陶謙配下の張闓が曹操の父・曹嵩を殺害したことによって、曹操軍の包囲を受けた陶謙は、青州の孔融と田楷に援軍を要請しますが…。
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目次
孔融への援軍要請
画像出典:ChinaStyle.jp
前回は、陶謙の配下に父親を殺された曹操が、徐州に攻め込んだところまででしたよね。
うん。でも陶謙さんは悪くないのに…。
そうですね。今回は、陶謙が青州の孔融に援軍を要請するところから始まります。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における「管亥の反乱」については、こちらをご覧ください。
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北海太守・孔融
まずはじめに、孔融についてご紹介しておきましょう。
孔融の特長と略歴
字は文挙。豫州(予州)・魯国の人。
孔子から20代目の子孫にあたり、泰山都尉の孔宙にの子になります。
孔融は幼い頃から賢く、10歳の時に司隸・河南尹の李膺を訪問したことがありました。
李膺は漢代の名士で、名のある賢人か 代々付き合いのある家柄の者でなくては会うことはできませんでしたが、孔融は李膺の屋敷の門番に、
「私は李閣下と代々つきあいのある家の者だ」
と言って中に入ります。
李膺が、
「君と私と、先祖同士で何か親しくしていたかね?」
と尋ねると、孔融は言いました。
「わが祖先の孔子は、あなたのご先祖・李老君に礼を問われ、師友となられました。さすれば私とあなたとは、久しい間のお付き合いではありませんか」
しばらくして太中大夫の陳煒がやって来ると、李膺は孔融を指さして「この子は神童だよ」と言いました。
すると陳煒は、「小さい時に利口でも、大きくなってまで賢いとは限らぬな」と言ったので、すかさず孔融が、
「あなた様は、小さい時はさぞかし利口だったのでしょうね」
と返すと、李膺と陳煒は、
「この子が成人したら、きっと立派な人物となるだろう」
と笑い合い、これ以降、孔融の名が知れるようになりました。
その後中郎将を経て北海太守となった孔融は、
「『席上にはいつも客が満ち、徳利の酒が空になることがないように』というのが儂の願いだ」
というのが口癖で、青州・北海郡に来てから6年、郡民の信頼を篤く受けていました。
孔融さんは、あの孔子さんの子孫なんですねっ!
一休さんみたいな物言いだな(笑)
まあ、陶謙が頼った孔融は、こういう人だったということですね。
孔融に援軍を要請する
さて、そんな孔融のところに糜竺が到着します。
この時も孔融は ちょうど座敷に出て、客人たちと曹操が仇討ちの兵を起こした事件について議論を戦わせていました。
そして、徐州から糜竺が来たという知らせを聞いた孔融は、ただちに糜竺を招き入れます。
糜竺は陶謙の書面を取り出して、「曹操の包囲から、どうか徐州を救っていただきたい」と願い出ました。
すると孔融は、
「陶恭祖(恭祖は陶謙の字)とは格別の親交を結んでいる。その上、子仲(糜竺の字)どのがわざわざ来られたとあっては、行かぬという法はない。
ただ、曹孟徳(孟徳は曹操の字)に恨みがあるわけでもないのだから、まず書面を遣って和睦を勧め、どうしても従わないその時に、兵を起こすとしよう」
と答えます。
糜竺は、
「曹操は兵力をたのみにしておりますゆえ、決して和睦はいたしますまい」
と食い下がりましたが、孔融は軍隊を勢揃えさせながら、一方で人を遣って曹操に書面を届けさせました。
今回も とんち で解決するつもりか?(笑)
間違ってはいないと思うけど、一刻を争うのに…。
こういう人たちにとって、建前が何よりも大切なのさ。
確かに糜竺にしてみれば、まどろっこしいですね。
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黄巾賊の残党・管亥の反乱
画像引用元:『Total War: THREE KINGDOMS』
黄巾賊の残党・管亥の反乱
そうこうしているうちに、孔融のところに新たな報告が届きます。
まだ話し合いが終わらないうちに、突然、黄巾賊の残党・管亥が、数万の賊を率いて押し寄せて来ました。
孔融は驚いて、急いで出撃して城外でこれを迎え撃ちます。
すると管亥は馬を乗り出して、
「北海郡は兵糧を豊かに蓄えていると聞く。1万石貸してくれ。そうすれば兵を引き揚げてやる。さもなくば城を攻め落とし、1人残らず根絶やしにするぞっ!」
と言ってきました。
これに孔融が、
「儂は大漢の臣として大漢の土地を守っておる者。盗人に貸す米の持ち合わせはないっ!」
と叱りつけると、怒った管亥は馬を蹴立てて大刀を振り回し、まっしぐらに孔融に目がけて斬りかかって来ます。
これに孔融配下の大将・宗宝が槍を構えて打って出ましたが、数合も打ち合わないうちに馬から斬って落とされました。
すると孔融の兵は混乱して総崩れとなり、我先にと城内に逃げ込みます。
その後管亥は四方から城を包囲したので、孔融はふさぎ込んでしまいました。
黄巾賊の残党!?
