174年【漢:熹平きへい3年】に起こった主な出来事をまとめ、それをもとに群雄勢力図を作成しました。人員配置は前年から変更が記されていない官職と、新たに確認できた官職のみ記載しています。

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174年の主な人員配置

後宮

天子・皇后 人物
天子(皇帝) 劉宏りゅうこう霊帝れいてい
皇太后 董太后とうたいごう孝仁董皇后こうじんとうこうごう
皇后 宋皇后そうこうごう

朝廷

官職 人物
司徒しと 袁隗えんかい
司空しくう 唐珍とうちん許訓きょくん
太尉たいい 段熲だんけい(昨年12月) → 陳耽ちんたん
太常たいじょう 陳耽ちんたん(〜2月)
永楽少府えいらくしょうふ 許訓きょくん(〜12月)
執金吾しつきんご 宋酆そうほう
諫議大夫かんぎたいふ 劉猛りゅうもう
五官中郎将ごかんちゅうろうしょう 董重とうちょう
使匈奴中郎将しきょうどちゅうろうしょう 張奐ちょうかん
度遼将軍とりょうしょうぐん 皇甫規こうほき
破羌将軍はきょうしょうぐん 段熲だんけい

地方官

官職 人物
楊州刺史ようしゅうしし 臧旻ぞうびん
玄菟太守げんとたいしゅ 公孫琙こうそんよく
丹陽太守たんようたいしゅ 陳夤ちんいん
鬱林太守うつりんたいしゅ 谷永こくえい

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174年の主な出来事

出来事
1月
  • 夫余国ふよこくから朝貢の使者が来る
2月
  • 天下に大赦たいしゃする。
  • 太常たいじょう陳耽ちんたん太尉たいいに任命される。
3月
  • 中山王ちゅうざんおう劉暢りゅうちょうが亡くなる。
6月
  • 劉利りゅうり河閒王かかんおうに封じ、その子の劉康りゅうこう済南王せいなんおうに封じる。
  • 劉康りゅうこう孝仁皇こうじんこう霊帝れいていの父)の祭祀さいしを継ぐ。
  • 洛水らくすい黄河こうがの支流の1つ)が氾濫はんらんする。
10月
  • 天下に令を下し、罪が確定していない囚人に絹を納めることであがなわせる。
11月
  • 会稽郡かいけいぐんの反乱が鎮圧される。
  • 任城王にんじょうおう劉博りゅうはくが亡くなる。
12月
  • 鮮卑せんぴ北地郡ほくちぐん幷州へいしゅうに侵攻する。
  • 北地太守ほくちたいしゅ夏育かいく鮮卑せんぴを打ち破る。
  • 司空しくう唐珍とうちん罷免ひめんされ、永楽少府えいらくしょうふ許訓きょくん司空しくうに任命される。

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174年の三国志群雄勢力図

174年の三国志群雄勢力図

凡例

熹平きへい3年(174年)の三国志群雄勢力図

174年の情勢

174年の時点では、漢の領内にまだ独立勢力はありません。

特記事項

中山国ちゅうざんこくの断絶

後漢書ごかんじょ孝霊帝紀こうれいていぎには、この年の3月、中山王ちゅうざんおう劉暢りゅうちょうが亡くなると、劉暢りゅうちょうには子がなかったため中山国ちゅうざんこくは断絶したとありますが、後漢書ごかんじょ光武十王列伝こうぶじゅうおうれつでんでは、劉暢りゅうちょうの死後、子の劉稚りゅうちが跡を継ぎ、劉稚りゅうちに子がなかったために国を除かれたとなっています。

会稽郡かいけいぐんの反乱の鎮圧

172年の11月に許生きょしょう許昌きょしょう許韶きょしょう許昭きょしょう)らが会稽郡かいけいぐんで起こした反乱は、翌年(173年)には会稽太守かいけいたいしゅ尹端いんたんが敗れており、鎮圧に難航していました。

そのため、この年になって呉郡ごぐんからも郡司馬ぐんしば孫堅そんけんが討伐に加わります。

そして11月、楊州刺史ようしゅうしし臧旻ぞうびん丹陽太守たんようたいしゅ陳夤ちんいん許生きょしょうに勝利して彼を斬ったことで、丸2年に渡った会稽郡かいけいぐんの反乱(許昌きょしょうの乱)は鎮圧されました。

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173年に敗れた尹端いんたんの下で主簿しゅぼを務めていたのが、後に中郎将ちゅうろうしょうとして「黄巾の乱」平定の一翼をになうことになる朱儁しゅしゅんです。

「黄巾の乱」に際し、朱儁しゅしゅん孫堅そんけん左軍司馬さぐんしばに抜擢したのは、朱儁しゅしゅんがこの時の孫堅そんけんの戦い振りを間近に見てれ込んだからかもしれません。

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