青州の黄巾賊を吸収した曹操が兗州に地盤を築いた後のこと。徐州では後に悲劇を引き起こす大事件が起こってしまいます。
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目次
曹嵩の死
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前回は、曹操が兗州に侵攻した青州の黄巾賊を討伐したところまででしたよね。
うん。その後荀彧とか典韋とか、優秀な人材がたくさん集まったんだよね。
そうですね。曹操は「青州兵」も手に入れました。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における曹操の徐州侵攻については、こちらをご覧ください。
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陶謙が曹嵩をもてなす
では、今回のお話を始めましょう。
配下に謀臣・勇将がそろい、確固たる地盤を築いた曹操は、戦乱を避けて徐州・琅邪郡(琅邪国)に非難していた父・曹嵩を兗州に迎え入れることにし、泰山太守・応劭を派遣します。
すると曹嵩は、直ちに曹操の弟・曹徳をはじめ、一家40人余りに従者100人余りを従えて、車100両余りにロバ・ラバなど多くの馬をそろえ、兗州へと出発しました。
曹嵩が徐州(郯県?)を通った時のこと、温厚な徐州太守・陶謙は、曹操と誼を結びたいと思っていたので、曹嵩を州の境まで出迎えて、2日間 もてなします。
そして陶謙は、わざわざ城外まで見送りに出て、都尉・張闓に命じて500の兵を率いて護衛させました。
すごい行列だな。
陶謙さん良い人ですね。
ちなみに実際には徐州太守という官職はなく、陶謙は徐州牧でした。
『三国志演義』は、地名とか官職とか適当なところがあるから、深く考えない方が良いね。
曹嵩が殺害される
そして曹嵩の一行はついに兗州に入ります。
曹嵩の一行が華県と費県の間に差し掛かった時、突然の大雨に降られた一行は、とある古寺に一夜の宿を借ります。
この時、外の廊下で寝ることになった張闓は、小頭(部下)を人気のない所に呼んで言いました。
「元々我らは黄巾の残党で しかたなく陶謙に従って来たが、これまで何一つ良いことはなかった。
今夜みんなで斬り込んで曹嵩の一家を皆殺しにし、財物を奪ってどこかで山賊にでもなろうと思うが、どうだ?」
この夜は風雨が激しく、曹嵩たちは寝つけずに起きていたのですが、突然四方から鬨の声があがりました。
何事かと剣を抜いて外に出た曹徳は本堂で突き殺され、曹徳の悲鳴を聞いた曹嵩は、妾と一緒に土塀を乗り越えて逃げようとします。
ですが、妾が太っていたために塀に上がることができず、結局2人して厠(トイレ)に逃げ込み、そこで殺されてしまいました。
曹操が派遣した応劭は、危うく命を助かって袁紹の元に身を寄せ、張闓らは曹嵩の財物を奪うと寺に火をかけて、500人の手下と共に淮南に逃亡しました。
ひどい…。
陶謙は護衛につける人選を誤ったな。
でも曹嵩さん、奥さんを置いて逃げなかったなんて素敵!
応劭は何してたんだよ(笑)
応劭は、曹操に罪を問われるのを恐れて袁紹の元に身を寄せたということですね。
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曹操の徐州侵攻
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徐州侵攻
生き残った応劭の部下から、このことが曹操に伝えられます。
生き残った応劭の部下から報告を受けた曹操は、声を上げて泣き崩れました。
そして、しばらくして助け起こされた曹操は、
「陶謙の奴めっ!
兵隊の取り締まりができていないから父上を死なせてしまったのだ。この仇を取らぬうちは、共に天を戴かぬっ!
大軍を起こして徐州の者どもを根絶やしにせねば、この恨みは晴れぬぞっ!」
と言い、荀彧と程昱を後に残して、3万の軍で徐州に向けて進軍を開始します。
ちょっと待ってっ!陶謙さんは悪くないよっ!
