董卓を誅殺した王允から長安を奪還した李傕と郭汜は、献帝の殺害を考えますが…。
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目次
李傕・郭汜が権力を握る
画像出典元:珍蔵懐旧版四大名著連環画「三国演義」
前回は、李傕たちが長安を落として、王允が処刑されたところまででしたよね。
うん。それで今度は「献帝さんを殺す!」って…。
そうですね。まずは「献帝がどうなったのか」からお話しましょう。
ご確認
この記事は『三国志演義』に基づいてお話ししています。正史『三国志』における馬騰・韓遂の反乱については、こちらをご覧ください。
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李傕・郭汜が権力を握る
では、今回のお話を始めましょう。
李傕と郭汜が「献帝を殺す」ことを提案すると、仲間の張済と樊稠はこう言いました。
「それは駄目だ。いま天子(献帝)を殺してしまっては、敵を増やすことになる。
それより今は、天子として崇めておいて諸侯らをおびき入れ、彼らを倒して翼をもいでしまえば、天下は我らの思いのままになるだろう」
すると、これを聞いた李傕と郭汜も納得して、刀を鞘に収めました。
もし献帝さんを殺せば、お国の忠臣たちは黙っていませんものね。
李傕たちもそこまで馬鹿じゃなかったってことだね。
そうですね。
さて、命拾いをした献帝は、李傕たちに問いかけます。
「王允が誅された(処刑された)のに、何ゆえ人馬を引き取らぬのだ?」
すると李傕らは、
「臣ら(私たち)は王室のために功を立てましたのに、まだ爵位のご沙汰がありませぬゆえ、引き揚げないのでございます」
と言い、思い思いの官職を書き出して、献帝に認めさせました。
一応、李傕たちがどのような官職に就いたのかご紹介しておきます。
李傕
車騎将軍・池陽侯に任命され、司隷校尉を監督権と、将軍の しるし である節と鉞を与えられました。
郭汜
後将軍に任命され、節と鉞を与えられて、李傕と共に朝廷の権力を握りました。
樊稠
右将軍・万年侯に任命され、司隷・弘農郡・弘農県に駐屯しました。
張済
驃騎将軍・平陽侯に任命され、司隷・弘農郡・弘農県に駐屯しました。
李蒙・王方
校尉に任命されました。
まあ、みんな偉くなったってことだね。
李蒙さんと王方さんって、誰でしたっけ?
李傕らに内通して長安の城門を開けた奴らだよ。ちゃっかりしてるな。
ちなみに○○侯というのは列侯と言って、その県から徴収される税をもらうことができます。
なるほど、領地を貰ったってことですね。
簡単に言うとそういうことです(笑)李傕らはそれぞれお礼を言い、兵を率いて城外に出ました。
董卓を埋葬する
さて、一段落した李傕らは、命令を出して董卓の遺体を探させます。
ですが、董卓の遺体は長い間市に晒されていたため、皮や骨などの切れ端しか出てきませんでした。
そこで李傕らは、香木で董卓の木像を作って棺桶におさめ、吉日を選んで王者になぞらえた葬儀を行い、郿塢に移して埋葬することにしました。
ですがいよいよその日になると、もの凄い雷雨で地上数尺も水がたまり、棺桶は雷に打たれて引き裂かれてしまいます。
李傕らは空が晴れるのを待って3度埋葬をやり直しましたが、その度に同じようになり、残っていた皮や骨まで雷の火に焼かれ、消え失せてしまいました。
天罰ってやつですね…。
もし天の意志があるなら、生きてるうちに天罰を加えろよって思うけどね(笑)
そもそも呂布に誅殺されたことが、天罰の1つだと考えることもできますね。
そうか…(笑)
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李傕・郭汜の専横と献帝の密勅
画像出典元:珍蔵懐旧版四大名著連環画「三国演義」
李傕・郭汜の専横
では、権力を握った李傕と郭汜の動きを見ていきましょう。
大権を握った李傕と郭汜は、朝廷の官職を自分たちの思うままに任命し、腹心の配下を献帝の側近くに仕えさせて常に監視させていたため、献帝は荊の中に住んでいるような思いをしていました。
