本拠地である兗州の奪還のために徐州から引き返して来た曹操ですが、陳宮の助言により2度に渡る大敗北を喫し、呂布による追撃を受けていましたが…。
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陳宮の計略
画像出典:ChinaStyle.jp
前回は、徐州から引き返してきた曹操が、濮陽で呂布に敗れたところまででしたよね。
典韋さんの活躍で、命拾いしたんだったよね。
でもまだ呂布が追って来ていて、「曹操の運命は?」というところで終わったんだよね。
はい。その後曹操は夏侯惇に救われ、典韋に褒美を出して領軍都尉に昇進させました。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における「濮陽の戦い」については、こちらをご覧ください。
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陳宮の計略
では、今回のお話を始めましょう。
陣に戻った呂布は、陳宮と次の作戦を練りはじめます。
すると陳宮は、次のように提案しました。
「濮陽の城内に富豪の田氏という者がおります。
この者に密使を送り、次のように言わせましょう。
『呂温侯(呂布)は暴虐非道にて、郡民たちは怨みを抱いております。
呂温侯(呂布)は今、(冀州・魏郡・)黎陽県に移動して、ただ1人・高順だけが残っておりますゆえ、夜のうちに兵をお進めくだされば、私が手引きいたします。』
そして曹操がやって来たら城内におびき入れ、四方の門から火をかけて、伏兵を出せば、例え奴に天地をめぐらす才があったとしても、逃げ延びる術はないでしょう」
これを聞いた呂布は、秘かに田氏に言いつけて、曹操の陣に使いを出させました。
自分たちが優勢なのに、まだ計略を使うなんて、慎重ですね。
今回はあっさり言うことを聞いたな、呂布。小細工などいらんっ!とか言いそうなのに(笑)
曹操さんは、この計略を見抜けるかな?
では、曹操の陣の様子を見てみましょう。
田氏の密書
さて、敗北したばかりの曹操は、次の手に迷っていました。
そこへ突然田氏の使いがやって来て、密書を持ってきたとの知らせがありました。
「今、呂布は(冀州・魏郡・)黎陽県に向かった後で、城内はガラ空きになりました。
どうか早くお出でくだされませ。お手引きいたしましょう。
城壁の上に白い旗を立て、大きく『義』の1字を書いたのが合図でございます」
この密書を読んだ曹操は大喜びで、
「天が儂に濮陽をくだされたのだっ!」
と言って使者に数々の引き出物を贈り、出兵の用意を始めます。
これを見た劉曄は、
「呂布は知謀なき者ながら、陳宮という知謀に長けた者がおります。何か企みがあるのではないかと思いますから、その備えはせねばなりませぬ。
我が殿、お出向かいとあらば、軍勢を3つに分け、2手は城外に伏せておいて急に備え、1手だけで城内に打ち入るのが良いと存じます」
曹操はこの言葉に従い、軍を3手に分けて濮陽県の城下に向かいました。
知謀と知謀のぶつかり合いだな。
ここまでだと、どっちが勝つか分からないね。
そうですね。
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曹操の窮地
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曹操、罠にはまる
濮陽県の城下に着いた曹操は、真っ先に立って様子を見ます。
すると、城壁の上に旗を立て並べてある中に、西門の角に1本の「義」の字の白旗があったので、曹操は心に喜びを覚えました。興平元年(194年)9月21日のことでした。
この日の午の刻(11時〜13時)、城門がさっと開くと、先手は侯成、後ろに高順、2人の大将が軍を率いて出撃してきました。
曹操は直ちに典韋を出撃させ、侯成に当たらせると、たまらず侯成は馬を返して城内に逃げ始めます。
そして、典韋がそのまま跳ね橋の辺りまで追いかけると、高順も支えきれず、やがて城内に退きました。
さすがは典韋さんっ!
そして、この混乱の隙に数人の兵士が曹操の陣に紛れ込んで、田氏の使いだと言って密書を差し出しました。
そうかっ!このためにわざと負けたんだ。
なるほど…!
ところで跳ね橋って何ですか?
良い質問ですねっ!