曹操は陶謙がしっかり兵を監督できなかったからだと言ってるよ。
まずは話し合わないとっ!悪いのは張闓さんなのに…。
確かに曹操の怒りは、張闓に向けられるべきですね。
辺譲を殺害する
では、お話を続けますね。
曹操は夏侯惇・于禁・典韋を先手の大将に、
「占領した城という城はすべて、城内の民衆を残らず虐殺して父の仇を雪ぐのだっ!」
と言って軍を進めました。
陶謙と交わりが深かった九江太守・辺譲はこれを知り、自ら五千の兵を率いて応援に来ます。
これを聞いて大いに怒った曹操は、夏侯惇に命じて辺譲を待ち伏せし、殺害させました。
辺譲、見せ場ないんかい(笑)
曹操さん、本当に民衆に手をかけるつもりなのかな?
どうでしょうねぇ?
陳宮の諫言
この時陳宮は兗州・東郡の従事になっていましたが、やはり陶謙と交わりが深く、曹操が父の仇と徐州の民衆を皆殺しにしようとしていることを知ると、すぐに駆けつけて曹操に面会を求めます。
陳宮は言いました。
「閣下は父君の仇を討たんとして大軍をもって徐州に向かい、途中の民衆を皆殺しにしようとのお考えと聞き、進言に参りました。
陶謙こそは誠に情深き君子で、利益に目が眩んで義を忘れる輩ではありません。父君が殺害されたのは まったく張闓 1人の仕業で、決して陶謙の罪ではないのです。
そればかりではなく、州県の民衆に何の仇があるのでしょうか? 彼らを殺してはなりません。どうかよくお考えください」
ですがこれを聞いた曹操は、
「お主は昔、儂を見捨てたのではないか。今さらどの面さげてここへ来た?
陶謙は儂の一家を殺したのだ。胆と心臓をえぐり出して、恨みを晴らそうと誓いを立てた。
お主は陶謙の弁護に来たのであろうが、儂は何と言われても聞かぬぞっ!」
と取り付く島もありません。
仕方なく陳宮は「陶謙に会わせる顔がない」と、陳留太守・張邈の元に行ってしまいました。
陳宮さんっ!…忘れてた(笑)
なんか陳宮に言われても、逆に意地になるよな。
確かに…。過去にケンカ別れした人ですもんね。
そうですねぇ。
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曹操が徐州の民を虐殺する
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陶謙の出陣
さて、曹操軍の来襲を知った陶謙は、配下を集めて対応を話し合います。
曹操軍が通ったあとは、山の木々までも切り払われ、人だけでなく、鶏や犬さえも殺されてしまいました。
その様子を聞いた陶謙は、
「天は、儂に何の罪があって徐州の民にこのような大難を与えなさるのか…」
と、天を仰いで大声で泣いていましたが、配下の曹豹が進み出て、
「曹操の軍が寄せて来た上は、手をつかねて死を待つ法はありますまい。それがし、使君(陶謙)を助けて敵を破りたく存じます」
と言うので、陶謙は自ら兵を率いて出陣することにします。
遠くに見える曹操軍は、白装束に「報仇雪恨(仇を報い恨みを雪がん)」と書かれた白旗を立てていました。
両軍陣形を整え、曹操が陣頭に進み出ると、陶謙は身を屈めて あいさつ をし、
「私は貴殿に誼を結ぼうと思えばこそ、張闓を護衛につけたのです。それなのに、奴めがあなたのお父上を害そうとは…。誠に私の本心ではございません。どうかご推察願いたい」
と弁解をします。
ですが曹操は聞く耳をもたず、
「老いぼれの畜生めっ!父上を殺しておきながら まだ戯言を申すかっ!誰かあるっ!あの老いぼれめを生け捕れっ!」
と命じました。
これに応じて夏侯惇が馳せ出ると、陶謙は慌てて城内に逃げ込み、曹豹がこれを迎え撃ちます。
ですが、突然強風が起こって両軍共に混乱したので、それぞれ引き揚げました。
夏侯惇が相手じゃ、強風が吹かなきゃ曹豹は死んでたな(笑)
曹操さん、本当に関係のない民衆まで殺しちゃったんだ…。
『三国志演義』では、曹操は悪役だからね〜っ!