また李傕らは、朱儁を太僕に任命して人望を得ようとしましたが、彼らが行う政策は、民衆を虐げることばかりでした。
朱儁って言ったら、黄巾賊討伐で功績を挙げた人物だな。今まで何してたんだ?(笑)
そうですよ。実は董卓を倒そうと裏で動いていたのですが、『三国志演義』では語られていないんです。
そうなんだ。
でも、これじゃ董卓さんがいた時と変わらないですね…。
確かに。董卓が李傕・郭汜に代わっただけだわ。
そうですね。ですが、それを黙って見ている者たちだけではありませんでした。
献帝の密勅
しばらくすると、そんな李傕らの行いを見かねた者たちが動き始めます。
西涼太守・馬騰と幷州刺史・韓遂は、秘かに長安にいる
- 侍中の馬宇
- 諫議大夫の种邵
- 左中郎将の劉範
の3人に内通する約束を取り付けて、李傕討伐の兵を挙げる計画を立てます。
そして、馬宇らの上奏を受けた献帝は、
- 馬騰を征西将軍
- 韓遂を鎮西将軍
に任命して、力を合わせて賊を討つようにとの密勅を下しました。
涼州(西涼)と幷州(并州)
そういえば馬騰って、十八路諸侯の1人だったけど何もしてなかったな。
実は馬騰は、正史では反董卓連合には参加していなかったんですよ。
そうなのか…。
韓遂さんは初めての登場ですねっ!
ちなみに韓遂も、正史では幷州刺史ではなく涼州の人です。
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馬騰・韓遂の挙兵
画像出典元:珍蔵懐旧版四大名著連環画「三国演義」
馬騰・韓遂の挙兵
準備が整った馬騰と韓遂は、ついに李傕討伐の兵を挙げました。
馬騰・韓遂の10万の兵が長安に向かって来ることを聞き、李傕・郭汜・張済・樊稠らは軍議を開きます。
そこで参謀の賈詡が、
「速戦即決は遠方から来る敵に有利です。
我々が敵の誘いに乗らず防御を固くして守れば、敵は100日も経たぬうちに兵糧が尽きて退却せざるを得なくなります。
その時になって追撃すれば、大将2人を生け捕りにすることができるでしょう」
と進言すると、李蒙と王方が進み出て言いました。
「それは良い計ではありませぬ。精兵1万をお貸しくだされば、馬騰・韓遂の首を打ち落としてお目にかけましょう」
賈詡は、「今すぐ戦っては、きっと負けるに違いない」と2人をたしなめますが、李蒙と王方はさらに、
「我らが敗れたならば、どうか首をお打ちください。ですがもし、我らが勝利した暁には、お主もその首を我らに差し出すのだぞっ!」
と言うので、しかたなく賈詡は、張済・樊稠の2将に長安の西・200里(約86km)の盩厔山に陣取らせて固く守り、李蒙・王方の2人はその山間の細道で敵を迎え撃つように作戦を立てました。
確か李傕さんたちが長安を攻めた時も10万人だったから、互角ですね。
まあ、この感じだと李蒙と王方は負けるだろうから、馬騰・韓遂が勝つのかな?
どうでしょうねぇ?
馬超の武勇
1万5千の兵を与えられた李蒙と王方は、長安から280里(約120km)の所に陣を結びます。
馬騰と韓遂が道一杯に陣を取り、李蒙・王方を指さして、
「謀反人めがっ!誰があいつらを生け捕るっ!?」
と呼ばわると、1人の若武者が進み出ました。
面(顔)は磨いた玉のごとく、眼は流星のごとく、虎の体に猿の肘、彪の腹に狼の腰、手に長い槍をひねりつつ、駿馬に跨がって陣中から馳せ出たのは、馬騰の子・馬超です。
馬超っ!もう出て来るのか。
はい。この時馬超は17歳でした。
有名なの?
うん。強いよ〜っ!武力96っ!
96って言われても…(笑)
王方は馬超を若輩者と侮って、馬を躍らせて挑みかかりますが、馬超は数合と打ち合わないうちに王方を馬から突き落とし、踵を返して陣に戻っていきました。
すると、李蒙が槍を構えて馬超の背中を追って来ます。
「後ろから追って来ているぞっ!」
馬超は素知らぬ様子で駒を進めていましたが、李蒙が槍を突き出してきたと見るや、ぱっと身をかわして馬を並べ、ぐっと腕を伸ばして李蒙を小脇に抱え込み、生け捕りにしてしまいました。
馬騰・韓遂は、大将を失って逃走を始めた兵士らを追撃し、大いに撃ち破って李蒙の首を晒しました。
本当だ、強いっ!
