朝廷の実権を握った李傕・郭汜は馬騰と韓遂の反乱を退けましたが、今度は青州の黄巾賊の残党が兗州に侵攻を開始します。
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青州黄巾の兗州侵攻
画像出典:ChinaStyle.jp
前回は、馬騰さんと韓遂さんが李傕さんたちに敗れて撤退したところまででしたよね。
うん、馬超が強かったねっ!内応が成功してればなぁ…。
参謀の賈詡さんの作戦勝ちでしたね。
そうですね。今回は舞台が変わって曹操のお話となります。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における青州黄巾の兗州侵攻については、こちらをご覧ください。
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青州黄巾の兗州侵攻
では、馬騰と韓遂が撤退した後の長安のお話から始めます。
馬騰と韓遂が敗北してからというもの、李傕・郭汜に戦いを挑む者はいませんでした。
その後、李傕・郭汜の参謀・賈詡が善政を行うように勧めたため、朝廷も活気を取り戻していきます。
そんな時、青州の黄巾賊の残党・数十万が兗州に侵攻し、兗州牧・劉岱を攻め殺してしまいました。
青州と兗州
すると太僕の朱儁は、この黄巾賊討伐の任務に、曹孟徳(曹操)を推挙します。
あれ?曹操って今どこで何してたんだっけ?
えっと…、確か十八路諸侯が解散した後、揚州に向かったはずよ。
マリコさん、よく覚えていましたね。
曹操は十八路諸侯が解散した後、揚州で兵を募ると濮陽で賊を破り、武陽(東武陽)で于毒を攻め、匈奴を内黄に撃破して、この時は東郡太守に任命されていました。
曹操関連地図
なるほど。ちょうど兗州にいたんだね。
知らない間にたくさん戦ってたんですね。
袁紹と公孫瓚、董卓と呂布なんかがクローズアップされていましたからね。
曹操が青州兵を得る
李傕はすぐに曹操と済北相・鮑信に討伐を命じました。
詔を受けた曹操は、鮑信を招いて兵を合わせ、寿陽(寿張)に籠もる黄巾賊に攻撃を開始します。
寿陽(寿張)
この時鮑信は、勢いに乗って敵を深追いし、戦死してしまいましたが、曹操は賊軍を済北まで追いつめました。
また曹操は、降伏してきた者を許して自軍に加えたので、敵兵は次々に降伏し、100日余りで帰順した兵・30万人、男女合わせて100万人が曹操に降伏します。
曹操はその中から精鋭を選んで「青州兵」と名付け、その他の者を帰農させて、農業に従事させました。
また曹操は、この功績により鎮東将軍に任命されました。初平3年(192年)冬、12月のことです。
鮑信さんって、十八路諸侯の1人でしたよね。
確か汜水関で抜け駆けしてたな。今回も功を焦ったか?(笑)
正史では名将なんですけどね(笑)『三国志演義』では損な役回りになっています。
そうなんだ。
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曹操の下に人材が集まる
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曹操の人材登用
青州兵を得た曹操は、次ぎに賢士の登用を始めます。
いくら兵力が多くても、良い人材がいなければ意味ないからねっ!