実はこのことは、正史『三国志』にも記述があるんですよ。
マジか…。
陶謙の覚悟
城内に逃げ帰った陶謙は、また配下を集めて話し合います。
「曹操の大軍の勢いには、とても抗しがたい。
もはや儂は自分で縄目にかかって曹操の陣に行き、彼の思い通りに身を苛ませ、その代わりに徐州の民の命を救う他はない」
陶謙がそう嘆くと、1人の者が進み出て言いました。
「我が君は久しく徐州を治め、民は恩に感じていますので、いかに曹操の兵が多いと言っても 容易に城を落とすことはできませぬ。
不才ながら いささか計略を施して、曹操が身を葬る土地さえないようにいたしてみせましょう」
「はたしてこの人物は誰でしょうか?」というところで、『三国志演義』の第10回が終わりますが、もう少しお話を続けますね。
はいっ!気になります。
徐州にそんな策士がいたかなぁ?
糜竺の計略
陶謙に進言した人物は、徐州・東海郡・朐県の人、糜竺でした。
糜竺か…。
ではここで少し、糜竺についてご紹介しておきます。
糜竺の特長と略歴
字は小仲。彼の家は、代々1万人余りの下男を使う富豪の家柄でした。
ある時、糜竺が洛陽(雒陽)に商売に出掛けて、車(馬車)で帰って来る途中、1人の美しい女性に「馬車に乗せて欲しい」と頼まれます。
すると糜竺はその女性に座席を譲り、車から降りて自分は歩いて行こうとしました。
女性は一緒に乗るように頼み、糜竺は女性の隣に座りましたが、じっと脇目も振らずに座っています。
数里行ったところで馬車を降りた女性は、別れ際に言いました。
「私は天の使いで、上帝の仰せによってあなたの家を焼きに行くところです。あなたが礼儀正しく扱ってくださることに感心しましたので、このことをお知らせします」
糜竺が女性の名前を尋ねると、女性は「私は南方火徳星君です」と答えたので、驚いた糜竺はその場にひれ伏して祈ります。
南方火徳星君は、
「これは天命ゆえ焼かないわけにはいきません。私は今晩行きますから、早く帰って家財を運び出しなさい」
と言い残すと、その姿はすっと消え失せてしまいました。
はたしてその夜、糜竺の家の台所から火が起こり、家は残らず焼けてしまいましたが、彼女の言葉に従って家中のものを運び出していたので、糜竺は財産を守ることができたのでした。
糜竺はこれ以降、財産を惜しまず施して、貧しい人や悩める人を救済するようになりました。
糜竺さん、良い人ですね。
代々金持ちだと紳士になるのかな?女好きは成金だけか?(笑)
それは人によるでしょう(笑)
糜竺の計略
では、本題に入りますね。
糜竺は言いました。
「私は青州・北海郡(北海国)に参り、孔融に援軍を頼みましょう。そして他に誰か1人、青州の田楷の元へ遣いを出して下さい。
もしこの2つの軍がそろって来たら、曹操はきっと兵を退くに違いありません」
糜竺の提案に同意した陶謙は、すぐに2通の書面をしたため、「誰か青州に援軍を求めに行く者はいないか」と問いかけると、(徐州・)広陵の人・陳登(字:元龍)が名乗りを挙げます。
陶謙は喜んで、まず陳登を青州に行かせた後で、糜竺にも書面を持たせて北海郡(北海国)に行かせ、自分は人々を連れて城を守って、敵の攻撃に備えました。
なんだ、計略って言っても援軍要請か。大したことないな(笑)
なんだか急に新しい人が増えて、こんがらがりそう…。
う〜ん、陳登は覚えておいた方が良いかもね。
そうですね。
ちなみに曹操は無理に攻めようとせず、四方に砦を築いて徐州を孤立させる作戦を取りました。
温厚な徐州太守・陶謙は曹操と誼を結びたいと思い、兗州に向かう曹操の父・曹嵩を丁重にもてなしただけでなく、都尉・張闓を護衛つけて兗州まで送らせましたが、その張闓が曹嵩一家を殺害し、財物を奪って逃亡してしまいます。
激怒した曹操はこれを陶謙の責任とし、徐州に侵攻を開始。途中、罪のない民衆をも殺害しながら進軍を続けました。
そして城内に逃げ込んだ陶謙は、青州の孔融と田楷に援軍を要請します。
次回は、糜竺が向かった北海郡(北海国)で事件が起こります。
次回
【038】黄巾残党・管亥の反乱。太史慈と劉備3兄弟が孔融を救う