第二次党錮の禁によって外戚の排斥に成功した宦官たち。彼ら宦官と成人した霊帝による政治を見ていきましょう。
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目次
続く天災と霊帝の売官政治
骨抜きにされた霊帝
前回は宦官の排斥をしようとした外戚の計画が失敗して、逆に「第二次党錮の禁」が起こって清流派の人たちが弾圧されてしまったとこまででしたよね。
そうです。天子の側で利権を貪る宦官たちの天下が、これからも続くことになってしまったんです。
外戚の竇武さんも陳蕃さんも良い人だったのに…。
12歳の霊帝にとって、いつも側にいて身の回りの世話をしてくれる宦官たちは最も信頼できる存在です。
霊帝の時代は、十常侍と呼ばれる10人の宦官たちが権力を持っていました。
十常侍とは
霊帝の時代に権勢を振るっていた、
張讓、趙忠、封諝、段珪、曹節、侯覧、蹇碩、程曠、夏惲、郭勝
の10人の中常侍たちは、特に十常侍と呼ばれていました。
『三国志演義』では、上記の10人の宦官たちを十常侍として挙げていますが、『後漢書』によると、張讓、趙忠、夏惲、郭勝、孫璋、畢嵐、栗嵩、段珪、高望、張恭、韓悝、宋典の12人が十常侍として挙げられています。
霊帝は張讓を父、趙忠を母と呼ぶほど信頼して依存していました。
さらに十常侍たちは、霊帝に酒と女性を与えて政治に興味を持たないように仕向けていきます。
本当ならしっかりと帝王学を教えなきゃいけないのに…。
12歳の子供の頃から贅沢を覚えてしまったら、そりゃクズになるわ。
続く天変地異と霊帝の売官政治
『三国志演義』では、霊帝が即位してからというもの、地震や洪水、崖崩れが起こったり、雌鳥が雄鳥に変わるなど不吉なことが立て続けに起こったと記されていて、後に起こる黄巾の乱の予兆とされています。
でも天災は防ぎようがないよな。
当時は儒教の影響もあって「徳のある者が国を治める」とされていました。天災が立て続けに起こると言うことは「現在の天子に徳がなくなった」と解釈されてしまいますので、霊帝も気になります。
霊帝が天災や怪奇現象をなくす方法を尋ねると、議郎の蔡邕が、
「女人と宦官が政治に口出しをしたためです。これをあらためれば、災いはなくなります」
と上奏しましたが、曹節に盗み見られたために罪を着せられて官職を解かれてしまいました。
なんでこう、清流派の人はツメが甘いんだろう?
ぶっちゃけ天災が起きたことと宦官の悪事は関係ないけどね(笑)
天災や異民族の侵入は桓帝の時代から度々起こりましたが、なぜ霊帝の時代になって、大規模な農民反乱につながってしまったのでしょうか?
この疑問について、少し考えてみましょう。
霊帝の緊縮財政と売官制度
桓帝の政策
宦官たちの力を借りて外戚から政治の実権を取り戻した桓帝は、度重なる異民族の侵入や天災に際し、多額の国費を支出して民衆を救いました。
ですが、多額の出費を繰り返したために、桓帝が亡くなる頃には後漢の国庫はほとんど空になっていたと言われています。
霊帝の政策
霊帝が即位した時点で、後漢の財政は火の車でした。
災害に際しても復興が遅れ、民衆に十分な援助をすることができなかったため、民衆の不満が溜まっていきます。
そしてこの財政難に霊帝が取った政策が、さらに状況を悪化させてしまうのです。
それが、178年から始められた悪名高い売官制度です。
売官制度とは文字通り「官職をお金で売る」ことで、最高位ある三公(太尉・司空・司徒)の位までが売りに出されていました。
そして、高い官職につくために支払われる多額のお金の源は税金です。
この売官制度によって民衆には高い税が課されることになり、ますます生活は困窮して不満を募らせていくことになります。
曹操の父・曹嵩は、実に一億銭にものぼる金額を霊帝に献上して、太尉の官職を得たと言われています。
当時は銅銭が使われていたことから、民衆からは「銅臭政治」と揶揄されていました。
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なるほど。
民衆を救おうとした桓帝と、民衆をないがしろにした霊帝の違いね。
でも、桓帝が後先考えなかったせいで金がなくなったんだよ?
