秣陵で劉繇を撃ち破った孫策は、太史慈を追って涇県に向かいますが…。
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太史慈の帰順
画像出典:ChinaStyle.jp
前回は、孫策が秣陵の劉繇をボコボコにして敗走させたところまででしたよね。
それで劉繇さんと笮融さんは、劉表さんを頼って豫章郡(予章郡)に落ち延びたんですよね。
そうですね。今回は孫策が、太史慈が逃亡した涇県に向かいます。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における「孫策の江東進出」については、こちらをご覧ください。
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生け捕られた太史慈
それでは今回のお話を始めましょう。
さて、涇県に向かった太史慈は、新たに屈強な若者2千人余りを集めて孫策軍の来襲に備えていました。
そこで孫策と周瑜は、太史慈を生け捕りにしようと「涇県を3方向から攻撃し、東門だけはわざと空けておき、城(涇県)から25里(約10.7km)離れた3ヶ所にそれぞれ伏兵を置く」ように命じます。
太史慈が立て籠もる涇県の城壁はあまり高くありませんでした。そこでその夜、孫策は陳武に軽装の兵を率いさせると、真っ先に城壁に登らせて火をかけさせました。
焼き討ちにあったと見るや、太史慈は手薄な東門から逃げ出します。
後ろからは孫策軍が追って来ましたが、太史慈が30里(約12.9km)程走った頃には、その姿は見えなくなっていました。
そして、さらに50里(約21.5km)進んで馬も人も疲れ果てた時、どっと鬨の声が上がったかと思うと、両側の葦の茂みの中から鉤縄が投げ出されます。鉤縄に馬がつまずいて地面に投げ出された太史慈は、生け捕りにされてしまいました。
あっけなく捕まっちゃった…。
孫策だったら、あくまでも一騎打ちで決着をつけたがると思ったけど(笑)
これは周瑜の作戦でしょうね。
太史慈の帰順
さて、捕らえられた太史慈が、本陣に護送されてきました。
太史慈が縛られているのを見た孫策はすぐさま兵士を叱りつけると、手ずから縛めを解いて、自分が着ていた錦の戦袍を脱いで太史慈に着せ、陣屋に案内します。
「私はずっと、子義(太史慈の字)どのは真の大丈夫(立派な男子)であると思っておった。愚かな劉繇があなたを重く用いることができなかったことが、今回の敗因なのだ」
孫策がこう声をかけると太史慈は、孫策の態度がとても丁寧で礼儀正しいのを見て、「降参したい」と言いました。
その言葉を聞いた孫策は大いに喜んで、
「神亭峠の合戦の折、もしあなたが私を捕らえていたら、やはり私は殺されていたかな?」
と笑って尋ねると、太史慈も笑いながら「それは分かりませぬ」と答えます。
これを聞いた孫策は、大笑いして太史慈を本陣に招き入れると彼に上座を勧め、宴会を開いて大いにもてなしました。
神亭峠の合戦っていうのは、孫策と太史慈が一騎打ちをした時のことだねっ!
孫策さんは、太史慈さんを配下にしたかったから戦わなかったんだっ!
劉繇とは扱いが大違いですからね。太史慈も素直に降参しました。
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孫策の快進撃
画像出典:ChinaStyle.jp
太史慈との約束
さて、太史慈を歓迎する宴会の席で、太史慈が口を開きます。
「劉繇どのは敗戦の後で、兵士らの中には孫策どのに心変わりしている者も多いと思われますが、散り散りになってしまった後では2度と呼び戻すことはできません。
私が行って彼らを呼び集め、孫策どのの手助けをいたしたく思いますが、お心にかないますでしょうか?」
すると孫策は座を立って例を述べ、
「それは望むところです。だが1つ約束して欲しい。どうか明日の正午に帰って来ていただきたい」
と言うと、太史慈はこれを承諾して出発しました。
その場にいた大将たちは口々に、
「太史慈は帰って来ないでしょう」
と言い、孫策が、
「太史慈は信義を重んじる立派な男だ。決して私を裏切ることはない」
と言っても、彼らはまだ信じ切ってはいませんでした。
みんなが疑う気持ちも分かるけど、太史慈さんは信用できる人だよっ!
落ち目の劉繇の下に戻るより、快進撃の孫策についた方が得だもの。
そういう理由!?
まあとにかく、孫策は太史慈が戻るのを待ちました。
太史慈の帰還
孫策は陣屋の入口に竹竿を立て、日時計をつくって太史慈を待ちます。
そして日時計が正午を指そうとする時、約束通り太史慈が千人余りの兵を引き連れて戻って来たので、孫策はいたく喜び、人々もみな彼の忠義心に感服しました。
当時、孫策は江東の住民に「孫郎(孫家の若君)」と呼ばれていました。
はじめは「孫郎の軍勢が来たっ!」と聞くと、老いも若きも肝をつぶして逃げ去り、官吏も城を棄てて山奥に逃げ込んだものでした。
ですが、実際に孫策の軍勢が来てみると、1人も略奪する者はなく、鶏や野菜に手をつけることすら許されなかったので、人々はみな満足し、陣屋を慰問して牛や酒を献上しにやって来ました。
また、孫策はそのお返しに金や反物を渡したので、人々の喜びの声は野に満ちあふれました。
劉繇の軍に所属していた者も、帰順を望む者は受け入れて税を免除してやり、そうでない者には、米などを与えて家に帰し生業に勤しませたので、その仁政は他所も羨むほどで、孫策の勢力は非常に盛んになりました。
揚州の情勢
そこで孫策は、母親やおじ、弟たちを迎えて曲阿県に帰って弟の孫権と周泰に宣城郡[揚州・丹楊郡(丹陽郡)・宣城県]を守らせると、兵を率いて南に進み、呉郡の厳白虎を攻略することにしました。
わあ、孫権さんだっ!
はい。この時はまだ15歳ですね。
孫権くんだっ!(笑)
そうですね(笑)少し分かりづらいですが、この時孫策は豫章郡(予章郡)まで平定しました。
太史慈が先に敗残兵をまとめておいたのが功を奏したんだろうねっ!
それもありますねっ!でもまだ孫策の快進撃は止まりませんよ。
劉繇を撃ち破った孫策は、太史慈を追って涇県に向かい、計略を用いて太史慈を生け捕りにします。
そして、孫策に丁重に迎えられた太史慈は孫策に帰順。劉繇の敗残兵千人余りを集めて戻りました。
その後孫策は、軍を進めて豫章郡(予章郡)を平定すると、呉郡・曲阿県に帰って次の目標を呉郡を根城にする厳白虎に定めました。
次回は、孫策が呉郡の厳白虎の攻略に取りかかります。