跳ね橋
跳ね橋とは、一般的に「可動式の橋」のことを言います。
中国には外周を堀に囲まれた城があり、城門の外側には堀を渡るための「可動式の橋」が架けられていました。
普段は橋を下ろされていて通行することができますが、戦の時などに城門を閉じて橋を上げてしまうと、敵は城門に近づくことすらできなくなるわけです。
この時は侯成と高順が出撃するために、跳ね橋が下ろされていたんですね。
跳ね橋のイメージ
画像出典:Wikipedia
なるほど!
ではお話に戻りますね。
田氏の使いが差し出した密書には、
「今夜の初更(19時〜21時)の頃、城壁の上で合図の銅鑼を鳴らしたら、すぐに兵を進めていただきたい。中から門を開きましょう」
とあります。
曹操は夏侯惇を左に、曹洪を右に備え、自らは夏侯淵・李典・楽進・典韋の4人の大将を率い、暮れ方に食事を済ませると、城に攻め入る用意を調えて馬に乗りました。
この時李典は、
「我が君はまず城外でお待ちください。我らが城に入って様子を見ましょう」
と言いましたが、曹操は、
「儂が行かんで誰が城を乗っ取るのだっ!」
と叱りつけ、真っ先に兵を率いて進みます。
そしてついに初更(19時〜21時)の頃となり、月はまだ出ていませんでしたが、突然西の門の上から法螺貝を吹く音が鳴り響いて鬨の声がどっと上がると、門の上に たいまつ の光が入り乱れ、城門がさっと開かれて跳ね橋がおろされました。
曹操は一番に駆け入り、まっすぐに州の役所の前まで来ましたが、道には1人の影もありません。
陳宮の謀に落ちたと気づいた曹操は、急いで馬を返して「者ども、退けっ!」と号令しますが間に合わず、次々と役所の中から石火矢が放たれました。
すると瞬く間に四方の城門から火の手があがったかと思うと天を焦がすほどに激しく燃え上がり、東からは張遼、西からは臧覇が現れて襲いかかって来ます。
そこで曹操は北門に方向を変えると、今度は横合いから郝萌・曹性が打ちかかり、南門に走ろうとすると、高順・侯成が道をふさぎました。
劉曄さんの言う通り、自分は後から入るって言ってたのに…。
うまく行きすぎて興奮しちゃったんだろうねっ!(笑)
そうですね。曹操はまたもや絶体絶命のピンチに陥りました。
行方不明になった曹操
ですが、曹操軍もこのままでは終わりません。
曹操の軍の中から躍り出た典韋が目を怒らせ歯がみして突き進むと、高順・侯成らはその勢いに押されて城外に逃げ出しました。
典韋は彼らを追って跳ね橋の辺りまで来ましたが、ふと振り返ってみると、曹操の姿が見えません。
城門の下で李典と出会った典韋は曹操の行方を尋ねますが、李典も「私も探しているのだが見つからない」とのこと。
典韋は、
「お主(李典)は城外へ出て救いの兵を呼び込め。俺は城内に入って探してくる」
と言い、城内を縦横に切ってまわりながら、途中で出会った楽進と共に曹操を探しました。
すごい、典韋さん頼もしいっ!