霊帝はもっとやりようがあったとは思うけど、貧乏クジを引かされた感じはするね。
後漢王朝の命運は、桓帝と霊帝の2人によって尽きてしまったと言えますね。現在でも、桓帝と霊帝は暗愚な皇帝の代名詞とされています。
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何皇后の即位と何進の登用
何皇后の即位
ではここで、霊帝の皇后について少しお話ししておきましょう。
中国の歴史では、皇后とか外戚のことは重要ですもんね!
171年に元服した霊帝は貴人の宋氏を皇后に立てますが、178年、宋氏は宦官・王甫の讒言によって皇后を廃され、悲しみのままに亡くなってしまいます。
王甫にはその昔、勃海王・劉悝に謀反の罪を着せて、妻子もろとも自害に追い込んだ過去がありました。劉悝の妃は宋皇后の「おば」に当たるため、怨まれるのを恐れていたのだと言われています。
霊帝は宦官の言うことに疑いを持たないのかね?
そして180年、霊帝の子・劉辯(弁)を産んでいた貴人の何氏が皇后となりました。
何皇后の兄・何進の登用
何氏が皇后になったことで、何氏の兄・何進が、天子の側近である侍中に取り立てられました。
ここで、何氏と何進の出自についてお話ししておきます。
何氏は荊州・南陽郡・宛県の出身で、羊の屠殺業を営む家庭に生まれました。身長7尺1寸(約163cm)の背の高い美人であったと伝えられています。
異母兄の何進が同郷の十常侍・郭勝に賄賂を贈ったことによって後宮に入り、霊帝の寵愛を得て貴人にまでのぼりました。これによって、兄の何進は異例の出世を遂げ、潁川太守の任に抜擢されます。
さらに、何氏が霊帝の子・劉辯を産んで皇后になると、父・何真は車騎将軍に、何進は中央に呼び戻されて侍中となりました。
何氏は非常に気が強かったため、霊帝の妃嬪たちはみんな彼女を恐れていたと言われています。
何皇后はすごい玉の輿だな。それに、肉屋のオヤジがいきなり閣僚になったようなもんか。それもすごい!
あれ?ということは、宦官が皇后にしてあげたってことなの?
これからは、宦官と外戚の争いはなくなるのかな?
マリコさん、良い質問ですね。
ですが、そのことについてはまた別の機会にお話しします。
後宮の確執
何氏が皇后となった180年、霊帝の妃嬪の1人である王美人が懐妊します。
わぁ!おめでとう!
そうなんだけど、気が強いんでしょ?何皇后の嫉妬が恐いわ…。
そうなんです。翌年、霊帝の第2子・劉協が産まれましたが、王美人は何皇后の嫉妬をおそれて堕胎しようとしたと言われています。
えぇ〜っ!そこまで!?
そしてタカオくんの心配通り、王美人は嫉妬した何皇后に殺されてしまいます。
王美人は、鴆という鳥の毒によって毒殺されたとされています。
鴆は毒蛇を主食としている鳥で、体内に猛毒を持っており、田畑の上を飛ぶと作物はすべて枯れてしまうと言われていました。
その毒は水溶性で無味無臭。中国では鴆の羽根を1枚浸した毒酒で暗殺・自殺した例がたくさんありますが、鴆という鳥の実在は最近まで疑問視されていました。
現在では、ニューギニアに生息するピトフーイという鳥ではないかと言われています。
王美人の死を知った霊帝は、激怒して何皇后を廃位しようとしましたが、宦官の取りなしによってなんとか思いとどまりました。
すぐバレるなんて、堂々と殺したのかな?
劉協くんは大丈夫だったの?
無事ですよ!
天子の子供を殺したとなれば、それこそ廃位どころでは済まされませんからね。劉協は、霊帝の生母・董太后が面倒をみることになりました。
王美人の暗殺事件以降、霊帝は何皇后に不信感を抱き、何皇后が産んだ劉辯よりも、王美人が産んだ聡明な劉協をより一層かわいがるようになりました。
まったく!皇后なんだからドンと構えてれば良いのに、殺したりするから嫌われるんだよ。
霊帝の即位後、第二次党錮の禁によって清流派の人材が一掃され、宦官による汚職が堂々と行われる中、霊帝までもが官職を売ることで、そのしわ寄せは民衆の肩に重くのしかかっていきます。
そのような状況の中で相次いだ異民族の侵入や大規模な天災は、民衆に後漢王朝の終焉を予感させるのに十分な出来事でした。
このような状況の中、民衆の間に「太平道」という教えが広まっていきます。次回は、視点を民衆に移して「太平道」についてお話しします。
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