わざと隙を見せて誘うなんて、余裕だね。
馬騰・韓遂の敗北
李蒙・王方が敗れると、李傕・郭汜は賈詡の言う通り、陣を堅く守って戦いに応じなくなりました。
すると馬騰・韓遂ら西涼軍は、2ヶ月も経たないうちに兵糧が尽き果てて、退却の相談を始めます。
またこの時長安で、馬宇の家の使用人が「主人(馬宇)と劉範、种邵が、馬騰・韓遂に内通しようとしている」ことを訴えてきたため、李傕・郭汜は大いに怒り、彼らの家の者を1人残らず処刑し、3人の首を陣の前に並べて晒し物にしました。
兵糧が尽きただけでなく、内応の計も発覚してしまった馬騰らは、ついに陣を引き払って退却を始めます。
退却するんかいっ!!
馬超さんがいくら強くても、敵が出て来ないんじゃ仕方ないよ…。
力攻めすれば良かったのに…。
被害が大きくなりますし、今回は馬宇たちの内応ありきでしたからねぇ。
馬宇たちは2ヶ月も何してたんや、まったく〜。
樊稠が韓遂を見逃す
この時を待っていた李傕・郭汜は、張済・樊稠に馬騰らの追撃を命じます。
李傕・郭汜は、張済には馬騰を、樊稠には韓遂を追撃させました。
馬騰軍の殿となった馬超は、死に物狂いに戦って張済の追撃を撃退します。
一方、司隷・右扶風・陳倉県まで来たところで樊稠に追いつかれた韓遂は、馬を止めて樊稠に言いました。
「貴殿と私は同郷ではござらぬか。私が参ったのも国のためを思ってのこと。それなのに、あまりにひどい仕打ちではないか?」
この言葉に心を動かされた樊稠は、馬を返して陣に帰り、韓遂を見逃してしまいました。
司隷・右扶風・陳倉県
韓遂も西涼に逃げとるやんっ!
韓遂さんと樊稠さんって、知り合いだったんですね。
中国人は元々、地縁による絆が強いんですよ。
でも、討てる敵をみすみす見逃すなんて軍令違反だね。
そうですね。
樊稠への疑惑
この韓遂を見逃したことが、樊稠にとって悲劇となります。
この樊稠と韓遂のやり取りを見ていた李傕の甥・李別は、長安に帰還すると、李傕に2人の様子を話して聞かせました。
すると李傕は激怒して、すぐに兵を起こして樊稠を討とうとしますが、賈詡がこれを止めます。
「今はまだ、人心も安らかではないのに、互いに攻め合うのは良策とは言えません。
ここは一つ、手柄を祝う宴会を開いて張済・樊稠を招き、その席上で彼らを捕らえて斬ればよろしいでしょう」
李傕は早速宴会を設けて張済・樊稠の2人を招き、その席上で韓遂との関係を問い詰めて、樊稠を処刑してしまいました。
驚いた張済がその場にひれ伏していると、李傕は彼を助け起こし、
「樊稠は謀反したから処刑したまでだ。お主が恐れることはない」
と言って、樊稠の軍も張済に預け、これまで通り司隷・弘農郡・弘農県に駐屯させました。
えぇ〜っ!ちょっとだけ敵に情けをかけただけなのに…。
まあ、バレてしまったらこうなるだろうね。李傕が特別残虐ってわけでもないさ。
なんだか樊稠さん、かわいそう…。
なんにせよ、馬騰と韓遂の李傕討伐は失敗に終わったわけだ。
そうですね。
長安を攻め落とし、王允を処刑した李傕・郭汜らは、高位高官を独占して朝廷の権力を握りました。
献帝の密勅を受けた西涼太守・馬騰と幷州刺史・韓遂は、李傕・郭汜討伐の兵を挙げますが、兵糧が尽き、内応を約束した侍中の馬宇らが処刑されたため、やむなく西涼に撤退しました。
次回は、場面が変わって曹操のお話になります。