しかし孔融軍は弱いな。こんなのが援軍に来ても、曹操の敵じゃないよ(笑)
頼りにしていた孔融がこれでは、さすがに糜竺も不安をつのらせました。
東萊郡の太史慈
ですが、そんな孔融の元に救世主が現れます。
次の日、孔融が城壁の上に登って見渡すと、にわかに城外から槍を持った1人の騎馬武者が賊の陣中に斬り込んで、まるで無人の境(人が住んでいない所)を行くかのように城下まで進んで、「門を開けろっ!」と叫びました。
その顔に見覚えがない孔融は門を開けるのをためらっていましたが、その騎馬武者が、追ってきた賊軍を打ち倒し、退却させたのを見て、急いで城門を開けて中に入れるように命じます。
孔融が名前を尋ねると男は、
「それがしは(青州・)東萊郡・黄県の人、姓は太史、名は慈、字は子義と申す者。老母が重ね重ねご恩を受けております。
昨日、(幽州・)遼東郡より家に帰って母を見舞いましたところ、鐘や太鼓の響きで賊軍の攻撃を知りました。
老母が申しますには、
『たびたび太守(孔融)さまのご恩を受けたが、お前(太史慈)のことはご存じない。しかし今、太守(孔融)さまが難儀にお遭いになっているからには、ご恩返しをしておくれ』
とのこと。それゆえ、ただ1騎で参りました」
と答えたので、孔融は大変喜びました。
実はこれ以前、孔融は太史慈の顔こそ知りませんでしたが、豪傑である事は知っていたので、彼が遠く他国に旅に出ている間、太史慈の老母に たびたび人を遣って、米や反物などを届けさせていたのでした。
おぉ〜っ、太史慈っ!
有名なの?
うん、強いよ!孫策の配下になるんだけど、この時は青州にいたんだね。
孔融さんの日頃の行いが良かったから、助けに来てくれたんですねっ!
こういうことを見越して、老母の世話をしていたようにも見えるけど(笑)
またタカオくんはそういうことを言う…(笑)
太史慈の武勇
次に太史慈は、孔融に「兵を借りて打って出ること」を願い出ます。
ですが孔融は、
「そなたは いかにも勇ましいが、賊の勢いは盛んであるから、軽々しく出てはならん」
とこれを許しません。
それでも太史慈は、
「老母は、太守(孔融)さまのお情けに感じて私を寄越したのでございます。
もし包囲を解くことができなければ、母に会わせる顔がありません。何としても、決死の戦がしとうございますっ!」
と言うので、孔融は改めて太史慈に言いました。
「ここより遠からぬところに住む劉玄徳(玄徳は劉備の字)こそ当世の英雄だと聞き及ぶ。
もし彼が援軍に来てくれるものならば、この包囲は解けるだろうが、使者に立つ者がおらぬのだ」
すると太史慈は、
「殿、すぐに手紙をお書き下さい。私が参りましょうっ!」
と言い、十分に腹ごしらえをして身支度をすると、鎧に身を固めて馬にまたがり、2本の弓を腰につけ、鉄槍を手に持って、ただ1騎 城門から馳せ出ました。
城を出た太史慈が 瞬く間に賊兵30人ばかりを打ち倒して包囲を破ると、管亥は「奴は援軍を求めに行くに違いない」と、自ら数百騎を従えて追って来ました。
すると太史慈は、槍を片腕に引っ掛けて弓に矢をつがえ、八方に射かけます。
その弓の つる の響きとともに賊兵はバタバタと馬から射落とされ、ついに太史慈は追っ手を振り切って 劉備のいる青州・平原国・平原県にたどり着きました。
「管亥の反乱」関連地図
ねっ、太史慈強いでしょっ!
うん、強いっ!お母さん思いの良い人だし。
確か劉備は 十八路諸侯が解散した後、公孫瓚に平原相に任命されてたんだよね。
そうですねっ!
劉備さんが出て来るとワクワクしますねっ!
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劉備の援軍
画像引用元:『Total War: THREE KINGDOMS』
劉備の出陣
平原県に到着した太史慈は、無事劉備と面会することができました。
太史慈と面会し、孔融からの手紙を読んだ劉備は、「そなたはどういう人だ?」と問います。
「私は太史慈と申し、東海(東萊郡)の田舎者でございます。
孔融どのとは親戚でも同郷の好みがあるわけでもございませんが、義によって憂いを共にする間柄となりました。
この度、管亥が暴動を起こしたため、北海城は包囲されて孤立無援。今日明日も知れぬ危機にあります。
あなたさまは仁義の誉れ高く、人の危うきを救いたもう由を聞きまして、孔融どのの命により白刃の中を切り出て、お願いに参った次第でございます」
太史慈が答え終わると、劉備はすっと姿勢を正して、
「孔融どのが、この劉備の名をご存知でおられたかっ!」
と言い、関羽・張飛を呼んで3千の精兵を選び、すぐに青州・北海郡に向かって出陣しました。
劉備もエラくなったもんだなぁ(笑)
劉備さんは対応が早いですねっ!
