑)
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豪傑・許褚を配下に加える
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謎の一団
さて、曹洪が何曼を討ち取ったのを見た李典が追い打ちをかけます。
李典がまっしぐらに賊の陣に斬り込むと、黄邵は手向かう暇もなく生け捕られてしまいました。そこへ曹操軍がどっと押し寄せて賊軍を撃ち破り、賊軍が貯えていた大量の金銀反物や食糧を奪い取ります。
散々に撃ち破られた何儀は、敗残兵・数百騎ばかりを従えて葛陂の方へと落ちのびて行きますが、その途中で山の後ろから1隊の軍勢が現れて、その行く手に立ちふさがりました。
その首領は1人の立派な男で、身の丈8尺(約184cm)、腰の周りは十囲ばかり、大刀を手に引っさげています。
何儀は槍をしごいて立ち向かいますが、たった1合で組み伏せられ、これを見た手下の者どもはみな馬から下りて降参し、その男は彼らを残らず引き連れて葛陂の塢に立て籠もりました。
誰だ!?こいつ…。
曹操さんの敵なの?味方なの!?
では、もう少しお話を進めましょう
典韋と首領の一騎打ち
さて、この時曹操軍の方でも何儀を追撃していました。
何儀を追って典韋が葛陂まで来ると、にわかに鬨の声が上がって、あの男に率いられた軍勢が姿を現します。
「お前も黄巾賊の片割れか!?」
典韋がこう呼ばわると男は、
「黄巾賊・数百騎は俺が塢の中に生け捕っておいたぞ」
と答え、典韋がまた、
「ではなぜ引き渡さぬのだ?」
と問うと、
「お前がこの刀に勝って見せたら渡してやろう」
と言いました。
これを聞いた典韋は大いに腹を立て、2本の矛を打ち振って戦いを挑みます。
2人の戦いは辰の刻(7時〜9時)から午の刻(11時〜13時)まで打ち合っても勝負がつかず、お互いに休憩を取ることにしました。
2時間から6時間も打ち合ってたってことか…!
あの典韋さんと互角に渡り合うなんて、相当な豪傑ですねっ!
そうですね。
しばらくして、男が出てきてまた戦いを挑みます。
典韋もこれに応じましたが、日暮れまで戦い続けたところで先に馬が根を上げたため、また戦いを中断しました。
典韋の兵がこのことを曹操に伝えに走ると、驚いた曹操はすぐに大将らを従えて様子を見にやって来ます。
次の日、また男が戦いを挑んで来ると、その形相が荒らぶる神のごとく威風凛々たるさまを見た曹操は秘かに喜んで、典韋に「今日はわざと負けるように」と言いつけました。
そして30合ばかり打ち合った時、典韋は曹操の言いつけ通り逃げて陣に戻ります。男は陣門まで追って来ましたが、弓や弩に射すくめられて引き返していきました。
曹操はこの男を配下にする気だな。誰だろう?
典韋さんと互角なんて味方にいたら頼もしいけど、どうやって味方にするんだろう?
お2人とも正解ですよ(笑)
許褚が曹操に降伏する
では、どうやって味方にするのかを見てみましょう。
曹操は、軍を5里(約2.2km)ばかり後退させ、秘かに落とし穴を掘らせて、鉤棒を持った兵を伏せておきました。
次の日、またも典韋に百騎あまりをつけて出撃させると、男はあざ笑って、
「まだ懲りずに手向かう気かっ!」
と馬を走らせて立ち向かいます。
典韋は数合打ち合っただけでそのまま馬を返して逃げ出すと、男はこれを追い、馬もろとも見事に落とし穴に落ち、鉤棒を持った兵士に縛り上げられました。
男が曹操の前に引き出されてくると、曹操は慌てて席から下りて兵士を叱りつけ、自ら縄を解いて衣服を着替えさせ、彼の郷里と姓名を問います。
すると男は次のように言いました。
「私は[豫州(予州)・]譙国(沛国)・譙県の者、許褚、字は仲康と申します。賊徒の乱を避けるため、以前より一族の者・数百人を集め、堅く塢を築いて防いでおりました。
ある日のこと、賊が攻めて参りましたが、みなに言いつけてたくさん用意させておいた石ころを投げつけましたところ、残らず命中いたし、賊は退却いたしました。
またある時、賊が攻めてきた時は、塢の食糧不足のため賊と和睦し、こちらの飼い牛と米とを取り換える約束をいたしました。
米が届きましたので、賊は牛を塢から追い出しましたところ、牛がみな走って元へ帰ろうとしました。
そこで私は、両手に1頭ずつ牛の尾を捕らえて、百歩余り引き戻しました。賊はこれを見て驚きまして、牛を取ろうともせず逃げて行ってしまいました。
それより何事もなく、ここを守っております」
これを聞いた曹操が、
「そなたの名前はかねてより聞いておった。儂に降参する気はないか?」
と問いかけると、許褚は、
「望むところでございます」
と答え、一族・数百人を引き連れて曹操に降参します。
曹操は許褚を都尉に任命して数々の引き出物を贈り、何儀・黄邵の首を打たせ、かくして豫州(予州)の汝南郡、潁川郡を残らず平定しました。
興平2年(195年)夏4月のことです。
お〜っ!許褚だったのかっ!
有名なの?って、これだけ強かったら有名でもおかしくないか(笑)
曹操は、豫州(予州)の陳国、汝南郡、潁川郡を平定し、許褚を配下に加えました。
豫州(予州)の領郡
「陶謙が死んで劉備が徐州を領した」ことを聞いた曹操は大いに怒り、すぐさま徐州に侵攻する号令を出そうとしますが、荀彧の助言により まずは豫州(予州)の汝南郡、潁川郡に巣食う黄巾賊・何儀・黄邵らを討つことにします。
そして、豫州(予州)の陳国、汝南郡、潁川郡を平定した曹操は、その途中で出会った豪傑・許褚を配下に加えました。
次回は、ついに曹操が呂布との戦いを再開します。