どこ行ったんだ?曹操は。
では、曹操の様子を見てみましょう。
曹操、窮地を脱する
曹操は、典韋と一緒に南門から出ることができず、また北門に向かうことにしました。
曹操が北に馬をめぐらせた時、炎の中から矛を振り回し、馬を躍らせて追ってくる呂布に出くわしてしまいます。
そこで曹操は、片手で顔を隠しながら馬に鞭をあててやり過ごそうとしたところ、呂布は後ろから足早に追って来て、矛を振り上げ曹操の兜をひと打ちして、
「曹操はどこだっ!?」
と問いました。
曹操はとっさに前方を指さして、
「向こうに黄色の馬に乗って行くのが曹操でございます」
と答えると、呂布は曹操を見逃してさらに前方へと追って行きました。
それを見た曹操は、また馬の首を返して東門へと駆けて行くと、幸運にもそこで典韋に出会いました。
典韋は、
「南門は崩れ落ちました。早く東門からお出でなされませっ!」
と言って、先に立って血路を開きながら進みますが、城門までの道筋は炎が激しく、櫓の上からは薪柴が投げ落とされ、一面火の海となっていました。
典韋は矛でかきのけながら馬を飛ばして火焔の中を突き進んで曹操を先導しましたが、ようやく門の所まで来た時、門の上から梁(屋根の重みを支えるための横木)が落ちてきて曹操の馬の尻に打ち当たり、横倒しに倒れてしまいます。
曹操は素手で燃えさかる梁を持ち上げて炎の中に跳ね返しましたが、腕も髪も髭までも、残らず焼けただれてしまいました。
典韋はすでに堀の辺りまで進んでいましたが、ちょうど夏侯淵に会って2人してまた駆け戻り、曹操を助け起こして城内から脱出します。
夏侯淵は曹操を抱えて自分の馬に乗せ、典韋が血路を切り拓いて走り、曹操軍と呂布軍は城外で混戦になりました。
呂布相手にすっとぼけるの面白いな。
黄色い馬に乗っていた人が心配…。
おそらく呂布に殺されてしまっているでしょうね…。
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蝗害による停戦
画像出典:ChinaStyle.jp
曹操の計略
さて曹操は夜明け頃になって、やっとのことで陣に帰り着きました。
曹操の大将たちは地面に拝伏して祝いの言葉を述べましたが、曹操は顔を振り上げて自らをあざ笑い、
「あの野郎の計略にかかったは残念だ。この恨みは必ず晴らすぞ」
と言い、それに答えて「謀は早くなくてはなりませぬ」と言う郭嘉に言いました。
「よし、次は敵の計略を利用しよう。
火傷の毒がまわって五更(3時〜5時)の頃に儂が死んだと言いふらせば、呂布はきっと兵を率いて攻めて来るだろう。
こちらは馬陵山に伏兵を置き、敵が半ば越えたところを撃てば、呂布を虜にできるだろう」
これに郭嘉が「まことに良い計でございます」と答えると、早速兵士らに喪服を着けさせて、「曹操が死んだ」と言いふらしました。
すごい。あれだけコテンパンにやられたのに、もう次の行動に移るんだ…。
だからこそ呂布も油断してるのさ。
私なら、何ヶ月も落ち込んでそう…。
切り替えの早さも、曹操の強さの要因の1つかもしれませんね。
停戦
「曹操が死んだ」という噂は、すぐに濮陽県の呂布の陣に伝わります。
報告を受けた呂布は、即座に兵を揃えて馬陵山へと押し寄せました。
そして、今まさに曹操の陣に攻めかかろうという時、突然太鼓の音が鳴り響くと、四方から伏兵が打って出ます。
呂布は死に物狂いで戦ってやっとのことでその場を逃れ、多数の人馬を失って濮陽県まで逃げ帰り、堅く守って城を出ようとしませんでした。
この年[興平元年(194年)]は、にわかに蝗の害が激しく、作物を食い荒らしたので、関東(広く函谷関より東の地域のこと)一帯では穀物1石が銭50貫文にまで上がり、人を殺して食べる者さえ出る有り様となりました。
そのため曹操軍は貯えていた兵糧を食べ尽くしてしまい、しばらく兵を引き揚げて兗州・済陰郡・鄄城県に留まることになりました。
一方、呂布軍も食糧の豊かな兗州・山陽郡に移動したため、両軍ともしばらく戦いをやめることにしました。
今回、陳宮は気づかなかったのか?
一緒にいなかったのかな?
それにしても、蝗が人間の戦争をやめさせたのか。
結局、曹操さんは兗州を取り返すことができなかったんですね。
まだ諦めたわけではありませんよ。一時停戦といった感じです。
なるほど。
兗州奪還に向かい緒戦で呂布に敗れた曹操は、またもや陳宮の計略にかかり、絶体絶命の危機に陥って、大敗北を喫してしまいます。
その後、曹操自身の計略により呂布に一矢報いることができましたが、にわかに湧き起こった蝗の害により両軍ともに兵糧が尽き、兗州をめぐる戦いは一時停戦となりました。
次回は、舞台が変わって徐州のお話になります。