ちなみに太史慈が東海と言っているのは、東萊の間違いですね。
劉備軍の活躍
管亥は、援軍が来たと見るや自ら兵を率いて戦いを挑んで来ました。
劉備は、関羽・張飛・太史慈を陣頭に布陣していましたが、管亥はその兵が少ないと見て、威勢良く斬りかかって来ます。
これに太史慈が馬を進めようとしたところ、関羽が早くも先に出て管亥と馳せ違い、両軍どっと鬨の声をあげる中、数十合もすると管亥は 青龍偃月刀の餌食となって馬から斬って落とされました。
すると、これを合図として太史慈・張飛、劉備らも賊軍の中に斬り込みます。
城壁の上から劉備軍が賊軍を追い散らすのを見た孔融は、これを好機と城内から打って出て前後から賊軍を挟み撃ちにします。
こうして賊軍は大敗し、降伏する者数知れず、残りの者はみな逃げ失せてしまいました。
さすがっ!
やっぱ、劉備さんたち3兄弟が出て来るとテンション上がるねっ!
敵が弱すぎて物足りないけどな(笑)
これから劉備が出世するに従って、敵も一筋縄ではいかないようになってきますよ(笑)
陶謙の救援を約束する
さて、管亥に勝利した孔融は、劉備を迎え入れて大宴会を開きます。
その席上で孔融は、糜竺を呼んで劉備に会わせ、
- 張闓が曹嵩を殺害したこと
- 現在、曹操が徐州を包囲して、略奪を欲しいままにしていること
- 糜竺が救援を求めに来ていること
を、詳しく話して聞かせました。
これを聞いた劉備が、
「陶恭祖(恭祖は陶謙の字)は誠に仁義に厚い君子であるのに、このような無実の咎に苦しまれようとは…」
と嘆いていると孔融は、
「貴殿は漢室の御一族じゃ。曹操が民衆や弱い者を虐げているからには、私と共に陶謙どのを救いに行こうとはなされぬか?」
と尋ねます。
これに劉備は、
「陶謙どのをお救いしたいのは山々なれど、私めは兵も大将も乏しく、軽々しくは動けませぬ…」
と断りますが、孔融がさらに、
「私が陶恭祖(恭祖は陶謙の字)を救おうというのは、朋友の誼もあるが、大義のためでもある。貴殿にも義を重んじるお心がないとは思えない」
と言うと、
「それならば、文挙(孔融の字)どの、まずは先に徐州にお発ちください。私は公孫瓚の元より4〜5千の人馬を借り、後よりすぐに向かいます」
と、陶謙の救援を承知します。
また、孔融が「この約束を違えなさるな」と念を押すと、
「私をどのような人間と思し召されますか。聖人の言葉にも『古よりみな死あり、人に信なくんば立たず』とあります。
軍を借り得てはもちろんのこと、たとえ借り得ずとも、必ず参ります」
と言って、劉備は公孫瓚の元に向かい、糜竺は徐州に戻りました。
一方、太史慈は、
「母の命によってお助けに参りましたが、幸いにも恐れはなくなりました。
私は同郷の揚州刺史・劉繇に招かれておりまして、どうしても行かねばならぬ義理がございます。またお目にかかることもございましょう」
と申し出て来たので、孔融は金や反物を贈ろうとしましたが、太史慈は受け取りませんでした。
太史慈が家に帰ると、彼の母は、
「お前が孔文挙(文挙は孔融の字)どのに恩返しをしてくれて、嬉しく思います」
と言って、太史慈を揚州に送り出しました。
孔融は悠長なことを言ってたのに、やけにグイグイ劉備に救援を求めてるな(笑)
劉備さんたちが助けに来てくれたら、陶謙さんも安心ですねっ!
どうでしょうねぇ?それでも曹操軍は強大ですよ。
陶謙が糜竺を派遣して援軍を求めた青州・北海郡では、突然 黄巾賊の残党・管亥の包囲を受けてしまいました。
北海太守・孔融は、平原相の劉備に救援を求めたいと考えますが、敵の包囲を突破して使者に立つ者がおりません。
そこへ、思いもかけず駆けつけた太史慈が使者に立ち、劉備に援軍を要請。
劉備の救援を得て管亥を敗走させた孔融は、劉備を説得して陶謙を救援する約束を取り付けました。
次回は、曹操が留守にした兗州で異変が起こります。