そうですね。それでは順番に紹介していきます。
曹操が人材の登用を始めると、まず2人の者が身を寄せてきました。
荀彧(字:文若)
潁州・潁陰[豫州(予州)・潁川郡・潁陰県]の人で、済南相(青州・済南国の太守)・荀昆(荀緄)の子。この時29歳。
はじめ袁紹に仕えていましたが、袁紹を見限って曹操の下にやってきました。
曹操は荀彧と面会すると、共に兵法を談じてその才能を見抜き、
「これこそ我が張子房(張良)だっ!」
と言って、彼を行軍司馬に任命しました。
張良は、前漢を興した劉邦の覇業達成に大きく貢献した軍師です。
荀攸(字:公達)
当時の名士で、何進が大将軍の時黄門侍郎に任命されましたが、官職を棄てて郷里に帰っていました。
曹操は荀彧と共にやってきた荀攸を行軍教授に任命します。
荀彧と荀攸を配下に加えてから、曹操は朝から晩まで2人と語り合いました。
そこで荀彧は、「自分の十倍の才を持っている人物」と評して、曹操に程昱を推挙します。
程昱(字:仲徳)
兗州・東郡・東阿県の人。
兗州牧・劉岱の死後行方不明となっていましたが、曹操が探させると、田舎の山中で学問を続けているのが分かりました。
曹操が礼を尽くして程昱を迎えると、程昱は荀彧に向かって、
「私などは見聞狭きふつつか者。貴殿の郷里に大賢人がおられるではないか」
と言い、郭嘉の名前を挙げました。
郭嘉(字:奉孝)
豫州(予州)・潁川郡・陽翟県の人。
程昱から名前を聞いた荀彧は、「まことに忘れておりましたっ!」と曹操に告げると、曹操は贈り物を持たせて郭嘉を兗州に招き寄せました。
郭嘉と天下の形勢を論じ合った曹操は、
「自分を助けて大事を成さしめる者は、きっとこの人であろう」
と言い、郭嘉も、
「これこそ誠に主君と頼むべき人だ」
と言って、さらに劉曄を推挙しました。
劉曄(字:子揚)
淮南・成徳(揚州・九江郡・成徳県)の人。
光武皇帝の嫡流に当たります。
曹操がすぐに劉曄を招き寄せると、劉曄はまた2人の者を推挙しました。
満寵(字:伯寧)
兗州・山陽郡・昌邑県の人。
呂虔(字:子恪)
武城(正史では兗州・任城国・任城県)の人。
曹操が2人を招いて軍中の従事に任命すると、満寵と呂虔は、毛玠を推挙します。
毛玠(字:孝先)
兗州・陳留郡・平丘県の人。
曹操は毛玠も従事に任命しました。
そこへ、また1人の大将が数百人の兵を率いてやってきます。
于禁(字:文則)
兗州・泰山郡・鉅平国の人。
曹操は于禁が武芸に秀で、弓馬の術に長けているのを見て、点軍司馬(典軍司馬?)に任命しました。
こんなそうそうたる顔ぶれが芋づる式に配下になったのか(笑)
そんなに凄い人たちなんだ。覚えるのが大変…。
これからよく出てきますので、自然と覚えられますよ。
悪来・典韋
そして最後に、夏侯惇が1人の男を連れてきました。
典韋(字:不詳)
兗州・陳留郡の人。人並み優れた力の持ち主。
元は張邈に従っていましたが、張邈の下人と諍いを起こし、十数人を切り殺して山の中に隠れていました。
猟に出た時、典韋が虎を追いかけて谷を越えるのを見た夏侯惇は、彼を軍中に留めて曹操に推挙したのです。
夏侯惇が言うには、
- 典韋が友人のために仇討ちをした時、その首を手に下げたまま市場の人ゴミの中を通り抜けていても、数百の群衆の中に彼に近寄ろうとする者はいなかった。
- 重さ80斤の2本の鉄矛を両手に馬に乗れば、無人の野を行くがごとくに暴れ回る。
とのこと。
試しに打ち物(武器)を持たせて扱わせてみたところ、曹操は驚いて、
「いかにも人間とは見えぬ。まことの天神であろう」
と言いました。
ちょうどその時、本陣脇の大旗が突然の大風を受けて倒れそうになります。
兵たちが倒れないように苦戦していると、典韋は馬を降りて兵を払いのけ、片手で旗竿を握りしめ、強風の中1人で大旗を支えてみせました。
これを見た曹操は、
「これこそ古の悪来だっ!」
と感嘆して彼を本陣づきの都尉に任命し、駿馬と見事な鞍に加えて、着ていた錦の戦袍を脱ぎ与えました。
曹操が例えた悪来は、殷の紂王に仕えた伝説的な豪傑です。
曹操は兵力だけじゃなく、知力派・武力派両方の配下を増やしたわけか。
そりゃ強くなるはずですねっ!
もちろん、彼らを使いこなす曹操の才覚あってのことだけどねっ!
そうですねっ!有能な人物の能力を余すことなく発揮させるのも、簡単なことではないですからね。
朱儁の勧めで兗州に侵攻した青州黄巾賊の討伐を命じられた曹操は、100万人の民を降伏させ、30万の降伏兵から選りすぐった「青州兵」を手に入れます。
この功績により、曹操の下には優秀な人材が集まって、曹操の陣営はより一層強化されました。
次回は、そんな曹操に災難が降りかかります。